google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 3月 2010

2010年3月31日水曜日

日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」

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日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」


アイヌと和人の最後の戦い・・、そして「アイヌ」は・・?、

国道235は沿岸地を北西に進む、日高本線・「日高三石・ひだかみついし」駅を右にみて、次の「春立・はるだち」駅付近からはすでに静内町である。

静内町は周辺の町と同様大部分は日高山地の領域に属するが、町並みは太平洋岸から内陸へ静内川を中心に発展しているようである。 
日高支庁管内のほぼ中央に位置し夏は涼しく、冬は雪が少ないため道内では最も気候の温和な地域と言われる。 その気候風土と恵まれた自然環境から「北海道の伊豆」とも称されている。
現在、静内も同様に近隣の三石町、新冠町と合併協議が進んでいるらしい。

住み良い町「静内」は、やはり古代から住人は在ったようで、既に約9000年も前から石器や土器を使った人達が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されている。 その後も紀元前後の縄文時代から、古墳(飛鳥)、奈良、平安時代へと移りかわり鎌倉、室町時代にはアイヌ文化になっていたといわれる。

ただ、北海道には時代の経過とともに独特の文化が栄えたことで知られるが、同一民族が同一文化を継承したとは一概にいえないともいう。 それはアイヌ民族は記録を持たず、文化の変遷にともなう民族の存亡や移動の記録、伝承がまったく観られないからだと・・。 
そのアイヌ達は樺太(サハリン)、千島、北海道、そして東北北部に暮らしていたことが確認されている。 

この「静内」も、昔からアイヌコタンが沢山あり豊かな大自然の中で狩猟、漁労、採取を中心に独自の生活を営み、様々な生活の知恵と風俗、習慣、言語、信仰を受けつぎ、自由で豊かな生活が営まれてきた地域である。
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味である。



江戸時代も後期の頃、静内(シベチャリ)川で砂金が採れるようになり、これを目的に内地から和人が住み着くようになり、和人の移住が増えるにつれて利権等が絡むようになり、アイヌ人との衝突も起こり易くなった。 
こんな時期に道内でも最大と言われるアイヌ民族の存亡をかけた「シャクシャインの戦い」が勃発するのである。


『シャクシャインの戦い』

1669年(寛文9)頃、日高から釧路に及ぶ地域集団の総大将である「シャクシャイン」を中心に松前藩の収奪に抵抗しておきた近世最大のアイヌ民族の反乱であり、静内町(しぶちゃり)を拠点として増毛から白糖にいたるアイヌがいっせいに蜂起した事件である。

松前藩はアイヌに対する交易の独占化をはかり、アイヌ自らの自由交易を禁止したのと合わせて、和人による不正な相場による取引が後を断たなかった。 藩は交換レートは今までの数倍にも引き上げた。当然、アイヌ人達は松前藩や和人商人に対する不満が高まった。 アイヌは「シャクシャイン」を中心とし、蝦夷地・樺太・千島に居住するアイヌウタリ(同胞)に決起を促し、アイヌの国に入り込んできて権益を貪る和人達を殺し食糧を確保して松前へ攻め入り、和人を撃退してアイヌの国を取り戻そうと呼びかけた。 呼びかけに応じ、石狩・宗谷・利尻などの一部地域を除く殆ど全道に及ぶアイヌがいっせいに蜂起し、殺害された和人の数は太平洋岸で120人、日本海岸では240人に達したといわれる。

アイヌの攻勢を攻めあぐねた松前藩は、1669年(寛文9)10月、和義を結ぶという理由で酒宴を開いた。 シャクシャイン以下74名のリーダー的アイヌ人は武装を解いて藩側の陣営を訪れ、宴席が盛り上がったところで全員が松前藩によって謀殺されたという。
騙まし討ちであった。

この乱の結果以降、松前藩は蝦夷地に勢力をひろげ、アイヌ民族に対する政治的・経済的支配をますます強めた。 また武器を取り上げ、鉄器の流入を制限してアイヌ民族の抵抗力を奪い、隷属化するようにした。 
この戦いをもってアイヌ民族の悲劇が始まり衰亡、根絶へ向ったともいわれる。



静内川(シベチャリ川)流域には16世紀から18世紀に遺された「アイヌの遺跡」が5箇所ありこれは国指定史跡として保存されている。 

シベチャリチャシ跡、ホイナシリチャシ跡、メナチャシ跡、オチリッチャシ跡、ルイオピラチャシ跡などがある。 チャシ(アイヌ語)とは 一般には「砦」・「城」と訳されているが、言葉から連想するような強固でしっかりとしたものではなく、元来あった自然地形を利用して築かれた簡便なもので、丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、地上を地ならしして柵や見晴らしなどを施したものが多い。 北海道および東北諸県に五百近い址が残存しているという。

次回は、引き続き静内の「開拓期」



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2010年3月30日火曜日

日本周遊紀行(76)日高地方 「三石」

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日本周遊紀行(76)日高地方 「三石」


次は「三石町」で、同様の沿岸国道235沿いに「道の駅・みついし」がある。

ここを過ぎてT字路を右へ、日高本線の本桐(ほんきり)駅を左に見ながら、川の東方に「信田牧場」がある。2003年頃に大ブレークした有名馬「ハルウララ」の出身地である。 因みに、先に紹介した「シンザン」とは好対照の位置にいる馬である。 

ハルウララは1996年2月牝馬として生まれた、
その後、遥か遠い南国の日本一小さい高知競馬場の厩舎へ入る、調教師は宗石 大氏。 1998・11月デビュー戦、結果は5/5着、以下5/6, 6/6, 5/7, 6/9・・、と負け続ける。 その後も走りに走って、2003・12・14には遂に100戦目を迎える、結果は9/10着であった。

ハルウララは上記のように一度も勝ったことのない競走馬である。 
高知競馬・宗石 大・厩舎(きゅうしゃ)に所属する7歳牝馬(ひんば)は、デビューして以来今年2004・2月のレースまで連敗を続けて2着は4度、3着も4度はあった。 5着までに入れば賞金がもらえるが、ただし、ハルウララが出走できるレースはレベルの低い下級戦で賞金も安く、これまで稼いだ賞金の合計は100万円そこそこにしかならない。
2004・3・22中央競馬界の有名騎手「武 豊」が第106戦にして特別騎乗、結果は10/11でやはり惨敗に終わった。

ところで同時期、富士テレビ系の朝の番組「とくダネ!」の小倉智昭氏のオープニングトークで高知競馬の「ハルウララ」のことを取り上げ、90連敗以上しているこの馬に親愛の情を込めて語っていたのである。 
此れがきっかけに視聴者から問い合わせのメールや電話が鳴りだし、マスコミ等でも注目をされ始め、負けを重ねるごとに人気が急上昇し、100戦目が1回目の話題のピーク、106戦目が2回目のピークであったという。 
負け続けることで人気を得た「ハルウララ」は、出走するレース毎に馬券の売り上げは伸びたという。単勝馬券を「御守り」として買う人も現れ、1着になることがないので単勝馬券は「当たらない」、だから「(車)に当たらない」というので「交通安全」のお守りになったともい・・?。 又、いつまでも走る姿にあやかった「リストラ除(よ)け」や、長期間、長距離走っても怪我や故障をしない丈夫さで「無病息災」の縁起を担ぐと。


勝てなくても個性があればファンは集まる。 
しかし、長い競馬の歴史の中にはハルウララを超える「大物」がいたともいう・・!。  

いみじくも「武 豊」騎手が第106戦に特別騎乗後曰く、『ハルウララについてはあまりにも異常な騒がれ方で正直なところ辟易としています。競馬をよく知らない一般の方の話題になって、盛り上がることについては大いに歓迎なのですが、生涯で一度も勝ったことがない馬がGIレースを勝った馬達よりも注目を集める対象になるというのは、どうにも理解し難いものがあります、

又、信田牧場関係者や地元の人は、『ハルウララ人気が盛り上がって高知競馬にとっては明るい話題ですが、この馬が三石産というのがどうも、 生産者のところへも取材が来ているが複雑な気持ちです。 活躍馬ということでの取材なら大喜びでしょうが、百戦もして勝てない馬の生産者といわれては立つ瀬がない。 生産者にはあまり関係のない話ですから、なるべく触れないでもらいたいきもちです・・、』と。

それにしても馬主さんも「ハルウララ」とは、おおらかな名前を付けたものですよね・・!!。 
日本競馬史上、最も弱い馬が、大ブレークして、最も有名な馬になってしまったのだから。

育ての親の調教師・宗石氏は体の小さな彼女と初めて出会った時、「ゆっくり育ててやるか、みんな大切な命、春のゴールはきっと来る・・、」と、彼女を「ハルウララ」と陽春の希望をもって名付けたといい、以来、負けても負けても彼女は112回も走り続けている。 
そして遂に高知競馬のハルウララは「ハルウララ」として、映画にもデビューする事になってしまった。 「一頭の競走馬の命の輝きと出会った時、そんな厳しい時代に生きる人たちが、一つに結ばれあって、この今の日本に奇跡のような現代童話が誕生したのではないでしょうか・・」 と映画化時の監督の感想。

映画は2005年に公開された、監督: 森川時久、キャストは渡瀬恒彦・夏来千香子・前田吟・ガッツ石松・竹中直人、他



馬をやらない小生が勝手に選んだ三石産の印象馬=アカネテンリュウ(菊花賞・・美浦厩舎、小生が最初で最後に買った馬)、オグリキャップ(有馬記念連勝・他)


次回は日高・「静内」



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2010年3月29日月曜日

日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」

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日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」


国道336(浦河国道)は再び山地へ入ってきた。 
山地といっても沿岸部を離れて山地に入ったのではない、海岸そのものが山地なのである。 正面に編み笠の様な端正な山がボンヤリと見えている、標識等で確認すると「アポイ岳」というらしい。


国道より見渡せる様似八景の「親子岩」、父と母と子が寄り添うように並んでいる。


様似町(さまにちょう)は日高山系の南部山塊にスッポリ収まったような地形の町で、山塊はむろん海岸にまで押し出し、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大洋に落ち込んでいるのである。 
これがまた美しい海岸美を形造っている。 この海岸を「日高耶麻渓」という。
永い年月をかけて、冬島地域の奇岩穴岩から幌満川河口までの間(約6キロ)の海岸線を侵食した絶景が日高耶馬渓である。 
海岸からほぼ垂直に駆け上がる崖の美しさが、大分県の耶馬渓に似ていることから、この名称が付けられている。 

因みに本当の「耶馬渓」は、九州大分の中津・日田・宇佐の3市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。 
大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中、奥流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さな開けた平野に集落が点在している。 

耶馬溪エリアは本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬とに別れ、「山国川」沿いに奇岩、奇峰群が圧巻である。 又、そこに壮観な石橋や禅海和尚が手掘りで掘ったという「青の洞門」なども有名である。又、古刹・羅漢寺英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫でもある。



「アポイ岳」である・・、



アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところある。 
日高山系は帯広の北西、国道38号線の狩勝峠を境に、北は十勝連山、南に連なっているのが「日高山系」である。 この山系にはアポイをはじめ、チロロ、ヒパイロ、エサオマントッタベツ、イドンナップ、カムイエクウチカウシ、コイカクシュサツナイ、ペテガリ、ソエマツ、ピリカヌプリ、トヨニなど、いかにもチョット難儀なアイヌ語の呼称による山名が多く、標高・1600から1900mの山峰が連なる。 
日高山系の東側を十勝地方、西側を日高地方と称しているが、アポイ岳、その奥のピンネシリ岳は日高の主脈からはチョット外れて稜線を成し、その南端に位置して海岸に迫っている。 標高も810mと低いが、山稜は気象条件によって2000メートル級の山と同じ様相であるという。 

特徴的なのがこの山様で、ここにしか生育しない固有種を含む多数の貴重な高山植物が確認されており、「アポイ岳高山植物群落」は1952年(昭和27年)に国指定の特別天然記念物に指定され、1981年(昭和56年)には日高山脈襟裳国定公園の特別保護地区に指定されている。 つまりこれはこの山そのものが特別天然記念物であり、特別保護地区であると言うことで、北海道でも極めて稀で、人気の高い山なのである。

参考までに、高山植物群落が特別天然記念物に指定されているのは、当地北海道・アポイ岳、岩手県・早池峰山(はやちねさん)、長野県・白馬岳(しろうまだけ)と全国でも三カ所だけである。 

余計だが長野県・白馬岳(しろうまだけ・2932m)は、我が別宅の在る白馬村(はくばむら)に連なる。 そして、本年(平成16年)8月、齢(よわい)65歳で4回目の登頂を行っている。
この際、稜線で強烈な雷に遭遇し、あわや・・! という目にあっている、後日のニュースで今年は例年になく雷雨が多く発生し、特に山間部では激しく、ここ一週間で同じ稜線で落雷のよる数人の死亡事故が発生していると報じていた。 
尚、特別天然記念物の高山植物群落は、かの有名な「大雪渓」の上部から稜線直下に特に多く展開している。 
尚、近年の白馬岳の登山記録です。 

『白馬岳記録』 
http://www.geocities.jp/orimasa2001/hakuba-1.htm  



「アポイ岳」の山麓を通過した辺りから山容が次第に遠のき、丘陵地または平坦地になってきた。 まもなく浦河町にはいった。 
所謂、日高地方とは浦河、三石、静内、新冠、門別の海岸沿いと平取、日高町の内陸部の総称である。 この太平洋に面した国道を「サラブレット・ロード」、又は「サラブレット銀座」と称している。 言わずと知れたこの日高地方は日本競争馬の一大産地であり、全国の8割以上がこの地方から生産されているという。

牧場で見る「馬」は端正そのもの、つまり「カッコイイ・・!」とはこれら馬のことであろう。 脚は細く絞まって、背が高く、鼻筋とおって首が長く、胸部たっぷりで胴が長い、全体に筋肉質で、いかにも走る為に造られた芸術品である。  伝統、血統が造りあげた一級品の「サラブレット」とは「徹底的に品種改良された・・!」という語源になっているという。



『サラブレットの生涯』

★誕生期  誕生・哺乳期で1~2再起
★離乳期  母馬から離し、軽いトレーニング期に入る  2~3歳期
★セリ調教期  良血統馬は数千万から億単位の馬もいるという、買手の厩舎にて本格トレーニングに入る 3歳期
★出走期   いよいよレースに出場、先ずは地方競馬から
★4歳期   レースの華「クラシックレース」が始まる
★競争期   厳しい競争の中、1着は勝ち、2着以降は負けといわれる、この時期に勝てない馬は淘汰されてゆく
★引退期   5歳期以降は引退期に入る、古馬といわれる、子孫を残す



クラシックレース」とは4歳馬限定で、戦前より存在するGⅠ競走のことを指す。

語源は近代競馬の「母国」イギリス。 日本では牡馬・牝馬による皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞と牝馬限定の桜花賞・優駿牝馬(オークス)を指し、同時にこれらの競走は優秀なる種牡馬及び繁殖牝馬選定のレースでもある。 この5つに春秋の天皇賞及び有馬記念を「8大競走」と言うが、シンボリルドルフの「7冠馬」、シンザンの「5冠馬」、ミスターシービー、ナリタブライアンの「4冠馬」という言い方は正式ではなく、あくまで「俗称」であると。


さて「浦河」である・・、

日高幌別川を渡ってすぐ、国道235と国道236の交差点がある。 ここを右へ行くと間もなく「谷川牧場」がある。 「馬」をやらない小生でも知っている名馬「シンザン」の故郷である・・!

御存知、五冠馬のシンザンは1961年にこの牧場で生まれている。 セリには300万円と、この馬にしては比較的安値で買われ京都の武田厩舎へ入った。 デビュー戦は3歳後半で見事に新馬戦を飾る。 4歳でG1レースの皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の三冠を果たした。

この年は東京オリンピックが行はれた年でもあり、日本経済は大飛躍期で神武景気等と言われ競馬熱も最高潮に達していた時期でもある。 歳で秋の天皇賞、有馬記念を制し、日本初の五冠馬になった。 始めの頃は馬主(橋元)、調教師(武田)共その実力を見抜けずにいたし、調教時の動きも地味な方で勝ってもスレスレの勝利だった。 ただ調教師は後足の蹴りが異常に強いのに気が付き、蹄鉄を改良してから本来の強さが出現したといわれる。 

全通算19戦15勝、他は2位とずば抜けた強さを発揮し名馬中の名馬、歴史に残る馬になった。 引退後も、シンザンは驚異的な生命力を発揮し35年3ヶ月目の1996年7月13日、生まれ故郷の谷川牧場で永眠した。 これは現在、日本サラブレッド最長寿記録となっている。人間なら百歳をゆうに超す年齢である。

戦後初の三冠馬でしかも天皇賞、有馬記念、宝塚記念といった当時の大レースを全て制し、生涯成績も2着以下はなしという完璧な競走成績であり、又、繁殖の成績も優秀で多数の名馬を送り出している。 に、サラブレッド最高齢を記録など生命力も抜群だったシンザンはまさに「サラブレッドの中のサラブレッド」である。 今後「シンザン」を個々の能力において上回る馬は現れるに違いないが、これほどまでに完璧な能力を示すのは容易なことではないだろうといわれる。 獲得賞金は当時で6000万円。 

現在、京都競馬場にシンザンの銅像と蹄鉄が展示されている他、毎年1月の同場での3歳馬の重賞レースに同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」が開催されている。 また毎年8月には当地で「シンザンフェスティバル」が開かれている。



馬をやらない小生が勝手に選んだ浦河町出身の印象馬=シンザン、タケホープ、ミスターシビー(以上ダービー)、ティエムオペラオー(皐月賞)、メジロマックイーン(菊花賞)など。


次回は、 日高・「三石・静内




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2010年3月28日日曜日

日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」

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日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」


襟裳岬
「襟裳岬」



「風の岬」に台風襲来・・!、

十勝港を過ぎると、いきなり山間に入ってきた。 
小雨模様だった様気がだんだん強雨になってきて風もでてきて、路岸に打ち寄せる波浪も激しくなってきている。

広尾町から約30kmにもおよぶ国道は今までの平穏な様相から一変して、急峻な大地が連続して海に迫る壮絶な風景を呈している。 
この海道・国道336は別称「黄金道路」と称している、この近辺から「黄金が産出する」という意味ではない。

日高山脈が太平洋に落ち込む海岸道路の建設は大変な難工事であった。
迫りくる断崖絶壁、落石、海からの高い波に耐えられるだけの盛り土、数々のトンネルや覆道と、実に道路に「黄金を敷詰めたよう」な膨大ながかかったそうである。このことから、ここを「黄金道路」と称しているという。 
今も修復工事が所々で行われていて、その度に片側通行を余儀なくされ、 更には国道は連続降雨が80mmで通行止めになるらしい。


厳しい海岸道路を過ぎるあたりが「庶野」(しょや)という集落へでた。
国道はここから内陸へ向け、岬の反対側の海岸へ延びている。 
小生の車は「襟裳岬」へ向かうため道道34を更に進む事になる。 

日高山地の荒々しい山肌もこの辺りで途切れて、見通しの良い低丘陵地帯の砂防林が現れてきた。
本来、地形的に地獄から天国へ来た様な気持ちに成れる筈であるが、ところが地獄は続いた。風雨が更に激しくなってきて暴風雨である・・!!、ラジオニュースが「台風情報」を報じていた。 
昨日(29日)、台風21号は鹿児島県に上陸していて、鹿児島市では最大瞬間風速52.7m/sを記録したといい、その後台風は四国、紀伊半島から北陸、東北地方を横断し、本日(30日)午前10時には三陸地方にあるという。 
ここ襟裳岬付近も台風の暴風雨圏の一端かも知れないのである。


岬の手前の辺りを「百人浜」といい、浜辺には悲しい歴史があったという。

襟裳岬は通常でも風が強く、別名「風の岬」とも言い海の難所で海難事故が多い。 嘗て、この沖で南部藩の御用船が転覆し、その船の乗組員がこの浜になんとか流れ着いた、しかし飢えと寒さで命を落としたという。
その数が100人にもなったため「百人浜」と名付けられたという。


気が付けば十勝港から険しい海岸道路を走行中、全くと言っていいほど対向車に会ってない、この岬付近も人の気配は全くなかった。それもそのはづ岬周辺は台風の影響をモロに受けて荒れ狂っているのである。しかし、雨量は未だ80mmには達していないらしく、車は風に揺れながらも何とか走れる。 
恐怖の「黄金道路」と「百人浜」であったが、何とか「襟裳岬」へ着いた。

正面に円形のモニュメントに襟裳岬・風の館とあったが、横殴りの風雨は車を左右に揺らすぐらいの勢いである、とても車外には出られたもんではない。 
仕方なく車フロントより記念写真・・?を収める。 そして、残念ながら早々に退散である・・!!


先にも記したが再びこの地を訪れている。 そしてその様子を次のように記していた。

『 襟裳岬は穏やかな快晴に恵まれていた。岬に立って紺碧の水平線に地球の丸味・・??を感じながら、大きく深呼吸する、実に気持ちがいい、岬先端より点々と派生している小島に「ゼニガタアザラシ」の子育ての様子を確認しようとしたが、できずに残念。 土産店の食堂で「えりもラーメン」を食し、岬を後にした。 風光が目に眩しいくらいの「百人浜」を行く・・、』 とある。



「襟裳の春は何もない春です・・、」と歌にも歌われているように、襟裳岬には風以外のものは一切ないように見える。 
年間平均風速10メートルを超えるような場所には当然高木高樹は育たず、囲いをつけて育っている低木と草、岩、海の風景が襟裳岬周辺では見慣れた風景である。 
このように一見殺風景なように見える岬であるが、実は海の恵みは多く豊かな海の幸を気前よく恵んでくれる大自然があるのです。

襟裳岬(えりもみさき)は北海道の形を大きく特徴付ける自然地形の一つで、最北端「宗谷岬」に対極するのがこの「襟裳岬」である。 
日高山脈の最南端で太平洋に突き当たって長年の強風と荒波に削られ、徐々に落ち込む鋭角を成す南端部がこの岬である。 
岬の先にある岩礁群も日高山脈の一部であり、沖合い7kmまで岩礁群が連なる。 そして高さ60mに及ぶ断崖絶壁が岬を囲み、展望は群を抜いている。

地名の由来はアイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)から起こったといわれる。

岬上の襟裳岬燈台は北海道でも数少ない有人の灯台であり、常時3人の灯台守が駐在して船の航行の安全を守ると共に、気象情報を記録しているという。
1889年初点灯されている灯台は海抜73m、光達距離・22海里で、他にも霧笛や無線方向探知局などが備えられている。 これは沖合で暖流の黒潮(日本海流)と寒流である親潮(千島海流)とがぶつかり、濃霧が発生しやすい気象条件を有しているためである。 
従って、この海域は多種にわたる暖流、寒流の魚たちが群らがり、世界有数の漁場ともなっている。 また、冷たい霧や強風が多い岬の周辺では、植物は丈が短く茎が太くなることで厳しい自然環境に適応している。

ヤマツツジは襟裳岬の丘陵に背丈を低く、まるで盆栽のような姿であたり一面を赤色に染める。 エゾスカシユリ、エゾカンゾウが時期になると絨毯のように咲き乱れ、又、襟裳の愛くるしい名物は、岬の突端の岩場を中心に棲息している「ゼニガタアザラシ」で、現在300~400頭が確認され、双眼鏡でも観察が可能だという。


岬は「風の岬」と言われるほどの強風でも知られ、襟裳岬周辺は一年のうち風速10mを超える強い風がおよそ290日以上も吹くという場所で、その風の強い所に世界に類を見ない「」をテーマにした「風の館」がある。 
館内には、日高山脈襟裳国定公園や襟裳岬灯台の解説パネルおはじめ、襟裳岬の展望と襟裳の「風」を実感できるテーマ館となっている。



森進一が唄い、レコード大賞を受賞した「襟裳岬」で一躍有名となったが、実は「襟裳岬」の歌は二つある。
もう一つは島倉千代子の曲で、小生が少年期頃の昭和30年代の歌で、当時、適当にヒットした曲でもあり、若かりし「お千代さん」の絶頂期の唄でもあった。この歌が「襟裳岬」元祖であることは余り知られてないようだ。

森進一の「襟裳岬」に、「エリモは何もない春です・・、」と歌われていて、地元の人にとってある種の抵抗があり、苦情もあったとされているが、こと自然に関して言えば「全てが有る豊かな場所」なのである。



『襟裳岬』 森進一(昭和48年)吉田拓郎・曲

北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由の分からないことで 
悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙り通した 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です



『襟裳岬』 島倉千代子(昭和36年)遠藤実・曲

風はヒュルヒュル
波はざんぶりこ
誰か私を 呼んでるような
襟裳岬の 風と波
憎い憎いと 恨んだけれど
今じゃ恋しい あの人よ


視界350度と言われる岬の先端に立つことも無く、灯台(全国でも数少ない有人灯台)の様子を確かめる事も無く、無念の気持ちで襟裳岬を後にする。

今は、「風はヒュルヒュル 波はざんぶりこ」等といった平穏な状態ではない、風はゴーゴー 波はドドドーン」である・・!。 
はじめは海からの強烈な風だったが、今は陸側から猛烈に吹き付ける。車は左右に振られ、ハンドル持つ手も緊張がはしる。

再び、国道336に合流し、「えりも」の街並辺りで暴風雨も少々収まりかけて来たようで胸を撫で下ろした。

次回は、名馬の産地「日高地方



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2010年3月27日土曜日

日本周遊紀行(73)大樹 「大気町・・?」

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日本周遊紀行(73)大樹 「大気町・・?」


大樹町は大気の町であった・・!、

その大樹町の中心部を東西に貫流しながら太平洋に注ぐ延長60数キロの「歴舟川」の清流が流れる。 
清流日本一」といわれるこの川は水質測定では1987年から3年連続と91、93、2000年に「日本一きれいな川」と環境省がお墨付きを与えた。 
国土交通省より「水の郷百選」にも選ばれ、ニジマスやヤマベなど川魚が豊富であり又、「カムイコタン」をはじめとする中流域には「十勝八景」といわれる大自然の優景が見られるという。 
又、この川は「宝の川」とも言われ、周辺では砂金を採取していた記録があり、明治中期ごろが砂金採取の黄金期を向えて一獲千金を目指した人が大挙して訪れたという。


この歴舟川の河口の北方、浜大樹を挟んで巨大な公園が在る。 
太平洋に面し「大樹町多目的航空公園」といい、全国的にも珍しい航空専門の公園である。 グライダーなどのスカイスポーツなどを楽しむ場としても利用してきたが、現在は主に航空宇宙の研究実験が優先的に行われているという。
国が進める一大プロジェクトとしてJAXA(宇宙航空研究開発機構)やNICT(情報通信研究機構)といった国の研究機関が主唱する「成層圏プラットフォーム」と銘打って、通信放送や地球観測、災害監視などに関わる数々の実験・研究を実施しているという。 
このプロジェクトは高度約20キロの成層圏に全長250メートルの飛行船十数機を浮かべ、「定点滞空飛行試験」と称して様々な実験を行っているのである。


実験の主な目的は・・、

1、 新しい通信・放送: :デジタル放送、携帯端末、超高速インターネット、移動通信などの先端技術。
2、 地球観測: :海洋、大気などの現象観測。
3、 気象情報のキャッチ、災害監視: :詳細気象観測、山火事、赤潮等の監視
4、 高層における大型飛行船の研究: :特に、この飛行船は地上近辺で運航する現有の飛行船とは異なり、成層圏の高度において実験研究するもので高高度、気象環境ともに技術的に難しい問題が多くある。 それは成層圏は低温、地上より強い紫外線、風力、風速といった環境であり、それにに耐えうる軽量な材料、十分な浮力と滞空能力などを必要とすること。 又、長期間の飛行に必要な昼夜の推進の動力源である太陽エネルギーを使った太陽電池や燃料電池などの効率のよい電源の問題。 それに、長期の運行に必要な浮力ガスであるヘリウムの漏れを最小にすること、等々の研究であるという。。

これらはいずれも世界で初の実験・研究といわれる。


十勝の野は平坦地で日照率が高く一定方向に吹く風など、比較的気候条件には恵まれ安定しているといわれる。又、この公園は太平洋に隣接していて、元々そこに広大な「多目的公園」を保有していた。 これ等の理由で国策としての実験場に選定されたという。

大樹町多目的航空公園では、その他にも航空に関する未来を見据えての「宇宙間の航空機」や「無人航空機」の実験研究やパイロットテスト等、各種航空に関する研究も同時に行っているという。 
太平洋に面しているため船舶からも、「あの巨大な物体は何だ・・!!」と遥かに空飛ぶ飛行船に驚いた漁業者もいたとか。 

大樹町は航空の町であり、大樹町は大気町でもあった。



次回は「襟裳岬」




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2010年3月26日金曜日

日本周遊紀行(72)大樹町 「マルセイバターサンド」

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日本周遊紀行(72)大樹町 「マルセイバターサンド」


大樹は晩成・・・?、

ホロカヤントウ沼のすぐ近くに「晩成温泉」がある。 十勝地方には珍しい海岸沿いにある温泉であろう。 
窓からは大平洋の大パノラマが広がっており、最近になって温泉に殺菌作用、高血圧に効果がある大量のヨードが含まれていることが判り、注目が高まっているといわれる。

温泉の名称もさることながら、この辺りの地域を「晩成」と称している。 
大樹町の晩成で、これを模じって「大樹晩成」(大器晩成)にしたのではないが、 十勝・大樹地方は静岡県伊豆出身の依田勉三率いる「晩成社」(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれ、そのためこの辺りの地名を「晩成」としたという。


一般に、北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが主であるが、十勝、帯広一帯は一般民間人に拠るものが多く、晩成社はその一環でもある。 
大樹町の「晩成温泉」はそれらに因んだ名前であり、現代に生きる人が祖先の人々に敬意を表して命名したのであろう、結構ことである。

十勝開拓のパイオニアとして知られる依田勉三氏にまつわる「晩成社史跡」が大樹町の晩成の生花苗地区にある。 
サイロ跡や石碑などと共に復原された「依田勉三住居」は1893年(明治26年)に建てられたもので、切り妻様式の簡素な住居は1915年(大正4年)まで勉三が住んでいたという。 
茫漠とした辺りの風景とともに往時の労苦を忍ばせる。

入植の3年後には大樹町に晩成社牧場を開いて酪農に取り組みながらバターなどの製造を開始、多くの苦難を乗り越えながら同牧場付近でさまざまな事業にも着手している。 
勉三氏は大正14年、帯広の自宅で73歳の生涯を終えている。 勉三最後の言葉は「晩成社には何も残らん、しかし十勝の野には・・、」と言ったという。

因みに、北海道でも人気の高い有名な帯広・六花亭の銘菓マルセイバターサンド」がある。 「六花亭」として社名変更した際に新登場したらしく、名前の由来は十勝開拓の祖・依田勉三が率いる晩成社が十勝で最初に作ったバター「マルセイバター」に因むものである。 包装紙は、勉三翁経営の晩成社牧場がバターを発売した当時に使ったラベルをソックリ模写したものであるという。 



白地の用紙(包装用箱)に中央部が角ばった赤の図柄で、左より商品名の由来となる「」の丸囲み文字つまりマルセイとして、○成の左右にはの文字があり、中央に「MARUSEI BUTTER、MADE AT YODA BOKUJO、TOKATI HOKKAIDO JAPAN」とし、右に「マルセイバタ、依田牧場製、北海道 十勝」としてある。 
当時はバターをバタと呼んでおり、包装紙にも「バタ」の表記が残る。
いずれも明治期に作られたクラシカルな絵柄の感じが良い。

六花」(ろっか)とは、結晶が六角形であるところから雪の異称を指している。 六花亭には実際に「晩成」という名のお菓子もある。

因みに「マルセイバターサンド」は、20世紀を代表する日本の土産品でお菓子部門のアンケートでは、全国Best10の第7位にランクされているという。 小生たちが北海道を訪れた際は北海道でも名の知れた「白い恋人」が有るが、我々は「マルセイバターサンド」を好んでお土産にしている。

尚、大樹町は息子の嫁(実家は旭川市)の母の実家で、本年(平成17年)のゴールデンウイークに訪れている、詳しくは下記H・Pへ、 

北海道旅行2005年
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hokkaidou2005.htm 



ところで、この晩成温泉などの位置関係は地域的には「大樹町」に属しているが、ほぼ隣接して忠類村がある。 
大樹町は大きな町で、西側を日高の山地を境に太平洋、更には小さな忠類村を抱くように北側の地域にまで広がっている。
現在進行中である近隣町村の合併については、隣町の豊頃町や浦幌町が合併協議を進めていたらしいが、いろいろな事由によって賛成が得られず、協議会は破談になっている。
又、虫類村は北部に隣接する幕別町と合併の話が現在進行中であるとか。 (追記、2006年・平成18年 2月6日、忠類村を編入合併している)

虫類村は太平洋の沿岸至近にありながら、地域は内陸へ向かっていて海岸に接してはいない、隣接する大樹町が忠類村を抱くように海岸線を寡占しているのである。 
私的考だが地理的には忠類村は大樹町と合併すべきである、と思うのだが 、やはり何か 思惑があるのだろうか。 
忠類村は道内でも最も小地域の村ではあるまいか・・?、その忠類村は1969年に日本で初めてナウマン象の化石が発掘されたことで有名になり、ナウマン象が村のシンボルにもなっているという。

次回も、大樹町は大気町・・?



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2010年3月25日木曜日

日本周遊紀行(71)十勝 「巨魚・イトウ」

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日本周遊紀行(71)十勝 「巨魚・イトウ」

十勝川を過ぎると、サッパリした森林帯の中を、ややアップダウンを繰り返しながら進む。
ここから眺める事は出来ないが海岸線に沿って長節湖、湧洞沼、生花苗沼、ホロカヤントウ沼という湖沼愚群が点々と並び、周辺は大小の湿原が取り巻いている。 いかにも北海道らしい原風景であることに変わりなく、優美な風景を演出していることだろう。 


中でも最大の湖沼は湧洞沼であり、この沼には「巨大イトウ」にまつわる伝説があるという。
『 沼とつながる湧洞川上流にアイヌ民族の村があった頃の話で、その年は大渇水に悩まされ人々は沼まで水をくみに行かねばならなかった。 近づくと、渇水期で水が少ないはずなのに、沼は満水状態で溢れ出るようであった。 見ると沼と川との水口に大きなイトウが横たわり、水の流れを塞いでいたのである。 そして周りには無数の小魚が群がっていたという。 「かねがね湧洞沼の主はイトウと聞いていたが、この干ばつで子孫の絶えるのを恐れて、自ら死をもって子孫のために堤となって犠牲になったのだろう」・・、』という話である。


現在、「イトウ」の生息地は、道内でも限られた河川流域でしか確認できないといい、激減、絶滅の危惧種の一種だという。 
イトウは体長が2mを越す国内最大級の淡水魚、サケ科の大型魚で「幻の魚」と言われている。 かっては青森や岩手などにも生息していたが、今は北海道、サハリンなどロシア極東の一部にしか存在しないという。 
成魚の体長は150cmを超え、一生の間に川の上流から下流を行き来し、稀に海にも出ることもある。 20年以上も生きた例も報告され、強い歯を持つ肉食魚で、マニアックな釣り人にも人気だが、近年は滅多に釣れないため「幻の魚」と言われる所以である。



「イトウ」といえば、克ってテレビのドキュメンタリー番組で「開高 健の海外釣紀行」(仮題)で、アラスカかどっかで巨大なイトウを釣り上げたのを記憶している。 
開高 健(かいこう たけし)といえば、ベトナムで従軍記者として九死に一生を得た事でも有名であるが、むろん自然派の作家である。 
後半生は熱心な釣師としても知られ、日本はもちろん世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、「オーパ」、「フィッシュ・オン」など釣りをテーマにした作品も多い。 現在では浸透している「キャッチアンドリリース」(釣った魚を河に戻す)という思想を広めたのも彼だと言われている。

その釣り紀行のエッセイ・ノンフィクションの内容は卓越したもので、その中で北海道の根釧原野で幻の魚イトウを初めて釣ったときのことを彼は記している。 
カッと巨口をひらいたまま息をひきとりつつ、肌の色がみるみる変わっていく二尺五寸(75センチ)のイトウに、いいようのない恍惚と哀惜、そしてくっきりそれとわかる畏敬の念をおぼえる。これこそがこの大湿原の核心であり、本質である。蒼古の戦士は眼をまじまじ瞠ったまま静かに死んでいき、顔貌を変えた』と。

又、釣り専門誌「オーパ!」の中での釣りを描写する語彙は、たちまち釣り師・釣り好きな少年たちの間に広まって、釣り雑誌には開高健の言葉が氾濫するようになったという。 
ふいに強い手でグイと竿さきがひきこまれたかと思うと、次の瞬間、水が炸裂した。一匹の果敢な魚が跳ねた。右に跳ねては潜り、消えては走り、落下しては跳躍した・・、』 

かくして釣り雑誌では、いまだに「水が炸裂し」、魚が「走り」、「跳びまくっている」、などと独特の表現で書いているという。



北海道の川の生態系の頂点に君臨する王者イトウは、陸の「ヒグマ」、空の「シマフクロウ」とならぶ自然保護の象徴的生物でもある。時に、研究者によるイトウの生息調査が行なわれているが、実際のところ産卵可能な親魚が道内に何匹生息しているかはよく分かっていないという。 そして川魚を好む釣り人には「いつかは釣ってみたい魚」として人気が高く、一年中イトウだけを追いかけるというイトウ専門釣り師も存在する。

釣魚としての「イトウ」の魅力は、第一にその並外れた大きさであろう。 
現在でも北海道には150cm以上のの巨大魚がいると真密かにいわれているという。 第二の魅力は「幻の魚」と呼ばれる希少価値であろう。 そう簡単に釣れないから釣り人は知識と経験と情報を総動員して、途方もないエネルギーと時間を費やしてこの名魚を追うのである。


次回は、大樹町 


 
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2010年3月24日水曜日

日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」

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日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」


音別町の直別駅を過ぎると国道38は一旦、山岳地にはいる。
山地を離れると浦幌町の町並みへ来て、ここ吉野地区で国道及び根室本線は内陸の帯広方面へ向っているが、小生は国道336の沿岸部を走ることになる。 
この辺りから再びで大きく開けてきて湿原地もあり、大小の河川を渡ると周辺は北海道を代表する「十勝川」の沖積平野である。 その雄大な十勝川本流を渡る。

一級水系・十勝川は十勝地方を流れる十勝川水系の本流で、帯広をはじめ十勝平野に肥沃な沖積土をもたらし、日本を代表とする畑作・酪農地帯として北海道らしい勇大な農村風景を形成している。
河川延長156km、支川204河川、水系延長、流域面積とも我が国屈指の大河で、その源を北海道の屋根・大雪山連峰十勝岳に発しサホロ川、芽室川、美生川、然別川等を合わせて十勝地方の中心都市・帯広に達する。 
このあたりより水量も増大し音更川、札内川、士幌川、途別川、猿別川さらに利別川等と合流しながら原野を悠々と直進して中川郡豊頃町大津において太平洋に注いでいる。 
流域面積は全国6位(北海道2位)である。


十勝地方、所謂、十勝川流域の本格的な開拓は明治16年、静岡県伊豆・松崎出身の「依田勉三」が同志等とともに北海道開墾のための「晩成社」なるものを組織したことに始まるという。(詳細後述、伊豆松崎にても・・、)
その後、多くの開墾者が入地し、物資を輸送するために十勝川河口の大津を起点として茂岩、利別、幕別、猿別、帯広、芽室へと十勝川を行き来する川船も多くなり、これらの市街地は「川港市街」として栄えた。
帯広をはじめ、十勝地方の繁栄は十勝川無くしては考えられず、即ち「母なる川」なのである。



ところで、地図を丹念に見ると十勝太付近の河川名は「浦幌十勝川」とある。 開拓、改良、開墾される以前の原始の時代においては、こちらが十勝川の本流であったらしい。 十勝川という名称は、こちら十勝太の集落の地名を取って命名したともいう。 

国道336号線は、日高地方の浦河町からかの襟裳岬を経てこの地に至っている。(実際は38号線と重複して釧路まで到っているらしい)。 
しかし、計画は十勝川河口流域を直進し、「十勝太」(とかちぶと)という集落を経て音別、釧路方面へ向かう予定だったらしい。 

何故、沿岸・直進の国道は消滅したか・・?、
実は国道は消滅しているが、一般道のダートコースが昆布刈石まで、更に厚内から直別で国道38に繋がっている。
消えてなくなった国道の浦幌町十勝太の集落周辺は、牛などを放牧している酪農丘陵地が広がる。 そしてこの丘陵地一帯は縄文時代早期(約1万年年前)から擦文時代(約1000年前)までの住居跡や墓、アイヌのチャシ(城柵)跡などが広範囲にわたり残っているという。 

これは国道建設に伴う発掘で発見されたもので、擦文時代の住居跡の周辺には無数の食生活の痕跡である骨の破片などが多数埋まり、それも現在のに比べると大型のものが殆どでありクジラなどはゆうに10メートルを超えるという。 
つまり海や大河の流域近くは、様々な魚などが豊富に取れたことを物語っている。

何千年もの間、十勝太一帯は太古の昔から住みやすい「住宅街」だったのであり、そこには食料がフンダンにあり、しかも食料は海から川からと、向こうからやって来るのである。 
十勝太河岸段丘の高所には、それらの遺跡群を眺めるために展望台も設(しつら)えて在り、凡そ10万6000㎡にも及ぶ遺跡群は「北海道遺産」にも指定され、出土品は浦幌町立博物館に所蔵されているという。
国道が途中から立ち消えになって吉野方面に迂回したのは、これらの遺跡群に理由があったのかも知れない。


序(ついで)ながら同地区において、もう一つの交通路が変更させられたことについて・・、

目の前に太平洋が広がる浦幌町十勝太地区は、現在50世帯、120人が住むという小さな集落である。 
この地区に明治時代、開拓が本格化するころに「大都市」を建設する計画があったという。
そして十勝太には国鉄の鉄路、河口では海運船の運航、高台には灯台、そして公園の設置、更には遊郭までもが予定されていたという。


(当地、毎日新聞資料)

明治中後期、道庁において「十勝川河口都市」構想が策定され、国が公布した「北海道鉄道敷設法」(29年)に基づき、旭川から帯広を通って十勝太まで、更に釧路から延びてきた鉄路が十勝太を基点にしてつながるという壮大な計画だったらしい。 
しかし、実際の鉄路は釧路方面から内陸部の現在の浦幌町市街地を通って豊頃へ向かうことになり、十勝太への計画は立消えになった。
その原因の一つ、地元の人たちの噂によると内陸部の浦幌駅一帯は、或る有力国会議員が経営する農場敷地であり、計画変更はその農場内に駅を造るという当代議士による圧力的要求が有ったためとも言われる。

十勝太の都市造りの構想は今考察しても順当なもので、当地は大洋と大河に面し、後背の肥沃な十勝の大平野を要している。 もし鉄路、道路も計画通り順調に敷設されていれば、釧路を凌ぐ大都市も夢ではなかったのかもといわれる。 
都市化を夢みて周辺から早々と移り住んだ人々もいたようであるが、あっという間に幻と化してしまったのである。 合わせて、縄文時代の賑わいの再来も露と消えた。 
一個の権力者による私利私欲が、地域を台無しにしてしまった端的な一例でもあろう。 
因みに、太(ブト)とはアイヌ語のプトから来ていて、口のことであり、アイヌの人も河口のことを口と捉えていたようである。


次回も「十勝地方」




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2010年3月23日火曜日

日本周遊紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」

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日本周遊紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」


道内に多い、「別」という字はアイヌ語で「川」を現していた・・!、

人口約3000人、豊かな森林をもつ海沿いの町である音別は尺別、直別という地名も続き、音別をはじめJR根室本線の駅名にもなっている。

ところで、北海道内の地名で尾尻に「」の字が付く呼名が多いのに驚く、小生の知っている市町地域でも江別、芦別、当別、登別、士別、陸別、紋別、湧別、頓別などなどと、他にも無数に存在するであろう。 何故だろう・・?、何か、いわく因縁があるのだろうか・・?、

ハイ有りました、判明しました。
」というのはアイヌ語で「」を現しているらしい。
別・ベツ」の他に「内・ナイ」も川を指すものと言われ、「ベツ」は比較的大きな川(大河)を指し、「ナイ」は小さな川(小川、沢)を指していると言われている。

序にアイヌ語の基本単語を幾つか挙げてみよう、「ベツ」の対語で「ヌプリ」:山、「アイヌ」:人・人間、「カムイ」:神様、「コタン」:集落・部落、「トマム」:湿地、「ピラ」:崖、「ト」:沼、湖、「トマリ」:港・湾、「ピンネ」:男・雄、「マッネ」:女・雌、「モシリ」:国・国土、「ワッカ」:水、「ポロ」:大きい、「ポン」:小さい、アシリ(新しい)、クンネ(黒い)・・、などなど。 
あの愛らしいラッコもトナカイもアイヌ語らしい。


北海道を旅するとなかなか読めない地名や何んと読むのか判らない地名が多々有る。 北海道の市町村名のうち凡そ8割がアイヌ語に由来すると言われる。

アイヌの人たちは、生活する上で欠かせない産物を得る場所、狩猟や交易のために移動する通路、そのときの目印となる地形など、自らの生活に深く関わる土地に地名をつけた。
特に川や沢には、河口から水源までびっしりと地名がつけられている。これは、アイヌの人たちの多くが川筋に住んで、主に自然の中から食料や薬、衣服や道具などの資材を手に入れてきたからだとされる。
こうした地名が、現在、「○○別」、「××内」、「△△平」のような形で各地に残っており、アイヌ語を起源とする地名は当時の地形の特徴や産物、アイヌの人たちの暮らしなどを伝える貴重な文化遺産である。

現在、表記されている文字の内、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」、それに音訳と訓訳の混ざり合ったのを「半訓訳」といって三種類の地名に分類されると言われている。

因みに、東北の仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方にも、近世まではアイヌの文化圏、生活圏であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用しアイヌ語の地名や足跡が多く残されているという。 
例えば、秋田・能代に河口をもつ「阿仁川」筋ではどの沢をとっても内・ナイ地名で埋まっているという。 米内沢(イオナイ)、笑内(ウタシナイ)、浦志内(ウラシナイ)などなど多々。



尺別、直別など各地各駅周辺共小さな集落が点々として見られるが、うらぶれた寂れた感じは否めない。 中には、やはりと言おうか空家、廃屋も目立っている。 
白糠炭田が隆興の頃は、この辺りも賑やかな街であったろうけど、時代の流れには、人々も同様に流され逆らえないものなのだろう・・!!。 

この音別町の西端の駅が直別駅である。 
国道38号線がすぐ駅前を走っているが、やはりというか駅付近には数軒の人家があるだけで、ログハウス風の小さな駅舎が建っていた。 当然というのは失礼ながら「無人駅」であった。 


次回は「十勝地方」



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2010年3月19日金曜日

日本周遊紀行(68)白糠 「恋問海岸」

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白糠の恋問海岸



日本周遊紀行(68)白糠 「恋問海岸」


白糠(しらぬか)を「しらぬか」・・、

道内へ来て数日以来、初めて雨にみまわれた。 ここは白糠町の「道の駅・しらぬか恋間」である。
夜来より強めの雨が車をたたく、その為、時々意識が戻される。 ボンヤリ頭のまま、5時には目が覚めてしまった。 
車内で点てた熱めのコーヒーを流し込みながら、昨夜調達したサンドイッチを頬ばる。 

正面に、雨に打たれる恋問海岸という標識が立ち、その向こうの海はが霞んでいた。 ”恋問”(こいとい)とは何ともロマンチックな名前である。
駅内に、物産センター「恋問館(こいといかん)」があった。 
早朝で今は未だ閉館中であるが、なんでも、土地柄に合わせたのだろう、恋愛成就や恋結び(縁結び)にちなんだ商品なども置いてあるとか。
面白いのは“形状記憶昆布”というのがあって、初めは乾燥した普通の昆布だが、湯水にさらすと”祝”や”寿”の文字になって表れるという。 祝儀の返礼にいいかもしれない。

ここ恋問海岸を一望できる広場はあまりのロケーションの美しさから、若いカップルの観光スポットと合わせてデートスポットにもなっていて、界隈ではベスト3にランキングされる人気があるという。
波の音と漁火を見つめながら、想いを語り合うお二人さん、はたして貴女の「恋の問」は解決しそうですか・・・?

トイレへ立って見て驚いた、ユッタリと広く清潔なのである。
おまけに、未だ凍えるような寒さではないのに、トイレの手洗いの水が温かいのである。 
このあたり旅人の心をつかんだ気配りで有難く、これも北海道ならではの事なのだろう。
ただ、この道の駅には、「ごみ箱」が置いてなかった。 ごみはお持ち帰りくださいと書いてある。 
自然に配慮した山奥の観光地ならいざ知らず、国道沿いの道の駅で、これは不可思議なことである。
缶飲料の自動販売機は何台も並んでいて、その空き缶を回収する箱も無いというのは、売る側の配慮はどうしたことか・・?。 缶飲料を1個売れば、確実に空き缶が1個発生するはずであるが。 
環境がどうとか、美観がどうとかであれば、それなりの配慮をして備えればよいことである。
道の駅の条件には、無料駐車場とか24時間使えるトイレとかあったと思うけど、ごみ箱設置はうたっていないとでも言うのであろうか、不可思議なことである。 

社会的責任と自己責任をはき違いてはしませんか。 
空き缶が発生するのがいやなら、缶飲料を売らないことである。 利用者はこのことで特に困る事は無い。
ロマンチックな駅の名前に、やや水を指された感じである。 尤も、飲物の事であり、今は雨模様で、いずれも水物であったが・・!。

道中、「白糠を、しらぬか・・!」という結構にダ洒落た文言を見て苦笑した。


次回は白糠 「石炭産業発祥地」



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2010年3月17日水曜日

日本周遊紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」

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釧路市と釧路町の主要地域境界線

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日本周遊紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」


釧路の町と市、そして「鳥取」との関係・・?、

国道44号線(根釧国道)は道東の幹線道路であり、さすがに交通量は多い。
既に釧路町に入ったようである・・!、釧路市ではない、れっきとした行政区分上の町制の町である。 
大正期に釧路町(現・釧路市)より分離独立し、昨今、国の市町村合併促進奨励にて、両「」、「」は再び合併のための協議を進めていたが、どうやらホゴ解散になってしまったようだ。

釧路市と釧路町の因果は・・、
1920年に当時の釧路郡釧路町が北海道区制(明治30年5月に明治政府が定めた北海道における地域区分制度、北海道区制,一級町村制及び二級町村制が公布された)が施行された際に「釧路区」と「釧路村」に分離し、それが現在の「釧路市」と「釧路町」になったという。


北海道では、1899年(明治32年)頃に札幌と函館に区制が施行され、それぞれ札幌区、函館区になった。 その後、小樽区、旭川区、室蘭区、そして1920年には釧路区が誕生している。 
区になるためには、人口が集中する市街地の割合が大きいことが条件であり、釧路は当時から人口に比して面積が大きかったために要件を満たさず、逆に人口が少なく面積が広い地域を分離することで市街地域における人口の比率を増し、釧路区の実現を果たそうとした。
旧釧路町(釧路市)としては、釧路川より東の山間部の別保地区だけを分村しようとしたものの住民は、当時は湿原だった雪裡太(せちりぶと)地区も含めることを要求し、旧町側もいろいろと検討した結果、要求どうり2地区を分村したという。

結果、現在の姿は釧路市愛国地区と隣接する釧路町雪裡太地区が市町境界線になっている。 その後両地域とも住宅、商業地域として急速に発展したために、現、釧路町が2万を超える人口を有する町となっている。
釧路市としては、この雪裡太地区を譲り渡したことが、後になって悔やまれる結果となったのである。

釧路史によると、分村は旧釧路町(釧路市)役場と北海道庁との間で非公式に進められた秘策だったため、それが表に出るや地区住民が猛反発して大問題となり道庁が仲裁に入って解決に至ったという曰く因縁があった。 
尚、分離された釧路村は、1955年に沿岸部の昆布森村と合併して新・釧路村となり、1980年には町制が施行され、現在の釧路町になっている。

今時、平成の大合併推進で平成15年、釧路地域では六市町村合併協議会が結成され、釧路市、釧路町、阿寒町、鶴居村、白糠町および音別町の広域合併に関する協議を行われ、検討されていたが、旧来の因縁で最初に釧路町が離脱している。



序ながら・・、

釧路市はその後、五市町村による枠組みなどについて調査協議をおこなっていたが、次に鶴居村が合併協議に参加せず単独の道を選択した。 結果、釧路市、阿寒町、白糠町および音別町による釧路地域四市町合併協議会に参加することを決定し協議を重ねていたが、その後更に、当初から合併協議を重ねてきた白糠町(しらぬかちょう)が離脱した。 

結局、釧路市は2005年10月、阿寒郡阿寒町、音別町と新設合併することになり、新たに「釧路市」として発足したという。 それでも道内では北見市、足寄郡足寄町に次いで3番目に面積が広い市町村となっている。
もし、当初の枠組みで釧路市・釧路町・白糠町・音別町・阿寒町・鶴居村で、新釧路市として合併が実現していた場合、とてつもない広大な一行政地域となり、その面積は現在、広域度ナンバー1の岐阜県高山市(2180km2)を軽く超え、2960.2km2でダントツ1位になっているはずという。 
因みに、これより狭い都府県域は香川・大阪・東京・沖縄・神奈川・佐賀と六つもあるのである。

気がつけば新「釧路市」は我が国では珍しい(初めて・・??)国立公園を二つ抱える町になったのである。 「釧路湿原国立公園」、「阿寒国立公園」、これはトピックスであろう。



さて、釧路の市街地で夕食を摂ろうと場末風のラーメン屋で生ビールにラーメン・ギョーザ定食を摂った。 これが実に美味い、いかにも北海道らしいグルメ感であり、値段も手ごろで大満足であった。
ところで、食事を摂ったこの辺りの地名を「鳥取町」といい鳥取大通り、鳥取ドーム、鳥取中学といった「鳥取」という地名、固有名が軒並み存在しているのに気が付いた。

そうなのである・・、この地域は昔は鳥取村、鳥取町と言った行政区域だったのであり、その鳥取町は1949年10月にが釧路市に編入していたのであった。 
鳥取とは勿論、山陰の鳥取、鳥取県のことであった。



江戸末期、幕藩時代の動乱から「明治」が発足し、それに伴って明治2年版籍奉還、同4年に廃藩置県が実施され、武士のほとんどが窮乏の淵に立たされた。
鳥取・池田藩32万石は、特に窮乏がひどく経済的自立は困難であったといわれ、そのため士族授産(明治維新後、士族たちをなんらかの産業につかせようとした政策)として帰農移住・開墾を勧められ、新天地を目指した。 つまり、武士が失業したのであった。 
当時の地元新聞は「鳥取県の士族の中には餓死寸前の者が80戸余りもいる」と報道している。 
困窮にあえぐ士族に職を与えるため、県や明治政府もいろいろと授産事業を試み、その中で最も大きな期待をかけられたのが北海道移住であった。

1884年(明治17年)6月、鳥取県の士族39戸と平民2戸の家族を乗せた宿弥丸(1,200トン)は、釧路に向けて賀露港(鳥取市)を出帆した。 これが県・勧業課の指導による鳥取県士族の北海道移住の第一陣であった。
明治維新の社会変化によって、士族の生活は大きく変わり、その後、鳥取県士族の北海道移住は1889年(明治22年)までに合計8回続き、442戸が釧路や岩見沢、根室などに移住して行ったという。 
移住者は、北方警備や原野の開拓に熱意を燃やしていたが、荒涼とした原野での生活は想像を絶する、言語に絶する幾多の苦難があったことは言を待たない。 
しかし、移住者たちは強い団結で悪条件を克服し、釧路地方では鳥取村をつくり、やがて
鳥取町に発展させたという。

鳥取町は1949年(昭和24年)に釧路市に合併されたが、鳥取の名は今も残されており、鳥取県の士族が入植して100年余り経過した今日、釧路市は北海道東部の中心都市にまでなっている。



次いでながら、鳥取県と北洋漁業との関わりについて・・、

北方領土周辺の海域を含むオホーツク海、べ一リング海など北太平洋で行われる漁業を北洋漁業といい、この海域は暖流と寒流が交わっているため漁種も豊富で、世界でも有数の漁獲高を占める豊かな漁場である。  

日本海に面する鳥取県は漁業が盛んで、近年、「境港」は全国屈指の水揚量を誇っているのは周知であるが、1972年(昭和47年)頃からは北方領土に近い北海道東海域からオホーツク海海域にも出漁するようになり、鳥取県の漁船にとって貴重な漁場の一つになっていた。
無論、北方領土の周辺は、北方系の魚・サケ、タラやホッケなどのほか、温帯系のアジ、サバ、イワシなども豊富で、鳥取県の漁船も制限水域の近くまで出漁している。 
この時、前線基地として友好都市である釧路港が大いに役立った事は言うまでもない。
しかし、御存じソ連が200カイリ漁業水域を設定した1977年(昭和52年)からは、この海域での操業が難しくなり、境港から出漁する漁船は少なくなったという。


ところで、鳥取県民の身近にも北方領土問題と似かよった大変重要な問題がある。
それは、鳥取(島根県)沖合い隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の帰属問題である。 領土的には島根県に帰属するが、周囲の広大な排他的経済水域の漁業権や海底資源の権利は鳥取県にも存在する。

1952年(昭和27年)、大韓民国がいわゆる李承晩ライン宣言といわれる海洋主権宣言をし、竹島を大韓民国側に含めてしまい、更に1978年(昭和53年)以降は、鳥取・島根両県をはじめとする日本海沿岸の漁民にとって重要な漁場である竹島周辺12カイリ内の海域からわが国の漁船を締め出している。 
わが国は、竹島問題を平和的に解決するため、粘り強く外交交渉を続けているが、現在も解決するまでには至っていない。

竹島問題で苦労してきた鳥取県民は領土の大切さを身近に感じ、合わせて北方領土問題についても強い関心を持たざるを得ない県民気質なのであった


次回は、釧路の炭鉱 



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日本周遊紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」

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霧多布岬(湯沸岬)に立つ「湯沸岬灯台」



日本周遊紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」


根室市街から花咲半島を横切る形で「花咲港」へ出る。 
根室港(現在の根室地区)と合わせ、日本北東端の要港として重要港湾に指定されている。 港に面した商店は「花咲カニ」の看板が賑やかである。

この地より北海道は南部に面した太平洋岸を巡ることになる。
「昆布盛」、「落石」を過ぎ、全く清閑な道道142を暫くすると「霧多布」の浜中町である。
広大な湿原を右手に見ながら、先ずは岬へ向かうべく新川のT字路を左折する。
霧多布の家並みをぬけて丘陵地へ到ると馬が放牧されたなだらかな草原、彼方に広がる薄青い海、まずは霧多布の東海岸、浜中湾に面した展望台へ到着した。

岬の突端間近に「湯沸岬灯台」が在る。
灯台表のローマ字表記では、touhutumisaki(とうぶつみさき)と書かれてある、「とうふつみさき」という表現も、現地での看板で見かけたが、何故、「湯沸」と言う変わった名称のを当てているか名前の由来は定かでない。
ただ「霧多布」の名前の通り「湯が沸き立つように霧が発生するところ」と、勝手に解釈したのだが・・?。 

事実、この辺りの海域は霧の発生する日数は年間100日を超えるという。 
霧の発生は春から秋、特に夏場に多く、これは、暖流(黒潮)の影響で温かく湿った南風が、寒流(親潮)によって上空で急激に冷やされることによって凝結し霧となるためらしく、一般に内陸部で朝に発生しやがて消えていく「放射霧」とは異なり、終日消えないのが特徴らしい。
湯沸灯台」は、北海道で始めて小型・軽量で、霧が多いせいか高光度の灯器が使用されているといい、霧が多い日は霧笛も鳴り響くという。 



「霧多布湿原」のド真中を車は走る。 ということは湿原の中に車道をこしらえたことになるが、昔だから許されていたが世界のお墨付きを頂いた今日(こんにち)では想像もつかないことであろう。

湿原の中心を流れる琵琶瀬川を渡ると河口の琵琶瀬漁港のすぐ向いに大きな島が見渡せる、「嶮暮帰島」(けんぼっきしま)というらしい。
1876年(明治9年)に岩手県出身者が移住し、コンブ漁を営んでいたという記録があるが、今は無人島らしい。
その後、動物作家のムツゴロウこと「畑正憲」氏が1971年(昭和46年)から約一年間定住したことにより嶮暮帰島の名は有名となったという。

畑正憲氏は九州・日田市出身で、娘が魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて表面的な生き物好きの虚弱精神を払拭させて育てることを決意し、東京を離れて浜中町の嶮暮帰島に移住したという。 
更に対岸の浜中町に移り「ムツゴロウ動物王国」を開園している。 

この道道沿いにその看板そして施設が在ったようだが、中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園しているという。
「ムツゴロウ動物王国」は、テレビ番組でも人気番組になったりしたが、ここの動物王国は原則非公開だった。 
このため、都会の人々に動物に触れ合ってもらうと2004年、東京都あきる野市の東京サマーラド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園している。 事実上「ムツゴロウ動物王国」は東京都に移転したことになるが・・?。



霧多布湿原が程よく見渡せる高台になっているところが「琵琶瀬展望台」である。


琵琶瀬展望台よりの湿原




昨年、訪れた時は、その名のとおり霧が深く見通しは皆無であったが今般は納得の大展望が得られた。 そこからの眺望は海側も湿原側もなかなかのものであった、特に中央を琵琶瀬川が大きくウねっている姿が良い。 
湿原は、この辺りの幌戸湿原、厚岸湖(湿原を含む)と合わせてラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)の登録指定地である。
タンチョウ等、野鳥の観察にはこの地の中央に在る、「霧多布湿原センター」がよさそうである。

霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道の東部、釧路と根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。 

これから訪れる釧路湿原、あの弾丸道路が延びる道北のサロベツ原野に次いで国内3番目に広い湿原であり、春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が順番に咲いて湿原を彩るため、花の湿原とも呼ばれている。
今は季節柄、茶褐色の枯草色の草原が果てしなく広がっている。
 
1993年にラムサール条約にも登録され、湿原の環境保護のため地元の有志を発起人とした”霧多布湿原トラスト”が作られ、湿原を保全し後世に残すよう活動を行っているという。
トラスト」とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体のことで、正式名称は「歴史的名勝と自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」(National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty) といい、一般にはナショナル・トラストと略されている。

霧多布」はアイヌ語(キイタップ:霧が多い地域・・?)の当て字であるが、実際、霧の多い土地であることは先に記した。
湿原の中心を横断する道(道道808・琵琶瀬茶内線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっているという。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。



湿原の生成については、約6000年前の縄文期に遡るといわれる・・、 

季節は世界的に今よりも温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている(※「縄文海進」という)。 
当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。 その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残り、この沼が水はけの悪い低地となりアシ、スゲ類(ワタスゲ)、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていったという。

(※)縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。


今から2万年近く前の縄文期、地球は厳しい寒さに包まれ南極・北極・高山の上に厚い氷河が凍りつき、海は氷河に水を取られて今より何十mも海面が低くなっていた。 日本はアジア大陸とつながった半島で、ナウマン象やそれを追う人々が行き来していたらしい。 

寒さがピークを過ぎ、一転して暖かくなってくると氷河が溶け川を流れて海に注ぎ、海面がしだいに上がり、地殻変動とともに日本は大陸から切り離され「日本列島」となったという。
上がり始めた海面の勢いはそれでは止まらず、例えば関東地方では極寒期には東京湾が陸地になり利根川、荒川、多摩川を合わせた大河が深い谷を刻みながら流れていたが、一転、温暖期で海面が上昇すると東京湾が復活し、さらに谷に沿って現在の栃木県あたりまで海が進入したという。 この現象を「縄文海進」と呼んでいる。


因みに、現在の気温を標準(0度)とし、日本列島に人類が定住するようになった年代で比較すると、一万年前の縄文早期の頃は地球寒冷期で「-5度」、九千年前の鹿児島・上野原遺跡(鹿児島県霧島市上野原にある縄文時代早期の集落遺跡で「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡ともなった)の時期で暖流が日本海に入り日本風土形成された頃が「-3度」、六千~七千年前は青森・三内丸山遺跡の時期で暖温帯落葉樹林が列島に拡大し、「縄文海進」のピークを迎える頃は「+2度」、その後は一進一退を繰り返し、二千年前の弥生期で稲作が西から北進する頃は現在に近い気温とされている。

だが、いま起きている地球温暖化は、人為的な要因が大きいと考えられ、温室効果ガスである二酸化炭素の濃度により、現在すでに「過去数十万年間に起きた数値」を大幅に上回っているとも言われる。

次回は、「釧路」


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2010年3月16日火曜日

日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」

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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」


アイヌの反乱・・、

納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。

根室半島北部、ノッカマップの「北方原生花園」


海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。 
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。 
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。 


温根元の先に「トーサムポロ」という湖沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。

一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。


続いて「ノッカマップ」という地域に来た。 
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、現に、ノッカマップ岬という地が存在している。
ここも克っては多くの歴史の舞台であったといい、そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。



「クナシリ・メシナの戦い」

「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。

そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。 
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。 
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。

現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。



1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようまい」(珸瑤瑁と書くが難解である。根室市珸瑤瑁地区)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。 


江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。 
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。 
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。

1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。 
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。


この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。 
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。 
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。


この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。 
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。

その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。

この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。 
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。


この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。 
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。

北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。 

このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。

近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)


因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。 
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。


次回、霧多布湿原 



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2010年3月15日月曜日

日本周遊紀行(64)根室 「納沙布岬・北方領土」

【北海道・太平洋道】 根室⇒⇒⇒⇒函館



日本の本土最東端・「納沙布岬」(諸島を除く)


日本周遊紀行(64)根室 「納沙布岬・北方領土」


歯舞の集落を抜けると、周囲の景色はただっ広い草原の海岸に変わる。
そして間もなく「納沙布岬」へ着いた。 

先般、カミさんと訪れた時は風雨が激しく、車から一歩も出れない状態で早々に退散し、ホゾを咬む(臍を噬カむ:悔いること。後悔しても及ばないこと)想いであった。 たが、本日は薄曇りのマズマズの天候に恵まれていたのは幸いであり、北方の島もボンヤリながら見通せる事が出来た。 

納沙布岬は北緯43度22分、東経145度49分に位置する「本土最東端の地」で、日本で一番早い日の出が見ることができるため、(実際は緯度が高いため日本一早いわけではない。 千葉銚子の犬吠埼である)正月元日の早朝はお目当ての人々で相当な混雑が有るとか。 

岬の先端には道内最古の灯台が立ち、周辺は北方領土への思いを込めて造られた看板や石碑等が多く目につく。 
また、岬の手前には「望郷の岬公園」というのが在って、「望郷の家・北方館」などの施設のほかモニュメントなどもある。


前の稚内の項でも記したが、「ノシャップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味らしい。 地図を見ると、下顎に根室半島(納沙布)、上顎に知床半島で根室海峡が大きく口を開き、千島・北方諸島を今にも噛み付き、飲み込もうとしているようである。 
「北方領土は俺のもんだ・・!!」 と言いた気(げ)である。


北方領土の事は先にも記したが、海のすぐ向こうには現在ロシア連邦の実効支配が続いている「歯舞諸島」が望まれる。 歯舞諸島、貝殻島まではわずか3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿を現すという。 

またこの辺りの海域は、日本海域とロシア海域が共に200海里(※)を取る事が出来ない海域の為、岬から歯舞諸島との間に日・露中間線(事実上の国境線)としてのブイがあるらしい。しかし、日本の漁船は生活のためしばしばこの境界を偶然または故意に越えてしまい、無許可で操業する結果となっていて、ロシア側に拿捕される事件が度々起こっているのも事実である。


(※)200海里とは、排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)のことで、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域のことを指す。沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km、1海里=1852m)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる代わり、資源の管理や海洋汚染防止の義務を負うことになる。



北方領土」の返還を祈念するために作られた高さ13m、底辺の長さ35mのシンボル像がある。 その像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があるという。 
沖縄県波照間島(八重山諸島にある日本最南端の有人島、人口は600人弱)から採火したもので、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれたものという。

1972年5月に、沖縄がアメリカ占領下から日本復帰へとげた。
日本の最南端に位置する島の波照間で、返還運動が全国に広がる象徴的意味合いを込め、又、その願いをこめて採火したものという。 
その時のカンテラが種火とともに北方館に展示されている。 
当初は、「全国民の北方領土返還に寄せる固い決意を返還実現の日まで燃やし続けよう」という事で24時間点灯されていたが、現在は燃料(ガス)経費の節約のため、北方館の開館時間(9:00~17:00)のみ火が灯されているという。


終戦直後、旧ソ連が不法に占拠した北方領土は、60年以上過ぎた今も日本に返還されていない。
日露間の交渉は今現在暗礁に乗り上げていて、この先いっこうに光がさしてこないのが現状である。
稚内の項でも記したが、ソ連軍は昭和20年9月5日頃までに北方領土を占領した。 無論、終戦宣言の以降のことである。 
同年8月15日時点(終戦日)での北方領土の日本人島民は3120世帯、17300人を数え、7割以上が昭和元年以前から島に住むに人々であったという。 
39校あった国民学校(小学校)などへ子供が通い、千島列島の北端の島には水産会社の社員2500人がいた。 
ソ連軍が四島に侵攻した時、住んでいた一部の島民は着のみ着のまま北海道へ脱出したが、島に残った他の人々はシベリヤや樺太に抑留され強制労働をさせられた。 
其の後、一部は昭和24年頃までに日本へ強制退去させられたという。

北方領土は我が国固有の領土であるが、現在はロシアの不法占拠の下にあるため現状は判らない部分もあるが、北方四島の規模、大きさは択捉島は3,139平方キロで鳥取県とほぼ同じ、国後島は1,500平方キロで沖縄本島とほぼ同じ、 色丹島は255平方キロで隠岐の島本島とほぼ同じ、 歯舞群島、つまり水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、貝殻島等で構成されていて総面積は101.平方キロと小笠原諸島とほぼ同じである。 
北方四島の総面積5000平方キロで福岡県より広く、沖縄県の2倍以上あるという。

地理的には、平均気温は8月で16度と涼しく北岸はオホーツク海、南岸の太平洋は千島海流(親潮)と黒潮の交流店で世界の三大漁場の一つともいわれ、サケ、マス、タラ、カニの宝庫ともいう。



【追記】

2006年8月16日、水晶島付近の海域で操業中の、根室市花咲港所属のカニかご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した。 日本政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議した。 しかし、この海域はロシア側の実効支配海域であるため、ロシア側にとっては国境侵犯密漁事件としており、日本側の「この海域は日本領海」とする抗議とは根本的な点で相容れないために今回の問題をさらに複雑にしている。 紛争自体は致し方ないとして、ロシア側に少なくと「未必の故意」(みひつのこい:実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態)としての殺意はあったと考えられ、重大事件にしては日本政府の反応がいかにも鈍い。

因みに、アメリカの漁船が同じようにロシアに拿捕、銃撃され殺されていたらどうなっているか。 アメリカ政府の対応は日本政府とはまったく違っていただろう。 その相手との力関係が如実に現れるのが外交力、国力であり、戦力という背景なのかも知れない。
いずれにしても、アメリカに日本の国自体を守ってもらおうという受身の意識が、独立国としての自立心、自尊心を弱め、アメリカの傘を借りなければ力のある外国に対抗できないという状況になっている。

今後の日本政府のロシアに対する迅速かつ的確な対応を期待したいのと同時に、周辺の怪しげな国々を見聞きするにつけ「日本人、日本国はどうあるべきか・・!」を真剣に考え、再構築しなければならない時期が到来しているようにも思われてならないのである。


次回は、根室のアイヌ民族





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01. 15.

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