2012年5月23日水曜日

新・日本紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」

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小さな旅  

 新・日本紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」  .





義経一行が通ったとされる「史蹟・念珠関址」





道程は「山形県」に入りました・・、
国道7号線が新潟県から山形県への境を過ぎたところ、羽越本線が交差するあたりに「史蹟・念珠関址」(鼠ヶ関・ねずがせき))が在る。  実は、この地・鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所跡が二ヶ所あるという。 江戸開府から明治初期まで設置されていた「近世念珠ヶ関」と、ここから南方至近の県境にある古代の関所址である「古代鼠ヶ関」とである。
鼠ヶ関は古代より陸奥国(東北)への入国に際しての関所であり、勿来関(太平洋岸の陸前浜海道・国道6号)に、白河関(中通り・陸羽海道・奥州街道・国道4号)のとともに「奥羽の三関」の一つであった。 国道沿いにある「念珠関址」は近世の関所址ということで、江戸期には「念珠関御番所」と呼ばれていた。 最上氏の時代に地元鼠ヶ関の領主が関守として国境を警護し、酒井氏の時代には藩士も上番として国境警護にあたったとされてる。
一方古代の「鼠ヶ関」は鼠ヶ関駅の南、現在の山形県・新潟県県境付近にあったという。 古跡は現在は石碑のみの形で残されている。 

古代「鼠ヶ関」について・・、
源義経が奥州に逃れる際「勧進帳」の様な姿形で、この地へ上陸して、この関を通過したとされる。古書には文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐軍が越後から出羽「念種関(ねずがせき)」を通って合戦に及んだことが記されている。この戦は奥州の覇者・藤原一門と義経を滅ぼす為だったのだが。
義経の下りであるが・・、
平安後期の1185~1186年、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、温海町鼠ヶ関から鶴岡市に入り、羽黒山に立ち寄り、立川町清川に出て舟で最上川をさかのぼり、戸沢村を経由し新庄市の本合海に至り、ここから亀割峠を越して最上町に入り、宮城県との県境の境田を経て岩手県平泉に逃れたという。
義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、ここからは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅たって行ったという。
この鼠ヶ関の通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」の劇的場面として描かれているが・・??。
一方、加賀の小松(石川県)の「安宅関」の項でも・・、山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守・富樫左衛門丈泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。「勧進帳」とは、寺院建立(東大寺)などの資金集めの趣意をしたためたものである。弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。 なお顔が似ているという関守の前で、 “義経に似た貴様が憎し” と主人を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は、義経と知りながらも一行を解放したとある・・??。
因みに、安宅という土地は海岸線にあって、大昔から異国の襲来に悩んでいたようであるが、国内の関所としての役目を果たしていたかどうかは疑問で、まして、平安期、鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいともいわれる。 元より、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関であるが、実は「義経記」などには「安宅の渡し」(現安宅関跡は海岸近くの悌川の畔にある)とあり、「安宅関」とは出ていない。
また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、加賀にやってくるが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はなかったか、意味をなしてなかったとされる。江戸後期の加賀の地誌などにようやく「安宅関」の記載が見られるというが・・。
この頃の天保11年(1840)3月、河原崎座でた謡曲『勧進帳』が初演され、更に歌舞伎でも上演され、「安宅関」の名は全国的に広まったようで、その後一般的な小説やドラマになったとされる。
尚、2005年、NHK放送の大河ドラマ「義経」放映において、基本的に「安宅関」に関わる場面は当然登場し、出演者の熱演に見入ったが(富樫泰家:石橋蓮司、 武蔵坊弁慶:松平健、 源義経:滝沢秀明)、義経一行が「安宅」を通ったのか、通らなかったのかというのは「史実」の世界ではなく、物語の世界であるようだ。
ただ義経が、「判官びいき」と言う言葉を生んだ大きな要素の一つに「安宅の関」の出来事が発端といわれる。 「歴史の史実」は大切で重要ではある・・が、「言い伝えられてきた」ことも尊重すべきではあると思う。

尚、余計なお世話だが小生が想像(創造・・?)するに、「安宅の関」と「鼠ヶ関」を両方登場させ、物語として構成すると、更に面白くなるのでは・・?。 
それは、加賀・「安宅の関」は都(京都)からもまだ近く、当然、頼朝臣下の目が届きやすく手配も充分であったろう。 関守・富樫左衛門丈泰家が義経一行を咎め、捕らえようと待ち構え、厳しい詮議も当然行はれたと観るべきである。
一方の出羽・「鼠ヶ関」の方は、頼朝の目から最も遠く、陸奥の国の入り口でもあるので、ここは藤原秀衡の息がかかっていたことも想像される。関所の役人・五十嵐治兵衛は秀衡の意向に添って義経らを丁重に歓迎し、懇ろ(ねんごろ)にもてなして世話をする。
という両関所の対比、対極が面白いと思われるが・。


次回は、「鶴岡」





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