google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 6月 2012

2012年6月30日土曜日

新・日本紀行(36)大間 「本州最北端」

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新・日本紀行(36)大間 「本州最北端」





本州最北端「大間崎」



「大間」に到った・・!、本州最北端の地である

町並みには、『祝、泉 浩君 アテネオリンピック柔道・銀メダル』と横断幕が目に入った。先般、日本勢が大活躍した、そのオリンピックが終わったばかりであり、因みに日本勢の獲得したメダルは金・16、銀・9、銅・12の成績で、世界ランク第5位、メダル数は史上最高だとか。 

「泉 浩」氏はこの大間の出身である。 
父親は大間では有名な、あのマグロの1本釣りの猟師であることはニュース等で報じられたが、今年の大間のマグロ漁(1本釣り)は大漁だという。 
聞くところによると、マグロ漁は1月半ば頃までで、この猟期が終わる。
その後は、20t足らずの船で遥か西南の地、長崎の五島列島まで三日三晩かけてイカ漁に出かけるらしい。



御存知、大間は本州最北端に地・岬である・・!!

大間町」は、本州最北端に位置し、人口 7000人の漁業を主産業とする町である。
だが明治以前は、良港にも恵まれていた南の隣村「奥戸」の方が大間より繁栄していたともいう。 

もともと、大間と奥戸は別々の二つの村であり、両村が合併し大奥村となった時代には、奥戸に役場が置かれた時期もあった。 
しかし、大間は水産業で徐々に発展し、明治維新前後の斗南藩士(旧会津藩士)の定住などで大間が活況を呈し、農業中心の奥戸は相対的に地盤沈下することになる。 
役場も大間に移り、昭和17年11月3日の町制施行で大間町が誕生し、時勢は大間中心となった。

大間の赤猫、奥戸の《でんで》・・、」という言葉があるらしい。

これは両地区の気質をよく現しているという。 
つまり、大間は奥戸から見て、「赤猫」のように気性の激しい漁師気質であり、一方、奥戸は農耕型であり、土とともに生きる農民気質で、人々はおっとり、のんびり型が多く、それは自然への依存の影響だろうと。

「でんで」というのは「代々」のことであり、伝統と格式を重んじたのが奥戸だったといわれる。 
やはり、これも時代の流れであり、歴史の相違かもしれない。



大間から津軽海峡を挟んで北海道・亀田半島の汐首岬までわずか17kmしか離れておらず、晴れた日には、間近に北海道を見渡すことができる。 
三方を海に囲まれているこの地沖合いは、日本海の対馬海流と太平洋の黒潮が出会う絶好の漁場でもある。 
そして、明治時代から引き継がれてきた伝統漁法の「マグロの一本釣り」は余りにも有名である。 
漁師が腕一本で数百キロのマグロに挑む昔ながらの漁法は、昨今、TVなどでも紹介されてるが、先刻も某TV局で、一年に何と60本ものマグロを水揚げする漁師が放映されていた。


大間で獲れた近海もののマグロは鮮度が高く、味が良いことから市場では超一級品の名を受け、高値で取引されるほどの活況を見せていた。
だが、昭和50年前後を境に魚影が薄くなり、つい近年まで大間沖からの水揚げは殆どなかったという。 

その原因については、海流や水温の変化など諸説がいわれているが、 漁師の一部には青函トンネル工事が原因ではないのかと指摘する者もいた。
だが、県の調査では「影響はない」とされた。
最近になっての好漁になってきたらしいが、併せて、マグロの生態系については、まだまだ不明な点も多いという。


魚影が消えてから凡そ10年ぶりに、「マグロが来た・・!」と浜が活気づいたのが平成5年(1993)のことであった。
平成6年には440キログラムの超大物が捕れた記録もある。
以来、毎年100~300キログラムクラスのマグロが水揚げされるようになり、平成7年は、100キロを超える大物が200本も水揚げされたこともあり、以降順調に水揚げされているという。


大間のマグロは、大間崎沖1~3キロメートルで釣れる近海物だけに、東京築地市場でも値が高く、外国産の冷凍マグロが1キロ当たり7000円前後なのに対し、軽く数万円の値がつき、高値のため大物はほとんど東京方面の大市場(築地ほか)へ直送され、「地元でおいしいマグロが捕れるのに、なかなか口に入らない」と地元民の嘆く声もあるという。


こうした命懸けにも近い大間のマグロ漁に生きる漁師を題材にして書かれた、作家・吉村昭氏の小説「魚影の群れ」が映画化された。
昭和58年、主演の故夏目雅子やマグロ漁師に扮した緒形拳ら全スタッフが当町に泊り込んで話題となった。

又、2007年の正月TVに放送された新春スペシャルドラマ『マグロ』(テレビ朝日系)があった。 
ドラマは、マグロの一本釣りに人生を懸けた漁師・竜男(渡哲也)が主人公で、撮影中、渡らが大間の津軽海峡で約220キロもある大物マグロを実際に釣り上げ、成功したというのは有名な話である。


数年前、お上さんと車で北海道旅行の途中、函館へ渡る前、大間港の岸壁の民宿に宿を取ったことがある。
折しも、偶々(たまたま)マグロの水揚げに遭遇し見物する事ができた。 
接岸された漁船は、岸からクレーンでマグロを吊り上げるところであったが、聞くところ体長2.5mくらいで200kg以上はらくに有ったいう。 
これからトラック便で東京・築地まで直行するとのこと・・。
大間から八戸へ出て高速道を一気に走るらしい。
因みに、「値段は数百万は付くだろう」と、地元猟師が自慢げに話していた。


ところで、大間から真近に見える北海道からは、TVやラジオの放送が地元青森の放送より良く受信出来る。 大間の人々は買い物等をするにも青森に行くより函館に行く方が普通だという。 
青森までは車でも3時間以上は掛かるし、大間町民にとっては「函館」は海を隔ててはいるが、隣町のような身近な都市なのである。



大間の岬、「大間崎」は、コンクリートやレンガ積みされサッパリ綺麗に整備された岬である。 
岬の先端部には「本州最北端の地」と掘られた銘碑や、巨大なマグロを模ったモニュメントが威容を誇っている。
青海の向こうには「弁天島」と、そう遠くない距離に、これから訪れる大地、蝦夷地・北海道が鮮明に見えている。



北の猟場』 唄・北島三朗
いのち温めて 酔いながら
酒をまわし飲む
明日の稼ぎを 夢にみて
腹にさらし巻く
海の男にゃヨ 凍る波しぶき
北の漁場はヨ 男の仕事場サ


次回から、今まで巡ってきたコースのうち、主要観光地を特に『温泉と観光』として紹介します。




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2012年6月29日金曜日

新・日本紀行(35)脇野沢、佐井 「本州天辺の村」

  新・日本紀行(35)脇野沢、佐井 「本州天辺の村」  




川内」あたりで大粒の雨が風をともなってやってきた。
これから「脇野沢」から仏ヶ浦へ向かうつもりだが、この間は激しいヘヤーピンカーブの山岳道路だ。 
風雨がやや強くなっているこの悪天候でどうか・・チョット思案したが、相手は四輪駆動車だ・・ママヨ!。

脇野沢へ向かう。
海から吹き付ける風雨が強くて見通し悪く、走り難い。


下北半島の形は、どうしても「斧・まさかり」に形容される。 
その突き出た下北半島の「まさかり」の刃の下(南方)の部分に当たるのが「脇野沢」であり、上の部分(北方)がこれから向かう「大間」である。 


手付かずの自然が数多く残り、霊場・恐山や点在する鄙びた温泉、夜の海峡にきらめく漁火。海も、山も、大地も、まさしく「最果て、地の果て」に来たことを強く感じるところである。


脇野沢村の村落は、この地、脇野沢地域と西側の九艘泊(くそうどまり)の港の二箇所に分かれる。
九艘泊の港は、源頼朝に追われた義経一行の船が九艘、嵐を避けるために停泊したのが地名の由来と言われているが・・?。 
九艘泊は、脇野沢より地方道で結ばれてはいるが、ここより先は道は無い。
又、吹雪の場合は通行止めにもなり、正に地の果て、「クソ止まり」になってしまうという。


自然一杯の地・・?、自然のみの地は海の幸も豊富であろうが、当地は、天然記念物の北限のニホンサルやニホンカモシカの生息地で有名である。 
その北限のニホンサルが、今、脇野沢村民にとって大きな問題を抱えるようになっているとか・・?。


それは、行政、地域で保護に努めてきたお陰で相当数に増えているといい、その為に最近では農作物の被害が拡大し、尚且つ、村民を威嚇し人的被害も出ているという。
これらのサルを有害サルと特定し、認定されれば捕獲に乗り出すらしい、当然、動物を愛護する人々からは、「可愛そうだ・・!」という反対苦情が村には寄せられているらしいが。 
村としては過去に、いろんな施策を講じてもきたらしいが、果たして、村当局はどんな結論を出すのか、他人事ながら、興味が尽きない。




海峡ラインと佐井・・、

その通称「海峡ライン」と呼ばれているのが国道338号線である。
脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。 
見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望でき、そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している。
その海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。 
国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。 
「海峡ライン」は、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。



下北半島を「斧・マサカリ」に喩えた話であるが・・、


改めて下北半島の地図を平面的に見てみると、まさしく「斧」に見える形状である。 
注目したいのは刃の部分である、現在走っている、所謂、海峡ロードである山域は海岸より水平で見るとホンノ僅かの距離である。 
つまり、海岸線より僅かの地点を5~600mの標高の山稜が、南北に走っているのであり、そこから流れ出る河川、下北半島最深部の川は西側海岸に向っては急流の短い谷となって駆け下りているのである。 
これら、斧の「刃・マサカリ」の部分にあたる地域は、実は立体的・三次元的に見ても斧の刃そのものなのである。




しばらくして、まだ海面よりかなり高目を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。
仏ヶ浦」は、霊が宿るという「恐山」の冥土の入口に当たるとも言われる。 
この名所・仏ヶ浦の詳細については後述するので、お楽しみに・・!!。

さて、海峡ラインも北部に到って、ようやく海岸に出る。

本州てっぺんの村と言われる「佐井村」である。
マサカリ状の下北半島の刃の部分の海岸線が凡そ40kmにもなるが、その内、秘境・仏ヶ浦を含めた28kmを占める南北に細長い村である。 
山が海岸線まで迫り、村面積の多くを恐山山地を構成する山岳が占めていて、海岸線沿いの細い平地部分にのみ集落が存在し、古くは蝦夷の定住集落も存在していたと見られている。
現在は海岸線利用した、ウニ・鮭・ワカメなどの沿岸漁業中心の村であるが、江戸時代には南部藩領で「南部ヒバ」の特産地及び積出し港、北前船の中継港として、また、蝦夷地への渡船港として栄えたという。


ヒバの木」は針葉樹・ヒノキ科の一種で、北海道南部から四国、九州にかけて分布するが、天然林は「青森ヒバ」が全国的に有名である。 
東京方面で手に入るのは青森ヒバが多く、関西では能登ヒバ(能登アテとも云うらしい)が多いという。 ヒバの特長は、第一に虫や木材腐食菌に強いこと。 


昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれ、特に白蟻に対する強さは他の樹種には見られないほどであるという。
これは防蟻に有効な成分を含んでいるためで、シロアリが青森ヒバを食べた場合死滅するともいう。 
ヒバは殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強い。
ヒバの薬効製は、皮膚病の薬(アトピー性皮膚炎)、水虫の治療薬、養毛剤などの医薬品、化粧品など各種抗菌剤があるとされ、ヒバ油は芳香剤として、部屋、浴室の壁板、 浴槽アロマテラピーなどに利用されるという。


特に、北方型の青森ヒバ(「ヒノキアスナロ」とも云うらしい)の美しい木肌、高貴な香り、そして世界中探しても 青森ヒバのような強い抗菌力を持つ木は他には無いと言われる。 
東北北部、特に、下北半島・恐山一体は全山南部ヒバ(ヒノキアスナロ)の原生林で、木曾ひのき、秋田杉とならんで古くから日本三大美林の名で知られている。

下北の民族誌には、 『ヒバの花盛りは、雪のしんしんと降り積もる一、ニ月の頃でございます。雪とともに空中高く舞い上がって実を結び、地上の雪に根づいて、百年、それは生命の極限を越えてやっと成木するという、北国特有の銘木でございます。』 と記されている。


ヒバの木は年々減少し、近年、保護育成のため伐採は計画的に行われているといい、難しいとされる青森ヒバの植林も其々の工夫とアイディアで順調だというが、成木になるには、2~300年もかかるという。



その佐井港は、江戸時代には東北・北海道と京・大阪、江戸を結ぶ北前船の中継地として大いに繁栄した。
その交流を通じて文化や芸能が伝わり、中でも歌舞伎は、この地の人々の心身に染み込んだ故郷文化として残されているという。 
上方の地回り役者が伝え、漁師によって伝承されてきた漁村歌舞伎で知られる「福浦歌舞伎」は、全国でも珍しいもので県の無形民俗文化財に指定されているという。



次は、 いよいよ本州最北端「大間」です





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2012年6月28日木曜日

日本周遊紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」

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海道を行く      

新・日本紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」





野辺地から国道4号線と分かれ、国道279に入る。 
海岸沿いの小さな市街地を抜け、一路、下北半島へ向かう。R4の混雑が嘘のように、静かな良道である。 野辺地から「むつ」の大湊まで、JR大湊線が平行している。
 
しばらく走ると「横浜」と言う、懐かしい地名に出会った。
小生の住んでいるのが神奈川県、日本一の高さを誇る「ランドマーク・タワー」のある大都市・「横浜」はすぐ近くであるが・・、 

こちらは、東は陸、四季折々の色彩を織りなす、なだらかな丘陵地。
西は海、陸奥湾に面した長く美しい海岸線。 
海の青、菜の花の黄色、山の緑と、そのコントラストが美しい春の横浜町。
菜の花の作付け面積日本一を誇る北の町 、「横浜」(よこはままち)は下北半島の首位部に位置する臨海山村の地域である。
あちらは日本一のノッポビル、こちらは日本一の菜の花畑、さて貴方のお好みはどちら・・・?? 

無人(・・?)の大湊線・横浜駅を記念に撮り、道の駅・「よこはま」で小用をして、さらに北上する。
むつ市の市街地に入る少し前に、102円/Lの看板を出してるG・スタンドが目に付いた。
通常より15円以上も安く、はじめ半信半疑で通り過ぎてしまったが、・・ママヨ!と思ってUターンして、再度確かめたら、やはり間違いはないようだ。
 
車を寄せて店員に「ぜーぶん安いね、混ぜてんと違うんか・・、」半ば冗談で・・、
「冗談なして・・」あちらも、半ば怒顔で言う。
おまけにスタンドに’本日更に1円引き’とあった。 丁度頃合なので満タンにする。
通常このあたりは110~112/円、神奈川では116以上しているのである。
何か得した気分で先を急いだ。



むつ」の市街に入った。
この「むつ市」は小生、少々の想い入れが有る。 

昨年(2003)から今年にかけて「早乙女 貢」の大河歴史小説『会津士魂』を読破した。 そして小生の出身地は会津同郷の「福島・いわき」であることから。 

この本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。特に「下北」を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。



時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。
特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。


幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 
特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 

この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。
この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 
その後、「八・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのも会津藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。

同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。十五代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任、 そして坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれてる。
政局難に陥った慶喜は、大政奉還(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。



1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を掲げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 

慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。 
しかし、幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 
そして「奥羽諸藩」に会津追討の命が下るが、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。


戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非官軍と言う)に、母成峠、戸の口と攻められ城下まで戦火は及ぶ。 
この時期、会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。


藩士家族は城内へ、又は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。

藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する(実質的に会津藩の滅亡)。

その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。



本州と北海道の間に斧のような形に突き出した下北半島。 

陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは荒涼とした淋し気な景色が続く。この地、今は「むつ市」となっているが、福島県・会津若松市とは以上のような関係が有ったのである。




むつ市海岸の「斗南藩士上陸之地」の碑(碑は会津若松市の方向を向いて建てられている)


市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である、やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。 
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。


現地の碑文より・・、br>
『 明治維新に際し、明治元年(1868)の戊辰の役に敗れ、廃藩の憂目にあった会津藩は、翌明治2年、斗南藩としての再興が許され、旧盛岡藩領の北部へ移封されました。現在の青森県下北郡・上北郡を中心に会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されています。この内、新しい藩庁が置かれた田名部(現むつ市)を目指して新潟港から新政府借上げのアメリカの蒸気船ヤンシー号に乗船し日本海廻りの海路をとって移住してきた一団1,800名がこの沖の大平橋に到着したのが明治3年6月10日のことでありました。 』



会津藩は領地を没収されたが、明治2年11月、下北地方、それに三戸郡と二戸郡(当時)が与えられ、家名再興が許され、移住者は2600戸、1万7千名以上に達した。 
この地を「斗南藩」(となみはん)と命名した。
「斗南藩」は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、という中国の詩文に由来するという。 
新藩・「斗南藩」の町並みを造り、領内の開拓の拠点となることを夢見て、この地は藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられた。 しかし、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。



むつ市大字新町にある曹洞宗寺院「円通寺」(恐山・本坊)は、戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩三万石として転封された際に藩庁が置かれた寺院である。 
境内には明治33年に建てられた斗南藩主松平容大の筆になる「招魂碑」が残る。 

斗南ヶ丘は、斗南藩・藩士の居住地として開墾に従事させた地であるが、開墾は困難を極めて殆どが失敗に終わったという。
むつ市内から東通村尻屋崎に向かう主要地方道、むつ・尻屋崎線沿いにも「斗南ヶ丘居住地跡」が残り、現在は公園として整備されているという。

斗南藩士(旧会津藩士)の尽力が、今の「むつ市」の発展の礎になったことは言を待たない。


次回は、「脇野沢




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新・日本紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」

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新・日本紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」




夏泊半島と下北半島の狭間の町、野辺地の江戸期の「常夜灯」




「野辺地」(のへじ)は、俗に「斧形」の下北半島と夏泊半島の付け根に位置している。

北を陸奥湾に面し、南東部には緑豊かな丘陵をいただき、かつては南部盛岡藩唯一の商港で江戸期には北前船で賑わい栄えた歴史ある町である。
このため、古くから交通の要衛として物資、物流の重要な役割を果たし、商港として千石船が多く出入りしていた。 

港の岸壁にはこれら出入船の安全のため、夜は灯をともし、現在の灯台の役割をつとめた「常夜灯」が常時灯されていた。 
当時、地元の豪商・野村治三郎が船の出入りの安全を願って建造したもので、野辺地湊の尖端に常夜燈が灯ったには、江戸末期(1827年)の頃であった。

青森特産のヒバや南部の大豆や鰯など、京・大坂や外国向けへ積み出され、往路には大阪で生活用品や上方の文物に荷を代えた船が、この灯火を目指して港へ帰ってきたものである。
この常夜灯(灯台)は、現存する日本最古のものといわれている。


野辺地と旧会津藩士・・、
幕末から明治にかけて、大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。 

品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。

その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。 
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが)柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将に栄達する。

斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。 これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり。 霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。 まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることもまれなり。 犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』と。



戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「農業により領地の財政基盤を築くこと」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。

柴五郎は、旧会津藩士柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。
会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。
彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。
彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なる。 その後に12年の予備役となっている。
昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦の報に接して参内、12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなっている。
なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名を為した。


薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府であるが、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた「会津人」であったという。
新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 

挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し父は・・、
『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・! 』と、常に叱責していたという。


次回、「むつ





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新・日本紀行(32)青森 「青森と善知鳥」

新・日本紀行(32)青森 「青森と善知鳥」





         青森市発祥の地:「善知鳥神社」



程なくして浅虫温泉に着いた。

青森・浅虫温泉にはNTT保養所「善知鳥荘」がある。
小生のお上(かみ)さんがNTTの職員ということで、そのツテでこの宿を利用させてもらうのだが。 
「某日、お願いしたいのですが、 ところでお宅の“呼名”は何て云うですか・・?」
「はい、こちらは『うとう荘』と申します」
善知鳥(うとう)に関する最初のやり取りであった。 

「善知鳥」とは始めて見る文字であって、当然、呼名も意味も知る由もない。
“ゼンチドリ“又は”ぜんちちょう”などと勝手に想像していたが、宿の主人に教わってパソコンの文字を叩くと、ちゃんと 「善知鳥」と出てきたのである。 
小生の薄学さに些か赤面する次第であるが。 


ところで、青森市の名称の前身は善知鳥村から発しているらしい。

「善知鳥」は本来は、チドリ目・ウミスズメ科の海鳥である。 
又、「ウトウ」とは、アイヌ語で”突起”という意味もあるらしいが。 

「善知鳥」は鳥の名前で海鳥の一種であり、大きさはハトぐらいであるそうだ。 
背面は灰黒色、腹部は白色、顔には2条の白毛が垂れる、北方海洋の島で繁殖し、冬期本州の海上にまで南下する渡り鳥でもある。 
彼らの狩りは群れで行われ、集団で潜水し小魚の群れを一ヶ所に追い込み捕食する。 
営巣場所は天敵に襲われにくい崖の岩棚などを好み、地面に穴を掘って生活するという。 「ウトウ」は北海道・天売島は有名である。(後述)



現在の「青森」は、江戸時代の始め頃までは善知鳥(うとう)村と言われ、戸数わずか60戸ほどの小さな漁村にすぎなかった。 
「善知鳥村」がなぜにそう呼ばれるようになったかは謎であった。

善知鳥の語源については、鳥のウトウから採られたと言う説や、アイヌ語の「ウトウ(突起)」に由来するという説などがあるが、はっきりとは分かっていないという。 
津軽藩の学者により「善知鳥の図」が発見され、その姿が善知鳥と一致したことで、善知鳥が生息していた珍しい場所であった事から、その名の由来が起こったとも言われる。 
ただ、昔は善知鳥・”うとう”などという難解な呼び名は無かったであろう・・、何故、この様な名前になったのか・・?。

「善知鳥 」と書いて「うとう」と読むのは非常に難しく、どうやら当て字ではないかと推測するのみであった。
しかし、それなりの理由もあった。中世の頃に、大発生し百姓達を苦しめたと言われている智鳥(知鳥・ちどり)の話に由来するという説がある。



悪いチドリ、善いチドリ」から・・、

「大昔、チドリに似た鳥が、苦心して耕作した農作物を収穫期になると飛んできて食い荒らす、これは悪いチドリである(悪知鳥)。 一方、同じくチドリに似た鳥は海に居て海の物を食し、我々には悪さをしない、そればかりか大群の魚が岸に近付いた事を教えてくれる。 こちらは善いチドリだ(善知鳥)だ、お陰で村は大漁で栄えた」
そして善知鳥が群れる村、即ち、「善知鳥村」になったする。


青森市民には馴染みの深い青森市安方に「善知鳥神社」が鎮座している。
この神社に関連した伝承が、「善知鳥」を「うとう」と読ませているようでもあり、ちなみに、善知鳥は「青森市の鳥」にも指定されているという。

戦国期の大浦氏の時代までは、善知鳥村は鄙びた漁村であった。
やがて江戸初期、弘前藩二代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)の時代、港町青森の建設が始まる。 森山弥七郎(1574~1666年、墓は油川にある)が信枚の命により開港奉行となって、大浜(油川:青森市より北西7~8kmの地点、青森開港以前は大浜と呼ばれ外ケ浜第一の湊で、近江から移住した港商人の町でもあった)に代わる湊として、この善知鳥の地に港づくりを始める。 
その後藩は、善知鳥村を青森村と改称し開港している。 



「青森」の地名は、漁師達が目印にしていた小高い丘に「青い森」が在り、この森が豊かな海の恵みを与えてくれる。
この「青い森」が由来したとされ、1625年に「村」となったのが始まりとされている。

「善知鳥神社」は青森駅東500mの位置、青森市街の中心地にある神社で「善知鳥村発祥の地」とされる。
御祭神は、宗像三女神(多起理毘売命:タギリヒメ,多岐都比売命:タギツヒメ,市寸嶋比売命:イチキシマヒメ)で、神社発行の由緒書によれば,「青森市が善知鳥村と言われていた頃,奥州陸奥国外ヶ浜鎮護の神として創建年代は平安期初頭、都より「鳥頭中納言安方」が此の北国に左遷された折、此の地を治め,神願霊験あらたかな神々を祭った事に由来する」という。

天皇の怒りに触れた都人「鳥頭(うとう)中納言安方」が、都からこの地に流されて来て草屋を造り住み着いた。 
都から赦免の知らせの届くのを待ちわびていたが、病にかかりこの世を去り、村人達は哀れんで手厚く葬ったという。 
間もなくして墓の辺りに、見たこともない鳥が飛んできて「うとう、うとう」と泣き叫び、村人達は安方の一念が、この不思議な鳥になったのだと同情し、安方の墓に祠を建てて、その霊を慰めたという。
これが「善知鳥神社」の始まりであるといい、この鳥を善知鳥と名付けたという。

宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市の玄界灘)に祀られている三柱の女神の総称であり、女神はスサノオの子とされる。
朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。

陸奥・青森では津軽海峡の海上交通、海上平安を守護する神として勧請されたものと解釈する。

次回、「野辺地」 尚、浅虫温泉については、「温泉と観光(6)」で記載します。



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2012年6月27日水曜日

新・日本紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」

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新・日本紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」




夏泊半島と下北半島の狭間の町、野辺地の江戸期の「常夜灯」




「野辺地」(のへじ)は、俗に「斧形」の下北半島と夏泊半島の付け根に位置している。

北を陸奥湾に面し、南東部には緑豊かな丘陵をいただき、かつては南部盛岡藩唯一の商港で江戸期には北前船で賑わい栄えた歴史ある町である。
このため、古くから交通の要衛として物資、物流の重要な役割を果たし、商港として千石船が多く出入りしていた。 

港の岸壁にはこれら出入船の安全のため、夜は灯をともし、現在の灯台の役割をつとめた「常夜灯」が常時灯されていた。 
当時、地元の豪商・野村治三郎が船の出入りの安全を願って建造したもので、野辺地湊の尖端に常夜燈が灯ったには、江戸末期(1827年)の頃であった。

青森特産のヒバや南部の大豆や鰯など、京・大坂や外国向けへ積み出され、往路には大阪で生活用品や上方の文物に荷を代えた船が、この灯火を目指して港へ帰ってきたものである。
この常夜灯(灯台)は、現存する日本最古のものといわれている。


野辺地と旧会津藩士・・、
幕末から明治にかけて、大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。 

品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。

その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。 
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが)柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将に栄達する。

斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。 これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり。 霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。 まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることもまれなり。 犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』と。



戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「農業により領地の財政基盤を築くこと」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。

柴五郎は、旧会津藩士柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。
会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。
彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。
彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なる。 その後に12年の予備役となっている。
昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦の報に接して参内、12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなっている。
なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名を為した。


薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府であるが、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた「会津人」であったという。
新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 

挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し父は・・、
『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・! 』と、常に叱責していたという。


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2012年6月25日月曜日

新・日本紀行(31)青森 「八甲田山」

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新・日本紀行    

新・日本紀行(31)青森 「八甲田山」


三内丸山遺跡」を後にして、青森市郊外を東へ向かう。
左に夕暮れ迫る青森市街と右彼方に「八甲田山」の山並みがクッキリと夕映えに浮き出ていた。 

ところで、冬季「青森市」の年間平均降雪量は凡そ8mもあり、無論これは人口30万人以上の世界の都市としては世界一であるという。 そして、国内の主要都市では唯一、「特別豪雪地帯」に指定されている理由であ。

青森市は東に東岳、南に八甲田連峰、西に梵珠山系と三方山に囲まれ、北は陸奥湾に望む地形である。
従って、特に冬季には大気にたっぷり水分が含まれ、大陸から日本海を越えて吹き付ける冬の北西季節風が周りの山々に遮られ、大量の雪が吹き溜まる。 
地元気象台がまとめた昭和中期から本年までまとめた降雪量データによると、最小の年が4.26m、最多で12.63mでこれまでの平均が7.78mとなっている。
特に平成期前半の10年間は10.33mと突出している。 

因みに、雪祭りで知られる160万都市・札幌は、青森より北にあるにも拘わらず3m少ないという。 
無論、八甲田山系の積雪は、青森のそれよりかなり多いだろう。


八甲田山」には八甲田という名の山はなく、いくつもある峰々を総称した名称である。
標高 1584mの大岳を中心に、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八つの峰と、その山中の所々に湿地、つまり田が多いので、八甲田と名づけられたと伝えられる。ほとんどの峰々が美しい円すい型で、ゆるやかに袖を伸ばしている。

八甲田山」・・、
新田次郎の「八甲田山死の彷徨」でも知られ、高倉健主演の映画「八甲田山」で更に有名になった。 
山に興味を抱き、山を趣味にもった小生にとって、1994年(平成6年)の秋季、東北旅行において足跡を残したもんであるが、無論、両ストーリーは拝見している。

映画は、迫力あるメインの雪中行軍だけでなく、日露戦争を目前に控えた明治35年という時代の雰囲気、日本陸軍や東北地方の農村の様子も再現され、原作ではよく分からなかった装備についても映像として目にすることが出来た。
又、威勢の良い軍歌「雪の進軍」も聞け、映画ならではである。 

ほぼ全編にわたり雪の銀世界(若しくは灰色の世界)だが時折の四季の十和田湖や八甲田山の明るい映像が対称的で良い。


明治中期、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した。

その「遭難事故」が発生した遠因はどうしてか・・??、
それは、ロシアとの緊張状態にあった日本は日露戦争を想定し、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習としての訓練であり、又、津軽海峡、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が冬季間、八甲田山中での陸路による輸送が可能かどうかの調査でもあり、そのための雪中行軍の演習を実施することになったのである。 
結果は、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪と寒冷に遭遇し、八甲田雪中行軍中、200名にも及ぶ凍死者を出す大遭難事件が発生したのである。


この時期・・、
北海道に居座った高気圧は東北北部まで張り出していた。
そして、その頃発達した低気圧が太平洋岸を北上し、東北地方へ接近しつつあった。 

明治35年(1902年)1月、青森歩兵第5連隊は日露戦争に備えての寒地訓練のため、雪中行軍と称して八甲田山中へ入山しつつあった。 
高気圧による大寒気と低気圧による猛吹雪によって、連隊は三日間に亘って立往生と彷徨を繰り返し、遂に世界山岳遭難史上最大の199名の犠牲者を出す大惨事となった。

明治35年(1902)1月、日本陸軍第八師団、青森第五連隊と弘前の第三十一連隊が冬の八甲田山を踏破する雪中行軍訓練に出発していった。 
両陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取る為の実地であった。 
両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始める。
しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第三十一連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができたが、青森第五連隊の方は吹雪の中、道に迷ってしまう。
青森第五連隊のこの作戦の参加者は210名、本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのだが、冬山で迷ってしまい、ルートを見つけだすのは困難を極める。 

1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回り、彷徨を重ねるがルートはどうしても発見できず、遂に絶望的な窮地に追い込まれる。 
途中、峻険な地域である渓谷や沢にも迷い込み凍傷、落伍者、寒中壊死者が続出し、翌25日には何と30名ほどまで減ってしまっていたのである。

救援隊が組織されてたが、捜索も困難を極め、やがて第五連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になって発見された。 
軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見に到るが、しかし発見された時生きていたのはわずかに17名であった。 (なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった)
しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決、結局わずか11名の生還となった、死者199名であった。
現在、後藤伍長が道しるべになった地に慰霊碑が建っている。

因みに、この高気圧による放射冷熱で、1月25日、北海道旭川において零下41度という、日本における最低気温を記録した。 この最低気温の記録は現在においても、依然として破られていない。


夕景に浮かぶ「八甲田」はそろそろ、冬の装いか。 


雪の進軍』  作詞・作曲 永井建子(明治28年)
雪の進軍 氷を踏んで
どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず
ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば
頼み少なや 煙草が二本
・・・


次回、更に「青森





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2012年6月23日土曜日

新・日本紀行(30)青森 「三内円山遺跡」

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海道を行く      


  新・日本紀行(30)青森 「三内円山遺跡」  










写真上より、
三内円山遺跡の中心的建物 「大型堀立柱建物」
三内円山遺跡の「縄文住居」
三内円山遺跡の発掘展示品 「縄文土器」





「内真部」(うちまんべ)あたりから、R280の立派なバイパスがついている、ここから青森の「三内円山遺跡」を目指した。 

かなり広い駐車場であるが、夕刻とあって車の数はそれ程でもない。施設の建物は「時遊館」といって、かなりモダンな建物である。 
それにしても入場料が無料とはウレシイ。 

住居跡の遺跡や展示室の出土品・遺跡物等を、少時間をかけて見て回った。 
特に気に止まったのが、「大型堀立柱建物」と言われる巨大な柱組の建物である。
一説によると、のろし台、見張り台、古代の城、倉庫、といわれる物らしいが、いずれにしても生活・政事(マツリゴト=祭事)の中心・象徴であったことは想像に難くない。 
この巨大柱のクリの木が、しかもロシアからの輸入品らしいってんで、これまた驚きである。 この柱は日本海、津軽海峡を船に載せて、あるいは其々につなぎ合わせて、海上に浮かべて曳航したのであろうか・・?、後は陸揚げ、里引き、木落とし(・?)、御柱立て、組み付け、とまるで「御柱祭」を見ている様な光景が展開したのであろうかと、想像できるのである。


前にも記したが長野・諏訪地方の「御柱祭」のことである・・、

この諏訪地方にも縄文前期の巨大柱組の遺構が見つかっているとか。そちらと、こちらを関連付けるのは今のところ無理は有ろうが・・?、いずれにしても古代へのロマンを感ずるのは確かなようである。

施設内の帰り道、立派な建物の「時遊館」の大壁に目が留まった。
出入り口、玄関から入って、左手である・・、この壁におおきな「世界地図」が描いてある。主題は定かでないが、「北緯41度でつながる文明地・・文明都市・・」とあったように思ったが。 
北緯41度は青森・三内円山から東方にニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 
いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、 勿論、日本の中枢都市でもあったと想われる。

近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実である。 蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだが、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降ほんのチョット南・西にズレたにすぎないと、小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!、と言いたいところである。

縄文期の東北、蝦夷は弥生文明に翻弄されてきて、はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、その象徴が会津戦争だった。
その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国へ流されている。
テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。



「三内丸山遺跡」は、既に江戸時代から知られている有名な遺跡であるらしい。
これまでの発掘調査で、縄文時代前期から、中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡(約1,000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部が見つかってい。

特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大量の遺物がすてられた谷(泥炭層)、約1,000年かけて造られた盛土、大人の墓、子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかっている。 
また、谷から見つかった動物や魚の骨、植物の種子や花粉からは、当時の自然環境や食生活などを具体的に知ることができ、さらに、ヒスイやコハク、黒曜石は遠方との交易を、漆器などは専門的な技術をもった人々がいたことを物語つたいるという。 


「三内丸山遺跡」は、縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡である。この遺跡の出現に、世界の考古学者、学会が驚嘆したという。
定説とされた縄文時代の定義をことごとく覆し、15,000年もの期間、縄文時代は長期にかけて高度文明を構築しつつ継続していたとされる。

実は、当時の青森県(北緯41度線上の各地にも云えるが・・)は特に縄文期には棲みやすい環境であったらしく、津軽半島の旧蟹田町の大平遺跡では15,000年前の土器が出土して、世界最古の土器ではないかと学会で論議を呼んでいる。

その他県内には「亀ヶ岡遺跡」、「三内丸山周辺の遺跡」、「小牧野遺跡(ストーンサークル)」、「是川遺跡」、「風張遺跡」等々縄文期の超一級遺跡が存在し、多数出土品が調査されている。

特に「三内丸山遺跡」は縄文時代の定説を覆し、1,500年間も定住集落生活していたものであるが、三内丸山人はその後、忽然と消えているのである。

それは、何故か・・??、

縄文時代のおける季節で、前期、中期あたりの頃は「縄文海進」といわれる時期で、云わば、現代の「温暖化」の時節であった。
縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことであり、海面が今より3~5メートル高かったと言われる。
縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされ、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かったという。

三内丸山遺跡は青森の南西4~5kmのやや高台に存在している。
当時は、この辺りまで海岸が迫っていて、所謂、ここが生活の場所であった。
しかし、縄文後期あたりからは気候が寒冷期に入り、海岸線が後退して食糧事情や住環境が悪化し、三内丸山集落は集団での生活が困難になり、個々に新天地を求めて分散、移動したのではないかと一般的に考えられていると・・?。

青森県では、縄文時代の「村・むら」を体験できる公園として、「三内丸山遺跡」の整備を、現在も進めている。


次回も、「青森





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2012年6月22日金曜日

新・日本紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」

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小さな旅      

新・日本紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」 .





この三厩岩の洞穴に、3頭の龍馬がつながれていて、義経一行は、この龍馬に乗って海を渡り蝦夷へ向かったという。以来この岩を厩石、ここを三厩と呼ぶようになった。(竜が飛び立つ:竜飛の命名にも・・?)




好天の中、「竜飛崎」の風光を適度に観光し、カメラに収めて、さて出発しよう。


海岸のR339を行く。
二つのくり抜き洞門を抜けてまもなくして、何故か「義経寺」があった。 
実は三厩村には義経伝説というのがあるそうだ。


平安末期(1189年)、兄頼朝の計らいで衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。
これが歴史の通説であるが、義経は生きていたと・・!。 

藤原秀衡の遺書に 「危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」 のとおり北を目指しこの地に辿り着いたという。 
近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。
そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め、渡海できるよう一心に祈願した。 
丁度満願の暁に、白頭の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。」と言って消えた。
翌朝巖上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったという。





小生の住む相模の国の「鎌倉」に、頼朝が幕府を開いたのは12世紀初頭(1192年)である。

それより以前の頼朝旗揚げの時、義経は奥州平泉から主従と共に鎌倉にり入、兄頼朝に拝謁する。
その後、頼朝の代官として西国攻めに出陣し、その期待に応えて義仲や平家一門を滅亡に追い込んだ。 

ところが、その彼に頼朝は禄な恩賞を与えなかったとされる。 
頼朝と義経の関係は次第に不仲になり、しまいには敵対するようになり、義経追討を命じる。 
それらを知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。
この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れることになる。


長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
しかし養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。


義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである・・?、と史実はある。 
ところが、その後の「義経」に関しては各地で伝承・伝説が有り、寺社や史跡が残っている。この地の三厩も、その内の一つであろう。 (2005・NHK大河「義経」放送)






標識に従って「三厩駅」に行って見た、小さな駅舎で「津軽半島最北の駅」とあった、JR津軽線の終着駅である。 


既に今別町に来ている。

今別町(浜名地区)は、津軽海峡線の本州側青函トンネルの入口の町である。 
海峡線は1970年の起工式から国鉄がJRになった翌年1988年に開通している。 

海底部23km、陸上部30km、トンネル延長53km、(北海道側は知内町湯の里)もちろん世界一の鉄道トンネルである。 
通称、津軽海峡線は青森から函館の区間を言うが、実際の鉄路の区間はJR津軽線と分岐する、これから向かう蟹田町の「中小国駅」から北海道木古内町の木古内駅(江差線と共用)の区間である。 ちなみに、この町・今別駅は津軽海峡線の「津軽今別駅」、JR津軽線の「津軽二股駅」、そして県道14号線の道の駅「今別アスクル」と三つの駅が同居している、 

更にさらに、北海道新幹線が開通すればばココに4つめの北海道新幹線「奥津軽駅」が誕生するという・・!、4つも駅が隣接するところなんて・・、見たことも、聞いたこともない・・!。

尚、北海道新幹線の新青森駅と道南の新函館駅の間は順調に工事が進んでいるようで、2015年度には先行して開業予定らしい。
その後の新函館駅から道央の札幌駅までの区間の着工は未定だが2020年頃の開業を目指しているという。




チョット賑やかそうな、今別の街をバイパスで抜けて、津軽海峡の海岸線を南下する、道路はR339からR280へ入った。
平館村あたりは、下北半島の斧型の先端部が良く見えている、海岸はかなり険しい断崖のようである。

蟹田、蓬田の海岸道路は曲がりくねりもなく、ほぼ直線で走り易い。
従って海岸の景色は単調で、美的景観は余り見られない。 

進むにつれて、青森の市街がボンヤリと見え出した。





今更ではあるが、小生、この日本列島を、海岸線に沿って周遊巡回するにあたり、常に「海」を左側に見ながら走行している。 
過度な言い回しをすれば、島国列島を外回りで周回していることになる。 このほうが海に少しでも近く、その香りを嗅ぎながら、海岸風景を真近に接しながら、楽しむことが出来るのである。 

今回の北日本・・はもとより、次回の「西日本周遊」も同様のコースを採ることに成るであろう。



今、走っているこの国道280は別名「松前街道」と言う。 
松前は北海道(当時の蝦夷地)なのに、なぜかな・・?。 

江戸時代には「参勤交代や江戸詰め」の制度があり、その為、各藩は遠近に関わらず、江戸を往来していた。 最北の藩、蝦夷地にある「松前」もその例外ではなかった。

江戸を「上り下り」する時、本州に最も近い場所は津軽の北端で、今の三厩か今別辺りであろう、そこへ上陸して江戸へ向かったのだそうで、そのとき通ったのが、この街道で、この名称が付いたそうである。

本来の松前海道(松前道)は、仙台から蝦夷筥館(はこだて:北海道函館市)までのことであり、奥州街道の一部とされてる。


奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つで奥州道中といい、道中奉行の管轄では江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川(福島県白河市)までをいう。 
そのうち宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道を通り共有される。 

だが一般には、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称として用いられることが多く、江戸日本橋から宇都宮は日光街道、宇都宮から仙台を仙台道、仙台から三厩を松前道と呼び、日本橋から本州北端の三厩宿までを、広義には奥州街道と呼ぶ場合もある。 
尚、 江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、中期には蝦夷地開発のため、そして江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために次第に往来量が増加したという。




次回は、「青森」.




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2012年6月21日木曜日

新・日本紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」

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新・日本紀行    

新・日本紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」 .






「竜が飛びたった」とされる北の果て「竜飛崎」。正面は北海道・松前周辺




さて、「竜飛崎」は、北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19km程の距離があり、この下を青函トンネルが通っている。 

「JR津軽海峡線」であるが、岬の真下を貫く、本州・北海道の世界最長の青函トンネルに敷かれた鉄道で昭和63年開業している。 
その「竜飛海底駅」は非常時避難用の駅でもあり、海底駅見学整理券を持った人のみ下車できる、竜飛崎からも見学出来るという、岬の下には「竜飛海底駅」があり、旧坑道をケーブルカーで降りて海底下の坑道を見学できるという。 


「竜飛崎」は、津軽国定公園・「竜飛」に指定され、三厩村・北緯41度15分・東経140度20分、標高120m(・・位?)、津軽半島最北、地の果てである。 

この竜飛崎は今や一大観光地になっていて、記念館、記念碑、名所名物もあり、名物の「風車群」は、ウインドパークと銘打った風力発電群でもある。
日本有数の風の地帯では自然エネルギーで、3000軒の家の電力を供給し、現在11基が稼動中であるとのこと。  

又、記念館や施設として、「青函トンネル記念館」、「竜飛ウインドパーク展示館」「竜飛崎シーサイドパーク」「道の駅・みんまや」等々・・、 又竜飛は「記念碑の岬」としても知られ、吉田松陰碑・大町桂月碑・佐藤佐太郎碑・川上三太郎碑・大久保橙青碑・太宰治碑 などがある。
中でも、ご存知「石川さゆり」の歌碑「津軽海峡冬景色」は、一世を風靡した歌で知られる。

又、当地に「吉田松陰碑」がある。
江戸末期、長州藩の攘夷志士であった若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。 
小泊から峠を越えて三厩の海岸に出るが、松陰は竜飛崎に立って、『竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことである』と悲憤している。

因みに、松陰が翌日訪ねた「平舘」(陸奥湾・平館海峡)には、既に砲台があったという。 
松蔭は「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があることはすこぶる佳いこと、 また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。 
この砲台場は松陰がこの地を訪れる4年前に、幕府の命により津軽藩が築造したもので、高さ2メートル、長さ90メートルの扇形の土塁には、松がぐるりと植えられ、海上からは見えにくい工夫が施されているという。 
現在もその名残を留める「お台場跡」が有る。 

このお台場跡のすぐ側を南北に走る国道280号には、1キロにわたって見事な黒松の並木が続いている。 
およそ300年前の津軽4代藩主・信政によって植樹されたとも伝えられる。 この道は、松前藩が参勤交代で通ったことから「旧松前街道」の名がある。 
おそらく松陰たちもこの松の並木道を歩いたことだろう。


国道階段の手前には、車が海岸へ通じる道が敷かれている。 
そのヘアーピンカーブを下ると、竜飛漁港がある。 

今でも竜飛の家々は、海峡を吹き付ける狂暴な風雨から守るためであろう、断崖にへばりつき、お互いに身を寄せ合うように建っている。 
さらに部落の路を先に進むと、いよいよ路が尽きるのである。 

ここに地元・津軽出身(金木町)の太宰治の碑が立っている。
記念碑銘文は・・、
『 ここは、本州の袋小路だ、読者も銘肌せよ、諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外が濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである 』と、この碑によって行く手が阻まれる事を知らされる。
ここは正に本州最北端、袋小路なのだ。


司馬遼太郎も「北のまほろば」で・・、
『 江戸時代の千住を出発すると奥羽海遵が、関東と奥洲をながながとつらぬき、ついに津軽半島にいたって松前街道と名がかわり、半島の先端の三厩村(竜飛崎)で尽きる、古街道としては、墨痕一筋というべき雄大さをもっている。日本中の道という道の束が、やがて一すじのほそいみちになって、ここで尽きるのである。 』と言っている。


崎の正面に大きく「帯島」が横たわっていて、そこには多数のカモメが群れていた。
この帯島の海中下に「青函トンネル」が通じている。

竜飛崎にて、青函トンネル工事に携わった人々の人間模様を描いた映画、「海峡」が1982年に封切られている。

本州と北海道を結ぶべく着工した青函トンネル開通工事に従事する技術調査員を中心に、長年に渡って難航を極めた大プロジェクトに取り組む人々の人間模様を描いたドラマである。
 
「北海道と本州間で運航していた青函航路では客船の事故などが相次いだことから、航路の安定が望める青函トンネルが造られることとなった。そして、その掘削調査に津軽半島を訪れた技術調査員の「阿久津」(高倉健)はある日・・・、」

岩川隆の同名の原作の映画化で、「八甲田山」の森谷司郎が執筆、監督も森谷司郎、撮影は「駅/STATION」の木村大作が担当している。

男たちを陰で支える女の代表として、吉永小百合が見事な存在感を披露していた。クライマックスは、苦悩と犠牲の果てにトンネルが貫通したときに健さんの頬をつたった涙は、まさに本物であった。 
このシーンは、あの「八甲田山」のラストシーンでもお馴染みである。


次回は、「三厩




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2012年6月19日火曜日

新・日本紀行(29)竜飛崎 「階段国道」

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海道を行く      


新・日本紀行(29)竜飛崎 「階段国道」





竜飛名物、国道339号・「階段国道」



小泊から山上の展望地へはヘアーピン道路が蛇の如くうねり、車もエンジン・フルスロットルで喘ぎながら上る。
目を転ずると、これから向かう「竜飛の岬」が突き出てるのが鮮明だ。

最北の展望台からの眺め、そこは風の名所なのであろう「風の岬」とも云い、そのため風力発電の風車が林立している、そして突端に竜飛崎灯台が鮮明に望まれる。 
又、遥かな遠望は大地・北海道の山並みであろう、その海岸沿いに松前・・?の町並みがボンヤリと覗える。 


先へ進もう・・、 

今度はカーブラインをゆるやかに下ってゆく、しばらく走って待望の「竜飛崎」へ到着した、日本本土、本州の最北端である・・?。 
本当の本州最北端は実は下北半島の大間崎であるが、でも、多くの人は「地果てる処、北の最果て」といえばここ竜飛崎とイメージしているようである。


名前もいい・・、
地面を這いまわってきた覇者である「龍」もこの地で尽きた。
この先は海に転げ落ちて海上を這うか、天空に飛び立つしかないのである。 そして覇者・龍は蝦夷へ向って空へ飛び立ったのである。 
即ち、「竜飛」である。



ところで、「」と「」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、概ね土ヘンの「埼」を用いているらしい。


例えば、東京湾付近では一般地図などには野島崎・観音崎・剱崎と「山ヘン」で記載されているが、「海図」には「土ヘン」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しているという。 
土ヘンの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山ヘンの「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻先等を言う意味らしい。 

旧海軍による海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しているらしく、即ち、小生の手元の地図では竜飛「崎」であるが、海図では竜飛「埼」となるらしい。


この岬の名物に、歩行者しか通れない階段国道339号線)というのがある。 

石畳の階段が小高い岬の頂部と海岸の底部を結ぶ、幅2m程度の狭い石段の端と中央部には手摺が続き、両階段の入口には通常の国道の案内標識がある。 

階段は全長390m、階段は362段あり、標高差が70mもある、かなりの急勾配で険しい。

元より、「国道339」は弘前市を基点に津軽半島西岸を回り、半島先端部の三厩村に到る120kmの国道である。


国道階段の発生、いきさつ・・?、

竜飛崎は、海岸からは切り立った断崖のような段差が大きく、元々は急な山道で未整備だった地域道・村道がそのまま国道になったものである。 


つい近年の事であるが・・、

地元の人が「昭和49年頃、村役場が地図に記入し、国道昇格の申請をしたところ、審査官が現地を確認しないまま認可を与えてしまった」という。
中央のお役人が国道を指定する際、現地を検分することなく地図だけを見て、間違えて指定してしまったそうである。 

国道に指定されるまでは階段はなく、急な坂道であったらしい。 
途中には村立竜飛中学校、また坂の上には竜飛小学校があり、登下校の児童・生徒が坂道を利用していたものの、後に、濡れ手で滑って負傷しないように階段が整備されたという。


昭和63年3月には、本州と北海道を結ぶ青函トンネル(全長約54キロ)が開通した。

竜飛は、本州側の建設拠点となったため、当時、工事関係者や家族ら約三千人が居住していて、無論、階段通路は通学路、生活路となって利用されていた。
「階段国道」は、子供たちの元気な声がこだましていたのである。 

・・ということで、階段のあるチョット変わった国道になってしまったのである。

その後、青函トンネル工事の完成と同時に「国道階段」は観光名所となり、より良く整備されてそのまま残ったという。 
今では階段国道はすっかり全国的にも知られるようになり、竜飛崎の目玉といえる程の名所になっている。


下側(海岸)から階段へ通ずる「国道」は、民家の軒と軒の間を通ずる幅1.5m程度で、両手を広げると付いてしまいそうな狭さであった、これまたビックリ。 
なんとも不思議な国道である。



因みに、変わった国道として、海の上を指定した例がある。

国道280号は、青森市から北海道函館市までの一般国道である。 外ヶ浜町で一旦途絶えているが(松前街道ともいう)、津軽海峡の海上区間は「海上国道」として北海道へ至り、北海道内は国道228号と重複して函館市に通じている。 

又、「点線国道」というのもある。 
通行困難な国道の最も代表的なもので、大抵の場合、山岳地の峠周辺に存在するため、利用者はその区間は徒歩での通行(登山)を余儀なくされる。 
代表例で上越国境、国道17号の三国峠(1957年2月に三国トンネルの開通により解消)や同じく、上越国境(一ノ倉沢-清水集落)の国道291号の「清水峠」は現在もそうである。 

又、甲州・秩父を結ぶ甲州往還、国道140号の雁坂峠(「開かずの国道」と呼ばれていたが、1998年4月に雁坂トンネルの開通により解消)などで、これらはトンネル開通で解消されたが、今も現役の点線国道は10箇所以上存在するという。




引き続き「竜飛崎




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2012年6月18日月曜日

新・日本紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」


小さな旅      


新・日本紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」 .



十三湖より日本海(この地域に中世、安東氏が東日本随一の湊を築いた)




湖の北側に「十三福島城址」がある・・、

福島城は十三湖の北岸、標高20メートル程の台地上に位置し、城郭は一辺約1kmの三角形をしたもので、往時は城を取り巻く内郭、外郭は総面積62万平方米にも及ぶの壮大な規模であったという。
その後の発掘調査で巨大城郭福島城については、通説に反して、「古代城柵」にも似た構造を持ち、平安中期の10世紀後半ころの築造である可能性が強くなったともいわれる。

城柵は、丘陵の突端などに空堀や土塁を築いたもが主体で、アイヌの「チャシ」などもこれに当たる。


この福島城の築城は、藤原秀栄(ひでひさ:十三氏)であると言われる。

平泉の藤原基衡(もとひら)の次男・秀栄は、父基衡から津軽三郡をもらってこの「十三の地」の領主となり「福島城」を築いた・・、 秀栄は、後に「十三氏」と名乗っている。 基衛は御存じ藤原三代の二代目で秀衡の父に当り、即ち、秀栄と秀衡は兄弟で、その弟に当るわけである。 

家督を継いだ秀衛は、中央政庁より49歳で鎮守府将軍に任じられているが、源義経を向い入れた為、その死後に頼朝によって、藤原三代は滅ぼされている。
一方、それ以前の平安期、「前九年の役」の源頼義によって厨川で滅ぼされた安倍一族は、落城直前に津軽に逃れ「藤崎」に住み、安東氏と称したことは、先に記した。


鎌倉初期に至って北条・幕府は、その安東氏を蝦夷地代官として任命し、津軽内陸を直轄領とするそのため安東氏は、藤崎(津軽平野)より十三(津軽半島)へ進出することになる。

必然・・、
十三氏と安東氏は衝突することになる。 安東氏は鎮圧の名目で北津軽へと進軍、同族といわれる十三氏と争う、これを「津軽・萩の台の合戦」といって、鎌倉初期の1229年の事であった。
結果は、安東氏が十三氏を破り、福島城と十三湊を治めたとされている。

福島城に根拠を持った安藤氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけては非常に広い範囲に影響力をもっていた豪族とされ、その勢力は北は北海道渡島半島、南は太平洋側の仙台湾・松島、日本海側の秋田男鹿半島、東は下北半島に及んでいたという。

安東氏の拠点・十三湊や福島城は、中国や沿海州・朝鮮とも交易していたのであり、日本海沿岸の諸国と交易していた事は、最近の発掘で大量の輸入陶器が出土したことにより示されている。
この港の収益は莫大なものであったに違いない。
この交易が安東氏の絶大な力の根源であった。近々、城郭の遺跡からは、その国の人々の異人館やキリスト教会がなども発掘されているという。


時代は下って・・、
15世紀の室町中期、十三安東氏は、その後台頭してきた南部氏に敗れ蝦夷地・松前へ逃亡することになる。(蝦夷地・北海道で記載予定)

更に・・、
戦国期になって、南部氏の家臣で一族の大浦為信(津軽氏)が独立して津軽地方を平定し、「大浦氏」より再び「津軽氏」に改姓したことも、先に記したが、いずれにしても津軽及び十三地方は、平安中期より安倍氏、藤原氏、安東氏など「前九年の役」の主役たちの流れた地であり、それも突然の大津波に襲われ一夜にしてその栄華は衰退し、十三湊で栄えた安東水軍もそれ以来勢いを失い、南部氏の侵攻などもあって遂にはこの地を追われることになる。
時代は巡っているのである。

今の十三湖周辺は、かつての国際港の面影や威容を誇った城は、夢の跡が残るのみである。だが、近年の発掘などにより、昔の姿が次第に解ってきているという。

『十三の砂山』 津軽民謡
十三の砂山 ナーヤーエー
米ならよかろナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

弁財衆にゃナーヤーエー
弁財衆にゃ西のナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

「弁財衆」とは・・、 

江戸時代日本海を往来した商船、北前船のことを弁財船といい、江戸と大阪の二大中央市場を軸とする航路による経済発展に貢献した。
近世では、弁財船に乗っている船頭衆のことを弁財衆と称していたが、平安時代には、国領や荘園などに設けられた役職のことで、貢納された租米を計算し処理する役目の事であった。 

「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞には、弁財衆によって米を取り立てられる農民の苦しみをコミカルに、切実に言い返しているという。


次回はいよいよ竜飛崎







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2012年6月16日土曜日

新・日本紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」

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新・日本紀行    

新・日本紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」





  十三湖より岩木山の遠望




例の「こめ米ロード」の直線道路を北上すると、広大な「十三湖」にぶち当たる。

十三湖は、海水が入り混じった汽水湖で遠浅の湖岸は、シジミの特産地でもあるとか。 
美観のある立派な「十三湖大橋」は日本海と十三湖の接点部を跨ぐ。
もちろん橋の上部からは両方のパノラマが大きく広がる絶景である。 

この辺りでは、車をユックリ走らせて海岸線から湖面まで伸びやかに広がる景観を楽しむ。 
海岸も良い、鯵ヶ沢から十三湖辺りまでの海岸線を「七里長浜」といい、平均高さ1~2mの砂丘が延々と連なっている。 

志士・「吉田松陰」が竜飛崎への途中、余りの絶景に心を躍らした処でもある。


「十三湊」について・・、

この「十三湖」周辺は、以前から「十三湊」(とさみなと)という都市が、中世期の頃存在していたことは古文書などでは知られていた・・が、
近年まで湊、町または都市としての十三湊は地理上では明確になっていないという。 
ところが最近になって(1990年以降),砂丘に埋もれた中世の港町・「十三湊」が発掘され、その姿を現しつつあるという。 

その場所とは主に、日本海と湖とに挟まれた細長い砂上の地域に、領主館や武家屋敷、町屋等が現しつつあるという。 
まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である。


十三湊は、鎌倉期・12世紀後半から凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。
当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 
この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。 

津軽平野の中央に位置する「藤崎町」に、安倍貞任の次男・高星丸(たかあきまる)が逃れ、安東と称して津軽地方を治めたことは、前回、記した。
安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 

特筆すべきは、室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は、普通、木製品が中心だったが、この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。 

湊としては、当国(日本)の「三津七湊」の一つであるといわれた。 

三津七湊(さんしんしちそう)といわれる地域は・・?、
室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集ともいわれる「廻船式目」のことで、この中に日本の十大港湾が記されていて三津、七湊の港湾都市の事を指していた。 

「三津」は伊勢・安濃津(津市)、筑前・博多津(福岡市)、和泉・堺津(堺市)であり、
「七湊」は越前三国湊(坂井市)、加賀本吉湊(白山市)、能登輪島湊(輪島市)、越中岩瀬湊(富山市)、越後今町湊(直江津→上越市)、 出羽土崎湊(秋田湊→秋田市)、それに津軽十三湊

(市浦村→現、五所川原市)のことであった。


さて、十三湊の中世(鎌倉、室町期)の頃は・・、

朝鮮半島や大陸との交易で栄え、日本海交易が発達していった。 
その当時の遺物として、今の所、中国や朝鮮からの輸入陶磁、能登の珠洲(すず)焼き、古瀬戸焼きなどの陶磁器類が中心で、日本から中国への輸出商品は、海獣やラッコの皮など北方の産物などとされている。

又、木簡のような文字史料も含まれており、今後の検出が待たれるという。一方、中世の遺跡としては、城館や城下町の発掘調査が行われ、次第に明らかになりつつある。
港町も、 例えば博多や堺などのように、その後の都市開発によって大きな面積が調査できない場合が多いといが、その点、いったん幻と化していた「十三湊」は、それだけに十分な調査実施に魅力があり、港町の姿や流通のあり方の解明につながる可能性も秘められているといわれる。


室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 
その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。

その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 

この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。


現在、十三湊の今の姿からは、当時の繁栄の模様を全て伺い知ることは難しいとされる。
それは大津波によって、軒をつらねた商家も、郡をなす商船も、そして壮大な城塞や湊も一瞬にして湖底に沈められたからであるとも云われる。

又、次の時代の統治者であった「津軽・南部氏」は回船、交易には全く無頓着であったため十三湊は廃れたともいう。

それでも十三湊は、近世江戸初期の頃までは北前船の寄港地として川船で岩木川を下って来た農産物、米穀、木材を十三湊まで運び、鯵ヶ沢湊を中継地として大船に乗せ変え、日本海から関西方面へ運ばれる所謂「十三小廻し」というのも行われ、小規模ながら活動していたらしい。 

明治維新以降は、日本海側諸港の殆どは鉄道、道路の普及で次第に廃れていったという。
現在は「十三湖」の湖面だけが、キラキラ光って、輝いている。


次回、更に「十三湊と福島城





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2012年6月15日金曜日

新・日本紀行(27)津軽 「津軽地方」




   
海道を行く    


 新・日本紀行(27)津軽 「津軽地方」 



     晩秋の津軽平野とお岩木山





「十三湖」の前に「津軽地方」について・・、


「津軽平野」からは、大抵の場合「岩木山」が望めるといい、地元では「お岩木さん」といって親しまれているようである。

この辺り冬は豪雪地帯である。 
映画・「八甲田山」で、弘前第31連隊の徳島大尉以下数名が一列縦隊になって、白銀に染まった岩木山をバックに「雪の進軍」を唱和しながら、八甲田への冬季訓練と称しいて雪中行軍をするシーンを思い起こさせる。

明治35年のことであるが、同刻に青森の歩兵第五連隊と雪の八甲田での同時演習のはずだったが、青森隊は雪中行軍の演習中に、記録的な寒波に起因する猛吹雪と酷寒に遭遇し、210名中199名が遭難したのである。 
所謂、「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生しているのだが、これも後ほど。



津軽平野に聳える岩木山は、標高1625mと、富士山の半分もないが、付近に高い山が全く無いため、その標高以上に高く、雄大に感じられる。 
その美しい山容は、見栄っ張りで、じょっぱりな(強情な)津軽人の自慢の種で、岩木山こそ日本で一番美しい山で「富士山は駿河岩木じゃ」と言って強がっているようである。

その優美な姿は、「津軽じょんから節」など津軽民謡の中でも謡われて、『あ~富士に劣らぬ津軽のお山、お山眺めてお城の花見、仰ぐ天守は桜の中よ。  あ~りんごかわいや色こそ可愛い、岩木お山に生まれて育つ、わたしゃ津軽のりんご娘』と。

広い津軽平野にドーンと座ったような岩木山は、東西南北どの方向からでも良く見える。 又、見る方角により、その姿を多少は変わるが、どれも美しく・・、その周辺地域の人々は自分の方から眺めて「おらげのお岩木(おいわぎ)が一番じゃ・・」と美しさを自慢し合っているという。



岩木山周辺から湧き出す「平川」等の幾多の支川を合わせて「岩木川」を形成し、弘前市付近から津軽平野を貫流し、十三湖を経て日本海に注いでいる。
岩木川は、流域面積のうち約70%が山地、30%が平地であり、他の河川に比べて極めて平地面積の割合が大きいといわれる。
その「津軽平野」は青森県水田面積の約5割を占める穀倉地帯であり、中流域はリンゴの特産地であることは、万人が知るところである。



岩木川の沖積作用によって出来た広い津軽平野・・、

この「津軽地方」は奥羽山脈によって二分されていて、太平洋側の「南部地方」とは自然環境や農業環境では対象的に異なるといわれる。 
尤も、津軽と南部は自然ばかりでなく、人間も大違いで、現代においても何事によらず合い争うと言われているが、この事は(津軽・八戸周辺の項でも記したい)。

本州の北端にあるため、両地方とも冷涼型の気候であり、冬が長く夏が短いのは共通しているが、しかし、津軽地方の気候は冬は積雪量が多く曇天の日が続くが、夏は気温も上昇して稲作も安定している。
一方、太平洋側の南部地方は、「ヤマセ」(夏、北海道・東北地方の太平洋側に吹き寄せる東寄りの冷湿な風、稲作に悪影響を与える)という独特の風の影響に悩まされる。 
このため津軽地方は豪雪地とはいえ、米とリンゴが産業の基幹をなしているのは周知である。



米に因んでだか・・、
この津軽地方には、「こめ米の道」というのがある。
半島の付け根、日本海に面していて、地図を見ると広大な地に湖沼群が点在し、道路だけが舗装されていて一直線に延びている。
この道を「こめ米ルート」と呼んでいて、地図にもそう記載してある。


岩木川の沖積低地には米作、岩木山の傾斜地や岩木川の自然堤防上にはリンゴが栽培されている。 「自然堤防」は,沖積平野を蛇行する岩木川が洪水のたびに川からあふれ、その水が川岸に土砂を堆積することによってできたもので、水面より2~3はメートル高く浸水の恐れが少ないため、その部分は集落やリンゴ園として利用されているという。  
青森リンゴの栽培は、全国のほぼ半分を占めており、依然として津軽は日本一のリンゴ生産地、リンゴの故郷なのである。

春、桜の散った後には,リンゴ園は白い花で埋まる、「津軽富士」はリンゴの名称でもある。



次に、「津軽じょんから節」のこと・・、

津軽地方の「津軽じょんから節」は、黒石の「川原節」が元祖であるともいわれる。
津軽民謡の三大節の一つでもある。(他に、あいや節、よされ節)

戦国末期 (1597年)、大浦為信(津軽氏・津軽弘前藩初代藩主)に攻められ、城中城下350年の間、津軽平野で繁栄してきた領主・千徳家(せんとく)は滅亡した。 この時の落城悲話として「じょんから節」がうまれたと伝えられている。 

この時、城下寺院の「一の坊」の僧・常椽(じょうえん)和尚は主家の必勝を祈願し、神仏の加護を念じていたが、ついに夜明けともに大浦勢の攻撃は一の坊にも及んだ。 常椽和尚は山伏姿となり、先祖代々の位牌を背負い、群がる敵兵に薙(なぎなた)を揮いながら東の南部領をめざして難を逃れようとしたが叶わず、遂に、白岩の断崖から濁流に身を投じ、その一生を終えたという。 

数年経って・・、地元民が常椽和尚の変わり果てた屍を見つけ手厚く葬って、常椽の墓と名付けた。 そして、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。


それから毎年お盆になると、村人はこの墓所に集まり供養をし、千徳家全盛時代の昔を偲んで城主をはじめ先祖の霊を慰める盆踊りを行い、即興的な唄を歌った。 
これが常椽川原節、変じて「じょんから節」になったと伝えられる。


津軽じょんから節』 青森県民謡

ハーアー
富士に劣らぬ 津軽のお山
お山眺めて お城の花見
仰ぐ天守は 桜の中よ・・、

ハーアー
りんごかわいや 色こそ可愛い
岩木お山に 生まれて育つ
わたしゃ津軽 のりんご娘・・、



津軽半島の核心部である・・?、半島中央部に「金木町」が在る。

金木町(かなぎまち)は、津軽三味線の発祥地でもあり、又、一昔は「太宰治」、今は「吉幾三」の出身地としても知られる。 

津軽三味線は、津軽地方で誕生した三味線で、本来は津軽地方の民謡・「津軽じょんから」などの伴奏に用いられるはずだが、現代は、特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合も多いという。
撥(ばち)を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く、音数が多い楽曲に特徴があり、最近では吉田兄弟や上妻宏光らの若手奏者が、独奏主体あるいは競演による演奏スタイルが確立している。  


太宰 治(だざい おさむ)は1909年(明治42年)、県下有数の大地主である津島家に生まれている。
小説家・作家、本名、津島 修治、 著名な作品では「富嶽百景」「斜陽」「人間失格」などを書き、戦後の流行作家となった。 
自殺未遂を数回重ね、遂に1948年(昭和23年)、東京・玉川上水にて入水心中を果たしている。 
享年39歳、 若いね・・!。 

太宰自身は、生まれ故郷の金木町の事を次のように評している・・、
『私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。 どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。 私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。 私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた』と書いている。 

惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。
更に、『金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口5、6千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。 善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである』・・と。



そして「吉幾三」である・・、

吉幾三は1952年(昭和27年)金木町に生まれている。 
本名は 「鎌田善人」(かまた よしひと)といい、演歌界では特異な存在で、演歌のシンガーソングライターとしてほとんどの曲を自ら作詞作曲している。 

普通、演歌の世界は作曲家や大御所歌手への弟子入りなど徒弟制度的な色合いが強く、歌手は「先生」や「師匠」からいい曲をもらえるのを「待つ」しかないと言われる。 その点、常に自作曲を歌う「吉」のような立場は例外的と言える。 
恩人で盟友と言える「千昌夫」に影響され、バブル経済期に莫大な投資を行い、バブル崩壊で大損害を被った・・と、自虐ネタを披露することも多い。 

酒豪としても有名で、「志村けんのバカ殿様」に出演するときは必ず、度数の高い酒を持参して志村けんと共に飲むのが恒例であったという。 「バカ殿」を困らせる数少ない人物でもあるとか。 
名曲『津軽平野』は、演歌好きの小生にとって十八番(おはこ)の一つでもある。 しみじみとしたメロディーで歌い易く、詩の内容も良い。

 

津軽平野』(昭和61年) 吉幾三 詞曲 唄 千昌夫

津軽平野に 雪降る頃はよ
親父ひとりで 出稼ぎ支度
春にゃかならず 親父は帰る
みやげいっぱい ぶらさげてよ
淋しくなるけど 馴れたや親父

十三湊は 西風強くて
夢もしばれる 吹雪の夜更け
ふるなふるなよ 津軽の雪よ
春が今年も 遅くなるよ
ストーブ列車よ 逢いたや親父



「水森かおり」の歌でも知られるようになったJR五能線・五所川原駅で津軽鉄道に乗り換え、20分ほど電車に揺られると「金木駅」に着く。 

「津軽鉄道」は、冬はストーブ列車、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車と、風情を生かした特色ある列車を運行しているので知られる。


次回、市浦・「十三湖




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