google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。

2010年4月15日木曜日

日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」

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今回より北海道の日本周遊紀行;「温泉と観光」の後編として北端の「宗谷岬」から南部の「洞爺湖」周辺の全13編を投稿いたします。
お楽しみに・・!




日本周遊紀行;温泉と観光編(16) 「宗谷岬」



写真:本土最北の地・「宗谷岬」のシンボルマーク(小生が訪れた時刻を指している)




 日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」 


遂に、北の果てへ来た、そして稚内から宗谷岬に向かう。

途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある。
北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。

周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。 
「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。 
さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。


国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。

こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。

丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。 
最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと。
調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。 

宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。 
その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。 

1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。



海面より少々高目を、「宗谷岬」を目指して進む・・、

岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。
三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。

駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。

岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが、しかし今は遠い・・?。 




その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。

江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。 
更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。

林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。 
忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。 

忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。 
林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。 

両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。


1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。 


日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。 
又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ。

明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。 
その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。



岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。



『宗谷岬』  歌:千葉紘子

流氷融けて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙も嬉し 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬


幸せ求め 最果ての地に
それぞれ人は 明日(アシタ)を祈る
波もピリカの 子守のように
想い出残る 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬



海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。

この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。 何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。

因みに、日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。
北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 小生はこの呼名は余り好きではないが、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たるとかで、使われてないようだが・・?。


「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下することのなる。
次回からも御期待下さい。

稚内の関連リンク
稚内 「宗谷岬」
稚内 「野寒布岬」
稚内 「九人の乙女の碑」
稚内 「氷雪の門」



次回からは、「猿払」




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2010年4月14日水曜日

日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」 

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 日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」   


天塩川河口に建つ、松浦武四郎像と歌碑
『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
       今宵ぞ夏の とまりをばしる 』

『 ながむれば 渚ましろに 成にけり
        てしほの浜の 雪の夕暮れ 』



ところで、北海道を一周して又、この執筆中の調べ物から「松浦武四朗」という人物によく出会う。
関係した現地には歌碑や像、顕彰碑が各所に建立され、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 
往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が、『この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう・・』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。


既に紹介したが・・?、
松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。
北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。
武四郎が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話からであったという。

北海道の「」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 
武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという。


松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・旅行家、探検家であり地理学者、登山家でもあった。
生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 
少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400~500万人もいたといわれていた。
当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという、武四朗少年はこれをきっかけに「」に目覚めたという。

十代前半 から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。
個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 
北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている。 
描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという。 
これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。


江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 
政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」(現在の開発庁長官)に任命した。 
明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 
武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが、しかし、一年余りで退任しているという。

それは何故か・・?、
武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったといわれる。

アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。 
翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 
又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 
しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 
この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。

この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 
政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。
この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山登りを楽しんだという。
松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える。


次回からは再び本州に戻るが、その前に北海道東部の「温泉と観光」をどうぞ。 

先ず、流氷の町・「紋別」 




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01. 15.

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