google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」

2012年6月22日金曜日

新・日本紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」

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小さな旅      

新・日本紀行(29)三厩、今別  「半島最北の駅」 .





この三厩岩の洞穴に、3頭の龍馬がつながれていて、義経一行は、この龍馬に乗って海を渡り蝦夷へ向かったという。以来この岩を厩石、ここを三厩と呼ぶようになった。(竜が飛び立つ:竜飛の命名にも・・?)




好天の中、「竜飛崎」の風光を適度に観光し、カメラに収めて、さて出発しよう。


海岸のR339を行く。
二つのくり抜き洞門を抜けてまもなくして、何故か「義経寺」があった。 
実は三厩村には義経伝説というのがあるそうだ。


平安末期(1189年)、兄頼朝の計らいで衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。
これが歴史の通説であるが、義経は生きていたと・・!。 

藤原秀衡の遺書に 「危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」 のとおり北を目指しこの地に辿り着いたという。 
近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。
そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め、渡海できるよう一心に祈願した。 
丁度満願の暁に、白頭の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。」と言って消えた。
翌朝巖上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったという。





小生の住む相模の国の「鎌倉」に、頼朝が幕府を開いたのは12世紀初頭(1192年)である。

それより以前の頼朝旗揚げの時、義経は奥州平泉から主従と共に鎌倉にり入、兄頼朝に拝謁する。
その後、頼朝の代官として西国攻めに出陣し、その期待に応えて義仲や平家一門を滅亡に追い込んだ。 

ところが、その彼に頼朝は禄な恩賞を与えなかったとされる。 
頼朝と義経の関係は次第に不仲になり、しまいには敵対するようになり、義経追討を命じる。 
それらを知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。
この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れることになる。


長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
しかし養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。


義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである・・?、と史実はある。 
ところが、その後の「義経」に関しては各地で伝承・伝説が有り、寺社や史跡が残っている。この地の三厩も、その内の一つであろう。 (2005・NHK大河「義経」放送)






標識に従って「三厩駅」に行って見た、小さな駅舎で「津軽半島最北の駅」とあった、JR津軽線の終着駅である。 


既に今別町に来ている。

今別町(浜名地区)は、津軽海峡線の本州側青函トンネルの入口の町である。 
海峡線は1970年の起工式から国鉄がJRになった翌年1988年に開通している。 

海底部23km、陸上部30km、トンネル延長53km、(北海道側は知内町湯の里)もちろん世界一の鉄道トンネルである。 
通称、津軽海峡線は青森から函館の区間を言うが、実際の鉄路の区間はJR津軽線と分岐する、これから向かう蟹田町の「中小国駅」から北海道木古内町の木古内駅(江差線と共用)の区間である。 ちなみに、この町・今別駅は津軽海峡線の「津軽今別駅」、JR津軽線の「津軽二股駅」、そして県道14号線の道の駅「今別アスクル」と三つの駅が同居している、 

更にさらに、北海道新幹線が開通すればばココに4つめの北海道新幹線「奥津軽駅」が誕生するという・・!、4つも駅が隣接するところなんて・・、見たことも、聞いたこともない・・!。

尚、北海道新幹線の新青森駅と道南の新函館駅の間は順調に工事が進んでいるようで、2015年度には先行して開業予定らしい。
その後の新函館駅から道央の札幌駅までの区間の着工は未定だが2020年頃の開業を目指しているという。




チョット賑やかそうな、今別の街をバイパスで抜けて、津軽海峡の海岸線を南下する、道路はR339からR280へ入った。
平館村あたりは、下北半島の斧型の先端部が良く見えている、海岸はかなり険しい断崖のようである。

蟹田、蓬田の海岸道路は曲がりくねりもなく、ほぼ直線で走り易い。
従って海岸の景色は単調で、美的景観は余り見られない。 

進むにつれて、青森の市街がボンヤリと見え出した。





今更ではあるが、小生、この日本列島を、海岸線に沿って周遊巡回するにあたり、常に「海」を左側に見ながら走行している。 
過度な言い回しをすれば、島国列島を外回りで周回していることになる。 このほうが海に少しでも近く、その香りを嗅ぎながら、海岸風景を真近に接しながら、楽しむことが出来るのである。 

今回の北日本・・はもとより、次回の「西日本周遊」も同様のコースを採ることに成るであろう。



今、走っているこの国道280は別名「松前街道」と言う。 
松前は北海道(当時の蝦夷地)なのに、なぜかな・・?。 

江戸時代には「参勤交代や江戸詰め」の制度があり、その為、各藩は遠近に関わらず、江戸を往来していた。 最北の藩、蝦夷地にある「松前」もその例外ではなかった。

江戸を「上り下り」する時、本州に最も近い場所は津軽の北端で、今の三厩か今別辺りであろう、そこへ上陸して江戸へ向かったのだそうで、そのとき通ったのが、この街道で、この名称が付いたそうである。

本来の松前海道(松前道)は、仙台から蝦夷筥館(はこだて:北海道函館市)までのことであり、奥州街道の一部とされてる。


奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つで奥州道中といい、道中奉行の管轄では江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川(福島県白河市)までをいう。 
そのうち宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道を通り共有される。 

だが一般には、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称として用いられることが多く、江戸日本橋から宇都宮は日光街道、宇都宮から仙台を仙台道、仙台から三厩を松前道と呼び、日本橋から本州北端の三厩宿までを、広義には奥州街道と呼ぶ場合もある。 
尚、 江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、中期には蝦夷地開発のため、そして江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために次第に往来量が増加したという。




次回は、「青森」.




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