平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」 .
写真:国道沿いに建つ「親不知親子の像」
写真:旧国道(親不知の見所)
建設当時岩壁に彫られた文字「如砥如矢」
写真:現在の親不知の景観
市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。
営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。
そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。
無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。
一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。
珍しそうに、取り留めない話の後、
「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」
「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに」
という。
確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。
この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。
現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。
山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。
その下に解説版が有って・・、
『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。 明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・糸魚川 』 と記してある。
ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。
この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師・探検家で、『日本アルプスの登山と探検』を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。
『 青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。
彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である 』
(日本アルプス登攀日記,W・ウェストン)
これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。
W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。
天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。
北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。
同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。
又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。
親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。 芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。
それでも「奥の細道」には、
『今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、』 と記している。
「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。
又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。
この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる。
『 親知らず 子はこの浦の 波枕
越路の磯の 泡と消え行く 』
以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。
国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 だが、鉄道の北陸本線は7~8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。
この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。
次回は、「糸魚川」
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