google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 4月 2012

2012年4月26日木曜日

新・日本紀行(1)愛川、津久井  「出発」

【中部道】 神奈川(厚木)⇒⇒⇒⇒新潟(糸魚川)



   
映像と音楽:新・日本紀行



  新・日本紀行(1)愛川、津久井  「出発」   ,





いざ、出発・・! 、

本日は、秋の彼岸の入り、そして何より「敬老の日」である。 
日本の人口の凡そ1/5が65歳以上の高齢者が占めるといわれが、小生も本年65歳を迎えこの割合の中の一人になった・・。 つまり年金生活を送るようになってしまったのである・・、だからどうなんだ・・「別に・・」、歳月の経過とともにたまたま65才に成ったにすぎない、ただそれだけである。 そして今年の今日(きょう)、「日本一周の旅」に出掛けるタイミングになっただけである。
勿論、これまでに思案し、計画し、準備し、そして万端、整えたつもりである、愛車の整備も含めて・・。


本日は旗日である、その為か世間は何となく普段より静かな雰囲気である。
上(カミ・妻)さんも休日休勤の”のんびり曜日”であるが、小生の出発とゆうことで早朝より起きて準備を整えてくれた。 そして発車の際は車の横で道中の無事を祈ってくれた。
上さんに暫しの別れを告げて先ずは、第二の我が家である長野・白馬村の別宅へ向けて車を走らせる。 いつものルートである国道412号を経由する。
愛川町に入り「中津川」の清流を右に見ながら、半原へ・・、そして半原の尽きる所に宮が瀬ダムの巨大なダム堰堤が遠望できる。(宮が瀬ダムについては「厚木」の項で詳細を記載)


愛甲郡愛川町半原は日本を代表とする「撚糸」の町として名を高めたことは余り知られていないようだ。 撚糸とは、糸に撚(ヨリ)をかけることで、糸は勿論絹糸のことである。
山間の地、半原は中津川などにより大気中に適度の湿気があり、そのため養蚕産業や糸を扱うのに良い条件となっていた為といわれる。 
それに明治の頃はまだ電気がなかったため、この繁盛ぶりを支えたのが中津川であり、動力にその水を活用して「水車」を動かしたのであった。
其の優れた製品は主に江戸、桐生(埼玉県)、足利、それに郡内に接した八王子に商いに行ったとされる。




津久井の町に入る。
神奈川県の北西部に位置する津久井郡は自然に恵まれ、郡土の70~80%は森林におおわれている。 

津久井は大自然豊かな町であり、歴史と民話の里でもある。
そして、近年ではダムの町としても知られる。
津久井は県下の水源の町で、宮が瀬ダムより遥か以前に町内には五つの湖(相模ダム、沼本ダム、道志ダム、城山ダム、本沢ダムなど昭和20年から40年にかけて完成している)が在り、神奈川県の発展に貢献し、現在でも大都市への水と電力の供給源として大切な役割を果たしている。
いずれも、長い年月をかけて湖底に沈む集落の方々との土地交渉・移転先等々の話し合いが行われた末に完成している。
因みに宮が瀬ダムは平成12年(2000年)に竣工している。


R412号・・、
相模湖の手前に「ピクニックランド」の広大な遊園地がある。子供達がまだ幼少の頃、数度遊びに連れて行ったもんであるが、このピクニックランドにも意外なエピソードがあった。
遊園地の南端に「正覚寺」という名古刹がある。 

鎌倉初期、源頼朝が西行法師を鎌倉に招聘した折、この名僧も正覚寺を訪れている。
この時西行は・・、


『 吾妻路や 間の中山は ほどせばみ
           心の奥の 見ゆばこそあらめ
 』

と詠み、寺院境内の片隅に歌碑が残っている。


又、近年では民俗学者・柳田国男が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて10日間滞在し、帰りに遺して行った当時の有名な一句


『 山寺や 葱と南瓜の 十日間 』

を残している。 


この事が縁で最近では正覚寺は俳句の寺としても名を成している。
西行が詠んだ「・・間の中山・・」とは嵐山の意味で、裏山に控える優美な山を、京の嵐山になぞらえて詠んだといわれている。


そして近年の昭和30年代には大活躍したプロレスラー「力道山」が正覚寺を訪れているという。
丁度、TVの普及期、力道山はカラテチョップを使って大型外国人をやっつけたことでもしられるが。
そのかたわら力道山はリキ観光株式会社という事業家としても大いに手を広げ、昭和37年には相模湖町で土地の開発事業を計画し、このため正覚寺も裏の山林5ヘクタールを譲渡協力したという。それが現在の相模湖ピクニックランドの前進であった。
その直後に力道山は突然の事故で帰らぬ人となりましたが、開発事業は三井物産に引き継がれ、「相模湖ピクニックランド」として現在に至っているのであった。



中央道の相模湖から大月へ、そのあとは一般道の国道20号、所謂、甲州街道を北上する。
街道の大月には名勝・「猿橋」がある。

長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚が立てられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えている。 
市内にある桂川(相模川の山梨側の名称)の峡谷に架かる橋で、日本三奇橋の一つとしても知られ、往時は甲州街道に架かる重要な橋であった。
猿橋については、7世紀に「猿が互いに体を支えあって橋を作った」のを見て造られたと言う伝説があり、名称もここからきている。 
鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。 
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため、往来が多く、歌川広重が描き、荻生徂徠など多くの人が訪れた感想や詩・句を記録している。
笹子トンネルを抜けると、既にここは甲斐の国・大和村そして勝沼である。


次回は、「甲州街道・勝沼





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2012年4月25日水曜日

新・日本紀行 「旅の心得」

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新・日本紀行 「旅の心得」




「日本一周の旅」への根拠は・・

思えば・・、今までの旅や旅行は殆どが短期間でスポット的な小規模の「お出掛け」であり、確か、定年前の休暇で、お上(妻)さんと北海道の10日間というのが最長であった。 定年になって暇とお金(・・?、・・××)と体力は充分備わっているので、単独で長旅を考えた場合、果たして何処へ・・?と、とりあえず考えてしまう。 何処かの海外旅行・・? 何れかの観光旅行・・? ハタマタ道府県巡り・・などと多々目的はあろうが、ただ肝心なのは漠然とではなく、目的、目標をしっかり絞って決行する事である。
ところで、小生は日本(実は満州・・?)に生まれた日本人である(当たり前であるが・・)。従って日本の事をもっと知るべきである、という好奇心が頭をもたげるのである。 日本列島は細長い島国であり、海を眺めながら「海道を巡る!!」、道行きに地域の歴史や文化、自然を訪ねる・・、コレはいいと思った次第である。 言い換えれば「外国の事に関して」日本国内を在る程度知っておいて、其の後に行なうのが筋と考えている。 愛読書である司馬遼太郎の「街道を往く」シリーズを模じった訳ではないが、「海道を往く」である。 

実は何年か前、職場の仲間に定年で暇(ひま)に成ったら日本一周でもしようかな・・などと、ペロッと口に出したことも有り、又、若い頃よりボンヤリと夢に描いていた事も確かであった。 そして、何時の日にか実行することを心に決めていたのも事実であった。 
定年間際、その直後に先ず何を成すべきか・・??を考えながら、その夢が大きく膨らんで、そして、いよいよ現実のハコビと相成ったのである。  さて、現実のものとして実行のハコビ’まではよかったが、本当の意味であらゆる事を想定し具体的な運びをどうするか、を思案しなければならない。
若い時分なら、無計画で明日にでも飛び出して行けばいいものをと思うが、事実、情報等によるとヤングマン達は自転車や徒歩で日本一周、日本各地を何日も、何十日も巡り、苦労や危険を覚悟しながら体験している人達も中にはいられるようである。 しかし、熟年の小生はこれは無理、年甲斐も無く、ではなく年甲斐を考えて趣旨・目的・目標を明確にし、尚且つ短期間で効率よく実行しなければならないのである。

これらを条件を加味して、以下の実行項目を考察してみた。
1 日本列島を2分割し、2回に分けて実行
2 分割は静岡ー糸魚川構造線(フォッサマグナ)を基準に東日本と西日本
3 現在、住居は神奈川で、別宅が構造線上の白馬村に在る
4 先ずは、「東日本」の海道沿いを巡る
5 新潟・糸魚川を基点に日本海側を北上する
6 東北、本州北端より北海道へ、そして、その最北部の稚内へ
7 次にオホーツク海、太平洋を南下する
8 千葉房総より自宅へ帰還
9 手段はつまり脚(車)はワンボックスのマイカー
10 ネグラは車内か現地の安宿(前日又は当日予約)のカタツムリ・ヤドカリ旅行
11 安宿とはY・H、民宿、公営の宿、他
12 途上、出来得る限り「道の駅」を利用する
13 一日の走行目標は200~300Kmで、陽の有る内
14 趣旨として最寄りの観光地、景勝地、名所旧跡等を巡る
15 地域の歴史や文化に興味を持つ
16 その町の個性、特徴、特色、主旨、趣向を知る
17 名の有る「温泉地」、地域や隠れた温泉地を訪ねる
(NHK・「ふだん着温泉」等)
18 データシートを作成し、その日の内にデータ、日誌等を記録する
19 持ち物・・装備品、持参品を事前にチェックし準備する
20 衣類、特に下着類は出来るたけ現地で洗濯処置
21 食、嗜好品、好みに応じて持参調理する、その他現地にて摂食
22 車への積載は能率、効率よく美的に、ケースの使用が良い
23 要所、要点は事前チェックし地図上に書き込む(地図は最新版)
24 カーナビは絶対必要、そしてフル活用(ナビソフトは最新版)
25 季節の良い時期を選ぶ(春期・5,6月頃 、秋期・9,10月頃)
26 春季、先ず東日本方面へ・・、日本海側、北海道、太平洋岸へ、
27 次年、「西日本」へ・・、先ず三浦、伊豆から東海道、近畿
28 そして四国、山陽道から九州北部、西九州、鹿児島へ
29 次に、東九州から北上して山陰、近畿(日本海)を巡り
30 北陸、能登に至って糸魚川から姫川、別宅白馬へ
・・と、ツラツラと並べて、自分なりに納得しながら着実に準備を進めた。 
但し、沖縄県については余りに諸島、群島が多いため熟慮した結果、後日の訪問となってしまった。 因みに、その後家族と沖縄旅行へ行くきっかけがあったので、其の沖縄の概要や模様は近日述べたいとと思っている。 尚、沖縄県は本島ほか49の有人島と多数の無人島からなるらしい。

さて、いよいよ出発である・・!!




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2012年4月24日火曜日

新・日本紀行・「昔の旅人・正岡子規」

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新・日本紀行・「昔の旅人・正岡子規」




正岡子規の旅姿





松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、当時既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない
 』・・子規

芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

と軽く一句捻っている。

四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。 

「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京

余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、

『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』

と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。

元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』


余りにも有名な句であるが・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。

子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。



小生が選んだ御三方とも、旅先は何れも主に東北・陸奥の旅であった。
 
因みに、平安期の一時期を除いて、特に明治の夜明け頃までは、陸奥は”地の果て”という見方もあったようで、明治黎明期の或る長州人は、”白河以北は(陸奥)は一山一文の未開の地”とまで言ってのけた。

御三方は、この未開の・・?陸奥を目指したことに価値が有るのである。

 



さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)

昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、移動手段はともかく、今も昔も変わることは無い。

文明が進んで、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いた。
その事を示す例として、日本の鉄道開発、敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参詣のために造られた事が挙げられるのである。



小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。 
実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。

いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。


続いて、『新・日本紀行 東日本編』 を記載いたします。






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2012年4月23日月曜日

新・日本紀行・「昔の旅人・吉田松陰」






次に、「吉田松陰」のこと、

江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。


旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 


吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。

松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。


記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 
最大の難関は豪雪地帯で名高い会津から越後への道のりで、冬場は今でも危険だといわれる会越峠越え(六十里越え)を敢行する。 諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は超人的な苦難を味わうことになる。

無論、安らぎの一時もあったようで、特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。

松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。


次回、「正岡子規





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2012年4月22日日曜日

新・日本紀行・「昔の旅人・松尾芭蕉」







新・日本紀行・「昔の旅人・松尾芭蕉」 .




芭蕉.jpg
芭蕉と弟子の曾良



先ず、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、

『 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。 も多古人く旅に死せるあり 。』

「百代の過客」とは、月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなもの・・と、御存知、「奥の細道」の冒頭・序文である。


戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。


旅の目的は勿論、陸奥の国(東北)を訪ねながら、俳諧に勤しむことであった。

芭蕉が日本三景の「松島」を訪れたとき、『 絶景にむかふ時は、うばはれて不叶 』(絶景の前では言葉が出てこない)といっている。 
その通りかどうか、陸奥道中の道すがら数ある名句を残した芭蕉であったが、この松島では句を詠んでいないのである。

因みに、「松島や ああ松島や 松島や」の句が広く知られていて、これが芭蕉作と言われることがあるが、実際は、江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が作ったものである。


そして、今日世界遺産になった「平泉」を尋ねたとき・・、

『 夏草や 兵どもが 夢の跡 』

『 三代の栄耀一睡の中にして、大門*の跡は一里こなたに有。秀衡が跡*は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館*にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川*は和泉が城*をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡*等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ・・、 』(原文)


。。。。。。。


『 五月雨の 降のこしてや 光堂 』。

『 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり・・、』(原文)
 
と記している。


芭蕉の『奥の細道』は、陸奥の国を尋ねる時、この「平泉」が終点だったともいわれる説がある。
ここが奥州藤原三代の栄耀栄華・北方文化の中心地であったという以上に、彼にとっては西行の愛した藤原文化とその悲劇性にこそ関心があったのであろうと。

ここを旅の終点として、ここから大垣までは気楽な帰路であったともいう。
 


陸奥の国の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、
つまり、隠密、忍者であるという説である。

道中でこれにはこんなエピソードもある。
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』

詠んでいる。 


この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。

この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。

普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。

いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。


次回は、 「旅人:吉田松陰




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新・日本紀行; 「旅の能書き」 (3)




 新・日本紀行; 「旅の能書き」 (3)


『 人が旅をするのは到着するためではなく、旅をする為である。 』 (ゲーテ)

(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)



「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 
それは積極的、能動的であるのが望ましいが、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。
日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ一人旅はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである・・。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?

よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わりとか、何れも、一端は示しているようであるが・・。 
しかし、筆者の場合は単純である、「好奇心」である、別世界を覗き見たい願望である、その単的な例が「山」であったのだが。


次回は、昔の旅人・三人(芭蕉、吉田松陰、子規)を例に挙げます。




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2012年4月21日土曜日

新・日本紀行; 「旅の能書き」の続き

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新・日本紀行; 「旅の能書き」の続き  .



「熟年」になった今日、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。
少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。

例えば「旅」のことである・・。 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   

「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 
尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 


次回、「旅の能書き」 つづく




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新・日本紀行; 「旅の能書き」

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新・日本紀行; 「旅の能書き」 .




「旅」という文字を三つも重ねて書くと、「旅」という字・・!、こんな字が有ったかな・・?、と不思議に見えてくる。
更に、『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。
弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。
なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。



次回、「旅の能書き」 つづく


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2012年4月20日金曜日

日本周遊紀行(230)白馬 「冬季長野オリンピック」(2)

.  日本周遊紀行(230)白馬 「冬季長野オリンピック」(2)  . 1998年・平成10年2月17日、ジャンプ団体、 この日、白馬には激しい雪が降っていた。  ジャンプ台を見ても、選手のスタート地点が見えないほどの悪天候である。 係員が懸命に整備をしても、新しい雪がすぐに降り積もり、予定されていたトライアルは中止が決まり、本番の開催が危ぶまれる状況だった。  ジャンプは風の影響が強い競技だということはよく知られているが、降り積もる雪も競技には大きな影響をもたらす。 先ず、時速90km前後の猛スピードで滑り、飛ぶ選手たちにとって、激しい雪で視界が妨げられるのはとても危険、さらに、助走路に新雪が降り積もると、スピードがあがらず飛距離は伸びない。 だがしかし、すでにスタンドは超満員、このまま競技は中止されても仕方がないほどであった、予定よりか成り遅れてから、なんとか1本目の競技が始まった。 1本目のジャンプ、日本の1番手・岡部の飛距離は121.5m、続く斎藤が130mの大ジャンプで、2位のオーストリアに44ポイントの大差をつけて首位に立った、やはり日本は強い。  残す2人はラージヒルのメダリストコンビ、さらなる大ジャンプを期待して、スタンドには楽勝ムードが漂よう。  でも、神様はそんなにお人好しではなかった。 3番手の原田が登場するのを待っていたかのように、雪がいっそう激しくなってきた。  会場に原田の名前がアナウンスされた、カメラのアップで、何とか姿は捉えられるが、戻すと雪の中に消えてしまいそうだ。 大丈夫なのか? 競技が続行されるのかどうか心配であったが、日本は参加した13チームの最後に飛んでいる。 3番手のジャンプを残しているのは原田だけ。  原田がスタートした。 「ハラダ! ハラダ!」という応援の大歓声が、白い風に吸い込まれる。  ところが、雪の合間からうっすらと見える90m付近のランディングバーンに姿が見えたとき、原田はもう、吸い付かれるように着地していた。 飛距離は79.5m、こわばった表情で電光掲示板を見上げる原田、ハイテンションだった大歓声が、一瞬で凍り付いたように鈍い響きに変わった。  このとき、日本中の人々の脳裏には、4年前、リレハンメルオリンピックの悪夢がよぎった。 最後のジャンパーとして登場した原田がまさかの失敗ジャンプ、ほぼ手中にしていた金メダルを逃してしまった出来事である。 あれから4年、原田はリレハンメルの雪辱を果たすために、あらゆる努力をしたはずだが、それが・・、直後の原田の一言「屋根付いてないから、しょうがないよね・・」・・と。   ジャンプ競技ほど“運“に左右されるスポーツはない。 どんなに努力しようが工夫を重ねようが、本番で吹雪に見舞われたり、積雪で助走路のスピードが奪われれば全て水疱に帰してしまうのである。  名ジャンパーであった秋元正博氏は「この競技は運が五割だからね」と。 だからといって、「どうせ最後は運だから」と開き直ってしまえば、その選手はそこで成長は止まる。 勝利の女神に愛されるためには、運を信じて険しい坂道を一歩一歩進んで行くしかない、ジャンプは人生そのもののようだ。 雪の勢いは一向に弱まらない、セカンドラウンドが始まって8人目、チェコの選手が飛んだところで競技は一時中断される。  数分後、セカンドラウンドだけの記録を一度キャンセルして、観天望気の後、競技は再び開始された。 できることなら「もう一度最初から」やり直してくれないものか。 原田選手に、もう一度チャンスをあげたい。 しかし、神様が、いや原田は、さらに感動的なドラマを用意してくれていたのであった。   競技2本目、逆転劇の幕開けは、岡部から始まった、日本選手1番手の岡部が137mという驚異的な飛距離をマークした。   15日の個人のラージヒル2本目に原田がマークした136mというバッケンレコードを更に更新したのである。  原田がビデオによる飛距離測定器の範囲を越えたため、この日は手書きの飛距離表示板を増設、142mまでスムーズに判定できるようになっていたらしく、早速、それが役に立ったのである。 続く斉藤は124mの安定したジャンプで日本は再びトップに立った。 あとは原田と船木のジャンプに期待、金メダルの夢が再びはっきりと視界に入ってきたのだ。 そして、原田である。 1回目の失敗ジャンプが、まだ頭の隅に残っていて二の舞を演ずるのか、それとも、きれいさっぱり忘れて新たな気持ちで飛び出すのか・・?。 相変わらず雪の勢いは強く、条件は一回目と同じである。   再び、NHKの工藤アナウンサーが、ややカン高い声で実況していた・・、 そして「さあ、いよいよ原田スタート・・・ん・・高いぞ・・高くて、高くて、高くて・・、行った・・原田、大ジャンプ・・!!」、ついさっき岡部が樹立したばかりのバッケンレコードに並ぶ137mのスーパージャンプだった。  場内は興奮のルツボ、TV観戦士(小生)は「ヨッシャー・・!!」とガッツポーズ・・!。 そしてその後、猛烈なプレッシャーの中で着実に決めた船木のジャンプは125m。  飛び終えた船木が、祈るような表情で会場の電光掲示板を見上げている。次の瞬間、地鳴りのような大歓声のボルテージがさらに上がる、 『 1位 JAPAN」、日本が金メダルである・・!! 』 船木がガッツポーズをしながら、背中から雪の大地に倒れ込み、原田、斉藤、岡部、日本チームのメンバーが、抱き合い、飛び上がって喜んでいる。 原田が、先頭を切って船木に駆け寄り、一度は立ち上がって仲間を迎えた船木が、原田と抱き合ったまま、再び地面に倒れ込む。  会場はこの上ない熱狂の渦に包ました。 グオオオーと、わき上がるような歓声の中に「はらだー!」、「ふなきー!」と選手たちを祝福する。 誰からともなく起こった「ニッポン!ニッポン!」という大合唱が、いつ終わるかもともなく白馬の山にこだました。  興奮が永遠に続くのではないかと思うほど、感動的なドラマにすべての日本人、観客が酔いしれていた。 その後、原田が泣きながら「船木、船木・・」と叫んで、コメントしていたのが印象的であった。 やはり、原田はヒーローであり、勝利の女神は日本チームに、原田に、微笑みと愛を下されたのであった・・!!。 今、白馬のジャンプ台は、あの日の思いを秘めるように静まりかえっている。 尚、長野オリンピック競技の内、アルペンスキー競技は男女の滑降、スーパー大回転および複合は白馬村の「白馬八方尾根スキー場」で実施された。  又、神城地区の山間には「スノーハープ」という競技場が在って、世界一流の選手たちをも唸らせ難コースと言われたクロスカントリー競技が行われた。  現在は、冬は歩くスキー(クロカンなど)、グリーンシーズンはローラースキーなど自然散策も楽しめる。 又、当地域は「蛍の里」としても整備されつつあり、行楽地域としても絶好の場所になっている。 白馬の別宅に付いた・・!。 ガラン・・!、とした部屋で大の字になって気持ちを落ち着かせる。 そして、名物、「倉下の湯」で身を清め、2,3日ノンビリして、厚木の実家へ戻ることにしよう・・!!。 時に、平成17年6月17日 18時 《 西日本編・・完 》     【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

日本周遊紀行(230)白馬 「追憶・冬季長野オリンピック」

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写真:白馬村と白馬ジャンプ台 白馬:「追憶・冬季長野オリンピック」 序ながら、あの冬季長野オリンピック・白馬ジャンプ競技の感動的名場面を思い起こしてみよう。 1998年・平成10年2月11日、白馬の空は晴れ渡っていた。  この日、先ずノーマルヒルの競技がいよいよ開催されるのである。 やや高台にある競技場の観覧席は日本選手の原田や船木の登場を、今やおそしと待ちわびていた。 いよいよ本番。 1本目のジャンプは原田雅彦選手がやってくれました。 最長不倒、K点越えの91.5mでトップに立つ。  飛び終えて、満面の笑顔で歓声に応える原田選手。  次に飛んだドイツのトーマが84.5m。最後に飛んだ船木和喜選手はやや伸びを欠いた87.5mのジャンプに終わり、原田選手が断然トップで折り返した。 1本目を終えて1位が原田選手、そのほかの日本選手は船木選手が4位、葛西選手が5位、斉藤選手が7位である。 一本目は真さに期待通りの強さであった。  空は本当に気持ちよく晴れ渡り、さわやかなそよ風(ジャンプ台には向かい風)が吹く絶好のコンディションで、誰もが、もう原田選手の金メダルを信じているようである。  2回目を待つ間も会場は大興奮! しかし、・・あああ、これは神様のいたずらか・・! それでも原田は主役であった。   2本目の競技は、1本目の上位30人が出場し、下位の選手から順番に飛んでいく。  船木が登場したのは勿論最後から4人目、満員のスタンドが歓声とともに大きく揺れた。 飛距離は90.5m、2本の合計ポイントは233.5点、フィンランドのアホネンを合計ポイントで2点上回りトップに立つ。  残すは3人、1人でも船木に及ばなければメダルが確定する。 船木の次に飛んだのはオーストリアのビドヘルツル、飛距離は船木選手と同じ90.5mまで伸ばした、ビドヘルツル選手は1本目88mを飛んで3位、ああ、抜かれてしまうかという不安を抱きながら見守る。 でも合計ポイントは232.5点、船木には届かない、大歓声が起こる、船木のメダルはもう確定した。  飛距離の合計では船木を上回ったビドヘルツルであったが、世界一美しいといわれる船木のジャンプは、飛型点を多くかせいでわずかな差を守った。 これで原田選手が「自分のジャンプ」をしてくれれば、日本が金銀のメダルを獲得できる可能性があった。 次はフィンランドのソイニネン、見事なジャンプで89mを記録した、ソイニネンが着地した瞬間、「ウオオオ」という声があがつた。 船木が逆転されたのである。  なんにせよ、これで原田選手が「ちゃんと飛んで」くれさえすれば原田が金メダル、船木が銅メダル・・、最高の成績である・・?。 いよいよ最後のジャンパー、原田の番がやってきた。  白馬の山を貫くような大歓声が起こる、いよいよ原田がスタートした。 そして、結果は・・、原田はやっちゃいました。飛距離は84.5m、合計ポイント228.5点で5位に転落してしまったのである。  「ああああああ・・!!」、着地した位置を見て、やけに長いため息が渦巻いた、あのリレハンメル・ オリンピックの団体戦、最後のジャンプで失敗したシーンが頭をよぎる。   残念ながら、日本選手の金メダル獲得はならなかった。  それでもバーンを滑り降りてきた原田は、終始笑顔を崩さず、手を挙げて歓声に応えた、ヘルメットを取り、周囲のスタンドに何度もおじぎをしている。  きっと「応援してくれたのに、金メダルが取れなくてすみません」という意味なのだろう。 悔しさに顔をゆがめていいはずなのに、観衆を気づかい、取り囲む報道陣の質問にもていねいに答えている原田選手の姿。  観衆の誰も、原田を責めるような声を飛ばしたりはし、むしろ「ラージヒルは期待してるぞぉ!」という声があちらこちらから聞こえていた。     ジャンプ・ラージヒルの日、1998年・平成10年2月15日、天候は雪である。  競技の前にトライアル(試技)と言う練習ジャンプがあり、飛んだ原田は108mの失敗ジャンプ、船木は着地でバランスを崩して転倒してしまい、あやうくフェンスに激突しそうになった。 ともかくも、1本目の競技が始まった。  岡部の1本目、飛距離はなんと130m!大差をつけて、まず首位に立つ。 原田がスタート地点に姿を見せると、満員のスタンドから大歓声だ、ノーマルヒルでの屈辱を晴らして欲しい。 原田の飛距離は120m、失敗というわけではないが、風に恵まれず、やや不本意の5位。  そして1本目の最後に飛んだ船木の飛距離は126mで4位につける。 1本目が終わり、2位に岡部、4位に船木、ややポイント差はあるものの6位に原田が続く。 ファイナルラウンドは1本目の上位30選手だけで争われる。 風の条件がよくなったのか、1本目より飛距離を大きくのばし、K点を越えるジャンパーが続出する。  25人目、いよいよ原田の2本目、地響きのような歓声があがる。  そして、原田がやってくれました。 NHKの工藤アナウンサーが「・・・さあ、原田スタート・・、ン・・高いぞ・・どこまで行くのか・・立て、立て、立ってくれ・・立った・・!!」の絶叫口調が耳に残る。 そして、135m地点を越える大ジャンプ。 見ていても伝わってくるような衝撃に、足と両手を大きく広げて転倒しそうになるのを耐えきった。 まさに奇跡・・、歓声が爆発音のように激しく原田を祝福する、これでメダルに手が届く! アップの画面でスタンドには、もうすでに泣いている人がいるようだ。  ところが、会場の電光表示板には、いつまで待っても「HARADA」の飛距離やポイントが表示されない。  白馬のラージヒルのジャンプ台では、ビデオを使って飛距離判定をしているが、カバーしているのは135m地点までで、原田は、その135m地点をはるかに越えて着地してしまったのだ。  測定ビデオのないところまで飛んでしまったために、測定されないまま次の選手がスタートしている、「原田はどうなんだ?」、観戦諸氏はヤキモキ・・、すばらしいポイントをマークしたのは間違いないが・・?。 競技は進む、そして、続いて船木がやってくれた。 原田の大ジャンプの興奮もさめやらぬうち、またまた130mを越える大ジャンプを見せた。 飛距離は132.5m、しかも、テレマーク姿勢もぴたりときめて、飛型点は審判全員が20点満点というずばらしいジャンプであった。   残るは2人になって、1本目2位の岡部が登場、この時点で船木が1位、原田のポイントはまだ発表されないが、残念ながら岡部の飛距離は119.5m、最終的に岡部は6位。  いよいよ最後のビドヘルツルである、この時点でトップは船木、もし、ビドヘルツルの飛距離が伸びなければ、船木選手が金メダルである。 スタートを切った。 我々日本人は「落ちろー!」と心の中で叫んだに違いない。 それが通じたのか、飛距離は伸びなかった、120.5m。  原田のポイントはまだ表示されないままであるが、船木が1位であることはもう間違いない、船木の金メダルが確定した。 ラージヒルでは会心の金メダル、観衆に向かって大きく手を上げて喜びを表現している。  競技はすべて終わった。 でも、原田のポイントはなかなか表示されない、一度は観衆の声援に応えた船木が、少し心配そうに原田に歩み寄る。 そして、電光表示板に「HARADA」の名が浮かび上がった、3位である・・!。  飛距離は136m、白馬の山が割れるような大歓声が起こる。  金メダルの船木選手は本当にすばらしい、でも、原田の銅メダルは、見ている者にとって、金よりも輝いていた、オメデトウ・・日本、次は団体である。 ここでは何と言っても原田の2本目のジャンプが注目された。 白馬の冬のバッケンレコード131.5mであるが、それを4.5mも上回る大ジャンプであった。  この辺りの地面(雪面)はほぼ水平で、着地した瞬間は、物凄い衝撃が全身を打ったはずである。 後日談で、この136mジャンプの着地の際、あまりの衝撃の大きさで原田のスキー板にヒビが入ってしまったという・・、凄い・・!!。  次回は、「ジャンプ団体【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

2012年4月19日木曜日

日本周遊紀行(229) 糸魚川 「姫川」

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白馬連峰を望む姫川と大糸線 (提供 http://tetsurohyakkei.web5.jp/tetsurohyakkei.gallery03top.html さん) 「姫川」は、フォッサマグナの西縁、いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って白馬村から糸魚川市まで流れている。 地球規模からいうと、北アメリカプレートがユーラシアプレート(主にアジア・ヨーロッパ大陸の殆どをで、全陸地面積の37%を占めるという)とぶつかり合い、地下深くに潜り込むというの活動が、この姫川流域で地表面や地表近くに出現していると考えられている。  姫川は、まさに日本列島を東西に分割する大断層に沿って流れる川なのである。 その姫川流域は、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸など国内でも有数の翡翠(ひすい)の産地で知られる。  糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉(も)みだされ地表付近に出現したといわれる。  硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流である小滝川の「ヒスイ峽」の翡翠は特に良質であるといわれ、そのため糸魚川市、青海町の産地共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられている。  現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は海外、主にミャンマー産とみられている。  東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。  石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。   姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れている。 姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。  水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。  そのため、親海湿原(およみしつげん)の湧水は青木湖からの浸透水であるともいわれる。 白馬村から発した水流は、北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流となって流れている。  全長わずか58キロで平均勾配100分の1・3、つまり100mにつき1・3m下るという急流である。  その流域は信州・長野と上越・新潟地方とを結ぶ国道148号線が走る数少ない交通路であり、又、大糸線が並行して走る交通の要衝でもある。 その河岸には道路、鉄道に沿って民家もひしめき合っている。  姫川は麗々しい名前とは裏腹に「暴れ川」としても知られている。  その急流さのため豪雨による度々の洪水に襲われている。 土砂災害も絶えず、道路や鉄道が不通となることも度々であり、近年では平成7年の大洪水で鉄道、道路がかなりに亘って流失寸断された。  又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。 又、姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れているが、周囲の地質は非常に脆弱(ぜいじゃく)であり、地すべり地形が広く分布する。  特に千国、小谷地区に到ると山稜が急激に狭まりトンネルが連続するところ、そこに大きな支流の「浦川」(中土駅の北側)が流れ込み、この上流に「稗田山崩れ」という大崩壊地が見られる。  稗田山崩れは日本三大崩れの一つとも言われ、(富山県立山・「鳶山崩れ」、静岡県安倍川上流・「大谷崩.れ」)明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)の北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。  堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。  この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているともいわれる。  「稗田山崩れ」の詳細は以下に・・、 「稗田山崩れ」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-2.htm  「稗田山崩れ」 http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-15.html  【追記】 「糸魚川」は2009年8月、地質・世界遺産に認定された。 世界的に貴重な断層や火山などを有し、世界遺産の地質版とされる自然公園「世界ジオパーク」に洞爺湖有珠山、糸魚川(新潟県)、島原半島(長崎県)の三地域が日本で初認定された。 地質版の世界遺産とされる「世界ジオパーク」に糸魚川市が認定されたと、市が世界ジオパークネットワーク(GGN:ユネスコ機関)から連絡を受けたもの。 世界ジオパークは貴重な地質遺産を保護し、観光や学習の場として地域振興に役立てていくものとし、ユネスコが支援するGGNが審査し、合格すると認定される。 世界ではこれまで18カ国に58カ所あるが、日本にはなかった。 糸魚川地域は、断層の糸魚川静岡構造線やヒスイ産地の小滝ヒスイ峡、活火山の焼山など豊富な地質資源があり、国内初の認定を目指して昨年GGNに申請していたもので、ガイドマップの作製など認定に向けた準備を進めていた。 気分も晴れやかに、糸魚川の平野から山峡の地へ入り込んでゆく。 白馬方面へ近ずくにしたがって、空模様も明るくなり、小谷村の栂池高原の入り口である「白馬大池」辺りへ来ると、薄日も差して晴れ上がってきたようである。  山間の地を抜けると、いよいよ白馬村である。  白馬盆地といわれる山あいの平地が大きく広がり、右手に広大な北アルプス・白馬連峰の峰々が出迎えてくれている。  昔の旅人は牛馬を連ねて、姫川流域の北アルプスの山峡の急峻な地を、艱難辛苦しながら、はるばる練り歩き超えてきた。  そして、ここ白馬の平穏な地まで来て初めて一息入れ、おまけに、この絶景を見て心を安め、明日への活力を得たという。  その白馬三山である主峰・白馬岳、杓子岳、鑓ヶ岳は未だ白き衣を纏ったまま、小生を迎えてくれた、有難かった。  一事を成し遂げた満足感からも胸が熱くなり、長旅で緊張感がほぐれたことも手伝って目頭が熱くなるのを覚える。  因みに、地域である白馬村やJR大糸線の白馬駅はいずれも「はくば」と呼称するが、山岳における白馬連峰、白馬岳の呼名は「しろうま」と称してる。 残雪期になると、山の傍に「代かき馬」、「代馬」のような雪形が現れることから代馬から変じて「白馬」になったと言われる。 白馬山系は日本一の高山植物のメッカであり、多くの行楽、登山客を迎え、山麓には長野県はおろか、全国有数の広大なスキー場が広がっている。  その八方尾根の南側には「白馬のジャンプ台」が隣接している。 ラージヒル、ノーマルヒルと平行して並び、その存在はすぐ確認できるが、夜はライトアップされて、その曲線が美しく、いっそう存在感がある。  白馬のジャンプ台は、オフシーズンには観光見学用として一般公開している。  二人乗りのリフトを乗り継いで、透けて見えるデッキプレイとの階段を登るとき、余りの高さに身震いを生じるのである。  さらに展望デッキへ・・、実際にジャンプ台を生で見ると心の底から「このジャンプ台から飛び降りるなんて、それだけですごい」という気持ちになり、あの長野冬季オリンピックの名場面が浮かんでくるのである。 原田選手が開会式後のインタビューで「鳩になってみようと思います」なんて気の利いたジョークを飛ばしていたが、いいジャンプをすると鳥になったような気分を味わえるというのは、少しもおおげさな表現ではないのだろうと感じる。  ジャンプ台の下には記念館があって、当時の長野オリンピック、ジャンプ競技の感動的な記録が展示してある。 次回は、最終章、「長野冬季オリンピック、白馬の感動をもう一度・・!!」 【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

日本周遊紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」

. 日本周遊紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」 .   けんか祭り 写真:天津神社の「けんか祭り」 天津神社と奴奈川神社のことであるが、  奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。  その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。  つまり、奴奈川姫の支配する「越の国」は、この後は出雲が統治する国の領域になる。  一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。  しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。  だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていた。  国譲りの伝説についても出雲の箇所でも述べたが、出雲の神々というは始祖のスサノオと国土開発の英雄・大国主を主人公にしているが、最後には天孫族に屈伏し国の支配権を譲るのである。  このように出雲の神々はどちらかというと天孫族の敵役といった印象であり、謂わば大国主が造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけである。 「天津神社」は天孫族のニニギを祀り、その横の「奴奈川神社」は出雲族の首領・奴奈川と大国主を祀っている。  お互いの神社は仇敵同士のはずであるが・・?、実際は仲良く並社して祀ってある。  尚、天津神社の「けんか祭り」は二つの神輿が衝突、相争って競う神事で知られるが、この祭りの本来の謂れは不明とある。  或いは、両社の如く天孫族(大和族)と出雲族の争いを表現しているのではないか、と想像するのは根拠はともかく面白い・・!。 古事記における「出雲の国譲」りは、高天原の神々が大国主に葦原中津国(日本)の支配権を譲るように迫り、遂に承諾させるというもので、武甕槌神(タケミカズチ)と天鳥船神(アマノトリフネ)が剣を突き立てて国譲りを迫るというものである。  だが大国主の意を息子の健御名方は反対する。  そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ息子の方が敗れてしまう。(この力比べは大相撲の起源ともされる) そのために出雲の国の国譲りが実行されるのであるが、敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。    姫川の上流地域の信越国境の小谷村(おたりむら)において、6年(古式で云うと7年)ごとの諏訪大社の御柱祭に併せて、「薙鎌(なぎかま)の神事」(諏訪社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける珍しい祭事。  薙鎌とは鎌に長い柄の付いた昔の武器、諏訪大社の御神体ともいう)という奇妙な祀りが行われる。この神事の謂れや意義は定かでないが、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れ、追われて諏訪の地に逃げこんだ際、その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したとされる。  この薙鎌は「ここからは出ない」という標し(しるし)ともいわれるが・・?。 諏訪の大神は「この地から出ない」と約束したため、八百万の神々が出雲に集まるという「神無月」でさえ、この神様だけは諏訪に留まっていて、従って諏訪地方には「神無月」というのは無いのである。  『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも 』 万葉集十三巻より この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。   古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。  遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。 姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠(おおだま)や勾玉(まがたま)、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。  即ち、縄文期の紀元前4000年頃の世界最古のヒスイ文化が実証され、古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。  更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や大平洋岸までヒスイが運ばれているという。  陸奥の国(青森)の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されているという。 その後の神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していた。  古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭の儀式には必ず用いられた。 このような重要な祭器であったから、特に霊力の強い勾玉は「三種の神器」の一つとなったといわれる。 この神器は、神話では国生みの神・伊邪那岐(イザナギ)が、天照大神に高天原の統治権の象徴として三種の神器を与えたものとされ、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨の際、これをお護り・御守りとして持参し地上に降り立ったといわれる。  後に神武天皇まで継承され、天皇家の三種の神器の一つとなった。   三種の神器とは王の権威を表すもので、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)、神剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)、それに、神璽(しんじ)=八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされる。  鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、特に皇宮に永く継承されている三種の神器は、日本全体の祖神ともいうべき「天照大神」の時代に端を発し、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。 そして元来それは君民一体の日本民族の精神であり、心の拠り所とされるものでもある。 神のしるしである神璽と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト)と呼ばれる職人集団の祖神とされる。  玉祖命は岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作り、その際、天孫降臨の時ニニギに附き従って天降るよう命じられ、五伴緒(いつとものお:ニニギの降臨に従った五神)の一神として随伴したという。  家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものといわれる。 次回、「姫川  新・日本紀行(音楽WMPリンク)           【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

2012年4月18日水曜日

日本周遊紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」

. 日本周遊紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」 . 奴奈川神社 天津神社本殿 写真:奴奈川神社と天津神社の各本殿 親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。  思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。  そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。  先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。 ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。  姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。  大儀・・!!、大儀・・!!。 前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その時、姫川や翡翠、糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)のことは若干であるが述べた。ここでは更に、糸魚川や姫川、その周辺について伝承的な意味合いで検証してみたいと思う。 尚、2005年(平成17年)3月19日:旧糸魚川市、能生町、青海町が合併して現在の糸魚川市となっている。 糸魚川の南駅前に「ヒスイ王国館」という仰々しい名前の御土産屋がある。  駅前から海岸に向って進むと大町の商店街にこざっぱりした公園がある。  ここは以前の旧糸魚川市役所の跡地でもあり、この一角に「奴奈川姫の像」が建つ。  その像は、左手にヒスイを持ち、下につかまっている子供は「建御名尊」(タケミナカタ)だそうである。  又、駅南側の現市役所の西隣に「天津神社」、「奴奈川神社」が同一敷地内に並んで建ち、殆ど同じような造りの建物で、いずれも市街地の中にコンモリとした深い緑に囲まれて鎮座している。 奴奈川神社・本殿内部には平安期・藤原時代風の木造「奴奈川姫像」が安置してあり、又、天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (ニニギ)、左が天児屋根命 (アメノコヤネ)、右が太玉命 フトダマノミコト)である。  ニニギは御存じ九州・高千穂に降臨した天孫降臨の祖であり、又、天児屋命も日本神話に登場する神で岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる。 そして天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣氏(藤原氏、神事・祭祀をつかさどった中央豪族)などの祖となったとされる。  所謂、この三神は天孫族(大和朝廷系)の神々である。 天津神社は糸魚川一の宮で、近年は 「けんか祭」 として知られている。  近郷近在では昔から 「十日の祭り」 と呼ばれ、祭日は毎年4月10日で、この日待って春はかけ足でやってくるといわれる。  一方の奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命(ヤチホコノミコ)を合祀したという。  両神は夫婦神であり、八千矛命は出雲の大国主の別称でもある。    昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名を奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡を支配していた古代女王であったともされる(古事記)。  糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったとも言われる。  奴奈川姫という名は、「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、又は、個人名ではなくこの地方の代々の女王一般を指す場合もあるともいう。 この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主の命は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて越の国に渡ることになる。  大国主は一旦、能登の国に漂着し、邑知平野(おうちへいや)を開拓(七尾市・気多本宮、羽咋市・気多大社)し、伏木港より越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。 美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦は、大国主の出現にひどく怒り居所の身能輪山に乱入したが結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。  その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子が生まれる。  この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命である。 一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいわれる。  大国主神は侵略と脅しで姫を追い詰め、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしていたともされている。  結局、奴奈川姫は大国主の子である建御名方命を産むのであるが、奴奈川神社(大正10年再建)の社伝によると、その後、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるという。  その息子の建御名方命(タケミナカタ)は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は諏訪上社に、八坂刀女姫は諏訪下社に祀られている。  真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる「御神渡り」は建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。 暫くして、大国主命は本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。 しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。  それは出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守るという使命があったともいう。  それでも大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。  そこで姫は姫川の奥深く逃げ込んだが、追っ手が厳しくなり無念の自殺をしたという。  又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。  姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。 次回は、「天津神と出雲神」 【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

2012年4月17日火曜日

日本周遊紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」

.  日本周遊紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」  . 親不知親子の像1 写真:国道沿いに建つ「親不知親子の像」 親不知(2 写真:旧国道(親不知の見所) 親不知(3 建設当時岩壁に彫られた文字「如砥如矢」 親不知4 写真:現在の親不知の景観 市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。  営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。  そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。 無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。  一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。  珍しそうに、取り留めない話の後、 「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」  「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに」 という。  確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。  この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。 現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。  山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。 その下に解説版が有って・・、 『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。  明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・糸魚川 』 と記してある。 ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。 この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師・探検家で、『日本アルプスの登山と探検』を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。 『 青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。  彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である 』 (日本アルプス登攀日記,W・ウェストン) これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。 W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。 天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。  北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。  同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。  又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。 親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。 芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。 それでも「奥の細道」には、 『今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、』 と記している。 「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。  又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。 この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる。 『 親知らず 子はこの浦の 波枕             越路の磯の 泡と消え行く 』 以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。 国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 だが、鉄道の北陸本線は7~8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。  この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。 次回は、「糸魚川【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

日本周遊紀行(227) 越中境 「市振の関」

.  日本周遊紀行(227) 越中境 「市振の関」  . 市振関1 写真:市振の関(2枚) 市振関 国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。  後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。 そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。 海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。  越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。  やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝となり、宿場町として栄えた。 この先、小さな川であるが「境川」といって越中越後の国境の川である。  国道には新潟県との標識が目に付いた、いよいよ最終ラウンドの新潟へ入ったという実感が身にしみる。 間もなく「道の駅・市振の関」があった。  山地が海岸まで迫るこの地域にしては、意外と思うほどのゆとりある敷地を有している。  こちらで一服入れる。 間もなく国道に面して北陸線の「市振駅」(いちぶり)が見えた、木造平屋のやや古びた民家のような駅であったし、当然無人駅の様な佇まいである。  国道に「市振の関」と案内板があったので寄ることにした。 旧道であろう市振集落、玉ノ木集落があり、その市振の集落の小学校の一角に「関所跡」や碑があった。  こちらも境の関所同様、幕府が越後・高田藩主・松平氏(徳川譜代)に命じて市振の関を築いたとされる。  これは隣国の有力な外様大名・前田氏を牽制するためでもあった。  又、この地は北アルプスが日本海に落ち込むところ、近くには親不知の難所が控えていて海岸平野部はないに等しい。  従って、険路である危うい波打ち際を避けて舟で通過しようとする者を、海上から監視する「遠見番所」も併設されていたという。 近くに「長円寺」という古寺があり、ここに芭蕉の句を記念する句碑が建っている。  「市振」の地名は、芭蕉の「奥の細道」の句と共に登場する。 『 一家に 遊女もねたり 萩と月 』 (ひとつやに  ゆうじょもねたり  はぎとつき) そして「奥の細道」の一文・・、 『・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。 白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。 神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし・・』 芭蕉は、越後・能生町を出発、糸魚川で休憩、夕刻、市振に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したと地元では言っている。  宿舎には宿帳記載も無く、本文のような事実は曾良の随行記にも無いので、この遊女の一件は虚構であろうとも言われているが・・?。  それは兎も角、本文では、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るには大変な道中であり、それが為に「芭蕉」を修行僧と観た遊女らは 同行を頼むのであった。  だが、彼はあっさり、つれなく断っている。  普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんであろう・・!、芭蕉は私的な道中の他に、公的な役割を担っていた(隠密・・?)ともいわれるが・・?。  いずれにしてもこの先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経ながら鈴鹿峠から津を越え、伊勢に到るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。  当時、一生に一度は伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか・・想像するだに難い・・・?!。 次回は「親不知【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

2012年4月16日月曜日

日本周遊紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」

.  日本周遊紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」   . 後曳橋を渡るトロッコ列車 写真:黒部峡谷の「後曳橋」を渡るトロッコ列車 黒部に来た。 こちらも立山黒部アルペンルート(越中富山~信濃大町)に負けないくらいの山岳観光のメッカである。  特に黒部峡谷は秋の紅葉の絶好のポイントである。 富山地方鉄道が富山から、ここ黒部を経由して峡谷の玄関口「宇奈月」まで入る。  宇奈月は、黒部川の渓谷沿いに広がる旅館や保養所が立ち並び、黒部峡谷と鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。  因みに、富山地方鉄道駅は「宇奈月温泉駅」であり、駅前には60度の源泉噴水が設えてある。こちらトロッコ鉄道(黒部峡谷鉄道)の駅は「宇奈月駅」という名称で、別々に二箇所あり、どちらかといえば宇奈月駅の方が大きく賑やかである。  宇奈月は富山でも有数の温泉場であるのは周知だが、源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉(くろなぎ)からの引湯であるという。  源泉段階で96度と非常に高温で、尚且つ湯量が豊富であることから、宇奈月までは7~8kmと離れているが60℃前後と充分温度は保たれているのである。   黒部峡谷を走るトロッコ鉄道は、かつてこの峡谷に幾つかのダムが建設された際、作業員や資材の運搬用に敷かれた軌道である。  同時に、始めの頃は一般の人も、ただ同然で利用できたらしいが、ただし「命の保証はしない」と乗る際に念を押されたという。  今は奇麗にデザインされたミニ観光列車として模様替えし、宇奈月から欅平(けやきだいら)まで旅客を乗せて運行している。  ミニサイズの車両で、まるで遊園地の電車のようであり、車両は全指定席でリラックス車両、パノラマ車両などあるが、一番安いオープン車両は屋根は付いているが風と共に走るようであるという。 終着・欅平までは、くねくねとノンビリと1時間20分位の旅である。  朱塗りの鉄橋「山彦橋」、「黒薙」、そして黒薙川が黒部川と合流するところ「後曳橋」がある。  橋は黒薙川にかかる川底から高さ60mもあり、名前の由来はあまりにも深い峡谷にかかる橋のため、思わず後退りしたといういわれから後曳橋と名前が付いたそうである。  対岸に聳えているのは「出六峰」、そして黒部川第二発電所が現れ、その脇は「ネズミ返しの岸壁」という見所がある。 又、釣鐘のような山は「鐘釣山」、「百貫谷」(ひゃっかんたに)には雪崩が幾層にも積もって万年雪となる。  そして終点「欅平」の直前には、本流が最も狭くなった所があり、猿が飛び越えたことから「猿飛峡」と呼び、其々の景勝地を巡りながら欅平駅に着く。  駅は一般の終着駅となっているが、関西電力黒部専用鉄道として軌道はさらに奥まで続いている。  駅舎はPC造りで一階には出札口や売店があり、二階にはレストランなどがあり、屋上は展望台となっている。   既に、十年も経とうか・・?、 新緑が映える初夏の時期に夫婦で、このトロッコ電車に揺られてここまで来たのを記憶している。  更に、ここより徒歩で1時間のところ、「祖母谷温泉」(ばばだに)へ向って、ここで露天風呂を楽しんだ。  この地の背後は急峻な後立山連峰の山岳地で、名峰・「白馬岳」や「唐松岳」が控える。  祖母谷への途中、奥鐘橋のたもとに、岸壁をえぐりとって作られた歩道「人喰岩」があり、名湯・「名剣温泉」などもある。 黒部峡谷は、北アルプスの立山連峰(剣岳、別山、立山)と後立山連峰(白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍)との間に、深く刻み込まれた日本一の大峡谷である。  黒部川峡谷は戦国期の天正11年(1583)、越中領主・佐々成政が「ザラ峠」(サラサラ峠・2348m:黒部湖の西側、獅子岳と五色ケ原の鞍部にある)越えで黒部川を横断した話しは、前に記したが、その後の江戸期には加賀藩から入山を禁じられ、長い間閉ざされていて厚いベールにつつまれ、一般の人には窺い知ることの出来ない秘境であった。 大正に入り、電源開発等で黒部の様子が次第に見えだしのであるが、冠松次郎(かんむり:明治・大正期の日本の登山家、黒部峡谷の地域研究、山岳紀行文でも知られる、「黒部の父」とも呼ばれる)が探検して「黒部渓谷」を発表している。  欅平から黒部湖辺りまでを、「下廊下」(しものろうか=両側断崖)と表現し、S形にうねる険峡「S字峡」や「十字峡」という日本一の深い谷がある。  十字峡とは、鹿島槍方面から下りる沢(棒小屋沢)と立山方面から下りる沢(剣沢)が、黒部川本流で十字に交わる地点のことを言う。  また、黒部湖から黒部川源流部の「雲の平」辺りまでを「上廊下」といって道がなく、今なお人を寄せ付けない秘境である。 黒部川の源流部である雲の平は、「高天原」とともに一帯になっていて、立山連峰の南部山岳地と後立山連峰が合流する地域(三俣蓮華岳、黒部五郎岳)であり、温泉もあって文字通り北アルプスの夢の楽園とも言われる地帯である。 山岳愛好家なら憧れの地であるが、小生は残念ながら今まで登る機会がなかった・・!、今後は・・?。   黒部川に架かる黒部ダムに関しては、吉村昭の著「高熱隧道」に、仙人谷ダムの建設(黒部第三ダム)に挑んだ人々の苦闘を描いている。  又、黒四ダム(くろよんだむ:黒部川第四発電所)は、戦後、高度成長期を迎え電力需給が逼迫する中、関西電力の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、近畿(関西)地方への電力供給、強いては経済活動の命運が懸かっていた。  1956年に起工、当時の関西電力資本金の五倍という金額であり、作業員延べ人数は1000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人を数えた。  いかにダム建設工事が苦難を極めたかが伺える。 日本を代表するダムは、1963年に完成している。  ダムの高さ(堤高)は186メートルで日本一を誇り、総貯水容量は約2億トンで北陸地方で屈指の黒部湖を形成する。  御存じ「黒部の太陽」は1968年公開の映画で、当時世紀の難工事と言われた「黒四ダム」建設のための隧道工事(大町ルート)の苦闘を描いた映画である。  これによって現在は、「大町ルート」や「立山アルペンルート」が完成し、一大山岳観光地として労せずして多くの人々が黒部峡谷の“大自然”を楽しめるようになった。 次回は、「越中境」 【小生の主な旅のリンク集】 《日本周遊紀行・投稿ブログ》 GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ 《旅の紀行・記録集》 「旅行履歴」 日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観 東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002 【山行記】 《山の紀行・記録集》 「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年) 《山のエッセイ》 「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」 .

日本周遊紀行(225) 魚津 「蜃気楼」

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日本周遊紀行(225) 魚津 「蜃気楼」 .




特色ある海底地形によって“魚色”の多い富山湾で、それを表すような代表的な地名が「魚津」であろう。 その名が示すとおり古来より魚の多種多量の産地ということで、聞き伝えで大勢の人が移ってきて次第に家数も増え、町並みができたと言われる。 
魚津の名、そのものはさほど古いものではなく、小戸・小津と呼ばれていたのを、室町期頃、魚津に改称したと文献にも残るという。 
魚津が、世界に誇る三大奇観として「蜃気楼」、「埋没林」、「ホタルイカ」がある。
 

先ず、蜃気楼について・・、 
蜃気楼は、砂漠や隣国の風景が海の上に浮かんで見えるなどの現象であるが、なんと言っても「富山の蜃気楼」は有名で、テレビや新聞の報道等で知られる。 
蜃気楼は光の“いたずら現象”であることは多少なりとも承知しているが、しかし、実際には、理屈としては判りにくい・・!。
我々は、常時青い空を見、時には虹を見、光の七色の輪を見ることがある、これらは可視光線というらしい。 

光というのはテレビやラジオに使われている電磁波と同じ波の仲間であり、目に見えるものはその内の極一部で可視光線と呼び、赤外線や紫外線など、その殆どは目には見えないものである。
光には分散、回折、屈折、反射、散乱、更に偏光、干渉といった、いろんな性質がある。 

空が青く見えるのは光が強く散乱している状態で、太陽が斜めになって光が弱く、散乱も弱い状態になると赤い夕焼けにみえる。 
虹は雨上がりの空の水滴に太陽の光が当ると、光は屈折・反射を起こし七色に分かれる現象である(太陽、光に背を向ける)。 
又、プリズムやガラス、小さな隙間に光を通すと分散や回折を起こして七色に見える。


さて、蜃気楼であるが、これは大気における光の「屈折現象」であり、大気の密度の違う(温度差)境界線(層)が光の進路を曲げる(屈折)要因になっているという。 
特に富山湾における蜃気楼は「冬の蜃気楼」と「春の蜃気楼」の二種類があるといわれる。

冬の蜃気楼は、大陸育ちの冷たい空気が日本海、富山湾に流れ込み、比較して暖かい海水がこの冷気を暖め、海水の表面に暖層部をつくり、その境界で光が屈折するために起こる現象である。 
春の蜃気楼は冬のに比べると複雑で、地元の調査によると春の暖気が東の日本海からやってきて、この時、白馬岳辺りの高地から親不知の間の山地を吹き降りてくるため、一種のフェーン現象となって更に暖気温を上げ、そこで富山湾の冷海水が上部大気に冷層部をつくり、同様に光の屈折現象を起こさせるという。

冬の蜃気楼は、対岸の景色が、ある線を境に下方に反転して見える所謂、上下対象の風景に見え、又、春の蜃気楼は、対岸の景色が上方に伸びたり反転したりして、所謂、バーコード状に間延びしたように見える風景であるという。 
通称、上位蜃気楼と称して4月から5月、最高気温が18度から25度の場合が多いといわれる。 いずれにしても、富山湾に注ぐ大小の冷たい河川も大いに影響していることは確かである。


次に、埋没林とは・・、
文字どおり“埋もれた林”のことである。 林が埋もれる原因には、火山の噴火に伴う火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などさまざまなものがあり、埋没した年代もさまざまで、数百年前から数万年前のものまであるという。 

こちら魚津の埋没林は凡そ2,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下になったための現象と考えられている。 
特に埋没林の株は、その森林が生育していた地域全体が地下に密閉されていて、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残存しているため、過去の環境を推定できる手掛かりにもなるという。
尚、ホタルイカについては、前項の「富山」で述べている。



【追記】

現在 (2009年) 、NHKの日曜大河ドラマで「天地人」が放送されている。 
越後の領主・上杉景勝とその重臣である「直江兼続」の戦国期の英雄物語であるが、この物語に「魚津城」が登場した。 即ち「魚津城の戦い」である。 

天正10年(1582年)、柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦いで、激戦の末、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。 
落城の6月3日のこの日、上杉軍の重臣及び側近達が敗戦後、即切腹し自害して果てている。 
だが、落城前日の6月2日に都では「本能寺の変」が勃発、織田信長が明智光秀により討たれる。 
信長の重臣で指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日6月4日であり、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退し、その幸運もあって上杉勢は失地を奪還して再び魚津城に入った。 
この急報があと1日早ければ、上杉軍の守将らの自刃の悲劇は起きなかったとされている。

この時期、光秀と景勝(兼続も・・、)は気脈を通じていたともされる。 
本能寺の変に関する文書で近年注目を集めたものに、明智光秀から上杉景勝と兼続に宛てた文書が発見され、その文書によると光秀自身の心情(信長を討つということ)を綴ったもので、上杉家は本能寺の変を事前に知っていたとも思えるのである。 
「魚津城の戦い」は、本能寺の変に関わる重要なポイントでもあった。
魚津城は現在、魚津市立大町中学校になっていて跡形も無く、校庭の隅に「碑」だけが寂しげに立つのみとのこと。


次回は、「黒部」




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