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日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「内宮・正殿」
伊勢神宮:「内宮正殿」
(千木の先端が水平に切られていることは「女神」を表す。 通常、正殿:神殿内部は写真を撮ったり、見ることはできない)
境内最奥に神宮本殿が鎮座していて、正しくは「御正殿」(ごしょうでん)という
大きな石で造られた石段があり、老若男女、子供からお年寄りまで、また外国人を含め、毎日大勢の人々がこの石段を登って参拝している。
小生も「これから先の旅の道中安全」と通常、仏神に祈願している文言を唱える。
作法は、「二礼二拍手一礼」・・!が一般的であるが、御正殿の正式な参拝の仕方は古来は和式礼法に基づいて、座して礼をとるのが正しいらしい。
そして、祈願は己一望もさることながら森羅万象、今在る自分の有難みを自然に感謝することとしている。
正面に白い幕が下がっているので直接に御正殿内を見ることはできないが、向こうにそびえている御正殿の萱ぶき屋根や、まっすぐに伸びている棟持ち柱(遷宮の時、宇治橋の内側の鳥居になる)を見ることはできる。
伊勢神宮の正式名称は皇大神宮(内宮)といい、八百万(やおよろず)の神の総代、そして皇室の祖神である「天照大御神」(アマテラスオオカミ:女神)が祀られている。
天照大御神のお引越し・・!、
元々は「大和の国」の皇居に祭られていたものを、東方の日・出ずる地として何処か鎮かな場所に移そうと思い、垂仁天皇(すいにんてんのう・神武天皇から数えて第11代目の天皇)が、神風に護られた伊勢の国に移したものである。
伊勢は山の幸、海の幸にも恵まれた清らかな国であり、皇女(天皇の娘)の「倭姫命」に天照大神の祭祀を託したことから、この国に遷宮され「伊勢神宮」を興したと伝えられる。
二千年も前のことである。
本社殿は「唯一神明造」(ゆいいつしんめいずくり)といわれる様式で、「唯一・・」と付くのは、神宮だけに用いられる呼称である。
建物は、全て直線式の檜の素木(しらき)で造られ、屋根は切り妻造りの萱で葺かれ、「中央平入」形式《建物の平側(屋根、棟に対して直角方向)に出入口を設ける形式》で、土台は高床式になっている。
これは弥生期における稲作文化が発達した頃、稲を収める倉庫の形式から由来しているともいう。
屋根の頂きは「鰹木」(かつおぎ)といっての棟木の上に横に並べて装飾してあり、両隅は「千木」(ちぎ)といって破風の先端が延びてV状に交叉した木で飾ってある。
尚、千木は、古代様式の住居では、屋根を支えるための大切な構造材であった。
しかし、現在では神社の千木は装飾的な意味合いが強く、千本の先端が水平に切られている場合は「女神」を祀っていることを示し、垂直に切られている場合は「男神」を祀っていることを示していると一般的にいわれている。
無論、内宮・正殿は女神の天照大神を祀っている事から、千本の先端は水平に切られている。
左右に地面から社殿を支える「棟持柱」(むねもちはしら)が直立している。
全体が美的で清楚、簡素にして荘厳な感じがし、日本でも最も古い形式の社殿であるという。
正殿の様式美は、「究極的、極致的形式」
著名なドイツの建築家、ブルーノ・タウト氏が「究極的、極致的形式」と絶賛したという。
余計だが、小宅の神棚には、全く同形式の極小社が安置してある。
日本人の祭事の根本がここにある
神宮の祭事は、日本人が生きてゆく為の最も基本的な、特に食についての御祭りが多く執り行われる。
祭事は、一日単位のものと、一年単位のものとを合わせると実に1600種を数えるとも云われる。
一日の祭りは主として神宮の食事で、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と呼ばれ、神様の食事は1日2回で、外宮の御饌殿で神様にお食事を奉る。
メニューは御飯三盛・御水・御塩と海の物、山の物で、野菜は全て神宮の御園(みその)で栽培されてる。 また米や塩も特別に造らるという。
一年のお祭りは、各月の決められた日に目的に応じて行うことになっている。
中でも月次祭(つきなみさい)は6月と12月に行われ、10月の神嘗祭(かんなめさい)とともに三節祭(さんせつさい)と呼ばれる重要な祭りである。
月次祭は本来毎月行われるべきものを略したもので、古代から毎年陰暦6月・12月の11日に神祇官で行われ、当日の夜は天皇が神饌を供え、神と共食したという。
神嘗祭はその年の初穂を神々に捧げるという意味があり、年間の中でも最重要の祭りである。
「神々の正月は神嘗祭」とも言われ、祭り器具など出来る限り新調する。
又、新嘗祭は天皇が新穀を神々にお供えし、自らも召し上がるのに関連した祭りである。
かつては、その年の新米は神嘗祭で神様がお召し上がり、天皇が新嘗祭で召し上がるまでは、一般の人々は新米を食べられなかったと言われる。
伊勢神宮は、平安期における「延喜式神名帳」(平安初期の年中儀式や制度を決めた中で、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式の巻9、巻10の神名式をいい、宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載したもの)以降においても特別扱いの「別格」とされ、明治期には政府によって国家神道の頂点に決められていた。
現在では、政教分離の神道である神社本庁の本宗(ほんそう)とされて、正式名称は「神宮」としている。
ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼び、単に神宮と記した場合には伊勢神宮のことになるという。
何時の時代においても共通するのは、「伊勢神宮」は社格が存在せず、全ての神社の頂点とされている。
従って、有名な神社も地域の神社も全てが神宮に連なっているということになる。
ただ基本的な神社の起因からすれば、「神宮」は大和朝廷一族を祭った神社、つまり天皇の祖神を祀った神社ということであるが、例えば出雲大社や諏訪大社は大和朝廷が滅ぼした部族の神を鎮めるための神社であるとも云われてもいる・・?。
参拝者も時代の変遷とともに変化するが、神武天皇が即位したとされる年を元年とする「神武天皇即位紀元(皇紀)2600年」(1940年・昭和15年)には約800万人を記録し、現在では約600万人前後になっていることは先に記したが・・、
尚、内宮対外宮の参拝者数比率は7:3程度になっているという。
「伊勢に参らば〇〇もかけよ、〇〇かけなば片参り」
古来、伊勢神宮に参拝すれば、こちらも参らねばならないと俗謡に詠われている。
〇〇は、伊勢神宮との関係が深い寺社や神社で多賀大社(内宮神の御両親;滋賀県多賀町)、多度大社(内宮神の御子;三重県桑名市多度町)、熊野三山等々を言っているようである。
さて、御正殿より左の方角へ向かうと同社と並んで大きな敷地が広がり、そこには縄張りが敷かれている。
左の隅に白地の木看板が掲げてあった。
『 平成25年、第62回式年遷宮御敷地(しきねんせんぐうみしきち) 』・・と。
「式年遷宮」については次回へ
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