日本周遊紀行(132)厚木 「戦国大戦」
戦国期、有名な「三増の合戦」について・・、
厚木には「信玄道」、「甲州道」という甲斐・武田信玄に因んだ歴史的な街道の名称が存在する。
東海道・平塚より厚木岡田に入り、小生在住の妻田・荻野等を過ぎ、半原(愛川町)より長竹、津久井から甲州街道に達する。
又は、中依知の追分で三増峠(愛川町)を過て長竹から津久井、甲州街道に達する。
いずれも現在の厚木市街を南北に貫く国道129号線、412号線に沿って愛川町、津久井町から甲州へ至る道で、俗に「信玄道」と呼んでいる。
永禄12年(1569)、武田信玄が関東から小田原の戦役より帰陣の時・・、『 此道に至れり・・、』と「甲陽軍鑑・小田原記」などに記載されている。
長竹、串川付近の「信玄道」は、かながわ古道50選でもある。
戦国期、「甲相駿三国同盟」といわれた甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川氏真(いまがわうじざね)の同盟は、永禄11年(1568)の信玄による駿河侵攻によって崩れ去った。
信玄は今川氏真を駆逐した勢いで、関東のほぼ全域を支配している北条氏康・氏政父子と戦うため、永禄12年9月、全軍、大迂回路をとって上信国境の碓氷峠を越えて上野(こうずけ:群馬)に入った。
北条領の北武蔵である武蔵・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(東京都八王子市丹木町)に北条氏照を攻めた。
しかし、両城とも守りが堅く落城することなく、その後信玄は北条氏の本城である小田原城へ
向かい包囲した。
因みに、小田原城では、7年前の永禄4年(1561)に越後・上杉謙信の11万の大軍が約1ヶ月に及んで攻撃し、攻め立てたが北条勢の籠城作戦でこの危機を乗り切っている。
愛川町三増にある「信玄の旗立て場」の標
「三増の合戦」・・
北条氏康・氏政親子はこの城の堅固さを活かし、同様に徹底した籠城策をとり出撃はしなかった。
攻めあぐねて数日を費やした武田勢は、ついには力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
撤退は一端平塚へ戻り相模川を北上しながら、途中難所の三増峠越え(現、愛川町三増)が有った。
武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟らは、武田方とほぼ同数の軍勢で小田原城の後詰として出兵し、撤兵する武田勢が退路として三増峠を通ることを知って、先回りして奇襲攻撃の計画を立てたのである。
10月6日の朝、武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が、武田勢に対して一斉攻撃を始めた。
ここで合戦となり武田軍は苦戦しながらも、信玄は頂上近くの平坦地で陣形を立直し、両軍が激突する。(現在、愛川町三増に「信玄の旗立て場」の蹟碑がある)
武田勢の第一陣は馬場信房、第二陣は武田勝頼、さらには内藤昌豊らという錚々たる陣容であり、北条勢は裏をかいたつもりだったが、実は裏をかかれていたともいわれる。
つまり、待ち伏せの兵がいることを知った武田信玄は予め2万の軍勢を3隊に分け、別働隊である山県昌景率いる5千の軍勢で志田峠の道を進ませ、北条勢の攻撃を知るとすぐに引き返し、これが遊軍となって北条勢に襲いかかったのである。
この予期せぬ奇襲に北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。
籠城軍として控えていた氏政軍が、その後追撃軍として参戦したが、荻野地区まで到着した時、既に勝敗は決していた。
信玄は北条氏との最終決戦を避け、追いすがる敵を振り払うように峠を下り、その日の夕方には津久井の道志川上流に着き、野営をし翌日に甲府に戻っている。
この「三増の戦役」で北条軍犠牲者は3200余人、武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。
それでも、小田原まで攻めておきながら決戦を避けたのは、この時の出陣は単なる牽制が目的だったともいわれる。
又、武田軍が関東大遠征の長距離間を苦戦したとはいえ、大きな損害も無く帰陣できたことは一応の成果があったものと言われる。
この戦いのとき、殿軍(しんがり)を引き受けた武田方の軍将・浅利信種(武田四名将に次ぐ重臣)が戦死している。
余談ではあるが・・、
北条・武田氏による三増合戦の際、逃げのびた武田勢が中津川の川音を海鳴りに聞こえ、眼下のそば畑の花を白浪と見間違え、彼らは敵地真っ只中の相模湾に出てしまったと思い込み、その場で自刃してしまったという。
しかし、波に見えたのは実は「蕎麦の花」であり、以来、その村(棚沢、睦合)の人たちは彼らの死を悼んで、ソバを作らないことにしたという伝説が伝わる。
自害したとされる地に通(つう)ずる道。
その後、1590年(天性18年)北条氏政・氏直親子は小田原合戦にて豊臣秀吉に降伏し、小田原城を開城し、戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。
以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。
荻野山中藩・・、
大久保忠世から5代目の大久保忠朝(大久保忠隣の孫、老中・藩祖忠隣の領地であった小田原への復帰を果たす)の次男大久保教寛が小田原藩大久保氏の支藩として相模愛甲郡、高座郡などを有し、1万3000石で厚木荻野地区に「荻野山中藩」が成立している。
荻野山中藩は、小生宅のすぐ近くの新国道412号線沿いにあって、現在は小さな城址公園となっている。
園内に「山中城址」の石碑と「荻野山中藩陣屋跡」の碑が残されている。
幕末の慶応3年(1867年)12月、尊皇攘夷を唱える倒幕派の薩摩藩浪士31名は下鶴間村に一泊し、矢倉沢街道沿いのお寺や豪農に押し入り金品を強奪し、荻野山中藩陣屋を襲撃し焼打ちした。
小野路町の小島家の日記に『 昨夜浪士荻野山中陣屋を焼打ちいたし、武器類不残(のこらず)奪取(うばいとり)候由ニ御座候 』と記した記録が残っているという。
陣屋は消失したが、市内王子の福伝寺に遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。
この襲撃事件は、翌年勃発した「戊辰戦争」の原因の一因ともなり、日本の歴史は明治維新へと大きく変革していくことになる。
そして、この荻野の地からも、新時代への変革の炎は野火のように大きく広がっていったのである。
次回は、「厚木・毛利氏」
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