google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」 

2015年1月10日土曜日

新・日本紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」 





 新・日本紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」 



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真鶴・岩港の風景





「真鶴・岩」・・、

いわゆる西湘バイパスから小田原の石橋を抜けると、間もなく「真鶴」である。
半島の手前に「岩」という小さな海岸が在る。 

夏になると孫達を連れて、海水浴をしに海辺の民宿に数回泊まりに来た事があった。
波の小さな入り江の砂浜と端には適当な岩場があって磯遊びも出来る。 
正面には真鶴道路の岩大橋が高方に架かる。


この「」にも中世に歴史の一コマが有った。

平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆へ流されて20数年、北条氏の庇護のもと娘・政子を妻に娶って更に強固な姻戚関係を結んでいる。
一方中央・都では奢れる平氏を打つべく、後白河天皇の皇子「以仁王」が諸国の源氏に令旨(皇太子、親王等の命令を伝える文書・勅書に次ぐ物)を出し、伊豆の頼朝にもその親書が届けられる。

頼朝は、これを期に北条時政や土地の豪族を頼って、伊豆に威を張る平兼隆を討つ、そして正規に平家打倒の旗を挙げる。
しかし次の「石橋山の戦い」では三百騎を率いる頼朝を討つべく集まった平家に仕える地族ら三千余騎との戦いに敗れ去る。

その際、土肥実平の案内で土肥の山中に逃げ込み、平家方の追っ手から逃れる。
土肥実平は土肥郷に勢力をもつ武士であり、その土肥郷とは現在の伊豆の土肥ではなく湯河原町,真鶴町,小田原市の一部であったとされる。
追ってを逃れた頼朝は更に真鶴から海路安房の国への逃走を成功させる、逃亡する際に船出した港がこの「」海岸と伝えられている。





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湯河原温泉




城願寺:土肥実平御手植えとされる樹齢800年の「ビャクシン」、左の建物は「7騎堂」



湯河原について・・、

真鶴半島の付け根、山中のJR真鶴駅前を過ぎて海岸に出ると、そこには湯河原の広大な海岸線が眩いくらいに光っている。
こちら湯河原そして熱海は伊豆半島の首根っこ、付根の部分に位置する。

伊豆半島は伊豆箱根富士国立公園と合い間って、富士火山脈の中枢に当たる。
ある機関によると、伊豆半島は富士火山脈の上にあり地質上地殻変動のために割れ目が多く、また火山活動が活発で、周囲を海に囲まれ、降水量は年間3,500mm内外で、年平均気温は16℃内外と高温多湿で、植物の生息に好適な気象条件を備えているという。
それ故、植物の育成が良好で、森林区域は半島面積の74%に達し、したがって地下水の保水量が多く、温泉湧き出しには好条件であるという。

静岡県は温泉湧出量が全国で有数の温泉県になっていて、源泉数は大分、鹿児島に次いで三番目であり、その殆どが伊豆半島に占められている。 

失礼・・、「湯河原」は神奈川県でしたが、県境の川を隔てて静岡県熱海市泉地区にも温泉宿があり、伊豆湯河原温泉と称している。 
温泉場の中央、千歳川と富士木川が合流するところに万葉公園がある。
これは万葉集にあやかって名付けたもので、湯河原温泉は万葉集にも詠われている程の古湯で、それが為か往時は文人の湯とも言われた。

湯河原の地域以外に「万葉の湯」という名称の湯館があるが、湯河原の温泉湯を持ち込んでその名を付している。 
湯河原駅から千歳川の谷を遡るように温泉街が続いている。
隣の熱海には巨大温泉ホテルが林立しているが、こちら湯河原は日本形旅館が主体で、古くからある「温泉街」の風情が残っている。 

湯河原吉浜海岸は長大な砂浜が広がっていて、遠浅なのでサーファーやファミリーにも最適な海水浴場になっている。



土肥の庄・・、

湯河原は歴史の舞台でも著名なところである。
平安期の頃は「土肥の庄」と呼ばれていた。 その土肥の統領・「土肥実平」は頼朝の熱い信頼ある御家人だった。 
頼朝の源氏旗揚げの時は、平氏の嫡流の身でありながら、土肥の郷主・土肥二郎実平は源頼朝に付き、奮闘貢献し平氏滅亡に寄与している。 

湯河原駅北側に城願寺という立派な寺院がある。 
後年、実平は土肥郷内に寺院を創建し、其の後土肥氏の総菩提寺となっている。  

一時、土肥一族は鎌倉で滅亡したと言われたが、実平の子孫は着実に有ったという。
孫は安芸国(広島県)に移り「小早川」を名乗り、後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となっている。 

また四代目は越中・富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて実平から800年以上、土肥氏は今も其の地で繁栄を続けているという。 
富山周辺地域は今も土肥称が多いという。 
土肥郷の城願寺には越中の土肥氏の多くも葬られているという。


土肥家は、あの毛利家の支柱・小早川家の祖でもある・・、

因みに、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・土肥実平の嫡男・遠平は、小田原の早川に領地を与えられ地域にちなんで「小早川」を名乗った。 
後に、源頼朝が全国に守護・地頭職を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。

小早川家は、戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられ、小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)

本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなり、隆景には子供がいなかったため家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。

ご存知、小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。

ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見された。
この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。


湯河原・城願寺には、土地の豪族「土肥実平・遠平」父子の像が立ち、本堂左方に土肥氏一族の墓所、66基の墓石がある。 
墓石は重層塔、宝筺印塔、五輪塔などの各種の墓型が揃っていて、このように一墓所に各種の墓型がそろっているのは、関東地方ではめずらしく貴重なものだそうだ。 
一角に七騎堂なる御堂がある。

頼朝が石橋山に陣を布き、手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが、多勢に少勢、勿ち敗走して土肥の山中の洞窟に身を隠し、真鶴海岸から房州に落ち延びた。

この時、同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。 
七騎堂にはこれら七士の霊を弔っているという。
又、境内には迫力の樹木がある。土肥実平が寺院創建時に、自ら植えと伝えられる「ビャクシン」の大樹で、幹のねじれが著しく、小枝もよく茂った古木である。 
樹齢約800年(推定)といわれ、国の天然記念物に指定されている。

因みに、このビャクシンという樹は長寿で、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。


次は「熱海温泉







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