日本周遊紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(2) .
資料:往時の平泉寺絵図と現在の様子
九頭竜川中域の平泉寺・白山神社と白山信仰について・・、
九頭竜川中流域は、勝山市域で白山山域の山麓に位置する。
平泉寺・白山神社は、加賀、越前、飛騨(石川・福井・岐阜)の県境にそびえる霊峰・白山(2,702m)の信仰に端を発し、富士、立山とともに日本三霊山に数えられ、古来修験道の修行道場として栄えた。
寺院の開祖は、奈良期の名僧・泰澄大師(たいちょうだいし)が開いたとされる。
日本では山そのものを、古来、神聖なものとして崇拝されていた。
加賀・白山は夏でも残雪があり、何時でも雪をいただく神聖な山として信仰の対象となっていた。
以前の山岳信仰は神聖な山を遠くから遙拝するだけであったが、地元の高僧・泰澄大師は夢のお告げに従って直接白山の頂上を目指した。
そして、その登程の苦しさを厳しい一つの修行、禅定(心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想)と捉えた。
白山の頂上を白山天領といい、又、その修行の登山道のことを白山禅定道ともいった。
白山信仰が広まるにつれ、白山は、村の鎮守の神として地域に多くの社も建てられたという。
江戸時代、三国間(加賀、美濃、そして越前)には白山山頂の領有をめぐっての激しい争いがあり、最後には江戸幕府が山頂と山麓の村を天領とすることで決着がついたという。
しかし、争いの本質は宗教的なものではなくて、むしろ権益を奪い合うということであったとする。
白山へは三国其々の馬場(ばんば、道のことで信仰登山の登山口)があり、その馬場には白山を祭祀する社寺がある。
越前の馬場は、勝山の「平泉寺」(白山神社)であった。
しかし、越前では白山の表道として白山馬場があったが、本峰、主峰が加賀の国に在ったことは口惜しいかったに違いない。(現在は加賀、美濃の国境)
白山の主尊仏は「九頭龍」であるから水神の性格を持つものであり、それが白山信仰の根幹となり、本来は古代から越人(古代名でコシノヒト)の土俗の神であり、地主神であった。
平泉寺は、今から1300年前の奈良時代に「泰澄大師」(越前国、現、福井市出身、泰澄寺)という徳の高い僧によって開かれた。
その後に神仏習合が進み「白山平泉寺」と呼ばれるようになり、白山を神としてあがめる白山信仰の寺院として白山権現とも通称された。
若狭一の宮でも述べたが、所謂、平泉寺は白山神社の別当寺であった。
つまり、神が仏に乗っ取られ・・?、全て仏式による祭事が、ここでも行われるようになったのである。
今では勝山の古(いにしえの)の由緒ある寺院であるが、だが、その歴史を辿れば中世の頃の白山平泉寺は「悪僧の巣」でもあったともいう。
比叡山と白山平泉寺・・、
平安初期には,叡山系の修行僧が白山によく入山し、9世紀には叡山の僧徒が白山権現を延暦寺に勧請したともいう。
従って、越前馬場の平泉寺は1084年に延暦寺末寺となり、加賀馬場の白山寺、美濃馬場の長滝白山神社(白山中宮長滝寺)も平安末には延暦寺の末寺となった。
かくして白山を取り巻く末寺は、白山教団として延暦寺を背景にした政治的にも軍事的にも一大勢力に成長した。
白山の僧徒は、延暦寺の僧徒と呼応して権現の霊験を説き、北陸、濃尾地方に散在しながら隆盛を極めたという。
同時期、各地に白山神社が創祀されたが、とくに中部より東日本に濃密であったという。
僧侶達の軍事的意味合いの一つの例として、「平家物語」に次の行(くだり)が有る。
『 白山が一大鳴動を起こし、それが叡山に伝わって一山震動して、叡山僧兵団が都に乱入して御所を脅す・・』・・と
南北朝期には、平泉寺の名で代表される白山勢力は「日本国一番の法師大名である」と、当地を治めた朝倉氏の史記にもある。
又、「平泉寺に行けば食える」といって、近郷近在の次男、三男坊が遥か遠方から素浪人として寄り集って来たともされる。
当時の平泉寺は、僧兵八千といわれる北陸一の武装勢力で、社、お堂、院坊合わせると、その数三百とも四百とも言われた。
次回、「叡山の滅亡と平泉寺」