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日本周遊紀行(130)川崎 「川崎の街道」
川崎は橘樹郡・・?、
アクアラインの海底トンネルを抜けると、川崎市の浮島JCTに到る。すぐ北側には東京都・神奈川県境である多摩川が流れ、河口の都側には羽田空港が隣接している。
川崎市・・、
この多摩川より南の沿岸地帯はかの有名な京浜工業地帯、或いは臨海工業地帯などと言われる石油コンビナート、重化学工業などの大規模な重工業地帯となっていて、昭和30年代の高度経済成長と合わせて大いに発展した。
しかし、この時期「川崎公害」という高濃度の大気汚染や環境基準を上回る二酸化窒素(NO2)などによる大気汚染が、長期にわたり沿道の生活に大きな影響を及ぼしたとして、公害訴訟なども起きている。
一般に川崎というと、このような産業、工場地帯をイメージを抱かせるが・・?、
川崎市は、都県境の多摩川に沿って横浜市の北側、西部多摩地域の山域まで、東西に細長く広がる市域で、実は大部分の地域は緑の多い丘陵地、田園地帯が占めているである。
ところで「橘樹郡」というのをご存知であろうか・・?、「たちばなぐん」という。
現在の川崎市域を見渡しても「橘樹」という地名は、行政上の地名としては一切見当たらず、僅かに地域の個々名か学校名で「橘」という字が見えるのみである。
ただ一ヶ所、橘樹神社(たちばな じんじゃ)という名称で川崎市高津区子母口(旧武蔵国橘樹郡)にある神社にその形跡が残されていた。
そしてこの神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祀っている。
大化の改新(710年)によって、現在の川崎市域は「武蔵国 橘樹郡」として、大和朝廷の任命した国司が治めていて、通称、橘樹(たちばな)と呼ばれていた。
克っての武蔵国・橘樹郡(たちばなぐん)の範囲は概ね、現在は川崎市(川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域および麻生区の一部)および横浜市の一部(鶴見区、神奈川区の全域および西区、保土ケ谷区、港北区の各一部)になっていたとされる。
その呼称は、近代の昭和初期まで存続していたのである。
尚、武蔵の国の国府・政庁は、「府中」にあった。
郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられてる。
その近くに、今も鎮座しているのが弟橘媛を祀る橘樹神社なのである。
橘樹郡の郡名の起こりについても、「新編武蔵風土記」に興味深い記述がある。
『 橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり、郡名の起りは其正しきことを聞す「古事記」及「景行記」等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后(きさき・皇帝や王侯の妻)の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしならんと云説あり、今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛の墓といへるもの、もし是なりといはんか、今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、』・・とある。
富士見台古墳は橘樹神社の裏手の丘にあり、前述のとおり弟橘媛陵であるとする説がある一方、この古墳は 6世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。
ここ富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められている。
かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘であった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部、高さ 3.7m、直径 17.5m の部分のみが姿を留めており公園として管理されている。
その頂から見える風景も、今は宅地ばかりが続く光景となっている。
尚、日本武尊(日本書紀表記、古事記では倭建命)と弟橘媛に関しては、千葉・「木更津と袖ヶ浦」の項でチョッと詳しく記載してあります。
千葉県・木更津
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-954.html
太古の川崎には、既に北西部の丘陵地帯に人が定住していたらしく、黒川地区などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されているという。
当時の多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだといわれる。
7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか・郡の府)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。
何れにしても、当時の川崎の政経上の中心は中原区、高津区辺りの現在市域の中央部にあったことが想像されるのである。
江戸時代になり事実上の首都が江戸に移ると、川崎は京や甲州と江戸を結ぶ交通の要衝となった。
西から津久井街道、大山街道、中原街道、東海道、これらの道路を横断して結ぶ府中街道などであり、これらの街道が市域の縦横を走る。
「津久井街道」は川崎西端部の登戸から西へ、生田、柿生(かきお)、鶴川に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方、甲州に至る道である。
この街道は甲州街道の脇街道でもあり、津久井・愛甲(津久井、半原は養蚕の盛んな地であった)で産した絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」とも云われた。
「大山街道」は、多摩川を渡り二子、溝口を経て多摩丘陵、厚木、大山の麓の伊勢原、足柄峠を越える。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれて、古くから大山詣りの道として知られ、主に現在の国道246号と合致している。
「府中街道」は、川崎市域を縦断するかたちで東京都東村山市から府中市を経てJR川崎駅に達する道路のことであるが、多摩側では「川崎街道」、川崎側では府中街道と呼んでいる。
中世の頃までは川崎を含む武蔵の国の国府(東京・府中)と橘樹郡の郡衙が置かれていた高津を結ぶ道路としてその名が付いたとされる。
「中原街道」は、小杉から東海道の平塚宿場へ到る。平塚には中原という所もあり、ここからほぼ真っ直ぐに川崎の中心・小杉を通って江戸へ延びているのが中原街道である。
現在では県道丸子・中山・茅ヶ崎線と呼ばれている。中原街道は武蔵国と相模国を結ぶ街道としてかなり古くからある道で、少なくとも中世には使用されていたらしい。
江戸期に入って東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸-平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。
東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用したのであるが、かの赤穂浪士達も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。
小杉(現在の川崎市中原区小杉御殿町)と平塚中原に御殿が作られると、将軍の駿府との往復の際や鷹狩の際などにも利用されたという。
さて、御存じ「東海道」であるが・・、
古来より五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ日本の中で最も重要な街道となった。
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は53箇所(東海道五十三次)で、当初は、主に軍用道路として整備されたらしい。
宿駅は53箇所のうち、江戸より2番目が「川﨑宿」である。(1番目は品川宿)
東海道を上る旅人が昼食や休息をとる場として、また、江戸より下る旅人にとっては六郷の渡しを控えた最初めの宿泊地としてにぎわった宿場町である。
川﨑宿より、自然に拓かれたのが「大師道」で、厄除けで知られる川崎大師に至る道である。
古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、徳川11代将軍家斉が江戸後期に公式参拝してから、一層広く信仰されるようになったという。
引続き川﨑・「堀の内」
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