google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(131)九重 「九重、久住山・・?」

2011年5月25日水曜日

日本周遊紀行(131)九重 「九重、久住山・・?」




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



日本周遊紀行(131)九重 「九重、久住山・・?」  、


写真:平治岳のミヤマキリシマとバックは三俣山(1745m)、左奥に硫黄岳、眼下は坊ガツル。(提供者に感謝)




「九重」か「久住」かの、苦渋の選択で「くじゅう」に成ったと・・!?、

地名」と「呼び名」について、もう一言。
別府周辺には厄介な地名の読み方がけっこう多い。

湯布院と由布院の違いについては後に記すが、別府と湯布院の間に「城島高原」がある。
当然「じょうじまこうげん」と読むものと思っていたが、「きじまこうげん」が本当らしい。 
湯布院(由布院市)の北に「安心院」という地名がある。 「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。 
九重町にある「飯田高原」は「いいだこうげん」ではなく「はんだこうげん」と読む。 

では、「九重町」はどうであろうか、隣町に「久住町」(くじゅうちょう)があるが、こちらは「くじゅう」でなく、「ここのえ」と読むらしい。 
一般的な呼称では大相撲界で「九重部屋」、千葉、内房に「九重」(ここのえ)という地名、駅名がある。
因みに「九重九湯」(ここのえきゅうゆ)であるが、「九重山」は“ここのえさん”ではなく、“くじゅうさん”であるという。


ところで両町の歴史で「九重町」は、1955年(昭和30年)に発足し比較的新しい町名であるが、「久住町」は元々、久住村が前身で、既に1874年(明治7年)には施行している。 
尚、久住町は2005年4月1日、直入郡直入町、荻町とともに竹田市と新設合併して新「竹田市」となり、自治体としての町名は消滅している。


日本百名山」の九重山は、独立した山名ではなく山群の総称を表し、その主峰は「久住山」である。
ここで面白いのは、同じ発音を持つ九重と久住には永い間「山名」についての争奪戦があったという。

それぞれに九重も久住も自己を主張する古い文献を持っているという。 
元々、この山域は日本の各地の山岳地にもみられる特有の宗教上の修行の山であって、「九重山法華院白水寺」と「久住山猪鹿狼寺(いからじ)」と二つの寺院が相対峙し、山の名前についても山麓の住民の間で争いがあり、当時の知事が間に入ってお寺の山号が山名に成ったと言われている。
その結果、総称を九重山、最高峰を久住山とすることで落ち着いたという。

九重山法華院白水寺」は九重連山に囲まれた「坊がつる」の一角に在り、1470年に天台宗の修験場として建立され、修験僧の出入りでにぎわいを見せたという。
江戸期は武運長久、家内安全を祈願する寺であるとともに国境の警備の任にもあたっていたが、明治になって神仏分離政策で藩からの禄もなくなり、支院は山を下りて本坊観音堂(弘蔵坊)だけが残ったという。 
現在は「法華院温泉」として後を継いでいる。

この地は標高1300mの四面を深山に囲まれた御存知「坊がつる」であるが、”坊”はその名の法華院を指し、“つる”は山間の平坦地のことで“吊る”にも通じ、「山々を支える御坊である」という意味をもつとされる。


一方、「久住山猪鹿狼寺」(くじゅうさんいからじ)は国道442号線(日田往還)の久住登山口(南登山口)にあり、天台宗の山岳修行地として平安期に創建されている。
久住山に対する 山岳信仰 は古くから山頂の「上ノ宮」をはじめ、久住神社を「下宮・猪鹿狼寺」をもって「神宮寺」としている。 
以前は山号を大和山慈尊院と称し、そしてこの地は殺生禁断の霊場であった。 


時は鎌倉期の頃であった・・!  、
幕府を開いた源頼朝は武勇奨励のため好んで巻き狩りをし、特に富士山麓の「巻狩り」は有名な話である。 この頃、頼朝の家臣であった大友氏(豊後大友氏;相模の国、小田原大友郷が出実とされる)が九州の豊後国(現大分県:豊後・筑前・筑後など北九州を支配した守護職)に任地され本拠とした。 大友氏は当時の頼朝に倣ってこの久住山一帯で巻き狩り、狩猟をしたといい、この時、夥しい獲物が有ったとされ、併せて霊場を汚したということで畜類供養をすることになった。 大友氏は、将軍・頼朝にこの事を問うたところ、頼朝は供養と同時に従来の「大和山慈尊院」を「久住山猪鹿狼寺」と改名するように命じたとも言われる。


ここまでは寺院山号も山域の名称も、呼び名は「くじゅう」であることに相違はない。 
ただ昭和期になって、この山域一帯、山麓、高原帯、その他を阿蘇に含めて「国立公園」になることが決まり、一旦、「阿蘇国立公園」という名称が決まった。 
その後、1953年にはやまなみハイウェイの整備を前提に、沿線となる由布岳、鶴見岳、高崎山(高崎山自然動物園)を拡張指定。 
1986年には大分県知事および当時の関係7市町村の陳情を経て、「阿蘇くじゅう国立公園」と改称されたという。 

では何故平仮名の「くじゅう」なのか・・?、
その名称についてやはりと言うか「九重」にするか「久住」にするかで、其々の主張を繰り返し大論争が起こったと言う。 
結局、苦渋の選択で平文字の「くじゅう」と呼ぶことに収まり、1986年(昭和61年)に「阿蘇くじゅう国立公園」と設定したという。
まったく笑い話のような一席である。


この山地の四季の移ろいや、九重山の火山の遍歴を記した「古文書・九重山記」(くじゅうさんき)には「 春は緑色となり、夏は青色となり、秋は赤色となり、冬は白色となる 」と書かれ、地元の山愛好者等には親しく読まれている。 

九重の山で育った者にしてみれば「九重山」でなければならず、観光地であればカナ・「くじゅう」でも仕方ないが重みがないと言う。 
九州の岳人、山愛好家は「九重に始まって九重に終わる」と言われ、九重山をカナ・「くじゅう」と書くようになってから、山ヤを対象にした本当の意味での九重山は失くなってしまった・・、と嘆いているという。

1955年(昭和30年)町制が布かれてからは「九重町」(ここのえちょう)となり、地域に関連した固有の名称は「九重」に「ここのえ」の但し書きが記してあるという。
そして「久住町」は「くじゅうちょう」(竹田市久住町)である。

次回は、その「久住」へ・・?





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