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日本周遊紀行(25)吉良 「刃傷事件の主君」
刃傷事件の吉良家、地元では・・?
三ヶ根山の西の麓に吉良町が広がる。
「吉良」(きら)の名は八ツ面山(やつおもてやま;現、西尾市にある低山)に産する雲母(キララ又はキラ)の呼び名から起こったとされ、中世(13世紀の頃)の三河国吉良荘の領主は足利氏の支族・名門吉良家が領していた。
その吉良家は東条吉良氏と西条吉良氏に分家することになる。
吉良氏といえば、誰もが「忠臣蔵」の悪役吉良上野介を思い浮かべるが、この上野介義央は、西条吉良氏の末裔にあたる。
江戸時代初期には著名な領主に旗本・吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしなか)がいた。 石高は高家筆頭4200石で、万石未満の旗本ながらも官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)を授かっていた。
この氏が江戸元禄期、江戸城内における公式の儀式、場所である殿中・松之廊下において播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭に斬りつけられる、という刃傷事件が起きる。
その要因、原因は多々取りざたされているが、いずれにしても将軍綱吉は即刻、藩主・内匠頭に即日切腹、播州赤穂藩には、お家断絶を申し付けた。
これより浅野家の赤穂藩は消え、藩士はすべて浪士になったのである。
刃傷事件から1年9ヶ月後、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入し、激闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。
「忠臣蔵」のお蔭で、赤穂四十七士の忠義が300年にわたって称賛されている一方で、吉良氏は「日本一悪いヤツ」にされ、その名は黒い影に覆われてしまった。
つまり、”日差しが強ければ強いほど影は濃くなる”ように。
しかし、地元・吉良町では吉良上野介は新田開発や産業の振興などに尽くした名君として長く慕われていた。 刃傷事件のその後、赤穂浪士ゆかりの赤穂市とは長く遺恨の関係にあった。
しかし1990年以降、双方の話し合いによって理解し合い、交流が始まり、今では忠臣蔵イベントやスポーツなどを通して活発な交流が行われるようになっているという。
因みに、遺恨の事で・・、
幕末、戊辰の役で長州軍(官軍)と会津軍とが、会津城下で最後の凄惨な戦闘が起こり、会津軍は降伏する。 その後、戦後処理において、その処置の仕方や会津藩全藩の国替え(不毛の地、陸奥国津軽斗南地方、事実上の全藩の遠島処分)に伴って、会津藩士は過酷な苦渋を強いられる。 この遺恨は末代まで引き継がれ、今日になっても会津若松市と山口県萩市は話し合いは持たれるものの、未だ遺恨の関係が続いているといわれる。
「一色町」の鰻・うなぎは日本一・・?、
国道247は、吉良町から矢作古川の松大橋を渡ると一色町に至る。
吉良町辺りから沿岸部は見通しの良い平坦地が続く、矢作川の沖積平野で、所謂、デルタ地帯である。
矢作川(やはぎがわ)は、中央アルプスを水源とする一級河川の清流で、清流魚である天然アユの豊漁の地としても知られる。
矢作古川は元の本流であり、江戸から明治期、氾濫を抑えるため新たに開いた水路が、はるか西の方、碧南市と西尾市を流れる(明治水路)。
岡崎市街の旧東海道に架かる矢作橋は日吉丸(後の豊臣秀吉)が野武士の棟梁である小六(蜂須賀子六正勝)と出合った場所として知られているが。
この話は創話と承知であろうが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に両人の「出合之像」というのがあるらしい。 蜂須賀子六は藤吉郎と共に信長に遣え、後に秀吉が西国を治めると同時に、蜂須賀子六正勝は阿波・徳島の一国を授かっている。
一色町は、この矢作川のデルタ地帯の一角にある小さな町域である。
だが、この小さな町域に「日本一」と称する品目が数種類あるという。
中でも秀たる物に「鰻の生産高が日本一」だそうだ。
現在、ウナギを養殖生産しているのは、静岡県(浜名湖産)、鹿児島県と愛知県が圧倒的に多く、全国の63%を占めている。 愛知県は、昭和58年に静岡県を抜いてから平成9年まで14年連続首位を守ってきたが、昨年、鹿児島県に一位の座を占められる。
愛知県の生産量は全国の31%を占め、うち一色町の生産量は県内生産量の75%で、全国では23%を占めているという。
市町村単位で言えば、一色町が15年連続で「日本一のウナギ天国」を誇っているのである。
矢作古川と国道南側一帯には広大な水面が広がっている。
これが鰻の生簀(いけす)で、矢作川の肥沃な表流水を水源としている。
そのため井戸水を使用している他市町村の「うなぎ」に対し、限りなく天然に近い栄養豊富な、美味しいうなぎが養殖できるようになったのだという。
矢作川本流の矢作川大橋を渡り碧南市へ入った。
渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾は、いわばカニのハサミにあたり、湾岸部はその口に相当する、つまり天然の良港なのである。
碧南の大浜地区は背後に尾張地方を望み、その地形から古く南北朝・室町時代頃から大浜湊として千石船が出入する湊町として栄えたところでもある。
そのためか大浜地区は、今でも神社仏閣や古き良き建築物が多く点在する。 最近ではこの景観地区を国の施策に則って、「歩いて暮らせる街づくり」というモデルプロジェクトを選定し、人と自然が調和した新しい町並み造りに励んでいるという。
衣浦港の衣浦トンネルは、碧南と半田地区の埠頭を結ぶ延長1.7kmの海底トンネルで、港湾都市・半田市の象徴でもある。
衣浦港の一角に昔ながらの半田運河(十ヶ川)が連なり、面して黒塀や蔵が情緒を醸しだしている。 ここは醸造業(酒、酢)に代表され、今でも現役で活躍しているという。
衣浦港を潜る衣浦トンネルを出ると半田市街へ向かう県道265号となるが、小生は師崎方面(知多半島先端)と標識のある道へ左折し、2車線の高架道路の工場地帯を抜けていく。
高架道路は途中までで、道なりに走っていると十字路に出て再び国道247に合流した。
知多半島には中央部に南知多道路という有料道路が走るが、もちろん小生は沿岸の一般国道247号を行く。
蟹のハサミの付根に当たる東西部には臨海工業地が広がり、東部の豊橋地区は国内でもトヨタ自動車を中心とし、最大規模の自動車製品及び部品の輸出入拠点となっている。 又、こちら西部地区は、衣浦港を中心に鉄鋼、輸送機械工場や発電所が集まる工業地である。
又、中央部の蒲郡、幡豆町は温泉や観光施設が特色を出しているようである。
知多半島の内浦に面する武豊町辺りから、静かな海辺と漁港が連続して気持ちをホッとさせる地域である。 特にこの辺りはアサリの潮干狩りが盛んのようで、それらの案内板が多く目に付く。
美浜町の河和から南知多町の先端「羽豆岬」は向かう。
次回は知多の「羽豆岬」
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