日本周遊紀行(131)横浜 「横浜開港」
明治後期の横浜港(開港資料館所蔵)
近年(2009年)、横浜開港150年を迎えたことは、前回、記した・・、
江戸期の「横浜」は、東海道の宿場として神奈川宿それに保土ヶ谷や戸塚が賑やかであったにすぎず、当時の横浜(横浜村)の港は、砂浜が広がる戸数100戸足らずの小さな漁村だったという。
横浜の地域は、隣地・鎌倉に幕府が置かれた華やかな鎌倉時代においても、せいぜい北条氏により称名寺や金沢文庫が建てられ、また小机に水田が開かれた程度で、さして注目はされなかった。
その主な理由は地域全体が丘陵地、山坂がかなりの部分を占めていて、農作物の作付けにも適さず、人の往来の自由をも阻んでいたと思われるのである。
横浜港域としては、歴史的には鎌倉幕府の玄関港として繁栄していた六浦湊(現在の横浜市金沢区)の存在にまで遡ることが出来るが、原型は神奈川湊(かながわみなと)の方にあると考えられている。
神奈川湊は、東京湾内海交通の拠点の1つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展して行く。 現在の横浜市神奈川区神奈川本町、青木町付近にあった。(京急・神奈川駅付近)
江戸末期には船舶は大型化し、外国船受け入れの為の大型の港が必然となってきた。
その前提として19世紀半ば、神奈川湊沖で締結された「日米修好通商条約」にて、港としては現行の神奈川宿の湊が取り敢えず開港場に指定された。 しかし、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊は避けるべきだとの合意で、幕府の指令によって対岸の横浜村に新規に港場を新設することを改めて決めた。
実際に開港したのは横浜村(現在の中区北側近辺)であり、港やその周辺の工事は突貫工事の急ピッチで行はれたという。
これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿、保土ヶ谷宿や周辺の村々の人達の所謂、民間の人々であったと言われる。
1853年,アメリカのペリーが来航して以来、日本は鎖国政策を取り止めて、神奈川(横浜),長崎,箱館(函館)の三港が開港し、外国との自由貿易が出来るようになる。
横浜港が開港した当時は、現在の大桟橋の付け根付近に二か所の波止場が造られたが、それでも大型の船は波止場に直接に付けることができず、沖に停泊し「はしけ」や「汽艇」とよばれる小さな船が陸との間を往復して荷物や人を運んだといわれる。
1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)、横浜港は開港し実際に貿易を開始した。
開港に先立ち、幕府は横浜への出店を奨励する御触(おふれ)を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋が開店したほか、全国から新しい港で一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜港は急速に発展したという。
その後の横浜港は「金港」(現在も金港湾など、その名が残る)とも呼ばれ、開港当初から昭和初期に至るまで綿花などの原料・鉄類・機械の輸入と生糸・糸・絹織物の輸出を主とし、特に生糸の貿易港として発展していく。
更に、京浜工業地帯の発展に伴い、鉄鋼・機械類・油脂の輸入と、機械類・金属製品・鉄鋼の輸入を主とする工業港となる。
現在では、コンテナ貨物取扱や倉庫物流の拠点としても重要な役割を担い、日本有数の貿易港となって東京港、川崎港と併せて京浜港群のスーパー中枢港湾として発展していくのである。
尚、横浜市は6月2日を開港記念日としている。
そして、来年の2009年は開港150年にあたり、横浜市としては盛大に「開港記念祭」を計画しているとのこと。
次回、最終地は小生の地元「厚木」
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