平成日本紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」 .
舞鶴軍港に停泊中の護衛艦群
舞鶴軍港に停泊中の最新鋭護衛艦・「すずなみ」
宮津の町から岬付け根の粟田トンネルを抜け、粟田湾から由良川沿いを南下する。
八田の交差点を左折して由良川を渡り、小さな峠を越えると間もなく舞鶴の港である西港の大きな埠頭が目に入る。
舞鶴港は、日本海における重要港湾の一つとして位置付けられ、現在は大きく二つの港に区分されている。
この西港は対中国、韓国、ロシアなど対岸諸国への定期コンテナ航路をもつ国際貿易港としての機能分担をもち、中でも、現在、拉致などの諸問題を抱える朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の清津港(チョンジン・日本語・セイシン)の航路も開かれているが・・?。
そしてこの先の東港は、近畿圏と北海道を結ぶ長距離フェリーを中心とする国内貿易港としても利用されているが、主に海上自衛隊の軍港として使用されている。
一旦、西港から離れて次に東港へ向かう。
舞鶴港は西の金ヶ岬、東側が博奕岬(ばくちみさき・・?)に挟まれた狭い湾口を成していて、その地形から湾内の干満の差が極めて小さく、四方を3~400m級の山で囲まれていることから、強風や荒天をも避けることもできる。
また日本海から湾内を目視する事ができないため、天然の良港としても重要視された。
このような地形的に優位な舞鶴港は古来より開かれ、江戸期には北前船の寄港地として貴重な存在となり、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。
だが、北方において軍事色が濃くなる明治期には、日本海側唯一の海軍の舞鶴鎮守府が開府し、軍港として飛躍的に発展してゆくことになる。
日露戦争の際、その殆どの船がここから出港したことは有名であり、当時の海軍記念館も存在している。
昭和の戦時期は、更に東港が軍港として整備され、戦後も海上自衛隊基地として現存している。
現在の舞鶴港はロシア、中国、韓国との航路もでき、そして北朝鮮との貿易港としても期待されていた。
しかし北朝鮮の不審船事件や、その他の不穏な動向により舞鶴の海上自衛隊は更に増強されているという。
軍港は、海上自衛隊の舞鶴地方総監部(戦前の鎮守府にあたる)として、イージス艦、給油艦、護衛艦などの海軍基地として、昔のように整備されつつあるという。
舞鶴港の歴史は、そのまま日本の歴史を見るようでもある。
因みに、現存する国内の主要な軍港は、北から北海道・むつ市の大湊港、横須賀港、呉港、佐世保港と舞鶴港である。
そして、日本の戦後の歴史としては舞鶴東港は何といっても引き揚げの港として著名である。
実は、小生も戦後満6歳の時に、この港に上陸した「満州引揚難民」の一人なのである・・!。
(このことは後ほど・・、)
港の公園からは蔦を絡ませた赤煉瓦の堅固な倉庫も見えてる。
横浜の赤煉瓦倉庫とは異質な 雰囲気に満ちた建物で、ここは旧日本海軍の軍需施設として使われたもので現在でもその面影は色濃く感じられる。
今実際は、赤レンガ博物館や市政記念館・また海上自衛隊の補給所などとして使われているようである。
公園からは更に海上自衛隊の埠頭が臨まれ、各種軍艦(自衛艦、護衛艦)が常駐停泊していているのが伺える。
一旦、街中を通って湾の東側を北上する。
広い自衛隊基地、日本板硝子の敷地を過ぎると間もなく小高い公園風のこざっぱりところに「引揚者記念館」があった。
近代的な堂々たる建物で、一つの歴史的記念施設でもある。
次回、「舞鶴引揚港」