google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 5月 2012

2012年5月31日木曜日

新・日本紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

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海道を行く 

新・日本紀行(16)鶴岡 「出羽三山」





樹林帯の中にひっそりと、だが豪快に建つ「出羽三山・五重塔」


出羽三山神社:「三神合祭殿」







羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す。羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

皇子は蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を継いだのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして推古元年(593年)、羽黒山にたどり着きに開山したとされている、さらに月山、湯殿山を併せて開山したという。

後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展し、転化したのが羽黒山の古修験道になったといわれる。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。



大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。

1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。 
総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。

克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる、あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。

ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである、国宝に指定。


この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。 こちら羽黒山の社殿は、三社の神を併せて祀る三神合祭殿なのである。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言う。 
湯殿山神社は湯殿山中腹、標高1500mのところに社殿をもち、月山神社は月山山頂(1984m)に風雪に耐えながら鎮座している。
湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけで神社社殿としては羽黒山だけなのである。通常は、羽黒山の出羽神社合祭殿で三山祭祀が行われ、従って、合祭殿をお参りすれば出羽三山を参拝したことになるという。
羽黒神社は、全国に200社ほどある支社の本社でもある。


出羽三山はもともと修験道の行場の山であって、修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 

因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていたらしい。


神仏融合とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。

この思行によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。

平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。 
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。

出羽三山の神仏習合について・・、
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。

奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。

出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。
神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 

平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できるのである。


次回、「出羽三山と芭蕉





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2012年5月30日水曜日

新・日本紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」








小さな旅  


新・日本紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」 .



芭蕉
三山神社の一角に立つ芭蕉碑






芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る。  



奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・、 』

芭蕉の出だしの第一句に



 『 ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。

俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、

『 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』
といっている。 
そして船中で・・、



 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 
他に・・、



 『 暑き日を 海に入れたり 最上川 』

と合わせて詠んでいる。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している。 
先ず・・、



 『 雲の峰 幾つ崩れて 月の山 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 

湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、



 『 語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は



 『 有難や 雪をかをらす 南谷 』

の句を詠んでいる。

句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 
南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。 
併せて・・、



 『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』

と詠んでいる。

その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 
重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。



 『 めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび) 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。

専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
※「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。

湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。


次回は、「酒田





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2012年5月26日土曜日

日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と 西郷どん」


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新・日本紀行  


日本周遊紀行(15)鶴岡 「庄内と 西郷どん」 .






鹿児島市内;城山下に立つ「西郷銅像」




庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという、それは何故か・・?。

幕末において酒井・庄内藩は徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。

庄内藩士は江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中・・、庄内藩がもし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが、藩内は一致団結し藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 

又、裏交渉にての平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と納得したという。
そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 
薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 
西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」である。平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 


命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり
。』

人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし
。』


「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。
尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという、それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
この本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 
西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか、とも言われているが・・?。


鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると。 
西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 


一方、山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 
戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。
現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。


次回は、「出羽三山





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2012年5月25日金曜日

新・日本紀行(14)鶴岡 「庄内・鶴岡」

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海道を行く 

新・日本紀行(14)鶴岡 「庄内・鶴岡」  .




山形県の日本海に面した地域を、近世以降主に「庄内地方」と呼んでいる。
東に出羽三山、西に日本海、北に鳥海山、南に朝日連峰に囲まれ、所謂、庄内平野といわれる豊かな自然、環境に恵まれた土地である。その中心が鶴岡であり、酒田である。


鶴岡といえば・・、
同じ庄内でも最上川の河口に位置し、日本海に玄関を持ち水運で栄えた商業都市「酒田」(後述・・)とは異なり、少し内陸に入った平野の真ん中といった地にあり、どちらかと云うと農業地、特に農産、穀類(特に庄内米)の生産地としての性格がある。

現在の鶴岡は、平安末期には「大泉の荘」として歴史上、古誌に登場してくる。 「義経記」の中にも、義経が京より落のびる途中「鼠ヶ関に上陸し大泉の庄、大梵字(だいぼんじ)を通った」と書いてある事から、現在の鶴岡が大梵字もしくは大宝寺等とも呼ばれていたらしい。 
鎌倉初期には武藤資頼が大泉荘の地頭となり、その後土地の名を取り、羽黒山別当として「大宝寺氏」を名乗るようになったという。

武藤資頼(むとう すけより)は平安末期から鎌倉期の平家の武将で、初め平家隆盛期においては平知盛の属将であったが「一の谷」の敗戦後投降し、後に赦免されて源頼朝の家人となっている。後の奥州藤原の合戦に出陣して功を治め、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられてる。

「大宝寺」は、鶴岡市の古い地名で、平安時代には大泉庄に属し、中心地が大宝寺であった。
大宝寺は往時、衆徒五千といわれた大寺であり、羽黒山を望む内川の東側に居城を築きここに本拠を構えていた。この地に武藤氏が着任し、仏徒集を治めて根拠を持ち、勢力を拡大して「大宝寺氏」と名乗った。 この跡が、今も鶴岡市大宝寺町としてその名が残っている。 


下って、江戸開府期の慶長6(1601)年、「関ヶ原の戦い」で徳川方について功をおさめた最上義光が、この地方を与えられ治めることとなり酒田に城を築く。 
酒田の港に巨大な海亀が這い上がった事を吉事とし、酒田の城を「亀ヶ崎城」と名付けた。実際にこの辺り、湯野浜温泉の故事にも見られるように、古来より白砂海岸には大亀が産卵のため上陸したとされてる。 
最上義光は、更に大宝寺城を改め落とし、「鶴ヶ岡城」と命名している。
今の「鶴岡」は、このように亀と鶴の吉事に因んで名付けられた縁起の良い地名なのであり、最上氏も粋なことをするもんである。
1622年、今度は最上氏がお家騒動が発端で改易しなり、徳川四天王の一人酒井忠次の孫酒井忠勝が信州松代10万石から転封となり、庄内を統治する事になった。
以後庄内藩14万石は、250年に渡り庄内を治め事となったのである。同時に城を改修し一の丸、二の丸、三の丸からなる立派な城が完成した。あわせて城下町の整備を行い、今の鶴岡の町の外殻が出来上がった。



庄内・鶴岡地方の温泉郷の1つに「湯田川温泉」が古くから知られている。
鶴岡南部・金峰山の麓にある湯治場として栄えた鄙びた温泉郷で、開湯1300年という伝統がある。鶴岡の奥座敷として地元民に親しまれ、庄内藩政の時代には藩主や美人の湯としてお姫様がお忍びで温泉を楽しんだという。 

温泉街は、黒塀の宿や白壁の宿が並び、多くの文人にも愛され、中でも地元が生んだ歴史小説作家「藤沢周平」を始め、種田山頭火、竹久夢二、柳田国男、横光利一など、鄙びた情緒ある宿に逗留して構想を練り、執筆を重ねた足跡が今でも残されているという。

その、藤沢周平(小菅留治)は現在の鶴岡市高坂に生れている。山形師範学校(山形大学)卒業し、湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は廃校)へ赴任し、国語と社会を担当している。 教え子達は「遅咲きの作家といわれながら精力的に名作を次々と発表し数々の賞を授けられながら、決して驕る事もなく私達教え子と会えばいつも変わらぬ小菅先生でした。」と言っている。
そして病気療養で苦労しながら、あの時代小説を書き上げるのである。


藤沢周平作品の舞台として度々登場する架空の藩名・「海坂藩」(うなさかはん)が登場する。 江戸から北へ百二十里(480km)、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある酒井家庄内藩、現在の山形県鶴岡市を基にしていると言われている。

「腕におぼえあり」、「清左衛門残日録」、「人情しぐれ町」、「蝉しぐれ」等NHKで放送されたが、小生も夢中になって見たものである。
又、映画として「たそがれ清兵衛」、「 隠し剣 鬼の爪」、「武士の一分」が上映されている。 寅さんシリーズでお馴染みの山田洋次監督の「時代劇三部作」ともいわれ、特に、第3作目(完結・・?)の「武士の一分」は(木村拓哉、檀れい主演)興行収入が40億円を超え、松竹配給映画としての歴代最高記録を樹立したという。 山田監督らしい綿密な人間描写やコミカルな要素が取り入れられ、重層なドラマが展開され、「山田組」と言われる時代劇の新境地を拓いたとも言われている。  

海坂藩の地図を山形県米沢市出身の井上ひさし氏が「蝉しぐれ」に基づいて「海坂藩・城下図」を作成したのは有名であり、井上ひさしも藤沢文学に陶酔したひとりである。
藤沢作品での山形庄内・海坂藩は城下町として栄え、家老の邸宅や藩の重職の屋敷を中心にその周囲を住居が立ち並んでいる。 
幕藩時代に布かれた武家制度は、身分や家柄が自由な恋愛を束縛し、派閥抗争など悲劇的な結末を迎えるストーリーが多い。上司の命令は絶対であり、生まれながらにして下級武士や貧農家庭で育った者のやるせなさは、現代・サラリーマン時代と同質のものであろう。

藤沢周平は我々に本当の豊かさ、人を愛することを優しく諭しているようである。


次回も「鶴岡





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2012年5月23日水曜日

新・日本紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」

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小さな旅  

 新・日本紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」  .





義経一行が通ったとされる「史蹟・念珠関址」





道程は「山形県」に入りました・・、
国道7号線が新潟県から山形県への境を過ぎたところ、羽越本線が交差するあたりに「史蹟・念珠関址」(鼠ヶ関・ねずがせき))が在る。  実は、この地・鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所跡が二ヶ所あるという。 江戸開府から明治初期まで設置されていた「近世念珠ヶ関」と、ここから南方至近の県境にある古代の関所址である「古代鼠ヶ関」とである。
鼠ヶ関は古代より陸奥国(東北)への入国に際しての関所であり、勿来関(太平洋岸の陸前浜海道・国道6号)に、白河関(中通り・陸羽海道・奥州街道・国道4号)のとともに「奥羽の三関」の一つであった。 国道沿いにある「念珠関址」は近世の関所址ということで、江戸期には「念珠関御番所」と呼ばれていた。 最上氏の時代に地元鼠ヶ関の領主が関守として国境を警護し、酒井氏の時代には藩士も上番として国境警護にあたったとされてる。
一方古代の「鼠ヶ関」は鼠ヶ関駅の南、現在の山形県・新潟県県境付近にあったという。 古跡は現在は石碑のみの形で残されている。 

古代「鼠ヶ関」について・・、
源義経が奥州に逃れる際「勧進帳」の様な姿形で、この地へ上陸して、この関を通過したとされる。古書には文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐軍が越後から出羽「念種関(ねずがせき)」を通って合戦に及んだことが記されている。この戦は奥州の覇者・藤原一門と義経を滅ぼす為だったのだが。
義経の下りであるが・・、
平安後期の1185~1186年、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、温海町鼠ヶ関から鶴岡市に入り、羽黒山に立ち寄り、立川町清川に出て舟で最上川をさかのぼり、戸沢村を経由し新庄市の本合海に至り、ここから亀割峠を越して最上町に入り、宮城県との県境の境田を経て岩手県平泉に逃れたという。
義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、ここからは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅たって行ったという。
この鼠ヶ関の通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」の劇的場面として描かれているが・・??。
一方、加賀の小松(石川県)の「安宅関」の項でも・・、山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守・富樫左衛門丈泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。「勧進帳」とは、寺院建立(東大寺)などの資金集めの趣意をしたためたものである。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。 なお顔が似ているという関守の前で、 “義経に似た貴様が憎し” と主人を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は、義経と知りながらも一行を解放したとある・・??。
因みに、安宅という土地は海岸線にあって、大昔から異国の襲来に悩んでいたようであるが、国内の関所としての役目を果たしていたかどうかは疑問で、まして、平安期、鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいともいわれる。 元より、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関であるが、実は「義経記」などには「安宅の渡し」(現安宅関跡は海岸近くの悌川の畔にある)とあり、「安宅関」とは出ていない。
また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、加賀にやってくるが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はなかったか、意味をなしてなかったとされる。江戸後期の加賀の地誌などにようやく「安宅関」の記載が見られるというが・・。
この頃の天保11年(1840)3月、河原崎座でた謡曲『勧進帳』が初演され、更に歌舞伎でも上演され、「安宅関」の名は全国的に広まったようで、その後一般的な小説やドラマになったとされる。
尚、2005年、NHK放送の大河ドラマ「義経」放映において、基本的に「安宅関」に関わる場面は当然登場し、出演者の熱演に見入ったが(富樫泰家:石橋蓮司、 武蔵坊弁慶:松平健、 源義経:滝沢秀明)、義経一行が「安宅」を通ったのか、通らなかったのかというのは「史実」の世界ではなく、物語の世界であるようだ。
ただ義経が、「判官びいき」と言う言葉を生んだ大きな要素の一つに「安宅の関」の出来事が発端といわれる。 「歴史の史実」は大切で重要ではある・・が、「言い伝えられてきた」ことも尊重すべきではあると思う。

尚、余計なお世話だが小生が想像(創造・・?)するに、「安宅の関」と「鼠ヶ関」を両方登場させ、物語として構成すると、更に面白くなるのでは・・?。 
それは、加賀・「安宅の関」は都(京都)からもまだ近く、当然、頼朝臣下の目が届きやすく手配も充分であったろう。 関守・富樫左衛門丈泰家が義経一行を咎め、捕らえようと待ち構え、厳しい詮議も当然行はれたと観るべきである。
一方の出羽・「鼠ヶ関」の方は、頼朝の目から最も遠く、陸奥の国の入り口でもあるので、ここは藤原秀衡の息がかかっていたことも想像される。関所の役人・五十嵐治兵衛は秀衡の意向に添って義経らを丁重に歓迎し、懇ろ(ねんごろ)にもてなして世話をする。
という両関所の対比、対極が面白いと思われるが・。


次回は、「鶴岡」





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2012年5月22日火曜日

新・日本紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」

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新・日本紀行

  新・日本紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」   .



新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る。
万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なので、 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。
橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達しようとしている。
信濃川は全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。
実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」でも有名である。


島崎藤村の「千曲川旅情

b>小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子(ユウシ)悲しむ
・・・
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む  .


又、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。 
この両河川のことを安曇節が詠っている。


安曇節』 長野県民謡

槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎 チョサイ コラサイ
.



小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。
南の槍沢へ下った渓流は、やがて、梓川となって「上高地」を潤し、又、北の天上沢へ降りた水流は、高瀬川となって大町へ到っている。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。 
延べ10年位をかけて5回も行うことになるが、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 

一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。


この後、信濃川河口においても動乱があった。
天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、上杉家のお家騒動である。 

謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっているが。
その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。

「関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう。

この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 
しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである。原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい。 
重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。
重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。しかし、4年後には景勝によって落城してしまう(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所も分かっていないという。 

その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。

信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。
その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来するが・・!。

尚、「新発田」と言う名称は新発田氏が滅んだ後もその名は残り、現、新発田市、そして新発田藩、新発田城として江戸末期まで存続している。 
慶長2(1597)年に上杉景勝が会津若松移ると、秀吉の家臣・溝口秀勝が新発田城に任じられ、その後は代々溝口氏の居城となった。その秀勝の「秀」は秀吉から授かったとされ、曾孫にあたるといわれる人物に赤穂浪士・「堀部安兵衛」がいる。

溝口氏の江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。

幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎ととも日本海側ではただ一港の「官港」として開港し発展してきた。


次回から「山形県





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2012年5月18日金曜日

新・日本紀行(11)出雲崎 「金(ゴールド)と良寛」

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小さな旅

新・日本紀行(11)出雲崎 「金(ゴールド)と良寛」





出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・、
地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。
今は、日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。
「妻入住居」とは・・、 建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根と直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。

海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えたという。 道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。
江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 官船は「御座船」とも呼ばれ、船のまわりには幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられたという。
出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368㌔)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37㌔のペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという・・、その道を「金の道」と称した。 現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。



出雲崎は良寛(りょうかん)(1758~1831)生誕の地としても知られてる。良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという。 
良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。
越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。 名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している。


 『 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ
               長き春日を 暮らしつるかも
 』
 
 『 霞立つ 長き春日を 子供らと
             手まりつきつつ この日暮らしつ
 』
と詠う。


良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。
禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)、野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす
良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した、 それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。
老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったと・・。
良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理。つまり、型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   
町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。


次回は、「新潟





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2012年5月17日木曜日

新・日本紀行(10)上越 「越後・上越」

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新・日本紀行(10)上越 「越後・上越」 .





上越の「越」ことであるが・・、

新潟県を地域で呼ぶと通称三つに地域を云い、北部より下越、中越、そして上越の各地方のことである。地理的な表現だと下越が上方で上越が下方になる・・? 
しかし、地名というのは古来より伝承されたものが一般的であり、「上越」という地名は、当地に平安期の「国府」が存在したのが大きな理由だろう・・?、しかも「京」に近い地域を“上“としたのであろう。

この上越は小昔の昭和期までは、懐かしい名称の「高田」、「直江津」と其々の地域に分かれていた。
高田地区はやや内陸に在り、妙高山麓にちかいこともあって、豪雪地帯で有名である。 この地区には越後で最大とされた高田藩の拠点であり、、高田公園・高田城がある。 戦国末期、徳川家康の六男「忠輝」が築城したもの。
直江津・・、直江の津は中世より拓かれた港町であり、「津」は港を意味する。 上杉家の家臣、「直江氏」が現在の直江津の辺りを本領とし、津(港)の支配権を所持していたようである。地名は戦国時代末期に、上杉景勝の家臣・「直江兼続」が、姓名を取って直江津港を開いた事に由来する。
直江兼継は、越後の二代目藩主・上杉景勝の主席家老であり、文武兼備の智将でもある。
戦国末期、家康が上杉景勝に「謀反の疑いが有る」と、言掛りを付け、その上杉景勝に疑いを晴らす為に「大阪へ来い」と使者を会津(上杉景勝の領国)に派遣する。 この返事を上杉景勝に代わって家老の直江兼継が「謀反などありえない、大坂へ行く必要はない、来るなら来い・・、」と言う、云わば果し状」(直江状と呼ばれる)とも云うべき檄文を届ける。
この返書が家康を激怒させ、「関が原の役」の引き金となったともいわれる。
上杉家は関が原の役で交戦する事なく敗者となったが、兼継は勝者の家康に面会の折、死を覚悟して「私は、天下一の弓取り内府公(家康)と戦いたかった」・・ともらしたという。 家康は、兼継の男気に惚れ、本来ならば上杉家断絶・切腹のところ、気骨ある人物を殺すには惜しい男と観て、上杉家そのものも米沢へ減封(120万石から30万石に)されただけで済んだという。
兼継は上杉景勝より6万石を貰っが5万石を同僚、家臣に分け与え、更に5千石を小身の者に与え自分は5千石で暮らしたという。

現在、NHKで「風林火山」を放映中でお馴染みであるが・・、上越には何といっても「春日山城址」がある。 標高190mの春日山山頂に築かれ天然の要害を持つ難攻不落の城で、戦国期の名将「上杉謙信」の居城であった。
「謙信」は初名は長尾景虎といい、越後の龍と恐れられた戦国屈指の闘将である。 山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、後、仏門入道して上杉謙信と名のった。
戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。 宿敵・武田信玄や、関東の雄、北条氏康・氏政父子を相手に、生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという“正義の人”でもある。

さて、豪雪地帯の上越地方であるが・・、
「トンネルを抜けると雪国であった」というのは同じ越後でも越後湯沢のことであったが、こちらも大の雪国である。
日本の国土で雪国(積雪寒冷特別地域)と称される地域は、日本の国土の約6割、人口は2.5割を占めるといわれ、高齢化は全国平均を上回るスピードで進展しているという。 一昔前までは、雪国の地域である日本海側を「裏日本」と称し、少雪国の太平洋側を「表日本」と称したようである。
雪国の対極にあるのが暖国・表日本であり、積雪寒冷特別地域以外の地域で、いわゆる太平洋ベルト地帯である。 かの明治維新以降、先進工業化が優先的に整備され、日本人口の7割、工業生産出荷額の約7割が集中するなど、日本の産業、経済、サービスの中心であることは確かである。
昭和の宗匠・田中角栄が、『上越国境の山地をブルを総動員して削り取ってしまおうか・・?』と冗談とも、本気とも取れる発言をしたことは知る人ぞ知るであるが・・。
雪国は弱者であり、絶えず豊かな暖国から支援されてきたといわれるが・・??。雪で閉ざされ暗く、高齢化率も高いから未来も暗いのであろうか・・?、否であると。 
雪国の代表の一つである新潟の人口は、明治20年ころまでは、東京、大阪、兵庫を抜いて日本一であり、昭和40年代の初めころまで納税額もトップクラスだったそうである。
また、江戸期以前の日本海には、上方(大阪)と蝦夷(北海道)とを結ぶ物流航路が存在していたのは周知で・・、高田屋嘉兵衛でも有名な北前船である。大阪からの「下り荷」は塩、酒、雑貨、北海道・東北・北陸からの「上り荷」は海産物、米、材木が主体であり、中継港の敦賀、新潟、酒田は繁栄を極めたなど、経済でも暖国に引けをとらない時代もあったのである。

雪国には、雪で閉ざされた時期を生き抜く衣食住の知恵がある。 また、自然の雪ダムで水が豊富で、食料自給率も高く、米、酒が旨く、自然が豊富でもある。 21世紀に世界が抱えるであろう問題は、地球温暖化、食糧問題である。
日本も確実に直面するであろう、これを克服する素地は暖国にはない、・・が雪国にはあると。
21世紀は、あるいは雪国の時代ではないか、これから雪国の反攻が始まるというが、さて・・!!。


次回は、「出雲崎





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2012年5月16日水曜日

新・日本紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」

【東北・日本海道】 新潟(糸魚川)⇒⇒⇒⇒青森(大間)




   

新・日本紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」





昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡辺りを支配していた古代女王であったとされる(古事記)。
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠(ひすい)を支配する巫女であったとも言われ、「奴奈川姫」という名は「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、個人名ではなくこの地方の代々の女王を指す可能性もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主(オオクニヌシ)の命は、能登半島に上陸し少名彦命(スクナヒコ)と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて「越の国」に渡ることになる。
越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸し、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は、現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後地方の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦(ネチヒコ・姫川沿い糸魚川市根知)は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入したが、結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 
その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子を生む、この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命(諏訪地方参照)である。


一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいう。 
大国主神は侵略と脅しであり、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。つまり、征服者と被征服者の関係であったと・・、その後、奴奈川姫は、大国主の子である建御名方命を産むのであるが、「奴奈川神社」(糸魚川市の一の宮)によると、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるというが。 

大国主命はその内、本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った、出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かったのである。 
大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。  
そこで、姫は、姫川の奥深く逃げ込み、追っ手が厳しくなると姫川に無念の入水をしたという。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 

姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。
奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが・・、  

ぬな河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも』 「万葉集十三巻」より

この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。 

古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。

姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」(糸魚川市一の宮、美山公園北・ 縄文時代の遺跡で、古代にはここでヒスイ加工が行われていたという)からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。

太古の紀元前4000年頃には世界最古のヒスイ文化が実証されているともいわれる。
古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。
更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や、大平洋岸までヒスイが運ばれているという。陸奥の国の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されている。


神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉(まがたま)を身につけ霊力を発揮して統治していた。 古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭りに用いられた。そのような重要な祭器であったから、このうちの特に霊力の強いものが「三種の神器」の一つとなったといわれる。

「神璽」(しんじ・皇位のしるし)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト・神話、岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作ったとされる神、天孫降臨の1神)と呼ばれる職人集団の祖神である

糸魚市川の姫川流域、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸などは、我が国での殆どの翡翠が産出するという。
糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉みだされ地表付近に出現したといわれる。 
硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流、小滝川「ヒスイ峽」の翡翠は良質であり、糸魚川市、青海町の産地と共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられているという。 

現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は、海外、ミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。


次回は、「上越





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2012年5月15日火曜日

新・日本紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」






 新・日本紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」 




「日本三大崩れ」、というのをご存知であろうか・・?。

北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流が流れている、そして、その河岸に道路、鉄道、民家がひしめきあっている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 

水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原の湧水は青木湖からの浸透水であるとの説もある。
全長わずか58キロで平均勾配1000分の13という急流であるため、度々洪水におそわれている。 
近年では平成7年(1995年) の大洪水の災害で姫川温泉が甚大な被害を受け、国道、JR大糸線がかなりに亘って流失寸断され長期不通となった。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。


尚、この年に息子と白馬の大雪渓を登ったとき、あの白馬大雪渓が例の大雨の影響で完全に土砂で埋まっていたのを思い出した。
元より、日本は国土の約70%が山地であって、これらの山々は地質的にも脆弱な山域が多く、 火山や地震で大規模な崩壊を起こす山も数多くあるという。  主な大規模崩壊地としては、富山県「鳶山崩れ」、山梨県と静岡県の分水嶺・安倍川の 「大谷崩れ」、そして長野県「稗田山崩れ」を三大崩れと言うらしい・・。この崩壊は20世紀の日本における最大の崩壊ともいわれるという。



姫川中流域にある「稗田山崩れ」は、明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。
この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているといわれる。 
その前後の江戸期、昭和期のおいても数回に亘り浦川上流地区の稗田山系において土砂崩落があり、被害を出している。この辺りは、糸魚川・静岡構造線の断層地帯に含まれる、そのため脆弱な不安定な地形を形造っているという。 


この忌まわしい現場を1976年(昭和51年)、「幸田文」氏が72歳にして「稗田山大崩れ」を視察、見学している。 文氏は明治の文豪・幸田露伴の次女で、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねて一種のルポルタージュ文学として『崩れ』を紹介している。72歳にして「崩れ」に興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で荒々しい崩落地の様子を記述してある。
普通、このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは想像し難く、老文学者で高齢の女性を掻き立てたエネルギーは何なのだろうかと。 生まれつき好奇心が強く、たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのかとも思う。 そして、あのお年でなお、あそこまで執着できたのかと尊敬する次第である。
「稗田山崩れ」の現場の途中には、幸田文による「歳月茫々脾」が、遭難稗と共に建立されている。



幸田 文氏の『崩れ』、「歳月茫々・・稗田山崩れ」の断片

 『この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ8km、高さ河床から約300mのところまで、ほぼ1kmの厚さですべる落ち、その莫大な量の土砂が大音響とともに浦川の谷に落ち込み、浦川はたちまち埋め尽くされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原形を姿を止めぬ姿になってしまった。
更に、この新平原は下流に移動し、行く手にあるものは田畑も人家人命も、全て押しつぶし呑み込み、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢いのあまり対岸の大絶壁に打ち当たると左右に分かれて堆積し、堆積のの長さ凡そ2km、高さ65mのも及び、ために姫川は堰きとめられて、冠水の長さ5kmという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地を浸した。
 そのままにしておけば渦は上流へ拡がるので、水路を切って水を落したところ、まずい事に土砂交じりの濁水は沿岸を削って流れ、下流に氾濫し、町も美田も潰されて、惨憺たる河原へと変じた。(以上は村人による「小谷ものがたり」より)。
崩壊が始まって2度、3度しつこく続けられた災害である。破壊家屋27棟、失われた人命23人、10kmに亘って変貌した土地・・。 今この村を、集落を訪れても昔日の面影はない・・が、あの時埋まってしまった家々も、その家の人達も、今もってそのままになっています。 掘り起こす事の出来ないほどに、深く埋まったのです・、と村人が言う。
連れ立って話してくれる村の人は実直に、事の起こったことに対し「・・という話です、・・だそうです、・・らしいけれど 」という。 道野辺に生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々の思いに打たれる。
だがここのそうした想いを、からりと晴れ上がるような、これまた感動の強い話を聞いた。 聞けばこの人今66歳、災害の時はお母さんの胎内の中、だったという。
稗田山の崩れは午前3時でまだ真っ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ゴーッという土石流の轟音で驚いたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。 どういうわけでそうなったかわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打ち上げられ、無事みごとに助かったのである。 なぜ転々する土砂の上で、土中に巻き込まれる事なく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下の中でどうして錯乱もせずに無事にいられたのか、気丈でもでもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。
こんな怖い目にあったのは非運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運ともいえよう。 凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。
ここにこうして稀有の天助をうけた一人の人が、静かに落ち付いた暮らしを続けていると思うと、崩壊と荒涼と悲鳴ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。
 「 あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおいくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われた、としか思えないのである・・、 』




後日であるが、幸田 文氏の『崩れ』を読み・・、そして、別宅・白馬の近くでもある、その現地を訪れてみた。

崩壊地手前の耕地の一角には崩壊に関する説明碑、幸田文氏の「崩れ」の碑文が在り、又、平成7年の大洪水の被害に関する記念碑も立っていた。
更に、山間の奥まった所、吊橋から稗田山塊と思しき上空をを見上げると、垂直の岩肌がいかにも陰惨に見える。 切り立った崩落部分は一山全山が崩れ落ちたのだろう、と想像させる程、周囲が大絶壁、断崖となって岩石というよりも茶色の土が露出しているのである。 見渡しても、何しろ視界の180度以上の山塊が崩壊しているのである。 撮影に際しては空から撮るか、よほどの広角レンズでもないと、まとめて撮れないくらいである。 自然の脅威に圧倒されるばかりであった・・!!。
吊り橋の手すりに寄りかかり谷底を見ると、余りの高さに怖さで身体が縮む想いであった。 

ところでこの吊り橋は、その後の日本列島に長大型橋の時代を迎えるが、その横浜ベイブリッジや瀬戸大橋を初めとする吊橋架橋の礎(もと)になったともいわれる。


次回は、「糸魚川






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2012年5月14日月曜日

新・日本紀行(7)白馬 「塩の道・千国街道」

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 新・日本紀行(7)白馬 「塩の道・千国街道」 









白馬村の塩の道に奉げられる案内板と昔を偲ぶ道祖神、石仏群



「塩の道・千国街道」とは

千国街道の「千国」とは、現在の長野県小谷村の一部であって、明治期まで千国村と称していた。 現在地域名としては存在していないが、JR大糸線(大町~糸魚川)の駅名として千国駅が存在する。
 
「塩の道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本までの旧道のことで、現在では、国道147・148号線の約130kmを指し、そして鉄道ではJR大糸線がその役目をひきついでいる。
 
近世では、海側からは海産物(主に塩・魚)、山側からは麻・たばこ・生薬・大豆などの生産物である生活必需品の流通路として使われていた。

本来「塩の道」というのは岩塩のない日本では海でとれた塩を内陸に運ぶための道のことを言い、海岸から内陸にむかって国内各地に「塩の道」があった。
特に信州では、太平洋側から入る塩のことを「上塩」とか「南塩」と言い、主に岩淵(富士川)、吉田(豊橋)、名古屋、江戸から運ばれました。
日本海側から入る塩のことは「下塩」とか「北塩」と呼ばれ、富山(針ノ木峠経由)、糸魚川、直江津、新潟から運ばれた。

そして、上塩と下塩との移入路のターミナルには「塩尻」という地名がつけられたと言われている。
有名な塩尻市をはじめ、上田市塩尻、下水内郡栄村などの地名が残る。
 

更に、「千国街道」の歴史を遡ると、石器時代には既に開かれていたとも言われている。
長野県和田峠で採掘された黒曜石(ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃:やじり、槍の穂先などの石器として長く使用された。産地として、長野県では霧ヶ峰周辺や和田峠が有名)が日本海側の遺跡で発見されたり、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれる翡翠(ひすい・勾玉の原料)が長野県の遺跡で発見されている。

これはこの時代から日本海側と長野県を通じる道があったと推定され、中間の長野県大町市から翡翠を加工する工房跡も発見されていたことからも、この一筋の道(千国街道)によって物資が流通していたことが判る。
 
又、古事記に基ずく神話等によれば、大国主命と奴奈川姫(ヌナガワヒメ)の子、建御名方命(タケミナカタ・諏訪神社の祭神)が出雲国から逃げて諏訪に行ったのも、この道を使ったと考えられている。
大陸から出雲の国へもたらされた金属や医薬の製品や知識と、越後・姫川の玉(翡翠、ヒスイ)の交流、さらに越後と諏訪がすでにこの道によって結ばれていることを物語っている。(時代的には4世紀と考えられるそうです)
 

更に、安曇野に入りその地方に稲作をもたらしたと言われる安曇族は、もともと北九州を根拠地としていたらしい。
アルプスの守り神とされる「穂高神社」の縁起略記によると、安曇族は海神系の宗族として北九州に起こり、海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。
その後豊かな土地を求め、海路日本海を経て越の国(富山、新潟)に上陸、更に信濃に入り信濃国を安住の地と定め、安曇野を開拓、稲作文化、鉄文化を普及した。
奈良時代前には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷の四郷からなる安曇郡が成立している。
豪族・安曇族は、古事記にもその名が記されているが、この一族も日本海を北上して糸魚川からこの道を通って安曇地方に入ったと考えられている。
 

各地にある「塩の道」で、千国街道は信州でもっとも代表的な海岸と内陸部を結ぶ街道であり、歴史もあり、川中島の合戦のときに「上杉謙信が敵である甲斐の武田信玄に塩を送った」という逸話は前回述べたとおりである。
 

千国街道は、藩士たちの参勤交代の列が往来した五街道のようなメジャーな存在ではなく、物々交換の交易の道であり、「ごぜ」(瞽女とは、三味線を携え農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人で、ゴゼサン・ゴゼサなどと呼ばれた)や旅芸人集団が往来したり、長野の善光寺への参詣の人が往来するなど、どちらかと言えば「庶民の道」として発展してきた。
 
現在では国道147・148号線そしてJR大糸線(昭和32年全線開通)にそ座をゆずり、太平洋戦争後しばらくは生活物資を運んでいた「歩荷」(ぼっか;山岳のような体力的もしくは地勢的の難所において人間が背中に荷物を背負って徒歩で運搬することを言う)もいなくなり、旧道は現在、地元の生活道や林道、ハイキングコースとして使われている。


次回、小谷村





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2012年5月12日土曜日

新・日本紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」

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 新・日本紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」  .


  


我が第三の故郷になった「白馬村」について・・、
 
白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 
名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。


その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である。
信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。
又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。

そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた。 これを通称「千国・塩の道」といっている。



日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世~昭和初期まで主として使われた生活の道である。 
こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。
又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。

武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。
戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 
上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 

このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。
ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。




ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。
 
駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。

武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。
信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・」と言い残している。 
実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。
改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。

因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 
謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが。

この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。
ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。



余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 
そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。


次回、「塩の道・千国街道」




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2012年5月11日金曜日

日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」

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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」  .





信州・「松本城」 





西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。

ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。


次回は、安曇野から白馬

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2012年5月10日木曜日

新・日本紀行(5)諏訪 「御柱祭について」

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新・日本紀行(5)諏訪 「御柱祭について」 .




御柱
奉納された「御柱・心柱」





諏訪にまつわる「御柱・心柱」の意外性・・、

その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 
天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 
上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 
上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。
祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。
天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かなおんべ(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が御柱祭である。

この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが・・。
古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。
 「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。 地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている・・。
古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名であるが、高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。 超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 

諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。
現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 
諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると・・。 本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。
大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。
御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。
柱は、神の依代(よりしろ)である。 御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。

日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある。
五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいう・・。
それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている・・、その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると・・。つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。
先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。
柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。
我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。
かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。
仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない・・。

序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる。1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。
建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。
古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。





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2012年5月9日水曜日

新・日本紀行(4)諏訪 「諏訪地方」

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海道を行く


新・日本紀行(4)諏訪 「諏訪地方」 .



hasira
秋宮の「御柱祭り」風景(クリック拡大)





諏訪の地は「御柱祭り」一色であった


周遊中の今年(2004年)は諏訪の街とその周辺は7年ぶりの大舞台の地であった。
あの有名な「御柱祭」が、既にこの春季に行われたが。

諏訪大社・上社本宮のすぐ横の路上にて、丁度、御柱を曳行する秋の祭りに遭遇した、聞けば、「里宮・小宮」の秋例祭で今年は本宮の御柱祭なので、それに倣って挙行しているとのこと。 

全国各地の諏訪系神社では同様に御柱にちなんだお祭りが行はれるらしい、それも秋祭りが多い。
諏訪大社は、諏訪湖の南北に上下・二社ずつ対座し、四ケ所に鎮座する神々である。 

諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。
全国に分布する分社は一万有余社を数えると言われ、我が家の近くや実家にも「お諏訪さん」「諏訪様」の通称で庶民の間に鎮座している。


神様は出雲系(大国主)の神であることに先ずびっくりであったが、全国的にも親しまれ敬まわれ巾広い信仰を有していて、歴史的にも当然のように古い。
祭神は建御名方命、八坂刀売命の夫妻神が奉られている。
建御名方命(タケミナカタ)は、大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供で、諏訪の国の国造りの神である。 
建御名方命は地元の諏訪の美しい神、八坂刀売命(ヤサカトメ)を娶ることになる。その後、両人は諏訪大明神となり、これが現在の諏訪大社のはじまりという。


上社は建御名方命、下社は八坂刀売をそれぞれ祀り、名前の「ミナカタ」は「水潟」の意で、元々は大国主や出雲とは関係のない諏訪湖の水の神であるとされる。
八坂刀売は下社の背後に聳える白樺高原や霧が峰の山の守護の神とされる。


記紀神話(古事記、日本書紀)に基づくと、大国主命の「国譲り」、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫った。 
これに対して建御名方命は国譲りに反対し、大和王朝の代表である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦った。結果、戦に負けたことから諏訪まで逃れてきて、その地で王国を築いたということになっている。

「国譲り」では、大国主の出雲での末子の建御名方はどうしても承知せず、力比べを挑んだが、逆に投げ飛ばされて出雲から逃亡し、武甕槌が追って科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ)にいたるまで追い詰め、建御名方は遂に降参し、今後、この地からはどこへも出ないことを約束して命だけは助けられた。
つまり、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。

八百万の神が出雲へもう出るため、この月を「神無月」と言われるが、諏訪の建御名方の神は出席を許されず、この地方だけは「神有月」と言われる。



次回、「御柱祭」





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「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




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01. 15.

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