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日本周遊紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」
長良川、揖斐川を仕切っている堤防の「千本松原」と記念碑
壮絶な「治水工事」の歴史的事実
名古屋城からは都市圏の高速道を利用し、そのまま湾岸道から三重方面を目指す。
弥富を過ぎると「木曽川」の長い橋梁を渡り、中州の・・?の長島地区から今度は揖斐川(長良川)の大河を過ぎる。
長良川、揖斐川は一体のようであるが、実際は中州の仕切りがしてあり、この中州は、この辺りから上流へ向って「千本松原」が緑豊かに延びている。
昨日通って来た駿河の原海岸に在る「千本松原」もそれなりの歴史があったが、こちらはそれのも増して過酷な重い歴史を背負っていた・・!!。
この三つの大河川は、濃尾平坦地で複雑に絡み合っているのが実情のようだ。
先ず、木曽川は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(2,446メートル)南方を水源とし、南西に流れている。 下流域ではかつて揖斐川、長良川と急接近し、合流・分流しながら伊勢湾に注ぐ。
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流している。
又、揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山に源を発し、おおむね南流しながら、途中一部木曽川、長良川と平行して流れ、河口附近の三重県桑名市で長良川と合流、そのまま伊勢湾に注ぐ。
揖斐川及び長良川とも、河川法上では木曽川水系に包括されていて、水系全体の流域面積は全国5位の広さに相当し、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。
なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流し、揖斐川の名称で木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。
河川は、江戸期以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離・分流されて伊勢湾に注いでいるが、その中で所謂、輪中(水災を防ぐため一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、水防協同体を形成したもの。岐阜県南部の木曾・長良・揖斐の三川の下流平野に形成されたものは有名)と呼ばれる集落も発達した。
輪中の代表格が三重県の長島輪中、他に上流部・岐阜県側の高須輪中、大垣輪中、墨俣輪中などがある。
この木曾三川と言われる大河川は、下流部においては急接近して流れていたため洪水が絶えなかった。 そのため、江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたことは歴史上有名である。
特に、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」の改修工事が有名で、「宝暦治水」というのは、歴史にその名を残した壮絶な工事であったという。
木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。
この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。
そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。
1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。
そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。
この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。
尚、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。
薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。
幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで、工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。
この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。
平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねた。 平田は自らの死を担保にしたのでる。
工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。
工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。
そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成するに至った。
この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく候 」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、
『 住みなれし 里も今更 名残にて
立ちぞわずろう 美濃の大牧 』
の時世の歌を残し自刃している。
平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。
現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。
昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。
岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。
輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもあった。
ところで平成17年に合併して成立した海津市は海津町と南濃町、そして平田町が合併してできた市である。
平田町は昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して成立した新しい町だが、その平田の名は当然ながら平田靱負正輔に由来している。
地名をとって名字にする例はよく聞くが、功績のあった人物の名をとって地名とする例もないわけではないが珍しいという。
ここからも長きにわたってこの人物が地元の人々から慕われていた事を窺い知ることができるだろう。
しかし、平成の大合併で又しても歴史に名を残した由緒ある地名が消えてしまったのは残念である。 せめて、平田海津市くらいにはして欲しかったが・・?。
尚、遠く離れた鹿児島県と岐阜県とは、苦難を極めた薩摩義士の偉業を讃えるとともに、この絆を深めるため、昭和46年7月、姉妹県の盟約を結んでいる。
木曽川、揖斐川を渡ると桑名である。
平成16年12月、海岸温泉の長島町と歴史の町・多度町が桑名市と合併し、新桑名市に成っている。
この辺りから右手に鈴鹿の山並が遠く望める、あの頂きは御在所岳であろうか・・?、麓に湯ノ山温泉があるはだが。
左は四日市の石油コンビナートが目に入る、中京工業地帯有数の工業地域で、名古屋港にならぶ貿易港でもある。
1960年代にかけて発生した大気汚染による公害・「四日市喘息」は世間の注目をあびた。
硫黄酸化物による集団喘息障害であり、日本の四大公害病(水俣病=熊本・有明湾の有機水銀による生体異変、第二水俣病=新潟・阿賀野川の有機水銀中毒、イタイイタイ病=富山・神通川下流域でのカドミウム汚染・骨の異変、)の一つとされて、現在における大気汚染防止法等、日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えたといえる。
四日市の南に日永という地区がある。
ここは京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあたり「日永の追分」といわれる処である。
追分とは道が二またに分かれるところで、伊勢神宮への桑名の一の鳥居に対して、この地に、二の鳥居が建てられている。
市名は四のつく日に市がたったことに由来すると言われる。 御在所山麓の湯ノ山温泉は四日市の奥座敷といったところか。
次回からは近畿道で、先ず「関の鈴鹿峠」
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