平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」 ,
引揚者、そして戦争難民とは・・?! 、
一般に、満州からの集団引揚げは1946年春から一時期の中断を含め、尚連続して行われていたらしいが、しかし中国内戦が激化したことや、その果てに中国大陸を支配した中国共産党政権が樹立することによって中断された。
日本政府はこの間、中国と国交を結ばなかったという背景もあり、1958年には集団引揚げは打切られ、家族には不明家族の死亡宣告を迫り、そして残留者保護対策の終息を図った。
日中国交正常化から9年後の1981年頃より、再び、彼らの多くは日本での肉親を探し始め、やがて肉親探しよりも日本への帰国を目的とするようになった。
彼らが次第に中国残留孤児や中国残留夫人と呼ばれるようになり、帰国のための調査、面談が行われるようになったのは承知である。
中国残留の人々は、小生達(引揚者)とは異なった“次元”(一時、外地・中国での生活を強いられた人々)で大変な苦労をされた方々である。
そのことについても一言、記しておきたい。
「満州国」崩壊と難民化:、主として拓務省および関東軍との関わりについてである。
拓務省とは、1929年から1942年にかけて設置された省で、拓務大臣(たくむだいじん、拓相)を長とした行政組織である。
当時、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖などの業務監督、海外移民事務などを担当した。
中国残留孤児や中国残留婦人とは、「昭和の屯田兵」、「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと強調、賛美されて満州への移住を勧められ人々である。
戦時下の現地(満州国の開拓期)では、兵役のため召集(18~45歳男子)された父や兄弟や夫からは切り離され、殆どは女性、児童、高齢者しか村には残っていなかったのである。
そんな中、内地では敗戦濃厚となっていた終戦間際、満州では突如としてソ連軍が侵攻してきてソ連兵や中国の現地民に追い立てられ、鉄道等の避難経路へのアクセスが困難な地域では、住民たちは戦争難民になった。
尚且つ、付近に駐屯していた関東軍がいたにも関わらず、満州国防衛はおろか、人民を放棄して撤退していった。
その関東軍に置き去りにされ、指定された避難所への集結をめざして徒歩による逃避行となった。
当然ながら逃避行の途中では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者および自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え、寒さ、伝染病等に苛まれ、死ぬか生きるかという切迫した状況の下におかれた。
人々の中には現地人(主に中国人)に招かれたり、拾われたり、もらわれたり、買われたり、さらわれたりするかたちで妻あるいは養子として現地の家族へと統合されていった児童や女性もいた・・!。
これら満蒙開拓民(中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称)として渡満した人々が、そうでない人々よりもどれだけ「艱難辛苦の砂を食わされた」かを指し示す資料として、満州開拓史刊行会(1966年版)を参考にした数字が下記に表される。
【開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異】
A:終戦時在満邦人数(関東州を含む)
B:敗戦に基づく一般邦人の死亡者数
C:何人に一人が死亡したか
D:死亡指数(非開拓民比)
「全体」 「開拓民」 「非開拓民」
A:1550000人 270000人 1280000人
B:176000人 78500人 97500人
C:8.81人 3.44人 13.13人
D:1.49倍 3.82倍 1.00
『岸壁の母』 歌・双葉百合子 詞・平川浪竜 曲・藤田まさと
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
呼んで下さい おがみます
あゝおっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ
母と子に
(台詞)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない…
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ…。
帰れないなら大きな声で…
お願い…
せめて、せめて一言… あれから十年……
あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
この肌で温めてやりたい……
その日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている……
悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ
(台詞)
ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛し子待ちて今日も又
怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……
次回は「小浜・鯖街道」
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