google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」

2010年10月3日日曜日

日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」

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 日本周遊紀行(15)清水 「清水次郎長」 


真下といっていいほど、左手に駿河湾の紺碧がキラキラ揺れている。
間もなく清水へ入った。
清水港は近代的な築港埠頭が並ぶ。 

往時の清水港は、「三保の岬」が港の近くまで突き出ていて美観を呈していたという。
そして、ここに稀代の侠客・・?が現われた。 

その名は『清水の次郎長』という。

♪♪~~旅ゆけば~、
駿河の国に茶の香り~、
名大なり東海道、
名所古跡の多いとこ~、 
中で知られる”羽衣の松”と
並んでその名を上げし、
海道一の親分は~、
清水港の次郎長~~♪♪


御存知、お馴染みの、(否・・?今の若い人は、あまり御存知でも、お馴染みでもないかもしれないが)初代・広沢虎造の「清水次郎長伝」、サワリ(唄い出し)の一節である。

小生家族、子供が未だ小さかった頃(小学以下・・)、車で旅行などに出掛ける時に、退屈しのぎに清水次郎長伝・ 「石松金比等羅代参」や「石松三十石船」などの長編カセット一式を持って、聞きながら道中を行くのである。 

はじめ子供達は「なんだ、このペンペン・・、つまんないよ・・」と言いつつ、知らずのうちに聞き始まり、うるさかったのが静かになって、やがて聞き始まっていた。 
そのうちうる覚えに覚えてしまって、一緒になって唄いだす始末である。 
遂には、車で出かける際には「お父さん、例のカセット持った・・?」などと催促されるまでになってしまったのである。

特に、子供達の評判が良いのは、やはりこのあたりであった。

石松金毘羅代参の一節・・、

森の石松が、親分・次郎長に人を切って穢れた刀を讃岐(四国香川)の金毘羅さん(金毘羅神社)に代参として納めるように頼まれる。 そして、無事に讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めることができた。 勤めをすませて大阪へ戻り、八軒家(今の天満橋あたり)から船に乗って、好きなお酒を飲みながら京都伏見までの船旅となる件(くだり)となる。 当時の川船が、所謂、三十石船で、この船中の乗合衆の話がが表題になっている。 

そして、石松と船客の会話では・・、
石松: 「呑みねえ,呑みねえ,鮨を食いねえ,鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子: 「神田の生まれよ」
石松: 「そうだってね,そんなに何か,次郎長にゃいい子分がいるかい」
江戸っ子: 「いるかいどころの話じゃないよ、千人近く子分がある中で、代貸元をつとめて、他人(ひとに)に親分兄貴と言われるような人が二十八人、これをとなえて清水の二十八人衆・・この二十八人衆のなかに、次郎長ぐらい偉いのがまだ五,六人いるからねえ」
石松: 「ほう、呑みねえ、呑みねえ、鮨を食いねえ、鮨を・・、もっとこっちへ寄んねえ、江戸っ子だってねえ」
江戸っ子:「神田の生まれよ」

  ・・・・


浪曲は心の故郷、大人の子守唄」とも言われ、昭和の良き時代は浪曲(浪花節)全盛であった。 中でも「虎造節」とまでいわれた。 「清水次郎長伝・ 石松金比羅代参」は一世を風靡したのである。


ここで浪曲の事を語るつもりは無いが、清水が生んだ清水次郎長のことである。

清水次郎長は1820年1月1日、静岡県清水市の船頭の家に生をなし、長五郎と名付けた。 後に山本家に養子にゆく、そして、次郎長と呼ばれるようになった。 当時、元旦生まれの子は、よほどの偉人か、悪人になるという言い伝えがあったようであるが、確かに次郎長は生涯の前半はヤクザの親分として森の石松代参事件や吉良の仁吉の荒神山の争いなど、虚実おりまぜて語られてきた。 遊侠の徒、裏街道の人性としては「悪人」(悪い人の意味ではない)の部類に入るかもしれないが。


「荒神山の血煙」を終え、次郎長が東海の大親分となったとき、時代は大きな転換期を迎えていた。
幕末動乱期、官軍は東海道を上り江戸の総攻撃をもくろむ。 江戸城城代「勝海舟」は、それを阻止すべく側近の「山岡鉄舟」に密書を授け、官軍総督・西郷隆盛の元に派遣する。 この鉄舟の道中の護衛役を次郎長が果たしている。 江戸戦争回避に一役かったのである。 

以降、次郎長は山岡鉄舟によって苗字帯刀(武士の身分)を許され、この東海道の取締方に任ぜられてる。
次郎長はその後、咸臨丸事件の収拾や維新後の清水の発展に多々貢献をする。 
三保の新田開発、巴川の改修(次郎長生家のすぐ前)、油田開発、英語学校の設立、又回船を蒸気船にし、海運会社の設立等。
中でも有名なのは茶畑の開墾事業である。 これには、次郎長自らも鍬をふるい、昔の子分衆たちも次郎長を慕って集まり、一緒に原野を耕してたという。 そして全国の家庭に、そのお茶が届けられている。
このように後半生は偉人としてその名を残しているのである。


因みに、咸臨丸事件とは・・、

戊辰戦争もほぼ終結し、官軍勝利におわった。 
品川沖に集結していた咸臨丸をはじめ幕府艦隊はこれを嫌って脱走してしまう。 咸臨丸は途中故障し損傷して脱走不可能と判断され清水港へ入った。 追手の新政府の討伐隊は清水港の咸臨丸めがけて攻撃し、斬合いが始まり、あっけなく勝負がついた。 政府軍は艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。 
討伐隊が去って数日、港は死臭で耐えられなくなったという。 討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。 賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされ、付近住民は暫くは誰も恐れて手を下さなかったという。 清水次郎長は港内各所に流れついた死体を夜になって集め、こっそり無縁墓地に葬ったという。

死体収容にあたり、次郎長は
『 人の世に 処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ、若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや 』(生きている間、賊や敵であっても、死んでしまえば罪は全て消え失せ、皆んな仏様よ) と言ったと言う。

後に、山岡鉄舟がその志に感じ入り「壮士墓」と書いて与えたという。
清水の次郎長が人を引き付けるのは、前半生の侠客としてであろう。 義理と人情の世界に生きた人間味溢れるところであり、日本人の原点がここに見出せるからであろう・・? ここが講談や浪曲によって語られ、表現されている所以であろう。


昨今、大衆娯楽芸能で漫才や落語はもてはやされているが、残念ながら、講談や浪曲は下火のようである。 
誰かが言っていた。
「浪曲は忘れられている。かってあれだけ誰もの心をとらえ、鼓舞し、われわれ日本人の中にある『にっぽん』を作り上げてきた。その途方もない力をなぜかみんなきれいさっぱり忘れている。浪曲に対して、われわれ日本人は恩知らずである」・・と。


明治26年、74才で大往生をとげた次郎長は大政小政たちと一緒に、市内・梅蔭寺に眠ってる。 
境内には、次郎長愛用の品々を展示する記念館もある。 現在、市中には「次郎長通り商店街」があって年に一度の「次郎長祭り」に、この商店街を次郎長一家28人衆が練り歩くという。 
ごく近くに梅蔭寺がある。

平成15年(2003年)4月1日、清水市は静岡市と合併し、新静岡市として吸収されてしまった。 
清水市としての由緒ある名称が又一つ消えてしまたのであり、御大・清水の次郎長は、妙にも「静岡の次郎長」に成ってしまったのであろうか・・??。


旅姿三人男

1 清水港の名物は        2 富士の高嶺の 白雪が
  お茶の香りと 男伊達        溶けて流れる 真清水で
  見たか聞いたか あの啖呵     男磨いた 勇み肌
  粋な小政の 粋な小政の      何で大政 何で大政 
  旅姿                  国を売る

3 腕と度胸じゃ 負けないが
  人情からめば ついほろり
  見えぬ片眼に 出る涙
  森の石松 森の石松 
  よい男
 
次回は「三保の景勝

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01. 15.

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