google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(31)青森 「八甲田山」

2012年6月25日月曜日

新・日本紀行(31)青森 「八甲田山」

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新・日本紀行    

新・日本紀行(31)青森 「八甲田山」


三内丸山遺跡」を後にして、青森市郊外を東へ向かう。
左に夕暮れ迫る青森市街と右彼方に「八甲田山」の山並みがクッキリと夕映えに浮き出ていた。 

ところで、冬季「青森市」の年間平均降雪量は凡そ8mもあり、無論これは人口30万人以上の世界の都市としては世界一であるという。 そして、国内の主要都市では唯一、「特別豪雪地帯」に指定されている理由であ。

青森市は東に東岳、南に八甲田連峰、西に梵珠山系と三方山に囲まれ、北は陸奥湾に望む地形である。
従って、特に冬季には大気にたっぷり水分が含まれ、大陸から日本海を越えて吹き付ける冬の北西季節風が周りの山々に遮られ、大量の雪が吹き溜まる。 
地元気象台がまとめた昭和中期から本年までまとめた降雪量データによると、最小の年が4.26m、最多で12.63mでこれまでの平均が7.78mとなっている。
特に平成期前半の10年間は10.33mと突出している。 

因みに、雪祭りで知られる160万都市・札幌は、青森より北にあるにも拘わらず3m少ないという。 
無論、八甲田山系の積雪は、青森のそれよりかなり多いだろう。


八甲田山」には八甲田という名の山はなく、いくつもある峰々を総称した名称である。
標高 1584mの大岳を中心に、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八つの峰と、その山中の所々に湿地、つまり田が多いので、八甲田と名づけられたと伝えられる。ほとんどの峰々が美しい円すい型で、ゆるやかに袖を伸ばしている。

八甲田山」・・、
新田次郎の「八甲田山死の彷徨」でも知られ、高倉健主演の映画「八甲田山」で更に有名になった。 
山に興味を抱き、山を趣味にもった小生にとって、1994年(平成6年)の秋季、東北旅行において足跡を残したもんであるが、無論、両ストーリーは拝見している。

映画は、迫力あるメインの雪中行軍だけでなく、日露戦争を目前に控えた明治35年という時代の雰囲気、日本陸軍や東北地方の農村の様子も再現され、原作ではよく分からなかった装備についても映像として目にすることが出来た。
又、威勢の良い軍歌「雪の進軍」も聞け、映画ならではである。 

ほぼ全編にわたり雪の銀世界(若しくは灰色の世界)だが時折の四季の十和田湖や八甲田山の明るい映像が対称的で良い。


明治中期、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した。

その「遭難事故」が発生した遠因はどうしてか・・??、
それは、ロシアとの緊張状態にあった日本は日露戦争を想定し、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習としての訓練であり、又、津軽海峡、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が冬季間、八甲田山中での陸路による輸送が可能かどうかの調査でもあり、そのための雪中行軍の演習を実施することになったのである。 
結果は、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪と寒冷に遭遇し、八甲田雪中行軍中、200名にも及ぶ凍死者を出す大遭難事件が発生したのである。


この時期・・、
北海道に居座った高気圧は東北北部まで張り出していた。
そして、その頃発達した低気圧が太平洋岸を北上し、東北地方へ接近しつつあった。 

明治35年(1902年)1月、青森歩兵第5連隊は日露戦争に備えての寒地訓練のため、雪中行軍と称して八甲田山中へ入山しつつあった。 
高気圧による大寒気と低気圧による猛吹雪によって、連隊は三日間に亘って立往生と彷徨を繰り返し、遂に世界山岳遭難史上最大の199名の犠牲者を出す大惨事となった。

明治35年(1902)1月、日本陸軍第八師団、青森第五連隊と弘前の第三十一連隊が冬の八甲田山を踏破する雪中行軍訓練に出発していった。 
両陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取る為の実地であった。 
両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始める。
しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第三十一連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができたが、青森第五連隊の方は吹雪の中、道に迷ってしまう。
青森第五連隊のこの作戦の参加者は210名、本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのだが、冬山で迷ってしまい、ルートを見つけだすのは困難を極める。 

1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回り、彷徨を重ねるがルートはどうしても発見できず、遂に絶望的な窮地に追い込まれる。 
途中、峻険な地域である渓谷や沢にも迷い込み凍傷、落伍者、寒中壊死者が続出し、翌25日には何と30名ほどまで減ってしまっていたのである。

救援隊が組織されてたが、捜索も困難を極め、やがて第五連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になって発見された。 
軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見に到るが、しかし発見された時生きていたのはわずかに17名であった。 (なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった)
しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決、結局わずか11名の生還となった、死者199名であった。
現在、後藤伍長が道しるべになった地に慰霊碑が建っている。

因みに、この高気圧による放射冷熱で、1月25日、北海道旭川において零下41度という、日本における最低気温を記録した。 この最低気温の記録は現在においても、依然として破られていない。


夕景に浮かぶ「八甲田」はそろそろ、冬の装いか。 


雪の進軍』  作詞・作曲 永井建子(明治28年)
雪の進軍 氷を踏んで
どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず
ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば
頼み少なや 煙草が二本
・・・


次回、更に「青森





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