「世界は一冊の本だ。 旅をしないものはその本を一頁しか読まないことになる。」
(アウグスティヌス:古代キリスト教の神学者、哲学者)
平成日本紀行(199)宮津 「天の橋立・北」 .
傘松公園より天の橋立(股覗きの名所;資料)
写真:天橋立の北側風景(堤は砂流出防止のための砂防堤)
『 神の代に、神の通ひし 道なれや
雲居に続く 天の橋立 』
古歌にある「天橋立」は、南側の宮津線天橋立駅の近くで眺めるのが一般的であるが、籠神社の参道横、ケーブルカーで傘松公園に行き、ここの展望台から天橋立の景観展望も絶景であるという。
しかも、屈んで股の間から覗くと、「天に浮かぶ虹の架け橋」のごとく天空に天の橋立が浮かんでいるようだという。
多くの観光客は丹後の一の宮である籠神社を通り過ぎて、展望公園での「天の橋立の股のぞき」を楽しみ、バスで西国28番札所の成相寺に参詣するのが普通であるという。 由緒ある丹後国一宮にも是非寄って貰いたいと地元の人は望んでいるという。
天橋立は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、天と地とを通うのに立てかけたハシゴが、眠っている間に倒れてしまって出来たものと「丹後国風土記」には記されている。
天橋立は又、海橋立、海浮橋という古名もあり、海神の宮による竜宮ロマン伝説もあるという。
我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界とを結ぶハシゴによる天浮橋が倒れて出来たものと素朴に感得してたらしく、天橋立は遠い神代から籠神社の神域の内にあり、又、近代に至っても境内であり参道であった。
幕末・文政の頃、元伊勢(籠宮の事)を目指した善男善女の「お蔭参り」の列が、天橋立を埋めつくしたと云う記録も残っているという。
何人かの歌に、
『 何時よりか 天浮橋 中絶えて
神と人とは 遠ざかりけむ 』 ともある。
今の宮津市は和名抄に載っている昔の宮津郷であって、宮津と云う地名は宮(籠の宮の津・港)の意であって、それから宮津の地名が起きたと伝えられる。
又、籠宮の古称は、かっては「与佐宮」(与謝郡の地名の起こりでもある)とも云われ、宮津市域に隣接している与謝郡の地名も併せて天橋立・宮津・与謝の三地名は、古代の籠神社との縁由を物語るといわれる。
天の橋立の砂州の辺りを暫く歩いてみた。
樹齢数百年の古老の松が埋め尽くし、中ほどに一筋の道が延びている。
南西に突出する砂嘴(砂洲)は、全長約3キロ、幅40~100m、潮流と風によって運ばれた砂の堆積によるもので白砂青松の美観を呈する。
しかしながら天橋立の砂州は近年、侵食により縮小・消滅の危機にあるという。
これは、戦後、上流河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂の流出・供給量が減少し、天橋立への土砂の堆積・侵食バランスが崩れたためであるとされる。
これ以上の侵食を防ぐため、行政では砂州上にそれと直交して小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂をそこで食い止めようとしている。(写真)
波打ち際に立つと、確かに砂州と直角に石積みの防潮堤が幾筋も見える、やや景観を損ねるが止むを得ない処置だろう。
神代からの景勝地は、絶対保存が条件である・・!。
「伊達の松島」、「安芸の宮島」そして「丹後の天橋立」は、共に日本三景であることは周知のとおりであり、日本人の最も美景を満足させる所である。
次回は、伊根「舟屋」