2017年8月31日木曜日

平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」






  平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」    .




「桃太郎伝説」は実際にあった・・! 、

前回の「桃太郎伝説」の続きになるが、これらを裏付けるように2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる。

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱で、中国の複数の史書に記述が見られるという。
列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする見方もあるとされる。 

記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記日野郡誌にも記録があるという。

後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。 
この争いは後に、あの「卑弥呼」(ひみこ)を共立する事によって収まったとされている。 


この時期の古事記の条を見ると「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、共々に播磨口を入口として、吉備国を平定なさった」と記されてあり、吉備津彦命が大乱に関連していると考えられる。
2世紀後半の頃、近畿、中国地方においては出雲や吉備、九州筑紫地方で戦乱、つまり倭国内での大乱があったことが記されているようである。 

又、地元の「日野郡誌」には、中国地方(出雲国・伯耆国・吉備国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在しているとして、この伝承が倭の大乱に関連しているともしている。 


大山北麓の「孝霊山」に関して・・ 、
大和の国から遠征してきた孝霊天皇は、日本海から上陸して孝霊山に居を移したとある。
この遠征の最終目的地は出雲周辺であり、大和と出雲の騒乱は「倭の大乱」として表していると想像されるとある。 

孝霊山麓には「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)というのがあり、弥生期の2世紀頃の遺跡とされ、全国最大級の規模という。 
郡誌は、孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが、実際には妻木晩田遺跡のすぐ近くであり、伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋して姫を皇后にしたとあり、孝霊天皇の皇后の出身地であることから最大級の遺跡になったとも考えられる。 
すぐそばには高杉神社があり、孝霊天皇が祀られていることは前述した。


「倭の大乱」以前・・?の出雲統治圏については先の出雲の項にも記したが、その領域は山陰・北陸地方から信濃の国、瀬戸内海沿岸地方から筑紫の国であったとされることから、「倭の大乱」後は、出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっているのである。 


出雲神話によく登場するが、大国主が戦さに敗れて「国譲り」を行い、出雲一国の国王になってしまったことをも表わしてもいる。 

出雲の国王は、出雲地域を離れる事は無かったが、出雲に対するリーダー(吉備の主とも言われる)は各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。 

ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで数世代はかかったとされ、統一された連合が大和朝廷(ヤマト王権)で最初の統治者が「卑弥呼」であるとされる。

考古学の見地からも「倭国大乱」、つまり出雲、吉備(大和)地方においても争いがあったことは裏付けられているという。



次回も「倭国大乱」の続き、




01. 15.

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