2015年1月15日木曜日

新・日本紀行(7)下田 「露使・プチャーチンと北方領土」 


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 新・日本紀行(7)下田 「露使・プチャーチンと北方領土」 




http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/Putyatin.jpg/200px-Putyatin.jpg




http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Shimoda/Peri_Hi.jpg
プチャーチンが宿所とした宝泉寺(写真左)、 プチャーチンが使用していた机と椅子が今も残されている(写真右)。



http://www.nippon.com/ja/files/g00094_ph05.jpg
記念碑



 http://livedoor.blogimg.jp/stakeid/imgs/4/e/4eb4fff3.jpg










「ロシアと北方四島」

ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節・プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。
日米和親条約締結の話を聞きつけ、ロシアも日本と通商を求めるべく來日したもの。

同年、幕府役人との数度による交渉の結果、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 
この日露和親条約が日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたことで、この日を以って北方領土の日(2月7日)として設定している。



因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである。
長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない。
その返還については日本の長年の悲願である。

北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことである。
昨年(2005年)10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。
これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 


「蛍の光と北方領土」

ところで、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、「北方領土」のことも歌詞にあるのは大方は判っておらず、まして、最近はあまり歌われていないようである・・?。

この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられている。 作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるが、元々はスコットランド民謡である。

明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となったという。
歌詞の舞台は異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。

大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。

現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。 三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。


以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。
前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない。


蛍の光』詞:稲垣 千頴  スコットランド民謡
                    
蛍の光  窓の雪               
書(ふみ)読む月日 重ねつつ        
いつしか年も すぎの戸を          
開けてぞ今朝は 別れゆく          

止まるも行くも 限りとて
形見に思う 千万(ちよろず)の
心の端を 一言(ひとこと)に
さきくとばかり 歌(うと)うなり
               
筑紫(つくし)の極み  陸(みち)の奥     
海山遠く 隔(へだ)つとも          
その真心(まごころ)は 隔てなく       
ひとつに尽くせ 国のため


千島の奥も 沖縄も* 
八島のうちの 守りなり
到らん国に 勲(いさお)しく
努めよ我が背 つつがなく


※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。

この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。
幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。
しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある。 

「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。
「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう。 
戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。

日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである。


尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 
イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。


次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。
「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 
一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。

東晋の時代(とうしん;3世紀、中国の西晋王朝に対して江南に建てられた王朝で、西晋に対し史書では東晋と呼んで区別している)の車胤(しゃ いん;東晋の官吏)は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 
同様に、同じ頃の孫康(そんこう;東晋から劉宋にかけての人物・官吏)は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。
そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。



尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。
津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 
長楽寺は了仙寺の近くに在る。
詳細については西伊豆・「戸田」(へた)の項で記載します。



次回は伊豆南端:石廊崎







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