「旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。 」 (アントニオ・マチャド;スペインの詩人)
平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2) .
林春斎の三景碑(天の橋立)
海岸へ出ると間近に砂州と松林が延々と対岸へ延びている。
その景観は海と緑が対象の妙をなし、確かに、その美しさは人々の心の琴線に触れるものであろう・・!。
海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵である。
天橋立は古き時代から数々の歴史の表舞台にも登場し、和歌や文学にも登場してきた美景であり、いつの世も代わることなく人々を魅了し続けている。
日本人の旅心の原点でもあろう。
一例として良く知られる百人一首の「小式部内侍」(こしきぶ の ないし・平安時代の女流歌人、母は和泉式部)の歌で・・、
『大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天橋立』 がある。
又、その母である和泉式部も・・、
『橋立の 松の下なる 磯清水
都なりせば 君も汲ままし』 と吟じている。
『人をして 廻旋橋の 開く時
黒くも動く 天橋立』 与謝野晶子
『はしだてや 松は月日の こぼれ種』 与謝蕪村
などもある。
松林の一角に古式の文字で「日本三景」の碑が建っていた。
碑には、『丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す』 林春斎
と刻してある。
御存じ、「天橋立」は日本三景の一つである。
日本三景とは、ここ京都府宮津市の「天橋立」、宮城県松島町の「松島」、そして広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことである。
これには所縁があって、江戸期の儒学者・「林春斎」が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に著述されていて、三景石碑に記された文面の如く、我国の卓越した三つの景観としてと書かれたのが始まりと言われている。
ところで、これら三景の地には同じ様な文字の記念石碑が建てられているというが、面白いのは其々紹介する場所で、刻した順序が違っていて、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、宮島」(冒頭写真)、松島では東から「松島、天橋立、宮島」、厳島では西から「宮島、天橋立、松島」の順となっているという。
尚、2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。
林春斎は、幕府の仕事として全国をかなり広範囲に行脚したようで、その見識の上で日本三景を選出したようである。
当時の江戸期の国内事情から考えると、日本三景を死ぬまでに全てを観光したという人はかなり限られていたと思われ、現代においても日本三景の総てを見たという人は案外と少ないどころか、「日本三景は、其々何処に在るか・・?」とすんなりと地名が出てくる人も案外と少ないのではなかろうか・・?。
幸いというか小生の場合、日本一周を旅するに及んで他の「松島」、「安芸の宮島」(厳島)、そして、ここ丹後の「天橋立」の地を訪れたことで、日本三景勝地を巡ってことになる。
因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。
「林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父はあの林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠・家康の三男に講書を行う)で、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)で、父とともに幕府に仕え、幕政に参画していた。
三代将軍・徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係や幕府外交の機密にもあずかった。 又、日本史にも通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」(江戸幕府により編集された漢文体の歴史書)、「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における歴史的書物の編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた人物でもある。
次回は「舞鶴」