2012年5月22日火曜日

新・日本紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」

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新・日本紀行

  新・日本紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」   .



新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る。
万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なので、 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。
橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達しようとしている。
信濃川は全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。
実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」でも有名である。


島崎藤村の「千曲川旅情

b>小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子(ユウシ)悲しむ
・・・
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む  .


又、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。 
この両河川のことを安曇節が詠っている。


安曇節』 長野県民謡

槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎 チョサイ コラサイ
.



小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。
南の槍沢へ下った渓流は、やがて、梓川となって「上高地」を潤し、又、北の天上沢へ降りた水流は、高瀬川となって大町へ到っている。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。 
延べ10年位をかけて5回も行うことになるが、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 

一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。


この後、信濃川河口においても動乱があった。
天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、上杉家のお家騒動である。 

謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっているが。
その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。

「関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう。

この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 
しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである。原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい。 
重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。
重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。しかし、4年後には景勝によって落城してしまう(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所も分かっていないという。 

その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。

信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。
その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来するが・・!。

尚、「新発田」と言う名称は新発田氏が滅んだ後もその名は残り、現、新発田市、そして新発田藩、新発田城として江戸末期まで存続している。 
慶長2(1597)年に上杉景勝が会津若松移ると、秀吉の家臣・溝口秀勝が新発田城に任じられ、その後は代々溝口氏の居城となった。その秀勝の「秀」は秀吉から授かったとされ、曾孫にあたるといわれる人物に赤穂浪士・「堀部安兵衛」がいる。

溝口氏の江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。

幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎ととも日本海側ではただ一港の「官港」として開港し発展してきた。


次回から「山形県





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