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日本周遊紀行(24)蒲郡 「三ヶ根山」
蒲郡の沿岸より望む竹島と三ヶ根山の山並み
三ヶ根山頂に眠る「殉国七士廟」;東條英機(元陸軍大将)、武藤章(元陸軍中将)、松井石根(元陸軍大将)、木村兵太郎(元陸軍大将)、土肥原賢二(元陸軍大将)、広田弘毅(元総理大臣)、板垣征四郎(元陸軍大将)
田原の市内を抜けて県道2号から三河湾大橋を渡っての豊橋へ向かう。 元有料道路だけあってさすがに立派な橋である、記念に写真を一枚。
次に豊橋の湾岸線R23を行く。 バイパスだけにかなり快適に走れる。
三河湾の周辺地はトヨタ自動車田原事業所をはじめ自動車産業が盛んで、豊橋港湾を中心とした施設は日本第一位の自動車貿易港でもある。
一方、蒲郡は豊橋の港湾都市に比して、海辺の観光都市と言えるであろう。海岸沿いに四っつの温泉が湧き、蒲郡には海辺の五館という水族館、海の科学館や博物館が並び、蒲郡のシンボルともいえる「竹島」が浮かぶ。
竹島は長さ387メートルの橋で陸地と結ばれ、島全体が国の天然記念物に指定されている。 4月上旬から6月下旬には海岸で潮干狩も楽しめる。
海道より比較的近場の三谷温泉に行ってみたが、立寄り温泉らしいものは無く、宿屋の方も午前の早い時間帯というせいもあって、今は静まりかえっている。
次に、東を渥美半島、西を知多半島に囲まれた三河湾に喉仏の様に突き出た西浦半島の先端に広がる西浦温泉を訪ねた。
岬の先端にある浜辺の温泉で、古くから風光明媚な場所として知られる。
30数年も前、小生の新婚旅行に訪れた温泉地でもある。
今では海岸線からの斜面に沿って設備の充実した大型旅館やホテルが林立し、「東海の熱海」とも形容される近代的な温泉になっている。 岬の高台から眺める三河湾の360度のパノラマ展望も見事である。
又、海岸は400メートルほど続く砂浜が波穏やかで、夏は海水浴客で賑わう。
西方には穏やかな海に小島(沖島)が浮かび、赤に染まる夕日を眺めながらの湯浴みは最高だともいう。
西浦温泉は泉質はアルカリ性単純泉、単純緑バン泉など効能はリウマチ、神経痛、皮膚病など効能豊かな温泉としても知られる。
三河湾に面して一際目立つ山並みが連なる。 標高300mを超える三ヶ根山の山塊である。
三ヶ根山 (さんがねさん) は三河湾の展望台で、近年まではロープウェイや回転展望台が有り、我らも楽しんだ記憶がある。
当時は相当に賑わっていたようだが、近年では三ヶ根山スカイラインの開通や観光客の減少に伴って、その役目を終えたようである。
山頂付近には殉国七士墓(極東軍事裁判で絞首刑となった、東条英機ら七人の霊をまつった墓)がある。
殉国七士の遺骨は、人目を避けて密かに伊豆山中に祭られていたらしいが、幾星霜を重ねた後の遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立され、墓碑と共に安置されることになった。
東京裁判と殉国七士
敗戦のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ等の戦勝国が東京裁判で裁き、票決により昭和23年12月東條英機、広田弘毅、板垣征四郎等、いわゆるA級戦犯(A級・・??、 A、B、Cの区分のこと)とされる氏たちの絞首刑を執行した。
A級戦犯のA,B,Cとは罪の重さ、軽さのランク付けではなく、GHQ(連合国總司令部)が戦犯選定のさいに用いた犯罪の内容・種別を示しているもの。
A級は戦略戦争を遂行した「平和に対する罪」、B級は戦争法規・慣例にした「通常の戦争犯罪」、C級は民間人に対する迫害や殲滅(せんめつ)を実行した「人道に対する罪」という内容だが明確な法的根拠は無く、「A級戦犯」は呼称・通称にすぎないという。
東京裁判(極東国際軍事裁判)では26人が「A級戦犯」として起訴され、7人が処刑された。 その後、いわゆる靖国神社には東京裁判での終結、未決で死亡した14人が祭られているという。
尚、処刑された7人は密かに埋葬され、その遺骨がこの三ヶ根山の頂きの眠っているのである。
処刑後の昭和23(1948)年12月23日、米軍による久保山火葬場(横浜市保土ヶ谷区)で米軍によって火葬にふされた。
この時、遺骨は米軍の手にあり、処刑された後、殉死した7人が英雄にまつりあげられるのを恐れた連合国は遺骨を持ち出すことすら禁止し、飛行機で空中に遺骨を撒き散らす予定であった。
これを知った日本人の係官は幸いクリスマスの時期であったため、監視の目をくぐりぬけて遺骨を密かに持ち出したという。 七士の間違いの無い遺骨が、日本人の手に入ることができたのである。
そして火葬場のすぐ隣の禅宗の興禅寺に仮埋葬した。
久保山火葬場は無論、米軍占領下にあり、厳重な警戒網を突破して懐中電灯を点滅しつつ竹竿の先に缶等をつけ苦心惨憺、息を殺しつつ、とうとう全部を収めたという。
だが、興禅寺にいつまでも隠匿しておく訳にはいかず、いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうか知れない。
そこで東京裁判の弁護士を勤めた三文字氏や林逸郎氏等の人々や七士の遺族の人々が極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家に一端移す事になった。
その後、三文字氏等が「興亜観音」を訪れ「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで、誰にも分からぬ様に、秘蔵して置いて貰いたい」と依頼した。
この間、関係人は大変な苦労があったようだが、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで講和条約が整い、以後は、米軍の日本取締りは非常に緩められた。
そして、それ以降は七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されている事なども新聞等にぽちぽち報道されるようになり、興亜観音に七士の遺骨を弔う人も多くなったという。
興亜観音にある「七士之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は元総理・吉田茂氏の筆によるものである。
観音像は、昭和15(1940)年2月、時の親中派の陸軍大将・松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を「怨親平等」に、ひとしく弔慰、供養するために建立されたものだという。
「興亜観音」は熱海市から伊東市へ向かう海岸道路ぞいの興亜観音というバス停から、急峻な坂道を上って20分ほどのところ、豊穣な緑の放つ香り高く濃密な空気が支配する場所という。
更に又、昭和35(1960)年8月16日には、愛知県幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」が建立せられて盛大に墓前祭が行われた。
そこに埋葬された遺骨は、三文字氏、林逸郎氏等によって発起されたものであり、明らかにこの興亜観音にある骨壷から分骨したものであるという。
碑は、日本の地理的中心地であり、太平洋、そしてその向こうのアメリカに向けられ建っているという。
墓中の魂は、戦後60年の間変わり往く日本の姿をどのように見つめていたのだろうか・・?。
次のことは私観だが・・、
仮に東京裁判を良しとしよう、A級戦犯といわれる諸士の執行を良しとしよう。
しかし事後の処置、処遇に関しては特に、サンフランシスコで講和条約が整った後は、完全に国内の公の問題であろう。
先の戦争で犠牲となった人々を慰霊する中心施設として「靖国神社」がある。
A級戦犯とされる「殉国七士」も同様に祀られているのは周知であるが、現在の日本の姿を思うとき、戦争で犠牲となった人々の上に成り立っている事を忘れてはなるまい。
遺族、関係者の他にも国民及び、国民を代表する現代の人々は、こぞって靖国神社にお参りすべきであり、例祭においては追悼の行為をしなければならないのである。
60年以上経た今日、特定国がA級戦犯だ・・!、靖国参拝だ・・!と非難し問題視しているようだが、それはそれとして、このことは国内の公の事柄である。
日本的原理原則に基ずいて、日本の先導者達は国外的にも、国内的にも毅然とした態度で処理し、決して政治の道具にしてはいけないし、されてもいけない事なのである。
三ヶ根山の頂きに眠る「七士の霊」は、当時の極限状態であった日本を導いた因果について遥かに遠く、眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求しているのであろう・・?、
これは現世の日本国人にも必要なことで、併せて、この事は歴史を学ぶことであって、遠い過去のことを同じ民族として糾弾することではないのであろう・・?。
いずれにしても戦争(集団的殺戮の争い)は永遠に避けたいものである。
次は、吉良の「刃傷事件」
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