平成日本紀行(221)七尾 「能登島」 .
能登島に架かる農道橋
能登島大橋
能登半島を巡って、穴水町に戻ってきた・・!、
能登の内浦を更に入りこんだ七尾湾の湾口に能登島という巨大な島が浮かび、波消しブロックを置いたような海域になっている。 この島が七尾湾を北湾、西湾、南湾と三つの湾に分断していて、従って海面は鏡面の様に凪いでいる。
そんな北湾の北に穴水港があり、周辺海域は更に複雑な入り江を成している。
海域の穴水は古来より「海の幸」が豊富なところであり、牡蠣、サザエ、白魚(いさざ)などなど、これらの豊富な食材をキャンペーンを兼ねて、四季折々の「食材祭り」というのがあるらしい。
穴水ではこれを「まいもん祭り」と称し、「まいもん」とは、能登弁で「美味いもの(うまいもの)」という意味だそうで、「穴水まいもんまつり」は、春夏秋冬四季折々の旬の能登の味覚(=まいもん)をお客様に提供しながら、自らも豊かな食材を楽しもうという、何とも羨ましい祭りなのである。
春の陣、夏の陣、秋の陣、冬の陣の各期間に分け、春はいさざ祭り、夏はさざえ祭り、秋は牛祭り、そして、冬は牡蠣祭りと実に多彩である。 これらは役所自体に「穴水まいもんまつり実行委員会」という組織があって、各々音頭をとって実施しているらしい。
いやはや、羨ましくも、結構なことです。
七尾湾の鏡のような美景を左にながめながら、七尾線が並行して走る国道249を南下する。
目の前に、七尾湾を塞ぐように能登島の大島が迫ってくる。
島によって隔てられた三方の海を大口瀬戸(湾・北側入り口)によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸(湾・南側入り口)によって七尾市の本州側と対している。
その三ヶ口瀬戸に架かる中能登農道橋(ツインブリッジのと)を渡る。
「農道橋」という地味な名称であるが、何の々々、最近開通した実に立派な吊橋である。
袂(たもと)に園地が有ったので、一服しながらカメラに収めた。
次に、能登島の西岸を進みながら、次に本陸へ戻るため能登島大橋をめざす。
能登島は二つの橋が架かる以前は湾内の本土の眼前に在りながら、陸の孤島ともいわれてきた・・?、
尤も、孤島ではあるけれど古来より人が住み着き、遺跡によれば縄文期の生活跡が見られるという。
一時期は伊勢神宮に「食」を納める御厨(みくりや)の栄誉も授かっているらしい。 そうかと思えば、江戸期には加賀藩の流刑地に指定されていて、主に政治犯(思想犯)がこの時代百数十人が流されてきたという。
その閨(ねや)地区に「閨観音堂」(ねやかんのんどう).という古堂があり、小さな観音堂とほぼ完全な五輪塔が30基、他に10数基の欠けた碑と珠洲焼の骨壷の破片が散在している。 年代は定かでないが江戸期の流人達がこの島で骨を埋め、その祀りの古跡ではないだろうかと想像されているが・・?。
現在、能登島は能登島大橋とツインブリッジのとの二つの橋が揃い、島は観光地化していて水族館やガラス美術館、ゴルフ場、キャンプ場等が人々を寄せている。
島から渡り返す能登島大橋は、吊り橋構造の農道橋と違って橋脚構造のオープンなコンクリートの橋である。
橋の中ほどから既に、七尾の「和倉温泉」の賑やかそうな、ホテルや旅館の家並が見えている。
1kmの橋程を終えれば、ここは既に和倉の温泉地であった。
十字路を右手に行った、程なくして五階建ての本日の宿舎「フローイント和倉」が在った。
たぶん、今回この旅程の最後の宿泊地になるであろう・・!。
次回は、「和倉温泉」
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