google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 3月 2013

2013年3月31日日曜日

新・日本紀行(106)仙台 「伊達政宗」

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 新・日本紀行(106)仙台 「伊達政宗」 




青葉城址の伊達政宗公が仙台市内を見下ろす


国道45は、そのまま行くと仙台市内へ向かっている。 
だが、小生は仙台市内には小旅行や娘が仙台在住の時期に数度訪れて観光をしているので、今回は市内のビル楼閣を横目に見ながら沿岸部の国道6号バイパスを行くことにする。


「伊達者」とは・・?、

杜の都・「仙台市」は慶長5年(1600年)伊達政宗が開いたというのは衆知のことで、仙台といえば伊達藩、伊達藩と言えば「伊達政宗」であろう。 
東北の覇者、「伊達者」(だてもの)といわれた正宗は、御存じ「戦国の雄」として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」ともいわれる。 

伊達者(だてもの)」とは、朝鮮出兵時に政宗が揃えた戦装束が余りに派手で華美なものであり、上洛の道中において巷間(ちまた)の噂となったことから呼ばれるようになったといわれる。 
これ以来、派手な装いを好み、着こなす人を指してと伊達者と呼ぶようになったと伝えられる。 だが、正宗の本音は派手好みの秀吉の気に入るよう、危ない橋を渡らないよう画策計算したものであった。 

この「伊達者」の意味を現代風に言うと、人目につくように形を表す意味、つまり、侠気を示す意や派手に振舞うの意になり、更に「伊達な若い衆」、「伊達や粋狂じゃない」などと言われ、又、見えを張ること;外見を飾ることで「伊達めがね」などと言われるようになったようである。



伊達政宗は1567年に「米沢城」で生まれている。 
1567年といえば室町末期に当り、世は戦国期の動乱に入ろうとしていた時期である。因みに、同時期の織田信長(34歳)は美濃・斉藤家の稲葉山城を陥し、「天下布武」を発して京に上った時期であり、そして、豊臣秀吉(31歳)は信長傘下で墨俣城を築城し、美濃攻めで稲葉山城を攻略、美濃の竹中半兵衛を軍師に迎えている。又、家康(26歳)は、今川義元亡き後、武田信玄と協定して今川氏の領国を割譲し、遠江(とうとうみ)を得ている。


米沢城」は、米沢藩の主城であり、上杉家の名相・上杉景勝、上杉鷹山(ようざん・治憲、日向国高鍋藩出身)などの居城として有名である。 
築城は鎌倉期、源頼朝の事務方大番頭・大江広元の2男、長井時広が奥州征伐後(奥州藤原氏)に頼朝の命で地頭職になったのをきっかけに築城されたようである。

長井氏は8代・約150年続くが、室町初期(1380年)に伊達宗遠(8代)が置賜地方を攻略すると、伊達家の支配下となっている。 この時期に伊達政宗(17代)がこの城で生まれ、伊達家の全盛期を築くことになる。

伊達氏は政宗の時代に一時、会津若松城移るが秀吉によってすぐに米沢城に戻されてる。
そして秀吉の「小田原攻め」に遅参した伊達政宗は、岩出山の一揆を扇動したという理由も付加させられて、米沢城から「岩出山城」に左遷されている。

現在の岩出山は仙台市の北、古川市と鳴子の間に位置する岩出山町である。
移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行ったとされている。 その後に、伊達政宗への引渡しを行ったとされている。
以後、仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となった。 

その後、正宗が仙台城に移ってからは、岩出山城は仙台城の支城、仙台藩主一門の岩出山・伊達氏が居住する要害になり、明治維新まで続くこといなる。 
尚、岩出山城には仙台藩の藩校のひとつである「有備館」が置かれ、現存する最古の藩校として名所、史跡に指定されている。


伊達政宗」は豊臣政権時代から隙あらば天下を収奪しようと何度も策略していたとされ、従って、中央から常に警戒されていた。 
彼は「あと20年早く生まれていれば、天下が取れたのに」と悔しがっていたともいわれる。

徳川期の正宗は信任があったらしく、特に、三代将軍・徳川家光からは尊敬されていたらしい。 家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともあり、将軍就任の際に、正宗は率先して頭を下げ諸侯を抑えたともいわれる。 

病床に着いた際も将軍・家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。 将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったともいわれる。

伊達者・伊達政宗は、1636年(寛永13年)5月江戸で永眠した、享年70歳であった。 
独眼流正宗は、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられているという。

辞世の句は・・、

 『 曇りなき 心の月を 先だてて 
            浮世の闇を 照してぞ行く
 』


次回、政宗築城の「仙台城」(青葉城)




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2013年3月28日木曜日

新・日本紀行(105)塩釜 「鹽竈・・?」

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 新・日本紀行(105)塩釜 「鹽竈・・?」 





鹽竈神社・本殿



「鹽竈」・・・?、

昨日から相変わらずの小雨模様であった。
日本周遊の旅に出て、幸いにして殆どの期間が秋日の好天に恵まれてきたが、旅の終わり近くになってどうやら雨に遭遇したようである。 
四季晴雨の豊かな国土・日本である、雨も良しとしよう。


松島の隠れ里の温泉宿(「温泉と観光」の項にて後述)を早々に後にして、塩釜に到った。
こちらで小生の好物・「吉野家」で「納豆朝定」を食し、人心地がついた。



塩釜市は、「鹽竈神社」の門前町である。

地域名は、現在の通称文字である「塩釜」であるが、本来は鹽竈神社から由来しているので、「鹽竈」が正しいともいわれる。 
だが「鹽竈」、現代の用語としては、余りにも字画が煩雑難解であり、鹽と塩は同意語であることから、「」を塩と変えて「塩竈」としているようでもある。 

公の機関の官公庁、公文書等、本来の意味を尊ぶ呼称としては「塩竈」としているが、「」の字も、これまた字画・字形としては難解であるので、一般的な書き方は「塩釜」になっていて、これで良いことになっているらしい。 

しかし本来「釜」は、ご承知ご飯を煮炊きする「かま」であり、「竈」は「かまど」と称して「釜」を載せて下から火で焚くものである。 「釜」と「竈」は、類似語のようで同意語ではないといい、疑問を呈する人もいるという。 従って、「鹽竈」を「塩釜」としたのは、些か無理があったようだが、それにしても、昔の人は難解な字を平気で使用していたものである。



鹽竈神社は文字通り製塩の神様で、御神体に塩の神が祀られている。 
製塩が行われた地域には全国に何箇所か、この名称の神社があるという。 

因みに、鹽竈神社は奥州一の宮である。 
一の宮、二の宮というのは、平安期に朝廷が社宮を核付けしたもので、その国で最も社挌の高い神社のことをいう。 宮中央(朝廷)から各国に国司が赴任したときなどには、先ず一の宮を参拝し、その後に二の宮、三の宮と巡拝しなければならなかったという。



塩釜の隣町が「多賀城市」である。

多賀城は奈良・平安期に朝廷の国府「多賀城」が築かれた地であり、東北の中心地であった。 坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)の人々との争いを封じるため、都よりはるばる遠征して来て、北の拠点としたのも、この地であった。陸奥国の総鎮守、多賀城から見て北東の方角に位置する鬼門として建てられのが「塩竃神社」であったという。

その塩竈神社は、塩釜市街地の西、その名も宮町に広大な境内を有して鎮座している。 
陸奥国の一宮であり、全国にある塩竈神社(塩釜神社とも表記する)の総本社でもある。

塩土老翁神(シホツチノヲヂ)を主祭神とし、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ;いずれも古事記、日本書紀に登場する日本の神々)を相祭神としている。
塩土老翁神は、海や塩を神格化した神と考えられ、神武天皇や山幸彦(火遠理命:ホオリノミコト・神武天皇の祖父)を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。

境内に、「志波彦神社」が同座している。 
祭神は、志波彦神(しはひこのかみ)とされているが、志波(しは)と鹽(塩・しほ)の読みから塩土老翁神とする説もある。

神社の由緒は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。 
奥州藤原氏など歴代の領主からも崇敬され、伊達政宗は仙台城築城の際に社殿を修造し、以降、歴代の仙台藩主が手厚く保護したという。

塩釜神社境内には「シオガマザクラ」という貴重な桜の一種があり、毎年メディアに取り上げられるほど有名である。
塩竈神社の主各殿、志波彦神社及びシオガマザクラは国、県の文化財に指定されている。

堀川天皇(平安時代後期の第73代天皇)が来訪の折、次のようなシオガマ桜の歌を詠んでいる。

『 あけ暮れて さぞな愛で見む 塩釜の 
          桜が下の 海士のかくれ家
 』




次回は杜の都・「仙台





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2013年3月26日火曜日

新・日本紀行(104)石巻 「北上川流域の盛衰」


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 新・日本紀行(104)石巻 「北上川流域の盛衰」  




石巻へ来た。 
市街の中心を清冽な「北上川」が流れ注ぐ。

この北上川は「旧北上川」と称しているが、一方、「新北上川」が追波湾に注いでいることは、先回の項目で述べた。
「新北上川」は、旧北上川の流量調節や、農業・水運のため、昭和の初頭、津山(柳津)で分流し、旧追波川を改修、合流させ運河として造成したものという。

北上川は岩手の中枢を流域とし、往時は水運文化として栄え、栄華を極めた地域である。
その流域には、一関、平泉、衣川、前沢、水沢、胆沢(いさわ)、江刺、金ヶ崎、北上、花巻といった、既に大和朝廷時代の古代から知られる地域名が多く並んでいる。 



古代奈良期の頃までは、この辺りは未だ東国・蝦夷といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう。 
大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 
そして最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(後述する)で、彼によって決着をつけられるのだが、この時期に北上川は多いに利用され改修もされたという。

後には俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれる安倍氏の反乱である「前九年の役」などを経ながら藤原全盛期を迎えることになる。 
平泉の藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の文化圏を形成した。 
それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。
宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」といえる。 

ただ、岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、

『 古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。こんな国が他にあるだろうか・・、』、とも述べている。

北上川には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布しているが、それは苦難の歴史を秘めていることでもあり、今は只、ゆったりと流れている。



江戸時代の石巻港は北上川水運によって南部藩領からも米が下り、河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名であった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 
これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。

尚、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。

当時はまだ鉄道もなく、道路も未発達だったので物資輸送は舟運が中心であった。
そこで宮城・岩手間の米輸送に欠かせなかった北上川に着目し、更に、北上川と阿武隈川を結んで東北の輸送の大動脈を造ろうと考えたわけである。
運河は岩手県北上盆地、宮城県仙台平野、福島県中通りの広大な河川交通・物流に供するものであったが、仙台平野においては江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路、排水路としての機能も重要であった。

しかし、北上川の度々の洪水や鉄道輸送との競合によって、近年はその役割を終えている。 現在は、物流に用いられる例はまれであるが、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーに用いられている。 運河沿いの一部には自転車専用道路も設置されているとか。


2011年(平成23年)3月11日:東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)による津波で旧北上川河口から逆流した水で旧市街地全域が、また、新北上川(追波川)河口から流域部が広域水没または浸水。
また石巻工業港以東の石巻湾から太平洋(外洋)側までの沿岸部の、旧雄勝町・河北町・北上町及び旧・牡鹿町(牡鹿半島)町域を含む各浜が壊滅的な被害を受ける。

被害の概況. 死者、行方不明者及び避難者数(平成23年5月20日現在). 区分. 死者. 行方不明者.人数は3,014. 2,770人。


次回は、「塩釜


尚、「松島」については後頁、「温泉と観光」の項で詳細記載します。





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2013年3月22日金曜日

新・日本紀行(103)女川 「牡鹿半島」


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新・日本紀行(103)女川 「牡鹿半島」







国道45はこの後、志津川町からは内陸へ向うので、ここで分かれて沿岸沿いの国道398を行くことになる。 
志津川の市街地を通過して、志津川湾を見ながら、神割の岬から北上町(石巻市)に入ると、やがて、R398は北上川の河岸を行くようになる。 
砂州を両側に形成しながら雄大に流れ、河口がまた広大である・・!!。
間もなく新北上大橋を渡る。


こちらの河川はその名も「新北上川」(追波川)と称しているが・・?、

北上川は、岩手県、宮城県を流れる北上川水系の本流で一級河川、流路延長249km、流域面積は東北最大であり、また、日本の河川としては勾配がかなり緩いことも特徴となっている。

岩手県岩手町の「弓弭の泉」(ゆはずのいずみ・★)を主な源流とし、東に北上山地、西の奥羽山脈の間の岩手県中央部である盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを貫流しながら北から南へと流れる。 
宮城県に入り、仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、登米市、津山町付近で洪水防止のため新たに開削された「新北上川」と「旧北上川」とに分かれる。 

新北上川はその後東へ向きを変え、石巻市北上町で追波湾(おっぱわん)に注ぐ、古称では追波川とも呼んでいた。 
旧北上川は迫川・江合川と合流、南流し石巻市で石巻湾に注ぐが・・、このことは後ほど。

★「弓弭の泉」とは・・?、 岩手県北部・岩手町御堂観音(いわて銀河鉄道・旧東北本線「御堂駅」)の右裏手にあり清冷な泉の湧く処、古くから北上川の源泉だと伝えられている。 
11世紀半ばの前九年の役で源頼義、義家父子が、この地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、清水がこんこんとわき出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したという伝承がある。



国道を南下し鎌谷峠のトンネルを抜ける、再び海岸へ出ると女川街道となる。 又の名を「リアスブルーライン」ともいうらしい。 
女川市街の手前まで来ると、崎山展望公園があり、ここからの女川湾が雄大に見渡せる。 沿道の桜の並木が多く、名所になっているらしい。

牡鹿半島の付根にあたる、女川町(おながわ)は東北の原子力発電の街としても知られている。
女川原発では、現在3機が稼動し、東北電力全体の電力量の13%にもあたる発電が操業中とか。 
ちなみに全国の総電力量の約30%は、原子力発電によって造られると言われる。


その女川町は又、金華山沖漁場という日本有数の漁場を抱える。 そこは暖流・寒流が交差する豊かな漁場で、豊富な魚種が数多く水揚げされることで知られる。

女川町は小さな町域であるが、豊かな漁場と原子力発電などの交付金によって財政は豊かであり、そのためか、周辺地域(北上町、牡鹿町など・・)が石巻市と合併する中、石巻市域に囲まれながらも自主独立を保っているという。



牡鹿半島」は小生は勘違いで宮城の「オガ」と読んでいたが、オガ(男鹿半島・秋田)だはなく「オシカ」と呼ぶ。 

その半島の牡鹿町は、永い間「捕鯨の街」だったらしい。
日本沿岸では、昔からセミクジラの回遊があり、湾や入江に迷い込んだ”クジラ”やシャチ等を捕獲していた。 また南氷洋での操業が始まった昭和初期には、国内の大手捕鯨会社が集まって、牡鹿の鮎川浜は捕鯨の基地となっていた。 
しかし、昭和47年、捕鯨を取り巻く国際的な環境が変化し、圧力も年々増し、ついに昭和62年(1987年)を最後に、一部の鯨種を除いて捕鯨が全面禁止となってしまったという。
日々の食卓に欠かせなかったクジラ肉が姿を消し、有数の捕鯨基地であった牡鹿町もかっての面影はなくなった。

現在、ミンククジラについては、IWC(国際捕鯨委員会)でも資源量が十分であることがすでに確認されている。 国と牡鹿町では、沿岸捕鯨の再開とともに、南氷洋で増え過ぎたミンククジラの「年間50頭の捕鯨の再開」をIWCなどで訴え続けているという。

半島の大部分を占める牡鹿町は、2005年4月1日に石巻地域1市6町で合併し、石巻市となった。



牡鹿半島南端のすぐ東に、気象通報でお馴染の「金華山」が在る。
奈良朝期、東北地方で我が国最初の金が産出され、朝廷に献上されたことから「金華山」と呼ばれるようになったという。
港の正面に、その名も「黄金山神社」が鎮座している。
1200余年前に創建されたという、歴史ある黄金山神社の本殿、拝殿等の社殿が立ち並び、祭神は、金銀財宝を司る金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)、金山毘賣神(カナヤマヒメノカミ)であると。

金華山は、出羽三山、恐山とともに東奥三大霊場とされ、明治以前までは女人禁制の島・霊島として、全国から尊崇を集めていたという。 

島全体が鬱蒼(うっそう)とした原生林が生い茂り、四季おりおりの美しさがある。
また野生の鹿が「神の使い」として大切に守られ、参拝の人々を出迎えてくれるし、角切りの神事も行われてるという。



2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、女川町は女川原子力発電所の震度計が震度6弱を観測した(町内の検測所は津波で流失)。 さらにこの地震が引き起こした津波に襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った(東日本大震災)。
また、港湾空港技術研究所の調査によれば、津波の最大波高は女川漁港の消防庁舎で海抜14.8mを記録した。
6月6日:この時点で判明した人的被害は死者488人・行方不明者454人。




次回は、「石巻






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2013年3月19日火曜日

新・日本紀行(102)気仙沼 「名物・ふかひれ」


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 新・日本紀行(102)気仙沼 「名物・ふかひれ」 





白砂と松の緑で目の保養しながら、更に国道45を南下する。 
広田湾を見ながら、宮城県に入ったようである。 

三陸名物のリアス海岸を味わえる場所としては唐桑半島もその一つであろう。 半島の何れからも、断崖絶壁が広がり、眼下には大小の鋭い奇岩・怪岩が連なる。 
半島の東側にある二つの岬、シンボルは巨大な石柱で「折石」という、高さ16m、幅3mの大理石の石柱で、荒波の海にヌッとそそり立っている。 
なんでも「折れ」と頭につくのは三陸大津波で先端が折れたかららしい。 
風光明媚な海岸線が続く唐桑半島であるが、その地形から過去に大きな津波の被害を受けてきた地域でもある。 



G・S(ガソリンスタンド)に寄り、昼時(ひるどき)なので「何処っか、美味いラーメン屋はないかね」、「すぐ其処に有りますよ」・・と小生の車のプレートNoを見ながら「気仙沼はフカヒレラーメンですよ・・!」と、ニコニコしながら云う。 

言われるままに紅いノレンをくぐって早速食してみた。
ヌルッとした食感はサッパリ味で良い、汁も実にいい味を出していた。


フカヒレといえば、漁業で栄えた港町・気仙沼が本場であった。
ふかひれはサメのヒレを晒して干した白色か淡黄色の半透明状の食品のことで、高級中華料理の材料として知られてる。 
フカヒレスープやフカヒレ姿煮として加工され、ふかひれラーメンやふかひれ寿しは気仙沼の味として全国的にも有名である。栄養価としてもコンドロイチンやコラーゲンが多量に含み、不老長寿、百薬の源と健康食としても優等生と言われる。


気仙沼は全国でも珍しい「魚食健康都市宣言」をしている都市だとか・・!。
水産業は東北でもトップクラス、全国有数の水揚げ高を誇るのは周知のことであり、食卓にお馴染みのマグロ、カツオ、サンマなどをはじめ、特に、エビ、カジキ、シイラ、そしてサメは陸揚量全国1位を誇るという(平成16年度)。


このサメだが・・、

多くはマグロの延縄漁の際に釣れるのが「サメ」だという。
そして鱶鰭(ふかひれ)は、大型のサメのひれ(主に尾びれや背びれ部分)を乾燥させた食材である。
日本は元々、世界有数のふかひれ生産国であり国内では、ここ気仙沼の水揚げが最も多いのである。
フカヒレはジンベエザメ、ウバザメのものが最も高級とされ、アオザメ、イタチザメなどのものも高級であるが、一般的にはヨシキリザメのものが使用されることが多いという。
日本の気仙沼産が特に有名で且つ高級品として扱われるのは、加工技術(乾燥など)が優れているためとも言われる。


気仙沼は県の北東端に位置していて、こちらも代表的なリアス海岸を形造っている。

このノコギリの歯のようなリアス海岸一つでもある気仙沼市街地の正面に、半島の如く南へ突き出しているのが実は「大島」という島であった。
本土とは大島瀬戸によって隔てられ、最も狭い場所で230mしか離れていないという。 
鳴き砂海岸」などでも有名だが、自然が豊かな島であり、地元作家の水上不二氏(詩人、童話作家、絵本作家、作詞家・気仙沼市に生まれ育つ)によって「大島よ永遠にみどりの真珠であれ」と称えられた。 
気仙沼港は、元より気仙沼湾の深く入り組んだ処に在り、更に、湾口部には「大島」があることで湾内は常に穏やかであり、「気仙沼の防波堤」の役割を果たしている。 よって気仙沼漁港は天然の良港なのである。


国道45は別名「東浜海道」ともいう、並行して気仙沼線が海岸を行く。
元吉町の大谷海岸から小泉海岸は明るい景観が続く、特に小泉海岸は砂浜の美しいところである。「白砂青松100選」にも選ばれ、若者がサーフィンに興じていた。


歌津町は緑の濃い街で小さな町域である。

伊達藩政以前は、歌津をはじめ三陸一帯の海岸には一本の黒松もなく、見渡す限り荒涼たる浜で怒涛が岩をかみ、飛沫は遠く飛散して内陸に及び、作物は塩害に晒されたという。 
この状態を見て「伊達政宗」が殖産のため防潮林の育成策を打ち出し、それから三百余年の今日まで、種子が次々と飛散して三陸沿岸一体が黒松林で覆われるようになったと伝えられている。
三陸界隈の松林は、自然林ではなく人工林だったのである。 

南下の途中、緑濃き三陸地域に感心していたが、古人の英知に改めて敬服し、敬意を表したい。
志津川町・歌津町は合併協議が順調に進み、来年度「南三陸町」として新たに発足することが決まっている。


次回は、「女川、牡鹿半島」




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2013年3月12日火曜日

新・日本紀行(101)陸前高田 「松原と啄木」

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 新・日本紀行(101)陸前高田 「松原と啄木」 








陸前高田・「高田松原」(震災前の・・・、) 




石川啄木の「一握の砂」・・、

国道.45にはリアス海岸の小さな半島を越えるたびに、いくつもの大小の峠を越えるようになる。
大船渡の細長い町並みを抜けると広田半島(末崎半島)・・?の付け根に当たる山地を行くようになる。 
この通岡峠は、その中でも比較的大きめの峠であろう。 標高はわずかに170mであるが海から一気に登るので、そのわりに道は急坂で険しい。
峠からは遠くに海を臨むことができ、すぐ南に神奈川県民としては懐かしい「箱根山」というのが聳えていて、三陸を代表するような松の緑も秀麗で目を潤す。


この通岡峠を境に「陸前高田」に入る。
峠直下では「三陸自動車道」のトンネルが掘削中のようでもある。 
国道45のドライブで、そろそろ一息入れたいと思っていた時に「道の駅・高田松原」が現れた。 
ゆっくり休憩しながら案内板を見ると、このすぐ裏手に名勝「高田松原」があった。 
小雨模様の薄暗い様気も今はすっかり晴上がっているし、上機嫌で脚を延ばしてみた。



三陸の海岸は、リアス海岸で断崖絶壁ばかりかと思われているが、実は平坦美景な砂浜も多少はある。 
中でも有名なのが、ここ「高田松原」であろう。
こちらも三陸を代表する景勝地で、約2km続く弓形の砂浜は、背後には樹齢300年を超える数万本の赤松や黒松が続いている。 日本百景にも数えられる白砂青松の浜はさすがであった。 
「高田松原」は、往時の江戸初期の頃は、ただの砂浜や湿地帯であったらしい。 気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積され、これが高潮の時や風によって「飛び砂」となり、地域の人々は難渋していたという。 
だがその後、この荒涼とした高田の浜は、人為的に改良されたのであった。


高田松原は江戸初期(1667年)菅野杢之助(かんのもくのすけ)翁が仙台藩の許しを得、地元民の力をかりて「松」を植栽したのが始まりで、三代にわたり植えられ保護されてきたという。 
更に、享保年間(1716~1736)には、松坂新右衛門翁が植栽を続け、ここに、現在にいたる松原の原型が誕生したとされる。 
しかし、昭和35年のチリ地震津波では、200メートルにわたって砂浜が流失してしまったというが・・!。
高田松原は、自然にできたものではなく、数百年の永年にわたり、人の手により作られ保護されてきたものであった。


地元・盛岡出身の歌人・「石川啄木」は折に触れてこの地を訪れ、高田松原や広田半島などの自然に浸り、時を忘れ、その美しい風景に感動して多くの歌や句に詠んでいる。

砂浜を漫ろ(そぞろ)歩きしながら、啄木の歌を思い出した。

 「東海の 小島の磯の 白砂に 
         われ泣きぬれて 蟹にハサマル
」と、駄洒落る。



石川啄木は「一握の砂」の詩集の冒頭に・・、

『函館なる郁雨・宮崎大四郎君(啄木に対し変わらぬ敬慕の情を抱き、物資両面にわたって援助を惜しまなかった歌人・宮崎大四郎:郁雨・いくう)。 同国の友、文学士花明・金田一京助君(アイヌに造詣のある言語学者)に、この集を両君に捧ぐ。 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。 従つて両君はここに歌はれたる歌の一、一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。・・「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり・・』とある。 


表題の『一握の砂』の内、砂に纏わる歌集を集めてみた。

『我を愛する歌』 より・・

 『 東海の 小島の磯の 白砂に 
          われ泣きぬれて 蟹とたはむる 』 

 『 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の 
          いたみを遠く おもひ出づる日 』

  『 大という 字を百あまり 砂に書き 
          死ぬことをやめて 帰り来れり 』

  『 頬につたふ なみだのごはず 一握の 
             砂を示しし 人を忘れず三行書き」に改め、新作を加えて551首の『一握の砂』という題で明治43年に刊行している。 
望郷と漂泊の天才詩人として知られる石川啄木は、僅か26年の生涯ながら「歌は私の悲しい玩具である」、 「歌を作るのは不幸な日だ」と告白しながら、「一生に二度とは帰って来ない命の時の一秒」をいとおしみ、消え去る刹那の感動を見事に表現しているという。 

啄木は、岩手県玉山村(盛岡市北東の村、2006年:平成18年1月10日に、盛岡市に編入合併されて消滅した。)生まれ、1902年、盛岡中学を自主退学して上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねている。
病気で帰郷の後、 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年「一握の砂」を発表、出版している。
1912年肺結核のため東京で26歳の若さで永眠する。 第二歌集「悲しき玩具」は死後出版されたものという。

ただ、石川啄木が、この地「高田松原」の砂浜に、腹這いしたかどうかは、定かでない。


陸前高田市街地の北部、大船渡線で一駅の地区に「竹駒」という地区がある。 あの演歌歌手「千昌夫」の出身地である。
彼は高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家・遠藤実氏の門をたたき、「北国の春」を歌ったのは周知である。 
北国の春は1977年発売、最終的に 300 万枚を売上げたという超ヒット曲で、今では日本以外のアジア各国でも大ヒットし、中国では、現在でも最も有名な日本の楽曲の一つとされている。

寒い北風の中、氷点下の冬を過ごす北国に住む人にとって春の到来を告げる南風は待ち遠しい。 
「北国の春」は、千昌夫の故郷、出身地である陸前高田の竹駒地区を連想させるが、実際は、この歌を作詞した「いで・はく」は信州・南牧村の出身で、故郷の野辺山周辺をイメージして作詞したといわれる。

余計だが、カラオケ好きの小生にとって「北国の春」は、良く唄う歌ではあるが、それ以前にヒットした「星影のワルツ」が強烈に印象に残っている歌なのである。
私事ながら、東京へ転勤になって一人寂しい暮らしが始まった時でもあり、その孤独感を癒してくれた或る女性とのつかの間の「愛」を育んできたが、とある事情で露と消えてしまった時期でもあった。 
この時に大ヒットしていたのが「星影のワルツ」であり、巷では厭でもこの曲が流れていて耳に入る。 
まるで悲壮感漂う小生の心境を謳いあげているような錯覚さえしたもんであり、この曲だけは歌好きの小生でも、今も歌うことが出来ないのである。


星影のワルツ』 曲:遠藤実(昭和43年)

別れることは つらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影の ワルツをうたおう
冷たい心じゃ ないんだよ
冷たい心じゃ ないんだよ
今でも好きだ 死ぬ程に





【追記】 .

平成23年(2011年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、この地震が引き起こした大津波によって市中心部は市庁舎もろとも壊滅し、市の全世帯中の7割以上が被害を受けた。 その年の6月30日 :この時点で判明していた陸前高田市における死者は1,656人、行方不明者は95人である。
改めて、お見舞い申し上げます。



以前の高田松原


残された希望の一本松




次回は、「気仙沼




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2013年3月10日日曜日

新・日本紀行(100)三陸地方 「大船渡」

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新・日本紀行(100)三陸地方 「大船渡」




激しく入り組んだ三陸の地は相変わらず山坂が多く、国道45は喘ぐように走っている。

この辺りの三陸リアス海岸は、奥行き数キロにも及ぶ半島と入江や湾とが交互に入れ替わり、地図を見ても所謂、ギザギザの地形が連続しているのが判る。 
半島部分は概ね山岳地となっていて、ヘアーピンカーブの峠やトンネルを登り降りしながらの走行となる。

いつもの風景であるが、集落や街へでると概ね海岸であるが、しかし直ぐに山中へ分け入るのである。 
こんなことの繰り返しで、些かウンザリしそうだが、気が付くと岩手の海道は黒松、赤松の緑が多く、小雨に濡れて更に緑を色濃く彩っている。 

過日、通過した日本海側、特に秋田県側の荒涼とした松枯れの風景とは対照なのが面白く気になったが、深い緑は目には良いことは確かである。
(黒松については、後の項=「気仙沼」・・?あたりで記載します)

概ね並行して「三陸鉄道」が走っている。 
この鉄道も、各半島付け根に当たる山岳地の殆どの部分がトンネルで、こちらも喘ぎあえぎ走っていることだろう。 
三陸の鉄道の歴史も新しく、近年僅かに20数年前の開通とか。 

一般に「三陸地方」と言われるが、東北地方東部の宮城、岩手、青森の三県に跨る太平洋岸沿いの地域を指している。 
三陸とは陸前・陸中・陸奥(むつ)の昔の地名に基づく呼称である。

陸前」は今の宮城県と一部は岩手県に属し、「陸中」は今の岩手県と一部は秋田県に属する。 「陸奥」は大部分は今の青森県と一部は岩手県に属する。 
広義に「陸奥国」は、江戸時代まで日本の地方区分である国の一つであり、奥州とも呼ばれた。 
現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県の県域に相当する地域を称していたが、明治維新後の明治元年に、陸奥国陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代の5ヶ国に分けられた・・?。



その三陸海岸は、宮古市を境に北部は隆起地形で断崖絶壁の海岸となっているため、港に適した場所が少ない。

八戸市から久慈市辺りの海岸沿いでは、台地状でなだらかであるため、漁業よりも農業・牧畜などが盛んなのに対し、宮古市よりも南は沈降地形のリアス海岸となっているため、水深の深い入り江が多く、これが天然の良港となっているため漁業が盛んなのである。 
世界三大漁場と言われる「三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁している。 
従って、海に面した急峻な谷間にできた僅かな沖積平野部が、陸上の主な生活の場となっている。

三陸海岸の南部「三陸町」は、国の市町村合併政策の先駆けとして、早々、隣町の大船渡市と2001年に合併を果たし、新大船渡市として発足している。
その大船渡市は三陸町との合併により平成13年、「サンリク・オオフナト共和国」として「銀河連邦」に仲間入りしたという。 


「銀河連邦」・・??、 

普通このような呼称については、或る世界において用いられる架空の国、S・F、空想の社会での話であるが、実際は真面目に未来志向の研究がなされている共同体らしい。
今、日本の宇宙科学分野では、宇宙科学研究所(現、独立行政法人)と言う文部科学省管轄の研究部門が各地にあるという。 

これら各施設をかかえる2市3町が提携した友好都市関係のことを「銀河連邦」と呼んでいるらしい。 
そして、構成している自治体、各市町を共和国、首長(市長・町長)のことを大統領と呼んでいるようである。 
北は秋田県から南は鹿児島県まで、研究施設のある市町(3市2町)が握手し共和国として、昭和62年11月に発足、誕生しているという。



因みに、各共和国と研究内容は・・、

サンリク・オオフナト共和国』(岩手県大船渡市)=三陸大気球観測(昭和45年開設)の施設が在り、科学観測用の気球の飛行実験、気球追跡、気球との送受信施設などを研究している。

ノシロ共和国』(秋田県能代市)=能代市南部の浅内浜に「能代多目的実験場」があり、鹿児島宇宙空間観測所から打ち上げられる観測ロケットや宇宙探査機打ち上げ用のM型ロケットの開発のため、必要な各種個体ロケットモーターの地上燃焼試験、およびエアターボラムロケットなどの将来型推進器の基礎研究を行っている。

サク共和国』(長野県佐久市)=臼田宇宙空間観測所の施設が在り、ハレー彗星観測用惑星探査機「さきがけ」、「すいせい」やその後の火星探査機「のぞみ」、小惑星探査機「はやぶさ」等の惑星探査機との通信用観測を行う。太陽系内にて観測を行っている深宇宙探査機に向けての動作指令や、探査機からの観測データの送受信を行えるよう、東洋一の大きさを誇る64mパラボラアンテナを持つ。「サガミハラ共和国」(神奈川県相模原市)=宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究本部相模原キャンパスがある(昭和58年開設)。飛翔体環境、構造機能等の試験等を行う。相模原は首都圏にも近く、全国の宇宙科学研究所施設の中核となってる。

ウチノウラ共和国』(鹿児島県内之浦町)=鹿児島宇宙空間観測所、観測ロケット及び科学衛星の打ち上げ、追跡、データ取得のための実験場を行う。

以上の共和国は、互いの研究状況を連携し共有しあい、その他の行政や文化、物産、女性問題・・?、スポーツ、又、子ども達との交流に伴う人材育成、観光物産振興等、広範な地域交流を通じて友好のきずなを深めいるという。



大船渡の名勝・・、

碁石海岸==大船渡市末崎半島の東南端約6kmの海岸線を「碁石海岸」と呼び、背後のアカマツや草花が彩りを添えるなど、変化に富んだ素晴らしい海岸景勝地で、「国の名勝・天然記念物」に指定されている、「日本の渚・百選」。 なかでも、穴通磯(アナトオシイソ)は、碁石海岸を代表する絶景スポットで、波の侵食作用により大きな洞門が三つ開いたその姿は、まさに自然の造形美であると。 又、乱曝谷(ランボウヤ)は数十mの切り立った岸壁が向かい合う海の谷間で、激しくぶつかって砕け散る波濤の迫力は強烈であると。 

大船渡貝塚群==大船渡湾岸には、蛸ノ浦貝塚、下船渡貝塚、大洞貝塚など多くの貝塚や遺跡がみられ、何れも国の指定史跡になっている。 三陸沿岸は世界の三大漁場といわれ、北に親潮と南の黒潮がここで合流し、寒流、暖流の魚群が多く、食の豊富であった。 この地は、縄文期から人が住み着き、生活を営んでいた形跡があり、貝塚からはアサリやカキ、ホタテなどのほか、マグロ、ブリ、カツオなどの魚の骨もあり、当時の海の豊かさを今に伝えている。


大船渡の市街地を抜けて、高台の展望休憩地に「新沼謙治の出身地」と大きな看板が目に入った。

彼の唄 では「津軽恋女」がいい・・、 



津軽恋女』 新沼謙治

津軽の海よ 竜飛岬は吹雪に 凍えるよ
日毎夜毎 海鳴りばかり 愚図る女の泣く声か
津軽の女よ 別れ唄ひとつ 口ずさむ
濁り酒に 思い出浮かべ かじかむ心の 空を見る
降り積もる雪 雪 雪また雪よ
津軽には 七つの雪がふるとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪
津軽の女よ ・・


2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、大船渡市は大船渡町と猪川町で震度6弱、盛町で震度5弱を観測した。
さらにこの地震が引き起こした大津波によって市の中心部は壊滅した。
この時点で大船渡市は、人的被害は死者287人・行方不明者230人・避難者6,785人、建物被害は住家全壊約3,500棟、一部損壊床上浸水件数は調査中、床下浸水多数。



次回、陸前高田




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2013年3月7日木曜日

新・日本紀行(99)釜石 「鉄の街」

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 新・日本紀行(99)釜石 「鉄の街」 





「鉄の街」、釜石にやって来た・・、

ギザギザ三陸海岸、陸中国立公園のリアス海岸のほぼ中心に位置しているのが釜石市であろう。 山中の屈曲した上下動の激しい道で、時折、長いトンネルを抜けると入り江の突端の海岸に出る。 
これらを何回か繰り返しながら国道45は釜石港を見下ろしながら、高台の地に至ると釜石ならではの「鉄の博物館」が在った。



釜石市立「鉄の博物館」


先ず、釜石は近代製鉄業発祥の地であった。

釜石周辺は、既に平安期頃には砂鉄を原料とした製鉄が行われていたという。
江戸期には鉱山師(山師)らにより広大な磁鉄鉱と黄銅鉱を主とする鉄鉱石が発見され、幕末の安政年間には、「大島高任」(おおしまたかとう)が我が国最初の洋式高炉(溶鉱炉)を導入、築造し本格的な銑鉄の製造に成功している。
明治維新を迎えると、官営製鉄の釜石製鉄所となり、やがて富士製鉄、新日鉄と推移してゆくのであるが。 

昭和60年、創業100年の期を境に不況と鉄鋼業界の変質も加わり、順次高炉の火も消えていった。 
現在では僅かに遺跡があるのみで、我国の鉄産業発達史上唯一の文化遺産として、その意義を残しているのみであった。


大島高任は文政9年(1826)、南部藩・盛岡に生まれている。

大島家は代々馬医として南部藩に仕え、父・周意は南部藩医師として仕えていた。 
高任は17歳から家督にそって、医学を習得するべく江戸にて蘭学などを学ぶ。 そして、21歳の時長崎にて医学修業中の傍ら、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬なども学んでいる。

嘉永6年、その功績が水戸藩御用人「藤田東湖」(尊皇攘夷の祖)の目にとまり、水戸藩主徳川斉昭から招かれ反射炉を常陸・那珂湊に築造している。 
その際、徳川斉昭は高任の才能を見抜き、水戸藩は300石で召し抱えようとするが、「臣籍220余年の恩義が盛岡藩にある」と言って辞退している。
その後、鉄鉱石が産出している盛岡藩の釜石・大橋へ出向き、大橋にて洋式高炉一座を竣工し、初出銑(高炉より熔けた鉄:銑鉄を取り出す)に成功する。



ところで、昨今の釜石は新日本製鉄の跡地を利用して生け簀(いけす)などを造り、官民・第三セクターが一体となって珍魚の養殖に取り組んでいるという。

一つは「蝶鮫」(チョウザメ)の養殖である。 チョウザメは世界三大珍味として知られる”キャビア”の親である。 
ロシアや北米などに生息しているが、生息数は極度に減り、幻の魚になるのではないかといわれる。 又、この魚の肉は淡泊な味で、身の締まりも非常に良く、和・洋・中華風いずれにも適しているそうである。
因みに、蝶鮫の鱗(うろこ)は文字通り”蝶”の形をしているという。


もう一つはカレイの一種の「マツカワ」という魚のの養殖である。 マツカワはカレイ科の魚で、天然物の水揚げが少なく、浜でも滅多にお目にかかれない幻の魚だという。 
カレイ類特有の白身魚で、適度に脂肪がのり、身の締まりも良く鮮度の持ちも非常によい魚らしい。

釜石は鉄の産業から食品産業、養殖産業に切り替わりつつあるようだ。



次に、釜石で特筆すべき事は、やはり冬の花形スポーツと言われるラグビーであろう、小生も大ファンである。 
北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビーの歴史に偉大な足跡を残した新日鉄釜石ラグビー部がある。 

釜石が製鉄で華やかなりし頃、 新日鉄釜石ラグビー部は連続V7を含む通算8度の日本一に輝いたということは「知る人ぞ知る」であろう。
赤ジャージを身に纏い、主将・松尾雄治を擁して1978年度から1985年度まで、前人未到の日本選手権7連覇を達成したのはいまだ記憶に残る。 
本社の業績が悪化し釜石製鉄所も苦しい中、地元の期待を背負い勝ち続けるその姿から「北の鉄人」と称されたのである。 
東北を中心とした高校出身者を基礎から鍛え上げ、東北人特有の忍耐強さと、地域、会社をあげての応援で、その実力をいかんなく発揮した。

だが鉄人にも落陽は訪れる、松尾が引退した翌年、新鋭・神戸製鋼に敗北して以来の後、国立競技場に帰ることは無かった。
そして、合わせるように1990年には、溶鉱炉の灯も消えることになるのである。


2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受ける。2008年に巨大津波などの水害に耐えられるように設計・竣工された「釜石港湾口防波堤」も決壊した。

岩手県釜石市:東日本大震災(地震、津波)の被害状況
9/1、17時における釜石市の被害状況 死者数:883、行方不明者数:221、住宅、建物被害(全壊数+半壊数):3723




釜石付近の名勝

御箱崎千畳==箱崎半島の先端にあり、広大な千畳敷や岩礁、入り江などが広がり、大自然の海岸美を堪能させてくれる。外洋に面しているので、海の色もひときわ美しく、荒れたときには波濤渦巻き圧倒される。陸中海岸を代表する景勝地である。

釜石大観音==昭和45年、鎌崎の先端に釜石港を見守るように立っている真っ白な観音様。 身長48m、胸元に魚を抱く魚藍観音で、正式な名称は石応禅寺・釜石大観音といい、人々の幸せと世界平和を祈願して落慶されたという。 大観音の内部は13階に分かれ、拝殿、三十三観音安置室などがある。 海抜120mの高さにあるこの展望台からは、釜石湾の美しい景観が一望できる。 

三貫島==箱崎半島沖合に浮かぶ無人島で、オオミズナキドリ、ヒメクロウミツバメの繁殖地として国の天然記念物になっている。

仙人秘水と仙人峠==釜石鉱山から湧く自然天然の水、体にやさしい弱アルカリ性ミネラルウォーターとされる。  この付近に内陸と沿岸を結ぶ「仙人峠」があり、往時は釜石街道の最大の難所として知られていた。 仙人峠の名前の由来は、仙人が住んでいたなどの説があり、古くから海岸部と内陸部を結ぶ最短の道として利用されてきたという。 平成18年の完成に向けて「新仙人峠道路」の開発も進められている。

五葉山==仙人峠の南に位置する五葉山は(標高1,351m)、作家・田中澄江の『花の百名山』にも掲載され選ばれていて、春はツツジ、初夏にはシャクナゲが咲き誇り、登山愛好者や市民からも広く愛されている。 自然が豊かでブナ、ミズナラ、ダケカンバなどの広葉樹や、ヒノキ、コメツガなどの針葉樹の原生林はすばらしいという。

又、五葉山県立自然公園は「21世紀に残したい日本の自然百選」に選定されている。


次回は、大船渡




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2013年3月4日月曜日

新・日本紀行(98)三陸宮古 「宮古湾海戦」

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 新・日本紀行(98)三陸宮古 「宮古湾海戦」 




宮古湾の湾口にある「浄土ヶ浜」


維新時の「宮古湾海戦」とは・・、 


田老町は、2005年3月で宮古市になる。
小雨の中、国道45を南下しながら、山間地を抜けて見通し良くなったところが宮古市である。入り江になっている宮古湾が大きく見渡せる。
宮古湾は向かい側・重茂半島(おもえ:三陸海岸最大の半島)の閉伊崎(へいざき)から凡そ10kmもV状に入り組んだ深い湾になっている。 

その湾口部・喉仏の様なところの先端に、陸中海岸を代表する景勝地である「浄土ヶ浜」がある。 
300年以上前、この地を訪れたお坊さんが、「さながら極楽浄土のごとし」とその美しさに感嘆したことからこの名がついたとか。 
このあたりの地質が白い石英であることから、太平洋の荒波に削られて様々な形状で林立する岩や砂浜は白く、透明度の高さを誇る美しい海(日本の水浴場88選)の群青とのコントラストが美しい。真夏にはこの景観を愛でながら海水浴客で賑わうという。

この浄土ヶ浜の南側に宮古港が広がっている。

宮古は、陸中海岸国立公園のほぼ中央に位置し、美しい海岸風景が続く。 その宮古港は、古くから三陸沖の漁業基地として位置付けられてきた。
又、浄土ヶ浜を初めとする美しく、勇壮な景観の海岸が多く存在する観光の町でもある。
古くは明治維新当時、宮古以北には艦隊が物資を補給できる良港がなかったため、蝦夷に向かう船は必ず宮古港に停泊したといわれる。


榎本武揚率いる旧幕府軍もまた蝦夷に向かう途中の明治元年(1868)10月、宮古湾に入港して兵糧等を補給、出航した記録が残っているという。
そして、その凡そ半年後、宮古港内で維新史の戦争末期、日本海戦史に残る壮大な海戦が行はれたことは余り知られてない。 
その名も「宮古港海戦」という。


明治2年3月、榎本武揚の率いる旧幕府軍は、箱館の五稜郭にたてこもって官軍と対峙していた。 
この時、榎本軍を攻略すべく北上する政府軍の軍艦「甲鉄」を旗艦とする艦隊が、宮古湾に進入、停泊するとの情報を得た。 これを知った榎本は「甲鉄」の乗っ取りを企てるのである。 
そして3月20日、榎本武揚率いる幕府軍艦、回天を旗艦に蟠龍、高雄の三艦が南下出撃する。

乗っ取り作戦には特に訳があった。 
艦長・榎本が最も信頼していた幕府旗艦「開陽丸」が明治元年11月、大嵐のため江差沖で座礁し沈没してしまったのである。 不慮の喪失であった。 
海軍の将・榎本としては、何としても代替の新鋭艦が欲しかったのである。

時に宮古湾に投錨していた官軍の軍艦は、「甲鉄」を先頭に八艦停泊していた。 
甲鉄はアメリカから購入した当時の最新鋭艦であり、艦砲の他にガトリング砲まで装備していた鉄鋼艦であった。

ここで榎本軍率いる旧幕軍の艦隊は、思わぬアクシデントに見舞われるのである。 
南下の途中、暴風にあって各艦は離ればなれになってしまい、「蟠龍」が行方知れずとなり、24日には嵐がやや静まったものの、25日までに山田港(宮古湾)に到着できたのは「回天と高雄」のみだった。 
25日早朝、回天は米国旗、高雄は露国旗を掲げて宮古港に接近したが、更に、高雄が機関故障を起こして作戦から離脱、旧幕府艦隊はやむなく回天のみで作戦を敢行することになった。

3月25日未明、回天は甲鉄に直角に接舷し、土方歳三を始め新選組の元隊員らが乗り込んで斬り込みを掛けた。 
その壮絶無比な戦闘は、新政府艦隊「春日」の三等士官として乗り込んでいた「東郷平八郎」(後の海軍連合艦隊司令長官)はその衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として対馬沖海戦(日本海海戦)のヒントになったとも言われる。

しかし、回天の突入部隊は、ガトリング砲(速射砲・手動式機関銃)などの反撃で壊滅的損害を出し、わずか30分で回天は撤退した。 
回天と甲鉄は甲板の高さに差があって、回天から飛び下りた斬り込み部隊の多くが足を挫き、そこをガトリング砲で狙われたと言う証言もある。 
又、更に不運だったのが、追跡して来た新政府艦隊・春日(出撃体制にあって艦砲合戦がまともに出来たのは春日だけだったらしい)によって、機関故障中の「高雄」が田野畑沖で発見され、激しく砲撃されて座礁し、多くの乗組員が戦死している。 
この時、座礁してやむなく上陸した乗組員を、政府軍兵が虐殺したとも伝えられている。 尚、蟠竜と回天は後に合流し、二隻共に翌明治2年5月の戦闘まで生き残り、最期は函館湾で座礁・沈没している。

政府軍による虐殺行為は、「天下の官軍が蛮族の行為をおこなった」と酷評し、函館戦争の敗戦後、榎本達の助命嘆願の一因となる効果を生んだともされる。 
事実、函館戦争終戦時は、榎本以下旧幕軍の主な幹部は土方を除いて殆どが助命されていて、尚且つ、新政府の要職に付いたという。

この海戦は、わが国近代海戦史上初の海戦であり、後の、日清、日露の海戦の勝利へとつながったともいわれる。
「宮古湾海戦」と銘打った国際戦史にも記録されたこの作戦は、近代戦史では、特に東洋では特筆すべき戦役であったともされている。

宮古港から車で10分ほどのところに陸中海岸の景勝地である「浄土ヶ浜」があり、この浜の一角、台場展望台へ向かう道の入口のところに「宮古港海戦記念碑」がある。


宮古の名勝

★浄土ケ浜=ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ岩塊が続く合間に、白い砂浜が在る、透明度の高い青い海と緑の松のコントラストは絶景。
★トドヶ崎=最東端の岬、灯台は本州で最も東に位置する、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の手記の舞台となったことで知られる。
★ロ-ソク岩=高さ40メ-トル、幅7メ-トルの文字通りのロ-ソクのように天にそそりたっている。
★潮吹穴=荒波が押し寄せるたびに、幅約30センチの岩の隙間から海水が吹き上がり、荒天時には30メ-トルにも達する。


【追記】
宮古市の東日本大震災による被害総額は、市側の推計によると約1兆9600億円にも上ることが判明している。
事業者は国の補助金などにより7~8割が再開したものの、未だ苦しい状況が続いているという。(2012年初)




国道45号・陸前浜海道は、宮古湾を見納めると再び山中となる。 
並行している三陸線も山間を曲がりくねって延びている。  
最高所の「石峠」を越えると山田町である、間もなくその山田湾に出た。

山田湾には無数の筏が浮かぶ、カキ、ホタテに代表される養殖漁業であろう。 又、ウニ、アワビなどの漁獲も多い、この街の活力源であり観光資源でもある
その筏群の中にお椀を伏したような、コンモリした中央に浮かぶ大小の島を「オランダ島」という。

凡そ、360年前の江戸初期(1643)年、水と食料を求めたオランダ商船・ブレスケンス号が、山田湾に入り大島に停泊した。 
知らせを聞いた大槌代官所の奉行はとりあえず給水を許可し盛岡藩主に報告、盛岡藩は幕府に指示を仰ぐ。
しかし、幕府からは逮捕命令が出てしまい、やむなく船長ら10人が逮捕され江戸に護送された。
ただ、山田村民の強い解放願いもあって、江戸で取調べを受けた後は国内を見物しながらも、9カ月後、長崎からオランダへ帰っていったという。
このことがあって大島は後に「オランダ島」と名付けられたという。 この事件は、ブレスケンス号事件として、地元では今も語りつがれていると。 
平成12年、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行い、現在お互いの町を行き来する交流が続いているという。

山田港にオランダ島行きの乗船場・桟橋があって、今は渡し舟は停泊してないが、長閑な雰囲気が漂っている。 
島の周囲は、緑の森、砂の浜、海の青が相まって大変な美しさである。


次に、「船越湾」沿いを行く、この辺りも実に良い眺めである・・!。
そして「吉里吉里」(きりきり)という地名に目が止まった。 

昔、自称、吉里吉里人・井上ひさしの「吉里吉里王国」という本がベストセラーになったのを思い出した。 東北地方の小さな村が突如日本から独立するという1981年に刊行された井上ひさしの同名小説・『吉里吉里人』である。

吉里吉里とは・・、
昔、この辺りは「吉里吉里村」というのが存在していて、明治期に町村合併で大槌町となった経緯が或る。 この地を、井上ひさし氏は実際に尋ねているらしい。
因みに、元々、「キリキリ」とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味しているらしく、吉里吉里の海岸線は美しい透明な砂と水が自慢のビーチであった。
今は、あくまで長閑な田舎町であった。 

【追記】 .
2011年(平成23年)3月11日 :マグニチュード9.0の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生し、山田町は震度5弱(観測地点:八幡町地区)を記録した。さらにこの地震が引き起こした大津波によって町は壊滅状態となった。



2005年10月現在の山田湾(海面に無数の養殖用イカダが浮かんでいた)



山田湾の津波(資料)




次回は、鉄の町「釜石




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01. 15.

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