google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 新・日本紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」

2012年12月9日日曜日

新・日本紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」



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 新・日本紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」 




前回に引続いてアイヌ文化の一端であるが・・、

アイヌは文字を持たなかった・・!!」、 その意味合いで好例がある。 
ユーカラ」という言語、アイヌ語をご存知の方も多いと思われるが、ユーカラ(Yukar)とは「物真似をすると」いう意味で、アイヌに伝承・口承されてきた叙事詩といわれる物語文学の一つである。 「孤児として育った少年が両親の仇を討つ物語や許嫁(いいなずけ)の奪還のため敵と戦う・・、」という戦いの数々の物語で広義には主に女性や自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩(民族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する作品)のことである。

アイヌの人々が文字を持たないアイヌ語によって、自然の神々の神話や英雄の伝説を口伝えの言葉による豊かな表現で語り伝えてきた。 しかし、アイヌ語・アイヌ文化の衰退とともに、「ユーカラ」をはじめとする口承文芸の語り手も次第に少なくなっていったという。 
ただ近年アイヌ語・アイヌ文化の復興運動の中で、ユーカラをはじめとする口承文芸を習得しようとする気運もたかまり、研究や学問によって新しい「語り手」も育ってきているという。

「ユーカラ」を和人世界に紹介したのは言語・国語学者の金田一京助氏であり、そして、最大の伝承者はアイヌの「金成まつ」である。 
金成まつは、若い頃習い覚えた「ローマ字」で妹と永年手紙のやりとりをしており、日本語も堪能であったという。 「金成まつ」がユーカラを書きだすのは、先ず前人の書いたものを見習い、暗誦しているものを思いつくまま自由に書き流したもので、ローマ字を使って自分の言葉を記録したものである。 
これに、金田一氏が「訳と注」を付けて出版したものである。

それは、15年以上かけ70余冊、実に1万7千ページに及ぶ堂々たるアイヌ文学の巨冊が出来上がったのである。 金成まつはアイヌ名・イメカヌといい、執筆したのは晩年の54歳から70歳の期間であったといわれる。  彼女はクリスチャンで日高・平取の教会に勤務し、その後、35歳の頃から旭川郊外の近文(ちかぶみ:地名)で伝道に従事しながら、大正7年にアイヌ語の調査に来た金田一氏と出会っている。 
氏は、金成まつや妹の家族と親交をもちながら共同作業のような形で長期にわたり研究、執筆を続け、遂にノート17、000ページにおよぶ大著を完成するに至る。 金田一京助氏は大量のアイヌ文学記録化の功績が認められ、紫綬褒章を下賜されている。
同時に、「ユーカラ」は無形文化財に指定されている。

金田一氏が訳・注を付けて全7巻の「金成まつ・ユーカラ集」が三省堂から出版されている。



先にも記したが、アイヌの民族文化に「イヨマンテ」というのが有る。 熊の霊送りやお祝いのときに踊るもので神々への感謝の意味が込められている祭事である。 
熊猟で成獣を仕留めた際に残された仔熊を人里へ連れ帰り、1~2年飼育した後、盛大な儀式を執り行って親元である神の国に「送る」儀式である。 この際「送る」とは、実際には「殺す」という行為である。
狩猟を主な生業の一つとしていたアイヌにとって熊は最も位の高い神の一つであり、熊の霊送り=イヨマンテはアイヌ民族の最大の儀式であると同時に、アイヌ文化の核心でもあるという。 
江戸期の頃までは、全道の各地に散在するコタンで盛大な「イヨマンテ」が行われていた。
だが、明治以降の同化政策によってアイヌの生活文化が急激な変容を受け、言語をはじ多くの習俗が現実の生活から遊離していったように、年間の最大の儀式であったイヨマンテも次第に行われることが少なくなってきたという。



白老町であるが・・、

この地は日本人が入植するはるか以前から、アイヌコタン(アイヌの大集落)があった地域であり、古文書にもいくつかのコタン名が記載されており、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるという。

白老町の観光の一端として、観光客の人々に対し有志らがアイヌ民族の解説をしたり伝統芸能を披露したりして、それら文化的観光事業として時折、「イヨマンテ」が古来通りに行われていたといわれる。 
しかし、戦後に至ると、こうした儀式そのものも殆ど行われなくなり、以前のようにコタンをあげて実施していたイヨマンテは白老町でも昭和29年の町制施行記念の行事として盛大に行われたのが最後であったという。 
「イヨマンテ」は国の重要無形民族文化財に指定されている。


ところでアイヌの食文化の中での排泄行為、つまり「トイレ」の事についてであるが・・、
昔のアイヌ文化には便所は無く、一定の場所で用を足すという習慣はなかったという。 
アイヌ語で便所のことを「アシンル(asin-ru)」といい、「新しい路」という意味があるそうで、森の中の方々で用を済ませたという。 
しかし、近年になって倉の脇にあるゴミ捨場のそば等一定の場所で「用を済ませる」、つまり便所としての用途が定着したようで、それらの資料も残っているという。
この便所については、もう一つの違う使われ方がされたとも伝えられる。 それは熊のお仕置き場としてで・・、熊は神としてアイヌの間では大事に扱われてきたが、時として人を襲い噛み殺した場合など首をはねて、この便所脇に首を吊るし「人間を殺すと汚物をぶっかけるぞ」という、他の熊への見せしめだったそうである。


『イヨマンテの夜』伊藤久雄唄 (昭和24年)

アホイヤァーーーーー 「イヨマンテ」
熊祭(イヨマンテ) 燃えろかがり火
ああ 満月よ
今宵 熊祭 踊ろう メノコよ
タムタム 太鼓が鳴る
熱き唇(クチビル) われに寄せてよ
ああ ーーーー ーーーー ーーーー
あああ ーーー イヨマンテ


次回は仙台(伊達)縁の「伊達市
(尚、登別は後編の「温泉と観光」の項に記載します)




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