google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(110)いわき湯本 「石城地方・Ⅱ」

2013年5月3日金曜日

新・日本紀行(110)いわき湯本 「石城地方・Ⅱ」








新・日本紀行(110)いわき湯本 「石城地方・Ⅱ」




東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 
だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断され、動乱も起きている。 
石城地方は、それらの旧態勢力と新規勢力の迎撃、侵攻の拠点であったらしい。 
この地に石城軍団が置かれていて、石城の大領(たいりょう:平安初期における郡の長官のこと・陸奥国磐城郡の大領)・磐城雄公が配され、天皇から從五位下という官位まで受けているという記録もある。

大和朝廷の東北進出は、始めは武力が主であったが経営的には文武両面、つまり文化の面からも行なわれたであろうといわれる。 
その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。

飛鳥初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の(みことのり:天皇の意思、ことば)が出されるまでに到る。 
後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は東北地方における仏教教化の重要な拠点であったとされ、その中の一人に「徳一」という高僧がいたことは史実でも明らかにされている。

徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 初め東大寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下ったとされている。

藤原徳一は、平安初期における新興宗教の開祖・空海とも相容れず、同時期の「最澄」との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん:後述)を展開したことは有名である。 
この間、陸奥国会津、常陸国筑波山など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。


次回は高僧・徳一と「長谷寺





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