2014年2月5日水曜日

新・日本紀行(129)東京 「江戸城攻防の西郷と勝」







新・日本紀行(129)東京 「江戸城攻防の西郷と勝」





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勝海舟と西郷隆盛の像




「桜田門外の変」から8年後、江戸城の西郷と勝は・・、

幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた。 
あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。
江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。 

官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。



幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。 後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。

やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。
この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。

官軍による江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に、勝と西郷隆盛の会談が行われた。 
この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。 
相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。

勝は、『 戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。 』と言えば・・、 

『 一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。 』
西郷が答える。

こうして、「江戸城無血開城」が決まった。
慶応4年(1868年)のことであった。



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01. 15.

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