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日本周遊紀行・西日本編 「出発;先ず横須賀へ」
いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。
以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。
大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い。
これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいたが。 ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会を楽しみに。
前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。
6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・?
軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。
R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である。
しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る、初めに三浦半島の横須賀へ向かう。
「戦艦三笠」・・、
一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。
明治時代、伊予松山の秋山兄弟と正岡子規はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?
極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか。
横須賀港に記念鑑として保存されている「戦艦三笠」
2005年の今年は、日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から100周年に当たり、それは奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大の姿が、横須賀港の三笠公園に停泊している。
大正期に現役を退き、記念艦として保存されていたが、太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てていたが、 その後、「三笠」を復元させようとの声が内外で高まり、多くの人々からの募金、政府の予算、アメリカ海軍の支援もあり、昭和36年(1961年)に現在の姿になったという。
まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った、中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。
見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。
時は「明治」・・、
日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。
日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。
ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。
これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。
その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。
当時の日本の外務大臣・小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。
かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。
「戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。
その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。
1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。
このとき、伊予・松山出身の秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として評価されている。またZ旗の信号文『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』も彼の作である。
尚、大陸陸上部では日本陸軍騎兵隊指揮いる秋山真之の実兄・秋山好古が、ロシアコサック騎兵隊を悩ませ勝利に導いていく。
三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、
横須賀基地(よこすかきち、JMSDF Yokosuka Naval Base)は、海上自衛隊及び在日米海軍司令部の基地で第7艦隊の前方展開拠点として置かれている。基地には、以前は空母ミッドウェイ、空母インディペンデンス、最近では空母『ジョージ・ワシントン』の寄港地として有名。また、イージスシステムを搭載したミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)といった軍艦が事実上の母港としている。
米海軍の基地としての是非はともかく、自衛隊とともに、日本国土や首都・東京の防衛に当たっていることも確かである。
基地内部には一般人は立入れないが、年に1、2度公開され、空母の中にも入れることがあるという。昔の核持込疑惑の頃は船が入る(空母が入港することを地元の人間はこう呼ぶ)度に大騒ぎだったが、最近はとても静からしい・・?。
R16からR134を行く、細長く入組んだ浦賀湾を左に見ながら一つの丘を越えると再び見通しの良い湾に出た。その名も「開国橋」と名の付く橋を渡って間もなく「ペリー公園・ペリー上陸記念館」があり、園の中央に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」(伊藤博文・書)の大きな文碑がある、海岸には錨のモニュメントがあった。
次回は、・開国の町・「浦賀」
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