日本周遊紀行;温泉と観光(34)松島 「坂上田村麻呂」(追記)
写真、手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の○印が清水寺
(Asahi・comより)
前回からの続き(追記)です・・、
最近、京都の「坂上田村麻呂」の遺構が再確認されたという。
平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から西野山古墓であることが特定されたという。
京都大学の吉川真司・准教授(日本古代史)が、「清水寺縁起」のなかに、田村麻呂の墓地としての記述がある「太政官符」(当時の公文書が残っているのではなく縁起に書き写したもの)を再発見し、確認したとされている。
京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されている。
内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏の根拠地である点からその一族の誰かと推定されていた。
今回、田村麻呂が創建したという「清水寺」(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」の中に、弘仁2(811)年の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題が記されていたといい、それによると行政の最高機関が、土地を管理する民部省に送った文書の中に故・田村麻呂の墓地に関する記載がある。
「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。
その場所は今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。
尚、「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述については注目されていなかったという。
田村麻呂は平安期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷(えみし)の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。
西野山古墓は、清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。
古墓は8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致している。
既に大正8年に墓穴が見つかり、出土しているという。
こうした研究から時代と位置と身分が一致し、「坂上田村麻呂」の墓と特定したという。
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。
この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。
次には、松島の大伽藍「瑞巌寺」
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