2012年7月2日月曜日

日本周遊紀行(37)函館 「函館開港」

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 日本周遊紀行(37)函館 「函館開港」 




函館山の砂洲に出来た函館市街(函館山より)




♪♪ はるばるきたぜ 函館へ
   さか巻く波を のりこえて

   ・・・・♪♪


大間から船で函館へ向かうとき、蝦夷大陸の手前に気高く大きな島が見て取れる。
実は、これが「函館山」である。 
船が次第に大陸に接近し西側を回る頃になると、この島が陸と繋がっている大陸の一部であることが判る。


函館」の街は、函館山はとつながる陸繋島(砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)である函館半島から、七重浜方面・亀田平野方面・横津岳山麓方面・湯の川方面に展開している。


函館は深い入り江のある扇を開いたような地形のため、俗に「巴港」とも呼ばれる天然の良港として栄えた。
市章にも「一つ巴」が採用されている。 

北海道の表玄関として、まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃から漁業(港湾)、各地との貿易、海運によって発達した町で、江戸期には「高田屋嘉兵衛」が拠点とし、蝦夷交易の場として栄えた。 
松前藩の役所が置かれ、蝦夷地が天領となると幕府の奉行所も置かれていた。





それ以前の函館は・・、
中世室町期の15世紀、津軽半島に根拠をもっていた豪族・安東氏が南部氏に敗れ、安東政季に従って来た重臣・河野政通らが蝦夷地に渡来してきた。
当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「」を築いたのが始まりとされてる。 

「宇須岸(うすけし)」河野館」といわれ、現在の亀田地区・市立函館病院あたりで辺りで、この「河野館」を遠くから見ると「箱」に似ていたところから、「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となったという。


16世紀初、アイヌを見張る前線基地であったが、その「アイヌの反攻」で一族が敗れたため、和人は亀田地区に移り、その後、箱館は以後100余年にわたって歴史の舞台から沈黙している。


明治の開拓時代・文明開化の明治2年、蝦夷地を「北海道」と改め、箱館を「函館」と改称されてから函館の近代史が始まる。



江戸末期、アメリカの使節ペリーが、軍艦4隻をひきいて浦賀(神奈川県)に入港し開国を要求するのは幕末の1853年である。 
国内は、開国か鎖国かでゆれ動き、次の年の1854年ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田・函館の二港を開いてアメリカ船に食料や燃料を与える約束をする。 
この時期幕府は、同時にロシア・イギリス・オランダとも和親条約を結んでいる。
これにより箱館は近代日本初の国際貿易港として世界に開かれ、この条約は日本初の不平等条約でもあったが、約300年も続いた幕府の鎖国政策は終わり、北方警備を目的とする箱館奉行所が置かれた。


ペリー艦隊が箱館港に入港した時は、24日間も滞在していたという。 
開港の結果として、日本の他の地域に比べて、外国の影響を早くから受けることになり、函館は外国人の目に映った幕末・明治初期における日本の地方都市の一典型として、文筆やスケッチ、写真で数多くの記録が残ることになった。


ペリーは、外国人として歴史上最も早く港湾としての函館の優位性と重要性を認識し、かつ膨大な記録を残した人物でもあった。 
彼が後年に編んだ「日本遠征記」は、相当の紙幅を費やして、それまで多くを語られることのなかった、日本中でも僻遠の地・蝦夷にあるこの港のことを、かなり具体的に描写している。 

『 その入港し易いこととその安全さとに於いて世界最良の港の一つたる広い美しい箱館湾は、日本諸島をば蝦夷と日本とに分かっている津軽海峡の北側に横たわり、又日本本島の北東端尻屋崎と松前市との中間に横たわる。箱館湾は尻屋崎の西北二分の一西にあたり、距離は約45マイルで、入り口の幅は4マイル、奥に湾入すること5マイルである。』 



ぺりーは、当時の欧米や世界へ発信できる、数少ない日本に関する情報源であった。 
ペリーは、シーボルト著の「日本」やゴロウニン(ロシアの海軍士官、幕府は蝦夷地を荒らしたロシアへの報復として、海軍少佐ゴロウニンを拿捕した。
その時の記録が日本幽囚記である)の「日本幽囚記」なども熟読していたという。 

又、英国から日本付近の海図を入手していて、米国の捕鯨船の停泊地としての地理的優位性として箱館が絶好の位置にあることを、あらかじめ了解していたようでもある。


本州北端の尻屋崎沖を回って津軽海峡へ入ってから、まずは屹立した山・函館山を独立した島と見ていて、その後、西側から回り込むにつれてその島が実は細長い地峡をもって背後の陸地と繋がっている様を実際に目の当たりにした時、ペリーと彼に随った乗員たちをある種の興奮が襲ったという。

当時の列強の海軍関係者が、等しく模範的な軍港と見做してきたヨーロッパのジブラルタル(イベリア半島の最南端に位置する。領域は半島になっており、地中海に面し、陸地側はスペインに接している)との類似が躊躇なく語られているのは、そうした最初の感動が多いにあずかったという。


「日本遠征記」は更に、『 同町は一千戸以上を擁し、その大部分は海岸付近に一本の本通りとなって続いているが、その他は平行した二三の街路を形成し、坂となって背後の丘を昇っている。艦隊内にあってジブラルタルを訪れたことのある程の者は悉く、その位地といい概観といい,函館がかの有名な軍港町と似ているので驚いた。孤立した丘があって、その麓や斜面には家屋が建っており、ジブラルタルの岩山のようであった。』とも記している。 


しかし実際は、函館は軍港としての役は果たさなかった。
その代わり「商港」としての充分なほどの役目を成すのである。




欧米文化の影響を直接受け、町並みや建物に今もその面影をとどめ、特に函館西部地区の元町周辺は開港当時から栄えた所で、各国の様式を備えた教会・旧領事館・石畳の坂道と、これらが醸し出す風情はエキゾチックなムードを漂わせている。

また、明治維新における函館戦争の歴史の跡々、北洋漁業の策源地(前線の部隊に必要な物資を供給する後方基地)にみる伝統などが、それら外国文化の名残と有機的に交錯され函館独特の街が形造られているのである。



この砂洲で出来上がった亀田半島の西海岸に「函館駅」があり、歌にも唄われた「函館本線」が、道内一の400kmにもおよぶ遠距離が小樽駅、札幌駅を経て「旭川」まで延びているのである。

函館駅の次の駅「五稜郭駅」からは江差線が西へ延び、一部、津軽海峡線・青函トンネルを介して本州へ繋がっている。 
五稜郭駅の東方1kmのところに、函館最大の名所である「五稜郭」がある。



次は、引続き函館・「五稜郭、他」





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