google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 近畿地方・兵庫神戸; 「一の谷・Ⅱ」

2015年8月31日月曜日

近畿地方・兵庫神戸; 「一の谷・Ⅱ」






 近畿地方・兵庫神戸; 「一の谷・Ⅱ」 





当時の合戦の模様と進路




現在の一の谷の様子、



 
気候や立地に恵まれた神戸は、すでに古代から歴史の中に登場している。
大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。

平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 

この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。 つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう、実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあった。


そうした福原の建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、遂に、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
その後の源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。



古書・平家物語には・・! 、
『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。
先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり』とある。



一の谷につづく、





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