日本周遊紀行(129)東京 「半蔵門と甲州道」
江戸期と現在の「半蔵門」
江戸城・表門の大手門に正対する「半蔵門」の曰く因縁・・、
東日本・前編の「甲州街道」でも述べたが、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。
名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。
立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。
天正10年(1582年)5月、徳川家康は駿河国拝領の礼のため織田信長の居城・安土城を訪れていた。
そして6月2日、祝賀を終えた家康は帰路、堺で遊覧中に京都で起った「本能寺の変」を知ることになる。
信長と義兄弟の間柄にもあった家康は、当然、光秀の襲撃の対象にされていた。
この時の家康の供は、小姓衆など少人数だったので極めて危険な状態となり、狼狽した家康は感極まって信長の後を追おうとするほどであったという。
この時、側近の本多忠勝に説得された家康は、服部半蔵の案内と護衛を受けて伊賀越えを決行し、加太越(現在の鈴鹿峠)を経て伊勢国から海路で居城である三河に向かい、かろうじて戻ることができた。
服部半蔵の見事な采配振りを高く評価した家康は、後に半蔵を伊賀同心(甲賀同心)として幕府警護のため江戸に出府(幕府の所在地たる江戸に出ること)を命じることになった。
甲州街道は江戸城・半蔵門に直結していて、一般の街道基点である日本橋には繋がっていない。
現在も今の国道20号線、つまり「甲州街道」がこの城門に直結しているのである。
それは何故か・・?、
家康は江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。
江戸と各城下町を結んだ街道造りもその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。
日本橋から京都の三条大橋に至る最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。
五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられたことは周知である。
その「参勤交代」であるが・・、
沿道には東海道には145家、日光・奥州街道には41家、中山道には30家の各藩があった。
では甲州街道では何家の大名が使ったか・・?、 実は三家だけであった。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、それに3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
しかも、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。
甲州街道を進んでいくと、御存知あの「東京・新宿」(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)がある。 そのすぐ北側・新大久保辺りに「百人町」がある。
更に進むと八王子には「千人町」があり、その後、山梨・甲府城につながる。
甲府城は武田家亡き後徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり徳川幕府が治めている。
つまり、甲府は徳川の領内のようなものであった。
因みに百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所、千人町は、千人同心(治安、警察の事をつかさどった役人:郷士身分の幕臣集団)が住んでいた場所である。
その訳は、もしも江戸幕府に事変が発生した場合、将軍は服部半蔵の部下に守られながら甲州街道を進み、そして百人鉄砲隊に護衛され、更に千人の同心に守られながら幕府直轄の甲府に逃げるのであった。
つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのであり、甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていたという。
大名格式の「お茶壷道中」・・?、
甲州街道では大名行列にも劣らぬ大行列があった。
「お茶壷道中」というのがそれで、幕府に献上される「京・宇治の茶」を、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入り江戸に向かった。
御道中は将軍通行と同じ権威をもち、この道中に行き当たったら、たとえ大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。
庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・」というのは、どこかで聞き覚えがある。
このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間といい、ほぼ江戸時代を通して続いていたという。
新宿・百人町を過ぎた辺りから「下にー、下にー・・、」と掛け声も一段と大きくなり、正面「半蔵門」を通過した行列は、やがて西の丸である将軍世継ぎの住居居間か大奥へ運ばれたのかも知れない・・?、
因みに、「お茶」というのは、昔は貴重な飲用物であった。
織田信長などの戦国武将は「茶が万病の薬」であることに気づき、武将の為の戦の重要な飲み物として「お茶」を大切に扱い、それが更に発展し利休や文化に造詣のある武士たちが茶道という作法を作り、「お茶」に権威付けしていた。
そして江戸時代には鎖国という特殊な環境から、益々日本文化の頂点として「お茶」が花開いていく。
「御茶壷道中」は、江戸初期の1632年(寛永)に三代将軍・家光が始めたとされる。
この頃の「お茶」は、武将の為の重要な飲み物で、武士以外の人は特別な事情が無い限り、お茶を飲む事は出来なかった。
つまり「お茶」はお殿様だけの飲み物だったのである。
そのため「御茶壷道中」の「お茶」に、大名行列と同じ権威付けをし、大名でもないのに一般庶民は御茶壷に頭を下げ、一度抜かれれば二度と追い越せない事になっていた。
これには庶民は大変不満だったようで、ご存知の「わらべ歌」に残っている「茶壷に追われてどっぴんしゃん」というフレーズは、この「御茶壷道中」を皮肉った一般庶民の抗議の歌ともいわれる。
次回は、「江戸城炎上」
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