google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(116)対馬 「占領下の対馬」

2016年5月19日木曜日

新・日本紀行(116)対馬 「占領下の対馬」




九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





 新・日本紀行(116)対馬 「占領下の対馬」 






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江戸期、「対馬」は華やいだ・・、

江戸時代になって、幕府が対馬に藩を置き城下を造り、この地に朝鮮外交の事務局を置いたのである。 
将軍が交代するたびに鎖国下においても、朝鮮通信士(数百人にものぼる朝鮮外交団)がこの対馬を経由して、はるばる江戸を往来したという。
この時期、沿道、諸国、日本はある種の朝鮮ブームだったと言われる。

明治期の近代においては、ロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府は、軍を配置し国境最前線である対馬島の要塞化を図った。 
国境線に近い海岸線の各地域に砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。 
特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、又、竜ノ崎砲台には戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。
豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。


終戦後の昭和23年頃のある時期、韓国・李承晩大統領が「対馬は韓国の領土だ・・!」と言い放った。 そして竹島は実際に韓国が」此の宣言によって実行しはされているのである。

当時の日本は米国の占領下にあったから、日本の領土に関することは米国・国務省に持ち込むのが筋であった。 しかも、日本に辛苦を嘗めさせられた代償に対馬をよこせ、と言うならまだしも我が領土だ・・!、と言い放ったのは拙かった。 

昨今公開された国務省機密文書によると、大統領の意を組んだ韓国の駐米大使がダレス長官に会い、対馬の領有を主張したとある。(日本が敗戦で苦悩している最中の、ドサクサまぎれに・・!) 

古来、朝鮮・韓国が領土の件で、外交問題化したのは稀有だという。 
この申し入れに対してダレス長官は「対馬は極めて長期間にわたり日本の領土である」とキッパリ言って、この件を一蹴させている。


次回、対馬 「李承晩ライン」

  
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