google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 2月 2011

2011年2月28日月曜日

日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」

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 日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」  ,



赤穂城の傍らに、四十七士の像が整然と並ぶ「大石神社」



「忠臣蔵」という言い方は、史学・学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという・・、


四国と別れて、瀬戸大橋から中国・山陽道へ到る。
高松自動車道の善通寺I・Cから坂出JCTを経て、瀬戸内三橋の中央、瀬戸大橋を行く。所謂、「児島・坂出ルート」である。
迫力のある巨大大橋は、ある種の人工美を誇り、余りの圧倒的美観に車を路上で止めてカメラに収める。
首都圏ならともかく、地方ではさすがに車の量は少ないからチョッとの駐車は安心である。 

途中、与島PAで景観を楽しむ、そしてランプ橋といわれるループ状の道を下りる。 与島PAは海面近くであり、瀬戸中央自動車道(いわゆる瀬戸大橋)の橋自体が航路上を跨ぐため、水面からの高さが非常に高い。
このため、島との高低差が大きいため、ループ橋で高度を稼いでいるのである。
この辺りの海域は瀬戸内航路の主要部になっていて、時折、大型船も航行しているようである。 
倉敷方面の岩黒島、櫃石島に架かる「斜張橋」といわれる富士山形をした橋形が並ぶ。これまた美観である・・!!。 

この坂出、倉敷を結ぶ瀬戸大橋は、六つの長大大橋が三種類の橋形で架かっている。 
斜張橋の他に、長い距離に適している「吊橋」が南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋、下津井瀬戸大橋、三角形を組み合わせて安定した形の「トラス橋」の与島橋である。
いずれも世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観である。因みに、下津井瀬戸大橋が、香川県坂出市と岡山県倉敷市との県界に当たる。

時折、ゴーという走行音が聞こえるのは鉄道電車の音であろう。 
そう、この橋は道路と鉄道の併用橋で、上部が自動車道(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(瀬戸大橋線)になっている。
鉄道で四国へ渡る場合は、岡山駅から南に進み茶屋町、児島を通って瀬戸大橋を通り、宇多津(うたづ)に至る路線である。
宇多津~高松の予讃線を合わせて瀬戸大橋線と呼んでいる。

瀬戸大橋線を走る特急は岡山発松山・宇和島行き特急「しおかぜ」、高知・中村・宿毛行き特急「南風」、特急「南風」に併結されて運行される徳島行き特急「うずしお」、そして東京発高松行きの寝台電車特急の「サンライズ瀬戸」などが走る。
サンライズ瀬戸は、現在東京発22:00⇒高松到着07:26・乗車時間9時間26分・乗車券14,670円(普通乗車券11,010円, 特急券3,660円)・走行距離804.7kmである。(2005年 現在) 
瀬戸大橋は、道路鉄道併用橋としては世界一の規模を誇るそうだ。

橋の構成から岡山・鷲羽山トンネルは、世界初の二階建で四つ目のトンネルになってる。
上の二つは車、下の二つは鉄道専用になっている。 
6つの橋と4つの高架橋の総延長12.3kmで、鉄道併用橋では世界最長だという。 総工費・1兆1,200億円で、工事の期間は9年半、1978年(昭和53年)10月10日に着工して1988年4月10日に開通している。 
強度は、秒速66mの風(家が倒れたり、ビルが崩れる)が吹いても大丈夫な様に設計されているそうで、また100年に一度起こるかも知れない様な大地震(マグニチュード8)が、土佐沖 100kmの場所で起きても大丈夫な様に造られているという。
瀬戸内の島々も合わせて雄大な眺めを堪能し、尚かつ、人間の底知れない科学の力に驚嘆しつつ、出発することにする。  この四国を離れ、岡山・倉敷のJCTより逆戻りする感じで山陽高速道を行く。



赤穂ICを下りて旧赤穂城を目指す、ご存知、「忠臣蔵」の赤穂城である。
I・Cから凡そ3km、海岸近くに赤穂城址があった。
その石垣跡は風雨に晒されながらも、昔の面影をしっかりと残している。そこに、丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあり、すぐ横に説明用の看板があがっている。 

看板には『 赤穂城は生保2年(1645年)、浅野長矩の祖父・長直が常陸国・笠間から入府し、近藤三郎三衛門正純に築城設計を命じ、実に13年の歳月を費やし、寛文元年(1661年)完成したものである。 城郭の縄張りは・・、 昭和46年3月、赤穂城址は国の史跡に指定され、本丸等の整備が進められている 』とあり、城郭境内略図が記されている。 図によると、ここは「塩屋門」にあたるところのようだ。

奥の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷跡になっていて、「片岡 源五右衛門」、「間瀬 久太夫」、「磯貝 十郎左衛門」、「大石 瀬左衛門」等、御馴染みの赤穂浪士の屋敷が点在する。更に奥の方に「大石神社」が在った、参道両側には大石良雄(内蔵助)を筆頭に四十七義士像が整然と並んでいる。 

城郭跡周辺には本丸表門、三之丸への大手門、三之丸に連なる二重の隅櫓等、整然と復元されている。
赤穂城周辺では、現在でも発掘調査が行われているという。
そして赤穂城(城址および復元城)は2006年には、財団法人日本城郭協会の選定する日本100名城に選ばれている。

この本丸表門から1701年(元禄14年)、家老・大石内蔵助を先頭に浅野家家臣団の一行が、播州赤穂・浅野家五万三千石の城を無血開城にて退出していったのである。 幕藩体制が安定しつつある元禄の世、突如として起こった大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士による主君の仇討ちは、ここから始まるのである。


元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城・殿中松の廊下で高家筆頭(江戸幕府の職名、幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家)の吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。 その後、元禄15年12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭の仇を討った。 いわゆる「忠臣蔵」の物語である。
この元禄15年末に起きた赤穂浪士の討ち入りは、二つの意味で世を動かす大事件であったと言われる。一つは無論、名家の当主、吉良上野介暗殺という刑事事件として。 
もう一つは武家政権の徳川幕府が開かれてから凡そ一世紀、時代は泰平を謳歌する元禄の世に、「武士道とは・・?」という根源的な問いを突きつけた事にある。

辱めを受け、無念の思いを残して切腹した主君・浅野内匠頭の仇を晴らしたのは、成る程武士として「あっぱれ」である。 しかし、内匠頭に即刻切腹を命じる一方で、吉良に「お咎めなし」としたのは幕府であった。 その幕府は、開祖の徳川家康以来、朱子学(儒学、おおまかには大義名分論のうち 何が正で、何が邪か、と言う事の根本思想)を根本理念とし、「臣下は分を守るべし」を強調し、所謂、戦国期よりの「非道」を戒めてきた。
赤穂浪士事件は「義挙」かもしれないが、幕府にすれば守るべき「分」を越えていたとも言えるのである。 然るに、これは皮肉なことで朱子学者の間では「浪士の仇は、内情は吉良であるが、実質は一方的な裁定を下した幕府ではないのか」という声も上がっている。 
官学者の筆頭とされる林大学頭(信篤のぶあつ・幕府の行政学者、儒学社))は、「天(幕府、将軍)は、忠義の臣を助けなかった」と嘆いたのは知れるところである。 
一方、武士道の根本を書した「葉隠」(宮本武蔵の愛読書)を著した肥前藩士・山本常朝は、「主君が死んで、仇を討つまでが長すぎる。(1年9ヶ月)肝心の吉良殿が死んでしまえばどうにもならぬ。上方のものは世間の覚えをめでたくするのは上手だが、無分別ではないのか」と評している。 要するに、「江戸城で浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ時、何故、成否をかえりみず、即刻行動しなかったのか・・、それが武士道ではないのか」と批判しているのである。

討ち入りの時、大石蔵之助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らして志士を鼓舞するが、その山鹿流の始祖「山鹿素行」直伝の浅野家・家臣たちは、殆どが「無条件開城」を主張したといい、これらも葉隠や山鹿流の教えには無い行動であるという。 時は元禄であり、時流と時代背景がそうさせたのかもしれないし、「武士道」も個人差が出る程度の哲学になっていたともいう。
尚、旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を題材をとった、歌舞伎や演劇・映画の分野での創作作品である「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名であり、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという。


赤穂城は「海平城」といわれる。
今でこそ発電所、施設、企業が沖合いに並ぶ産業地であるが、往時、お城の前は広大な砂浜が広がっていて、塩田開拓が盛んであったという。
浅野長直(初代赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の祖父)は、赤穂城築城と平行して城下町の整備に取り組むとともに、入浜式塩田の開拓と塩の流通にも力を注ぎ、赤穂浅野家の繁栄の礎を築いた。 
一方、三河の吉良家も三河湾での製塩が盛んであり、この塩の製法、流通が浅野家、吉良家の間に若干の確執を生み、赤穂事件の遠因になったとも言われる。


『 あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
            浮世の月に かゝる雲なし 』

大石内蔵助が見事本懐を遂げて、晴れやかな胸のうちを残した歌である。




国道250で姫路へ向かう、途中、道の駅「あいおい」が在った。
相生湾の最奥の海に面したところに、「白龍城」とかいう中華風のカラフルで豪奢な建物があり、ここが道の駅で、その名の通り中華料理が自慢らしい。 
又、ここには何よりの温泉があった、ペーロン温泉という天然温泉らしい、すぐ近くには飲食店も並んでいる、時間も頃合だし、温泉に浸かり、食事を摂って、この地に車泊としよう。

次回、相生の「ペーロン



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2011年2月27日日曜日

日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」

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 日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」  ,




寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。 
こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。



その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。 
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。

ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが。 
この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。

寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 
祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる。 昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。
尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。

丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。
相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。



では話を戻そう・・、

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。
つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。


では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。


ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 

斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。
斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。

詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。
伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。


これらは、あくまでも仮説であるが・・、
歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。
因みに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(下宮)の其々の数は、正宮(内1、外1)、別宮(内10、外4)、摂社(内27、外16)、末社(内16、外8)、所管社(内30、外4)、別宮所管社(内8、外0)で内宮合計92、外宮合計33、合わせて125の各種社宮が鎮座している。(伊勢神宮・宮社の一覧表より)




ところで、2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 
今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 
しかも、新市名が”かなもじ”であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。
又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。
やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。

この結果、大川郡という由緒ある古名は消滅した。
この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上もの間「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 
部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有るが)、又は、「讃岐大川市」などとしてみては如何であったろうか・・?。 

地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 
新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 
過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。

「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 
四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。 
尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが。

次回からは「四国」を離れて・・、



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2011年2月26日土曜日

日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」

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 日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」  ,



善通寺・金堂




ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!

琴平の町並みを外れると、すぐに国道319に合流し善通寺方面へ向かう。 
平坦な直線道路で、すぐ左に「土讃線」が並行する。 
程なくして善通寺の町並みに入ったようである。 
後で知ったことだが、ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!。
勿論、善通寺市は弘法大師の誕生寺・「善通寺」の大本山でもあり、市はその門前町であって名称もそこから付されている。 

気がつくと、この辺りは観音寺、琴平、善通寺と由緒ある地名が多くある。
又、「お大師さん」のお膝元だけに四国霊場のうち市内地域に第72番・曼茶羅寺、第73番・出釈迦寺、第74番・甲山寺、第75番・善通寺(真言宗善通寺派総本山)、第76番・金倉寺と五山の寺院が軒並みに並んでいる。

本山・善通寺は町の西方、香色山の麓に静座している。 
寺の敷地は広く、伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院で、併せて45万平方メートルにも及ぶという。 
寺名は父の名をとって善通寺と名づけられたと言われ、寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、大師はこの奥殿で誕生されたという。


弘法大師・「空海」のこと・・
俗名は佐伯真魚(さえき まお)という、父は、讃岐の豪族である佐伯直田公、雅称・善通卿と称して寺院名、地域名の基にもなっている。
空海は「弘法大師」とも言われ、法師は日本の長い歴史の中で時代を越え、宗派を越え、過去も現在も超えて庶民に尊敬され、愛し続けられている人物と言われる。 
日本史上最大級の宗教家と言われる空海は西暦835年3月21日、(現代の彼岸の中日にあたるのも何かの縁か・・?)大聖地・高野山で死去している。

天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈し、そして 更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう・生前の行いを尊び死後に贈られる位号)を贈り、彼の遺徳を讃えた。 
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名に及ぶが、一般的に大師といえば殆どの場合、弘法大師を指すとされる。空海を知らなくても「弘法さん」、「お大師さん」を知る人は数多い。 

出家したのは20歳の時、はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗った。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で自ら名乗ったことは先に記した。 
空海は31歳の時、遣唐使として私費留学生で中国へ渡り、この時、第2船には彼の生涯のライバルとなる「最澄」(さいちょう)も乗っていた。
最澄は空海と違って当時既にかなり名を成しており、身分も国費留学生であった。
この時はまだ二人は出会っていなかった。 
留学中、長安・青龍寺の名僧・恵果(けいか)に出会い、密教を会得する。 

密教とは、大日如来を本尊とする深遠秘密の教えで、加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる仏法として、7、8世紀ごろインドで起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられている。 
空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよび、対して通常の仏教を顕教(けんぎょう・密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む)と称している。  
こうして空海は、「修禅の道場」として高野山で真言宗の法灯をかかげる。 
弘仁年間、空海40前後のときに自身と人々の厄難を除くため 四国霊場を開かれたと伝えられる。各札所の縁起にも弘仁年間の開創が記されている。 

一方では彼は中国で学んだ知識を活かし宗教家としてのみでなく、社会事業家、芸術家としても精力的に活動をしたのである。 
彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり・平安時代の書家・官人)と共に三筆と呼ばれる。周知の諺・『弘法、筆を選ばず』は空海のことで、すぐれた力量を持っている人は、どんな道具でもきちんと使いこなすことができるという意味である。 

空海の誕生地・「善通寺」と真言密教の根本道場とされる「京・東寺」(世界文化遺産)、そして空海入定(聖者が死去すること、入滅)の地・真言宗総本山「高野山」(世界文化遺産)を弘法大師・三大寺院と言われる。



弘法大師・生誕の総本山「善通寺」は来年(平成18年)、創建1200年を迎えるという。 
それを記念するイベントとして四国霊場88カ所の全長約1400キロを、自転車でリレーし走破する「四国霊場88サイクル駅伝」というのが8月8日から12日にかけて開かれるらしい。
企画・実行委は「四国4県の連携イベントとして、来年以降も開催したい」と話し、意気盛んなようである。 
計画順路として、スタートとゴールは、彼の生誕地・75番札所・「善通寺」をスタート地点として、先ず88番まで進み、次に1番の霊山寺(徳島県鳴門市)から高知県、愛媛県とタスキをつないでいく。
約100時間で全行程を走破する見通しという。結果は如何に・・?、

【追記】
平成18年8月8日午前8時(末広がりの八・・?)に予定通り出発し、参加総勢129名のサイクリストがつないだタスキは8月16日、スタート地点であった善通寺に予定どうり全員無事帰ってきてゴールを迎えたという。 
当初予定されていた「100時間耐久」というテーマに関しては走行者の安全を考慮して、深夜の走行は中止して走ったという。

次回は、讃岐・「寒川町



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2011年2月25日金曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・さざれ石」   、



さざれ石と“君が代”由来の銘版



大門からの参道の突き当たり、円山応挙(江戸時代中期の絵師、「足のない幽霊」を描いた元祖ともいう)の障壁画でも有名な御書院(表、白、裏の各書院;諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた広大な客殿)の傍に「さざれ石」が鎮座している。

さざれ石」というのは「細かい石」のことで、鉱物的には長い時間をかけてこれらが集まり堆積して、粘土や砂などと混ざって礫(れき)岩となり、やがて巌(大きな岩)になったものという。

古来、小粒のものが大きく育つ意味合いで、目出度い「」とされている。
勿論、我が国歌「君が代」の題材になっていることは承知である。 
この、さざれ石は他の主要な神社にも鎮座されている所があり、特に京都の護王神社(京都市上京区:京・平安遷都に功績のあった和気清麻呂を祀っている)のものは和歌に詠まれた「君が代」の原点になったものといわれるが・・?。 
さざれ石」は、その他の主要な神社である出雲大社(島根県)、鶴岡八幡宮(鎌倉)、霧島神宮(九州)にも奉ってあり、又、「君が代」を尊愛する関係先では千鳥が淵戦没者霊園(東京都)やさざれ石公園(岐阜県)というのも在るらしい。


君が代」について・・、

わがきみは 
千代にましませ 
さざれ石の    
巌となりて 
苔のむすまで
  、

あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ちください。細かい石が大きな岩となり、苔が生える先ざきまでも) 新潮日本古典集より


この歌句が、「国歌・君が代」の大元になったとされている。
明治憲法では「万世一系の天皇はこれを統治す」とあり、「君が代」は天皇自身を指すとされていた。 
当時は、この歌の解釈が「富国強兵」に利用されていたが、戦後は国民にある種(軍国主義復活・・?)の思惑で翻弄された。
現在の「君が代」は、天皇を超えて国民を讃美、讃歌する歌として親しまれていることには間違いないとしている。



途中、参道石段の土産屋にユニークな、かなり大きめの「石松っつぁん」の人形が置かれていた。 ご存知、広沢虎造の口演「森の石松・金毘羅様代参」に因んで、石松っつぁんを模作したものである。
石松は次郎長の名代で金毘羅さんへ行くことを頼まれ、大政、小政にも金毘羅代参に行ってくれるよう説き伏せられる。 




その場の一節・・・、

『 文久二年の三月半ば、何処も同じ花見時。 次朗長が石松に、讃岐の金毘羅さんまで使いを頼む。悪(わる)の代官と久六を斬った汚れた刀をお山(金毘羅さん)に納めに行くためである。 すぐに行ってきますという石松に、「待て待て、発つのは明日でいい。それから次朗長が頭を下げてのお願いは、お前という人は酒癖が悪いから、旅の間は一滴の酒も飲んでくれるな、いいか・・」「わかりました、つとまらねえから断ります」「俺がこんなに頼んでもいやか?」「いやです・・」「よせ・・!次朗長には六百何十人子分がいるが、俺の言うことをいやだと言うのはお前一人だ、生かしておいちゃためにならねえ、命はもらった、覚悟しろ」「有りがてーな、わっしゃあ、あんたに惚れて子分になったんだ、惚れたあんたに斬られて死ねりゃ本望だ、さっ、斬っておくんねえ」強情っぱり同士が喧嘩している。 となりの部屋で聞いていた大政、小政が石松を呼びつけて、嘘も方便て言葉を知らねえか、判らないようにこっそり飲んでいいから・・と説教し、判った石松は、翌朝、金毘羅さんへ向けて出発する。 四国・金毘羅さんに刀を納め、讃岐の国を後にして、大阪へ戻る石松は、大阪・八軒屋から伏見へ渡す三十石船に乗り込み、船中でのやりとりで、「飲みネー、食いネー、もっとこっちへよんネエー、江戸っ子だってネー」「神田の生まれヨー」の、やりとりは余りにも有名である・・、 だが、その後の石松の運命やいかに・・・??。 』 
現代の若い人は・・?、無理かな。



帰路、駐車場の御土産屋で、2000円の七福神の置物を購入し金毘羅宮を後にした。

金毘羅船々』  四国・讃岐民謡 

金毘羅船々 
追風に帆かけて 
シュラシュシュシュ
まわれば四国は讃州・那珂郡 象頭山・金毘羅大権現
一度まわれば

お宮は金毘羅 
船神さまだよ 
キララララ
時化でも無事だよ雪洞ゃ明るい錨を下して遊ばんせ
一度まわれば 
 

昔の女の子は、よく次のような数え歌を歌いながら、お手玉で遊んでいたらしい。
その中に、「讃岐の金毘羅さん」の歌詞も入っていた。


わらべ歌風 数え歌
一番はじめが一宮       六つ村々鎮守様
二また日光東照宮       七つ成田の不動様
三また讃岐の金毘羅さん    八つ八幡の八幡宮
四また信濃の善光寺      九つ高野の弘法様
五つ出雲の大社        十で東京浅草寺

次回は、七十五番霊場・「善通寺



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2011年2月24日木曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅宮・本宮」   、




金毘羅さん参道鳥居・・「しあわせさん・こんぴらさん」


写真:参道鳥居と金毘羅さん・本殿



本宮地元では、「しあわせさん・こんぴらさん」として親しまれている・・!、

さてさて、本社、琴平町の金刀比羅宮である。
代表的な門前町・琴平の中心に金刀比羅宮の石畳参道がすぐ目に付いた。
主要道路の角の大きな駐車場へ車を寄せて、「お参りの帰りに2千円ほど買い物すれば無料でいいよ」と年配の係員が曰く。 
見れば、奥のほうに立派な店構えの土産屋があった。

先ずは、カメラと賽銭を持って早速出かける。 幅の広い石畳参道の両側にはギッシリト土産やが並ぶ。
やがて名物の石段の始まりである。 
名物「讃岐うどん」の老舗らしいのが二軒ならんでいる、「とらや」という最初の石段のすぐ脇にある店が、実に歴史的な深さを感じる。 

石段横に、「本宮まで785段、奥宮まで1368段、海抜421m」とあった。 
石段を登り始める、両側には、これまた立派な石燈籠や玉垣などが無数に建ちならび、額に汗して上り下りする参拝客に無言の激励をおくっている。 
参拝客が長年行き来した石段は、表面がすり減って磨かれたようになっている。 
それでも最近になって手直しをしたのだろうか、部分的に石の表面を削って滑らないようにしてある、参拝客への心遣いだろう。 
石段の両脇には、軒を接するように土産物屋が並んでいる。 
時折、乗合籠が目に付く、年配者や身障者には有難いだろう。

ここを抜けると、やがて大門が見えてくる、威風堂々たる構えの山門である。 
1650年、初代高松藩主の松平頼重侯の寄贈によるものといい、楼上に掲げられた「琴平山」の名札は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう・明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒であった)の筆によるという。 
山門のそばには、「五人百姓」の名前を持つ、鼈甲飴(べっこうあめ)を売る店がシンボルらしく、大きな番傘を広げ、古風な姿でお客さんを待っている。
本来は境内では商売禁止だが、昔からの神事への功労により特別に境内で営業を許された五店の商家が「五人百姓」といわれるそうである。


所々に「しあわせさん・こんぴらさん」の大きな暖簾が気持ちをほぐしてくれる。無限かと思えるほどの石段を登り越して、ようように山頂境内に立った。 

本殿境内には、「書院」や「旭社」といった由緒ある建物が並ぶ。特に左手に在る「旭社」は絢爛豪華な社殿で、屋根裏、柱、扉など至る所に彫刻が施され、完成まで約40年の歳月を要したといわれている、あたかも日光陽明門をみるようである。 
本殿の南に建つ、南北2つの「絵馬堂」も吹き抜けの堂々たる造りである。 海難除けのお礼や祈願成就の絵馬をはじめ、大小様々、色とりどりの絵馬が掲げられている。


さて、本殿である、中央拝殿に額ずき、神妙に参拝する「旅の無事安全と一家身内親戚一同、無事安泰、交通事故の無いよう、宜しく見守って下さい」・・と。
本殿は象頭山(ぞずさん)の中腹に鎮座する大社関棟造(たいしゃかんとうつくり)と言われる荘厳な社殿で、大物主大神と崇徳天皇を祀り、海上安全をはじめ、国の繁栄や農漁業、医療など、さまざまな願いを叶えてくれるといわれる。 
讃岐の金毘羅さん」と昔から親しまれ、江戸時代には「お伊勢参り」と並ぶ程の人気であったという。
 


金刀比羅宮は、古くから海、航海の守り神として信仰されていることは衆知である。
瀬戸内海は、古来より海上交通の要衝であり、しかも海流が激しい海難の地域であった。 
讃岐の琴平山はこの瀬戸内海を見下ろし、見守る絶好の地であったため自然発生的に海の祭神が祀られるようになったと思われる。 

金刀比羅宮は大物主神(オオモノヌシノミコト・蛇神であり水神または雷神としての性格を持つ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り醸造、国の守護神)を祀り、古時は琴平神社と称した。 
現在の琴平町名はこの社名から起こったとされる。 
又、後に保元の乱(1156)で都を追われ讃岐に流され、この地でで生涯を終えた崇徳上皇を合祀相殿するようになったという。
因みに、金刀比羅宮の主祭神は「大物主神」で「和魂」とされ、元々は大国主神のことであった。 
和魂とは「ニギミタマ」と称され、 柔和、精熟などの徳を備えた神霊または霊魂のことであり、その反対語に荒魂がある。 一般に神霊には両方の性格が有するとされる。(人間もいっしょだね・・!)

不安定な日本の国を安定させるために大国主神が中心となり、粗野であった大地の国造りを行われて来たので、このような状態を大国主の「荒魂」ともいわれた。 
平定した国をよりよく治めるために大物主神の和魂をもって五穀豊穣や平安を祈る力とした。
はじめ荒ぶる魂であったが後に、和やかな魂になったとされ、二つの精神を持った一つの神のことで、日本の国は大国主神の国造りを終えられたところで、大物主神の力に委ねられることになる。
大国主神と大物主神は同一神とされ、記紀(古事記、日本書紀)などの表記によっては幾つかの神名を持つ。


さて、琴平山(象頭山)には、はじめ松尾寺(本尊・釈迦如来、薬師如来)が建立されていた。
その御本尊の守護神として金毘羅が祀られて、これが金毘羅大権現(※)になったという。

この金比羅さんというのは、元々は薬師如来の守神である十二神将の筆頭・宮比羅(インドではクンピーラ)のことで、クンピーラはガンジス川に棲む鰐の神格化されたもので海神や竜神といわれる。 
因みに、薬師如来は、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、東方浄土(浄瑠璃界ともいう)の教主で、その 名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を 与える仏とされる。 
薬師如来は大陸には存在せず、所謂、東方の日本に主に存在し、飛鳥の時代より信仰されているといわれる。 
脇侍(きょうじ)には御存知の左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩で、十二神将に取り囲まれている。 

この十二神将は言い伝えによれば、時を表す十二支に対応していて、一日を約2時間ずつ交替で守護しているのだといわれる。この十二神将の筆頭の宮毘羅大将が、日本では金毘羅(コンピラ)に訳され海上安全の神となり、大衆には「金比羅(こんぴら)さん」の名前で親しまれるようになったとされる。

(※)序でに権現(ごんげん)とは、仏が化身して日本の神として現れることで、日本の神の神号の一つでお馴染みである。日本の神々は仏教の仏が形を変えて姿を現したものであるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ・平安期に起こった神仏思想)の考え方に基づいた神号である。 「権」という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。

又、琴平山が象頭山と言われるのは、お釈迦様が修行した地に似ていたのと、琴平山が象の頭に似ていたので、その名が付けられたとも言われる。 
象頭山金比羅大権現」は、神仏習合によって金毘羅自体に神名が与えられたことを意味する。 
ところが明治の初期、国家神道を成立させるべく、明治政府が神仏分離を発令され、後に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた)と呼ばれるものが実施された。
その為松尾寺は、寺自体を廃絶させた上で祭神を金刀比羅宮として生き残り、そして現在はこの祭神が踏襲されているという。

日本は海の国、海洋国家である。
海の神様である「金刀比羅宮」が全国各地に分社、分支され多くの国民に愛され祀られているのは当然の事と言えるかもしれない。

次回は、金比羅宮の「さざれ石



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2011年2月23日水曜日

日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」

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 日本周遊紀行(86)琴平 「金毘羅さん」   、



「金毘羅さん」は、小生、幼少の頃より現在に至るまで縁の有る神社である・・!! 、

琴平町・金刀比羅宮のことであるが、その前に・・、
金毘羅神社といえば全国各地に、その分社、支社が存在し、金毘羅さん(こんぴらさん)の名で全国の民衆に親しまれている社宮である。 

そして、小生の生涯の中で金毘羅宮とは幼少の頃より現在に至るまで縁がある神社でもある。小生の田舎、故郷である福島県いわき市湯本には由緒ある神社が2ヶ所ある。 
日本でも古湯とされる湯本温泉の象徴的守護神である「温泉神社」と我が青年時代までの在住地である関船町に鎮座している「金毘羅神社」である。 

この金毘羅宮は幼少の頃、歩いても数分の処にあり、この鎮守様の森でチャンバラごっこや度胸だめし(肝試し)をしたもんである。 
縁日の1月10日(旧暦)は近郷近在の人々がご利益参拝のため大勢訪れ、参道、側道には縁起物や駄菓子屋のテント、見世物小屋が立ち並び、押すな押すなの大盛況である。
我が家でも「ご接待」と称して親類、縁者、知人を招いて馳走を振舞い、大賑わいで小生ら子供たちは訪問者から「おこずかい」をもらって縁日へと出かけたものであった。

当地の「金毘羅神社」は500年の歴史を持つという。
江戸時代に入ると近海で海難事故が多数発生し、その為村人が讃岐の金毘羅神社に出向き安全祈願をした所、たちまち事故が起こらなくなったといい、その為、新たに金毘羅権現を当地に勧請し社殿を造営したといわれる。
金毘羅大権現宮例大祭の1月10日は、いわき市一円、県内、宮古、気仙沼、房総、新潟県など各地から十数万人という大勢の参拝者で賑わう。神社境内をはじめ沿道には約500店舗の露店が並ぶ。



次に、現在在住の神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 
こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在にも成り果てている。
小生は今でも毎日のように鳶尾山系へのトレーニング・ウオークを行っているが、この際には必ずこの社を通り、参拝をするようにしている。 

江戸期往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近在の氏子で大賑わいであったと言う。 
特に、鳶尾地区(中荻野地区)は矢名街道(相模原-大磯線と甲州街道に通ずる津久井街道、現、国道412号線)と大山道(現、の八王子や相模原方面)の交差地域に属し、「大山参り」の通行客と合わせて鳶尾山の金毘羅宮を参拝したともいわれ、大勢で始終賑わってたという。 
しかし今は見る影もなく、小生実家(故郷)の宮の賑わいを思うと残念でならない。 
歴史的遺産やそれにまつわる祭礼や行事を存続させることのいかに大事か、そして難事であるかを象徴するようでもある。


蛇足ながら大山は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。
中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。現在でも四季を通じて参詣者が耐えないが、特に、江戸落語に「大山参り」という話しもあり、当時の大山参詣と賑わいぶりは有名である。

現在、鳶尾山の金毘羅宮の古びた社殿の正面上部には縁起・由緒が以下のように書かれてある。

金毘羅子世羅天由来記』・・、
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。 一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。 翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺 世話人 』

続いて、琴平の金刀比羅宮・本宮



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2011年2月22日火曜日

日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」

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 日本周遊紀行(85)観音寺 「観音寺」   、 


拝むとお金に不自由しないといわれる琴弾山の「寛永通宝」

観音寺市の「観音寺」



田舎町の豊浜に、昭和の宰相・「大平正芳」出現・・、

国道11号の沿線の町役場の前に銅像が建っていた。
この小さな田舎町の「豊浜」に、歴代の総理大臣が出現していたのだ、「大平正芳」氏である。 
昭和50年代の第68・69代の総理大臣で、ずんぐり、むっくりした体型で口ごもって物をいい、演説や答弁の際に「あー」とか「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取り、またその風貌から「鈍牛」ともいわれた。 

自民党幹事長、官房長官、外相、通産相、蔵相などを歴任し、派閥領袖だった三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の所謂、「三角大福」の四人での総裁選には敗れるが、その後も今太閤と言われた田中角栄と盟友関係が続くことになる。 
田中内閣の発足で外務大臣に就任し、日中国交を成立させた。1978年に福田赳夫首相に挑戦する形で総裁選に出馬、予備選挙で福田氏を破り、直後に第68代内閣総理大臣に就任している。

朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」との評判が示すとおり、政治における知性や言葉に重きを置く政治家であったという。
その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は、今日でも多いに顧みられることが少なくないといわれる。読書家としても知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。

首相が、靖国神社にA級戦犯が合祀(昭和53年合祀)される前に参拝したことがあり、それに関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。 又、「政治とは・・?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

1980年には、社会党が提出した内閣不信任案が反主流派の欠席によって可決、ハプニング解散となり、憲政史上初めて衆参同日選挙が行われる事態を招来した。
同日選の第一声を挙げた翌日に体調を崩して入院、心筋梗塞で急死した。 

この大平首相の死が国内政治の空気を一変させたという。かねて抗争終結の落としどころを模索していた自民党の主流派(田中派)と反主流派(福田派)は、「弔い合戦」を名分として一挙に結束に向かい、また追悼ムードは有権者にも大きく作用したため、同日選では自由民主党が大勝した。



三カ所の霊場を抱える、名勝・「琴弾公園」・・、
豊浜のすぐ隣が「観音寺市」であり、市名が寺院名と同じなのは珍しい。
四国八十八箇所観音霊場で讃岐の霊場は「涅槃の道場」といわれる。
弘法大師が仏門へ入門され、巡礼の終期の入定(にゅうじょう・精神を統一して煩悩を去り、無我の境地にはいること)に至るといわれるところである。 
涅槃(ねはん)とは、煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態で、仏教における理想の境地をいう。 

第69番霊場・観音寺は、地元の人に「おかんおんさん」と親 しく呼ばれている代表的なお寺であり、そのためか市名も観音寺の名がそのまま付いているのである。 
海岸に面して観音寺市民の憩いの場所、自然美と人工美が融和したといわれる名勝・琴弾(ことひき)公園がある。 

瀬戸内海国立公園にも含まれ、白砂青松の有明浜や松林の続く公園は「さくら名所100選」に選ばれており、美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっている。 
園内には、珍しく砂で絵が描かれた「寛永通宝」というのがある。
東西122m、南北90m、周囲345mもある巨大な大砂絵の銭形(ぜにがた)で、描かれた理由は定かでないが山頂より拝んだ人は健康でお金に不自由なく暮らせるという。 
ここに琴弾八幡宮神恵院(じんねいん)、観音寺等の名所旧跡が点在している。

琴弾八幡宮」は、縁起によると創建は703年、名僧・日証上人が山頂に草庵を結んで修行していたとき、海のかなたに神船が浮んで琴の音が聞こえた。
これは宇佐八幡(大分・宇佐の神宮で全国八幡宮の総本社)のお告げであり、その神船と琴をひきあげて山頂に祀ったという由緒ある神社とのこと。
屋島の合戦に勝利を得た源義経が、次の壇ノ浦の合戦の勝利を祈願したといわれる。 

この琴弾山は、義経が屋島合戦で勝利した要因の地の一つとされている。
義経が伊勢三郎義盛に命じ、伊予の国から田口佐衛門教能(伊予大洲城主)の一千騎が平家援軍に向かう途中、説得により食い止め、源氏側に味方した所だといわれる。 
屋島の合戦で最悪の場合、平家に挟み討ちされ、形成は逆転していたかもしれないとも言われるところである。

八幡社は琴を弾く神様、つまりは技芸の神様を祭ってあるといい、技芸の神の他に海の安全、戰の神、豊穣の神として奉っている。
神社では技芸の神にあやかって、近年、全国奉納絵馬コンクールなども行っているとか。

第69番霊場・観音寺は寺伝によれば、大師は神功皇后を尊崇し観世音の生まれ代わりであるとして、聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置した事から始まるという。併せて七つの宝を埋めたことにより七宝山と号し、第69番の霊場に定 められた。  


本坊の庭園は巍々園(ぎぎえん)」と呼ばれる名園で、様々な形をした巨岩を背景に造られた枯山水の石組みは素晴らしく雄大な眺めてあるという。  
朝廷では桓武天皇以来、歴代の勅願所と定められて信仰も厚く、各武将からも厚い信仰を受け、寺運は永く栄えて現在に至っている。

第68番・神恵院は、行基が722年に訪れた後、弘法大師(空海)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山・神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。神恵院は明治初期までは、神宮寺として琴弾八幡宮に付属して同一境内にあった。
ところが明治政府による神仏分離令により、琴弾八幡は神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来像も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移され現在に至っているという。
つまり、其々が独立しながら神恵院は観音寺と同居した形となり、一つの山に、二つの霊場があるという不思議な現象が生まれた。 

神恵院境内の隅に納経所があるが、観音寺の納経所も兼ねているので、お遍路さんにとっては琴弾山界隈の風光明媚な地と相まって、二札所の納経が一緒にできるという有難い札所でもある。

次は、琴平の「金刀比羅宮



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2011年2月20日日曜日

日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」

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 日本周遊紀行(84)豊浜 「名物・讃岐うどん」   、




「道の駅・とよはま」の「浜っ子茶屋」


全国区になった「讃岐うどん」には、仕掛人がいた・・、

伊予の「川之江」を過ぎると、国道11号は間もなく讃岐の香川県である。 
土佐とか、伊予とか、讃岐とか、四国四県は何れも古来から藩政時代までの呼称が良く似合う。 
今でも、各地域や施設には、旧名称が好んで付されているのである。


県境の「道の駅・とよはま」で一息いれる。 
昼時でもあり、讃岐に到ったからには早速、讃岐名物の讃岐うどんを食する。 
かなり広めの「浜っ子茶屋」という和風レストランがあったが、先ずメニュウを見てビックリ、300円からと「讃岐うどん」が安いのである。
先ずは、440円の山かけウドンを食する。
ズルズルとほうばると柔らかさの中に芯があり歯ごたえがあり、その汁(つゆ)も関西風の薄色、薄味で何とも美味なのである。
値段のことを言うのも何だけど、これだけの品質、旨さだと首都圏では倍額はするだろう・・?。

ところで、遍路さんが弘法大師に親しむ香川県では「うどん」は、大師さまが唐から伝えたと語られているともいわれている。
これは伝承に過ぎないが、うどんは、遍路が道々、簡単な食事を摂るのに適している食物であることは確かである。

江戸時代には金刀比羅宮への参拝客を相手にした旅籠が増え、その一階がうどん屋となる例が多かったという。
店頭に茹で釜が置かれ、鉢にうどんを盛り、ショウガやネギとだし(麺つゆ)を入れた器に、つけて食べる形式が一般的となった。(今で言う“つけうどん”で、地元讃岐では「湯だめ」ともいうらしい)

又、参拝客が船で到着する丸亀や多度津にもうどん屋が作られ、名所図会などにもその記録が残っている。
だが、往時の一般庶民や農民にとっては引き続きうどんは贅沢品とされ、田植えや法事の祭り事に振舞われる特別な存在だったともいう。 
近代の明治になって一般庶民も食するようになるが、その頃は、所謂、「夜なきうどん」という行商が高松市内に増え、天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部にランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていたともいう。
以降、香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が食べられるようになり、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉まであったという。 


最近では健康食も相まって、空前の「讃岐うどん」のブームだそうである。 
我家の近く(神奈川県厚木市)にも最近、そのものずばりの「讃岐うどん」という名のうどん屋が出来たようで、大繁盛のようである。

そこにはやはり仕掛け人がいたようで・・、
全国最小県のタウン情報誌「TJ・Kagawa」初代編集長が、食文化・讃岐うどんを連載企画したところ、圧倒的人気を得、一気に全国区に押し上げたという。 
お陰でTVのグルメ番組でも、讃岐うどんは度々取り上げられるようになったようである。 

讃岐うどんの、その特徴は安さにあるという、香川県外の人には、讃岐うどんの値段の安さがにわかに信じられないというが、1杯100円や200円はざらで、それも極めて人気店がそうであるという。 
県下で讃岐うどんの時間帯別動向を調べると、午前11時から午後2時の間に全店の95%以上が開いていて、売上げもこの時間帯で大部分を占めるという。
その後の夕方から夜にかけては、どんどん店閉いをするため、讃岐のうどん店は圧倒的に、「昼型仕様」なのである。 しかも、昼時にうどん店に入ると、これまた圧倒的にサラリーマンの客で溢れているという。


つい最近、『UDON』と言うTV映画を見た。 「うどん」である。
主人公・香助(名前が思わせぶりでいい:ユースケ・サンタマリア)が挫折して、海外から故郷の田舎町に戻ってきた。 借金を背負い人生のどん底にいた香助の前に、地元の雑誌社で働く美人の編集者・恭子(小西真奈美)が現れる。 香助は恭子や地元の人々と触れ合ううちに地元の名産品である「うどん」の魅力に目覚め始める。
「うどん」という日本独自の食文化を通し、日本の魅力が存分に表現されているのである。共演者にはトータス松本、小日向文世、鈴木京香ら個性豊かな面々が出演している。
ああ、うどん食いテー・・!、今夜はうどんにしよう。

次回は、昭和の宰相・「大平正芳



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2011年2月18日金曜日

日本周遊紀行(83)伊予三島 「三島神社」

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 日本周遊紀行(83)伊予三島 「三島神社」   、



伊予三島に鎮座する「三島神社」



伊予三島と駿河三島の両神社は兄弟神であるが、行政地域として縁は無いようだ・・?

予讃線・伊予寒川駅あたりで国道11は沿岸部を行く。 
「寒川」とは懐かしい名前で、我が在住の地・神奈川県にも寒川町がある、
「さむかわ」と読むが、こちらは「さんがわ」と読むらしい。 もっとも、香川県の東部にも寒川町があるが、こちらも「さんがわ」と称するらしい。 

その香川県・寒川町と神奈川県・寒川町は、親戚関係(親子関係)にあるらしい、とは云っても太古の神代の昔のことで、国土とか、川とかに関係ある神社同士(「大蓑彦神社」と「寒川神社」は親子関係にある)の話である。 
伊予三島市の地域である寒川は、両町とは何か因縁・由緒があるのであろうか・・?。
寒川八幡宮が当地に鎮座しているらしいが、由緒は・・? 小生が些か調べてみたが全く不明であった。


ところで、こちら伊予三島市は、瀬戸内の「しまなみ海道」が走る大島、「大三島」とは親子の関係にあるらしい。 
現在の伊予三島市は製紙の町で、大手の製紙メーカーの工場が林立している。 

市内に入ると何となく工場から出る化学性の臭が感じる。 
その市内海岸近く、その名も宮川に沿って「三島神社」が鎮座している。 
一方、沖合い「魚島」より西方15kmに瀬戸内海を塞ぐように「しまなみ」の群島があり、その中央に「大三島」がある。 この大三島に、全国で一万を越すと言われる三島神社の総鎮社にあたる「大山祇神社」が鎮座している。 無論、伊予三島・三島神社の本社に当たる。
祭神は、何れもわが国建国の大神・天照大神(アマテラス)の兄神に当る大山祇命(オオヤマズミノミコト)を祭っている。

縁起によると養老4年(720)、時の国司・越智玉澄(おちのたまずみ)が、大三島の大山祇神社より当地に勧請し、三島神社(伊予三島市中央と伊予三島市宮川に二社鎮座あり)を創建したといわ、その名に因んで当地を「伊予三島」の地名が付いたという。
越智氏は、伊予国・越智郡に勢力の中心をもっていた氏族であり、奈良時代以降、越智郡の郡司としてこの地方に勢力を張っていた。
越智氏は、大三島に大山祇神社を奉祭してきた氏族でもある。


「三島」という地域名は、明治22年の町村制実施により正式に三島村となり、明治31年に三島町に昇格したらしい。 
昭和29年に6ヶ村が合併し、現、「伊予三島市」が発足した。 
ところが、所謂、「平成の大合併」で2004年4月 、川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町・宇摩郡新宮村などが合併し、「四国中央市」という。 何ともミョウチクリンな名前の市が成立、誕生している。 
又、この市名が将来、道州制が導入される場合の道庁所在地の州都に成る事を目指して命名したというから、チト早合点しすぎじゃありませんかと思う次第であります・・?。


ところで小生の知るところ、駿河の国、静岡の三島市にも、その町の中心に「三島大社」が鎮座している。
この神社の祭神は、やはり大三島の大山祇神を祀ってあり、大山祇神社を分祀したものであるとのこと。 
伊予三島と駿河三島は両神社に因んで、さしずめ兄弟都市に当たるのかもしれないが、特に、行政地域としては繋がりはないようである。
尚、明日、広島・尾道側から「しまなみ海道」を渡る予定なので、この時に大三島の「大山祇神社」について若干詳しく述べるつもりであるが・・?。


三島から「川之江」の市街地を通る、市街地といっても産業地、工業地帯であるが。やや時代を経た・・?工場群と近代設備を誇る新鋭工場群が混在して立ち並んでいる。
特に目立ったのが、大王製紙、愛媛製紙、伊予段ボール、丸住製紙など紙、製紙に関した産業・企業が多く、盛んなようである。

やはりというか、川之江を中心とする当地域は、製紙、紙加工業において日本屈指の生産量を誇り、その他を含めた製造品出荷額は年間約6000億円にも達し、製紙工業の出荷額は全国一を誇るという。 
工業出荷額は、四国では西条市に次いで二位を占める。

宇摩地方(旧宇摩郡のことで、現在の川之江市・伊予三島市・宇摩郡をいう)の製紙業は江戸中期頃、駿河の国(静岡)から伝わり、手で紙を漉く(すく)ようになったのが始まりという。 
宇摩郡の村々は、稲作に適した平地が少ないため、副業としてこうした紙漉きが次第に広まっていき、そこから次第に紙漉きを専業とする業者も増加した。 
明治維新後,製紙工場は更に増加し,紙の販路拡大や製紙技術の革新への努力により、今日の当地域の製紙産業の隆盛の基礎が築かれたという。

川之江地方の紙製品は、お札と切手と収入印紙・証券類(金札)以外は何でも揃うと言われ、伝統産業の手漉き和紙や水引製品にはじまり、機械抄(きかいすき)製品や各種の紙加工製品・その他、最近の不織布(糸の形態を経ずに、繊維シートを機械的・化学的・熱的に処理し、接着剤や繊維自身の融着力で接合して作る布、裏地・壁材・医療用など)や機能紙に至るまで生活の多様化に伴い新しい製品が生み出されている。

主な紙製品を種目別をあげると・・、
水引細工
元々、元結(髪を束ねて縛る糸紙)の生産が盛んであったが、明治初期の断髪令により急減産、生産工程の類似している水引に転換を図り、現在では全国2大産地を占める。
手漉き和紙
小判紙・大判紙・書院紙・障子紙・コピー紙・典具帖紙・奉書紙等々18種類ほどあるが、現在は書道半紙の産地として、需要家に支えられる。
機械抄紙
新聞用紙、印刷用紙などの洋紙で、豊富な良質の水が必要である。銅山川・疎水事業の完遂による工業用水を確保した。
加工紙
日常生活に深く係わった紙製品、家庭用から趣味工芸の分野、衛生・医療用製品から産業用に至るまで。
不織布
「織らない布」の様な感じで、合成繊維の出現によって、天然繊維や化学繊維等を科学的、物理的な方法によって結合させたもの。 現在、あらゆる産業分野に進出している。
機能紙
ハイテク紙のことで、従来の紙には無い新たな機能を持った紙である。 テレホンカードからリモコン機器・液晶電算機からテレビ画像まで、数えれば枚挙に暇がないほど日常生活に深く係わっている。

次回、讃岐・「讃岐うどん



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2011年2月17日木曜日

日本周遊紀行(82)西条 「石鎚神社」

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 日本周遊紀行(82)西条 「石鎚神社」   、



国道に面して堂々と立つ「石鎚神社・神門」



「日本100名山」の石鎚山は、日本三大山岳修行・修験の山でもある

国道11号のすぐ左横を予讃線が並行している。その伊予氷見駅からすぐに「石鎚山駅」が在る。
さすがに石鎚神社駅とは言わない、石鎚山は関西一の高峰、四国一の名峰であり霊場でもあり、その名を尊崇の念をもって称したのであろう。 

国道を挟んだ反対側に、大きな鳥居と銘柱があった。車を正面に進めるとすぐに、狛犬を従えた巨大な二層の神門が構える。
その奥まったところの高台に華麗な石鎚神社の本殿がお目見えする。
付近には豪奢な神社会館や神社を総括する社務所、神社森の神苑が控えている。
特に、本殿までの両脇には四国、九州、近畿と多方面から寄せられた石柱が目を引く。 
本日は晴れていて下方の町並みや瀬戸内海が見渡せるが、山域の方は濃い霞がかかっていて石
鎚山はおろか前衛の山々も姿は無い。本来なら石鎚の山並みが見て取れ、特に本社から見る頂は荘厳さを感じるという。

石鎚山は神が鎮まる山として山全体が御神体とされ、ここJR石鎚山駅近くに本社(里宮)と石鎚山北の中腹に在る「中宮・成就社」、山頂に頂上社(奥宮)、東南の山稜に在る土小屋遥拝殿、この4社をあわせて「石鎚神社」と称しているようである。祭神は、イザナギとイザナミの第二子とされる石鎚毘古命 (イシヅチヒコノミコト)を祀る。

石鎚山は、1300年余り前、役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、弘法大師も石鎚山で修行したといわれる霊山で、皇族や武将の信仰も厚く、桓武天皇、文徳天皇、武将として源頼朝、河野家一族、豊臣家一族の篤い信仰があった。
特筆されるのは慶長15年、豊臣秀頼が福島正則を普請奉行として中の宮・成就社が御造営されたという。
 

『 わすれては 不二かとぞ思う これやこの 
             伊予の高嶺の ゆきの曙
 』  西行法師
 


石鎚山は標高1981m、四国のみならず西日本最高峰の名山岳で、深田久弥氏撰する「日本100名山」の一つでもある。
わが国で最も古くから讃えられた名山の一つであり、太古から信仰の山としても知られ、釈迦岳(奈良県)、大峰山、大山(だいせん)、白山、富士山とともに日本七霊山の一つにも数えられている。

神変大菩薩(諡号・しごう、生前の行いを尊び死後に贈られる称号)・役小角(奈良時代の山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野の金峰山・大峰などを開いたという)が初めて山に登り、開創したと伝えられる。
山岳信仰の時代は4ヶ所の鉄鎖を手で繰り、頂上に登ることを許される者は水垢離(みずごり、神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)と禁欲など厳しい戒律をクリアした敬虔な信者だけであったという。
現代の今日でも毎年、7月1日のお山開きには白装束の信者達がご神体とともに山頂を目指すという。
石鎚山頂に登るには、2つのコースがある。 一つは、面河渓の関門から土小屋まで石鎚スカイライン(12月~3月は閉鎖)を利用して車で行き、そこから徒歩で登る(約2時間)方法。もう一つは、西条市側から石鎚ロープウェイとリフトで成就社まで行き、徒歩で登る(約3時間)方法である。

山頂付近の絶壁には三カ所に太い鎖が架かり、下から一の鎖(33m)・二の鎖(65m)・三の鎖(68m)と呼ばれ、この鎖を伝って攀じ登る。(迂回路有り)
主峰天狗岳山頂からの眺めは雄大で、遠くは中国・九州そして四国の山並みが一望できるという。
「石鎚山」とは、その山系を指し、山頂は特徴的な天を指す鋭鋒で「天狗岳」と称している。関西在住の登山愛好者の人気No1はこの「石鎚山」といわれ、全国の山愛好者による「あなたが選ぶ100名山」(私的・ネット投票)では第9番の人気を博している。



国道11が、「西城」の北を流れる「加茂川」の加茂川大橋を渡るとき、大きく広がる河原には水流が無く、干からびて殺風景なのに気がついた。 
加茂川は、西条市を育んでいる「母なる川」とも云われアユ、アマゴ、ニジマスが泳ぎ、その上をカワセミが飛び交うという清流であるはずだが。西日本最高峰である石鎚山を源流とし、名水百選「うちぬき」の水源にもなっている。 それが、水面が無くなっているのである。

四国は、今年(2005年5月)に入ってしばらく雨が降らず、渇水状態であることはニュースで聞いていたが、四国最大の吉野川水系である早朝浦(さめうら)ダムの水位が0に近いとも知らされていた。 
加茂川の中流部には黒瀬ダムがあるようだが、ここも干上がっているのだろうか・・?これ以上渇水がすすむと、いよいよ(伊予伊予・・?)霊山・石鎚に雨乞いの儀式、神事でもせねばなるまい・・!。
平安中期、伊予の国司・藤原範国が四国地方の大旱魃にあたって、「能因」をして雨乞いの歌を詠ませ、一宮である大山祗神社(オオヤマズミ・大三島)へ上奏させたという。

このとき能因法師(平安期の歌人、100人一首、三十六歌仙の一人)は・・、

『 天の川 苗代水に せきくだせ 
           天降ります神 ならば神
 』

の歌を残しており、この祈願により伊予の国中に、三日三晩にわたって雨が降り続いたという。

「祈り・・、四国に雨を乞う・・!!」


新居浜市の北側山系は別子(べっし)といって、小生にとって懐かしい名称である。
若い頃、窯業関係(金属精錬のための炉の設計)の仕事に従事していて、この住友別子鉱山や瀬戸内・直島の住友鉱山に関連した銅精錬の溶解・精製炉の設計作業をしていた。
ここ別子は、太古の昔から、とてつもなく巨大な鉱脈が眠っていた。
人跡未踏の赤石山系の、その名も銅山峰(1291m)・南斜面(現、別子山村=新居浜市)で、1690年(元禄3)、銅鉱露頭が発見されたという。(現、遺跡の「歓喜坑」が第一発見地といわれる)

大坂の豪商・泉屋、住友吉左衛門友芳により巨額な資本を投下して、この地域を「別子銅山」として開発し、備中(岡山県)の吉岡銅山、出羽(山形県)の幸生銅山(日本三大銅鉱山)に続いて、わが国では三番目の開鉱であった。 
開抗からわずか8年の元禄11年には、年間産銅量1500トン以上を記録するなど、当時世界最高の産銅量を誇る銅山であった。
その後、明治26年には日本初の山岳鉄道(現在、松山で記念に走っている・坊ちゃん列車と同形といわれる)を導入、産銅量は一挙に5000トンに達し、別子の山中には12000人もの鉱山関係者が住んだと言われている。 坑道の総延長約700km、採鉱場所は海面下1000mにも達したという。

明治以降は、西洋の近代的採鉱技術その他を導入して採掘を累増させ、外国貿易の重要な輸出品としてわが国の経済を支え、産業の近代化、事業の多角化に貢献した。
この銅の生産量は、栃木県の足尾銅山に次いで日本で2番目に多いという。「別子銅山」は、住友巨大財閥の原点・源流とも言われ、わが国唯一の民間鉱山としても、その役割を果たした功績は大きいという。

昭和48年、多種要因にて別子銅山は閉鎖するに至り、栄光の歴史に幕を閉じた。 
新居浜市から別子山村に至る、標高1000m大山岳地に残る広大な銅山の多くの遺跡は、今ゆっくりと自然に還りつつある。
煉瓦造りの巨大な貯鉱庫や建築物、索道基地跡などの遺構景観は、別子銅山を「住友のインカ帝国」とか「四国のマチュピチュ」(マチュピチュ:ペルー南部にあるインカ帝国の都市遺跡。海抜2400メートルの高原に位置し、石造の神殿・宮殿・水路などが残されている、古代の空中都市とも言われる。世界遺産)と形容し、紹介もされている。
新居浜のすぐ北側、別子銅山跡地に、「マイントピア別子」という鉱山の歴史や当時の生活風景を紹介する歴史資料館や鉱山鉄道、貯鉱庫跡などの鉱山遺跡がある。

次回は、伊予三島市・「川之江



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2011年2月15日火曜日

日本周遊紀行(81)今治  「今治の霊場と巳正月」

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日本周遊紀行(81)今治 「今治の霊場と巳正月」 ,



第59番・国分寺

第62番・宝寿寺、


第63番・吉祥寺、



自家祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事(今治)

今治の郊外、国道196号沿いを訪ねた。 
田圃の中に今までの霊場とはやや異なった様子で、高く石垣を組み白い壁塀をめぐらせて台地に「泰山寺」は建っていた。
石垣を上り境内に入るとすぐ 左に鐘楼、庫裏、奥に本堂と大師堂が概ね横一列に並んでいる。

背後にある山は山号になっている金輪山で、寺はもともとこの山頂に建っていたという。
弘仁6年(815 年)、天災・災害の多かったこの地に大師は、これを鎮めるために地蔵尊を刻んで本尊とし寺を建立した。 
寺名を延命地蔵経といい、お経の中の第一「女人泰産」からとって泰山寺と名付けたという。
境内の「不忘の松」はこの時、大師が記念にと植えられた松であると伝えられている。

更に、泰山寺から車で10分ぐらいの市郊外のち、海岸に近いとこの平坦地に第59番霊場・国分寺があった。 
奇麗に植栽された数十段の石段の上、立派な石塀と石門の正面に堂々たる本堂があり、右手に大師堂、左手に 金比羅堂、その一段下ったところ に庫裏がそれぞれ堂々たる構えを見せている。 


「巳正月」とは

伊予の国分寺を中心とするこの辺りには、 600年以上も続いている珍しい「巳正月」という行事があるらしい。 
これはその年の1月から11月までの間に亡くなった人の家族、親戚で行われるささやかな催しで、12月の第一巳の日に行うので、「巳正月」とか「巳午(みうま、みんま)」と呼ばれるそうである。
お正月めいた事を家族身内で行われる行事である。 
家には祭壇を飾り、その年に亡くなった新仏を呼んで巳の刻にお墓参りに行くが、その時の行き帰りには口をきかず、焼いたお餅を引っ張りあって食べ、更に、家に帰ると祭壇の前で「あんころ餅」を食べるという奇妙な祭事である。

その謂われについて・・、
巳正月は国分寺の武将・脇屋義助公が亡くなった命日にあたるという。
当初は秘密であったため、家来達が義助公を偲んで人に知られないように、夜中にお墓で正月の餅をついて、無言で食べたのが由来だという。
今治の国分寺周辺は伊予の中心で国府があったとされるが、今治の何処にあったかは定かでないという。
その位置に関して様々な説があげられているが、当地の地名にもなっている「国分・古国分」の近辺であることは確かだといわれる。



国道196号線を南下しながら車を走らせると、道の駅「今治湯ノ浦温泉」があり、ここで一休み。 
これ幸いと記念に一浴しようと思ったが、ここには温泉は無く、源泉の湯けむりを石でイメージしたモニュメントのみであった。 ただ、温泉スタンドがあり、100リットルが100円で提供している。 
後方の小高い丘陵地にいろいろと温泉施設が点在する事を教えてもらったが・・思案!。 
石のモニュメントは時折、間欠泉のようにドドーっとお湯が湧き出している。

湯浦温泉は、四国で始めて国民保養温泉地(温泉の利用促進を狙い、温泉法第14条に基づいて環境省が指定をした温泉地のこと)に指定されましたところ。 
温泉の有る湯浦地区内には数件のホテルや旅館、日帰り入浴の出来る「四季の湯」がある。 温泉は弱アルカリ性・ラドン含冷鉱泉、源泉25℃、効能、神経・痛筋肉・痛関節・痛五十肩



湯浦温泉を出立すると、直ぐに小松町に入ったつもりであるが、2004年に西条市に吸収合併され、新たな西条市となっているようである。
この先、R196道沿いには幾つかの霊場・札所が並ぶ。
第61番・香園寺、第62番・宝寿寺、第63番・吉祥寺、第64番・前神寺等がある。 このうち先ず、宝寿寺、吉祥寺へ向かうことした。

中山川の大橋を渡り、JR予讃線を越えると大きな三角交差点に出る。
この道は、松山へ向かっている国道11号で、今度はこちらを走るようになる。 
伊予小松駅のすぐ近くに第62番霊場・宝寿寺が住宅で囲まれるようにあり、山 門の前に巨大な文字で「一国一宮・宝寿寺」と刻 んだ古い石標が建っている。 
宝寿寺の「宝寿」の文字は複雑な旧漢字で表され、その古さを感じる。 
門 をくぐると、緑に覆われながら正面に本堂、右に大師堂が建ち、境内参道の左側には枯山水を思わす石庭が趣きを添えている。

奈良期・天平年間、聖武天皇が 諸国の国府に一の宮を造られた時、この近くに伊予・一の宮神社が建てられ、その別当寺として創建された。 
弘法大師が四国巡行の際、この地に留まれ、十一面観音像を刻み本尊として第62番の霊場に定められた。ところが大正10年に予讃線が計画されたため境内を駅へ譲って、現在の地に移転したという。


次に、予讃線の伊予氷見駅そばの第63番霊場・吉祥寺(きちじょうじ)へ参る。 
このお寺も宝寿寺同様R11号線沿 いにあり、庶民の寺という感じがする。 
本来、立派な山門から参道入堂しなければいけないのが、珍しく、広い境内のほぼ本堂の横まで車が入れるようになっている。 
門の正面に本堂、左手に大師堂が建ち、右手に庫裏が ある。
本堂には、四国霊場の中で唯一体の「毘沙門天」が本尊として祀られているという。

戦国期、天正年間の豊臣 秀吉の四国征伐(長宗我部氏)の時、この辺りの殆どの寺院は戦乱に巻き込まれて焼失しているが、当山も例外ではなかった。往時は、寺域も広く、塔中二十一坊を有する大伽藍であったという。 
毘沙聞天の脇仏である「吉祥天」(毘沙門天の妃また妹ともされている)は富をもたらすとして、境内にある「くぐり吉祥天女」の下をくぐるとご利益があるとか、又、本堂の前に高さ1.2mもの「成就石」と呼ばれる穴の空いた岩があるが、この穴に目を閉じて金剛杖を通すことができれば願いが叶うともいわれている。
ほかに、長宗我部元親が難破したスペイン船を救助した際、船長から託されたマリア観音という秘仏も所蔵されているという。

次回は、西条・「石鎚山



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日本周遊紀行(81)今治 「地域合併と村の意義」

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 日本周遊紀行(81)今治 「地域合併と村の意義」   、



珍しい海水掘の「今治城」



先ず、暗渠で繋がっている海水掘が特徴の「今治城」について

奈良時代の後期に伊予国が誕生し、この国の中心として国府(今の県庁)が今治におかれた。市史には、「国府在越智郡」という記述があり、国分寺(国ごとに建立された政治的に影響のある官寺。奈良の東大寺を総国分寺とした。)も近くにある。 

平安期、菅原道真の父・是善公が伊予の国司として今治に派遣されていたことは余り知られていない。 その関係からか道真公が京・府内の騒動で九州太宰府に左遷されたことは、西国・伊予に国司として父の在任があったからともいわれるが、道真が途中、父に会いに伊予の国に立ち寄ったかどうかは定かでないという・・?。



今治(いまばり)は戦国末期、藤堂高虎がこの地を統治する際に「今からこの地を治める」の意を込めて「今治」と命名したという。 実に単純明快である・・!、 
高虎については前にも記したが、近江国(滋賀)の生まれ。 浅井長政、羽柴秀吉らに仕え、姉川の合戦、賎ヶ嶽合戦、文禄の役(朝鮮の役)などで戦功をあげ、宇和郡7万石を与えられ宇和島城を築いた。 
その後も、戦功をあげて伊予国20万3千石の大名として唐子山の今治・国分城に入城し、後に海に面した今治城を築城した。 城郭は20万石にふさわしく堂々とした建築で、本丸には五層の天守閣が聳え、城門が九カ所、約20の櫓があったという。

今治は、目前に瀬戸内海最大の難所・来島海峡を望む海上交通の最重要拠点であったことは先に記した。 
瀬戸内水軍の動き、海峡や島々を挟む対岸の安芸国(現在の広島県)の情勢を警戒し、それらに即応対処する事が求められていた。 
高虎の発想は水軍の将としても一流で、城は海岸線の砂浜に海と一体になるよう築かれ、強固な海上要塞として完成し戦略的効果をも演出したという。
濠には、舟溜まりが用意され、水軍基地としての運用も可能となっている。当時は、内濠・中濠・外濠から成る三重の濠が造られ、常に海と繋がっていてその幅もかなり広い。特に、内濠の幅は60mにも及んでいた。
因みに、三大海水城は、他に高松の玉藻城、大分の中津城などである。

現在の今治城の外郭堀は築港や陸上交通の観点から埋めたてられ、外海と断絶してしまったようだが、暗渠にて濠の水は海と繋がっているという。
そのため海水が流出入し、潮の満ち引きで水位も変化し、堀には鯛やヒラメも泳いでいるらしい。 
海の水を湛えた堀に映る今治城の姿は、築城の名手が手がけた美しさを今の世に残している。 


今治市は、2005年 (平成17年) 1月、越智郡11町村(朝倉村、玉川町、波方町、大西町、菊間町、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村)の大型合併が施行され、新しい市となっている。
この結果、唯二の朝倉村、関前村が消滅してしまい愛媛県から村が消滅したという。 
因みに、2005年後半現在で村の無い県は、石川県、静岡県、三重県、滋賀県、兵庫県、広島、香川県、愛媛県、長崎県である。 
    

ここで市町村合併と「村」について
因みに、近年の「平成の大合併」での市町村の数の推移を見ると、合併前の1995年4月期には市の数663、町の数1,994、村の数577で市町村数3,234であった。ところが合併で変化した市町村の数は2008年11月現在で市の数783、町の数806、村の数193で市町村数1,782までになっている。
       
21世紀は、「帰郷の時代」(Uターン又はIターン)とも言われる。つまり村・田舎の時代が到来するといわれている。  
古里の自然や人の繋がりは、懐かしいものである。 「」という字を、漢字源で調べてみますと、村は『木+寸』で、「寸」は手の指をしばし押し当てること、つまり人々がしばし腰をおちつける木のある所を表すという。 

「村の風土」は人が育つために欠かせない要素で、人間は地上で生まれて死んで地に帰るものであって、つまりは地から離れるわけにはいかないのである。 だから、人は地の徳(地の恵み)をよく考えるべきであると。
我々は、その地で採れたものを食べ、身体を成長・維持させ、そして、死んでやがて地に帰る。 地の恵み・「風土」に育まれて、活かされながら生きている。

身土不二」(しんどふじ)という言葉がある。
元々は仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せないという意味である。
昨今は、食養運動のスローガンとして「地元の旬の食品や伝統食は身体に良い」とされ更に、「人と土は別のものでなく一体である」、「人の命と健康は、食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。 故に、人の命と健康は、その土と共にある。」という捉え方で、「医食同源」という言葉と根っこは同じである。 

明治時代の人は、四里四方(16km四方)でとれる旬のものを正しく食べようという運動のスローガンに掲げた。 現代の日本でこれができたら先ずは最高の贅沢といえるし、出来る条件は何処かといえば、それは村であり、農村地域のあろう。

昨今、話題になる「帰郷の時代」はもっと具体的で現実的である。 
それは一つに「団魂の世代」(一般に1947年~49年生まれの世代)、二つに「少子化問題」、三つに「環境の時代」が要因になると言われる。
この世代の人口は700万人位といわれ、来年、再来年(2006、2007年)の定年退職者が4~500万人相当が対照になるそうで、「2007年問題」と呼ばれる。 
これらの人々の5割以上は、都会から田舎に移って、(所謂、Iターン、Uターンと言われる現象)第二の人生を田舎でのんびり・・?、暮らしたという願望があるそうだ。

又、今年(2005年)あたりから、日本は少子化時代に入ったようで、2006年の1億2700万人をピークに、日本の人口は減りつづけると予想されている。 
この人口減少は、地方や田舎では特に深刻で、過疎化や高齢化では現実の問題になっている。 
地方の行政当局者は、如何に人口減を無くするか、いかに人を増やすか、その為にはどうするかが第一の大きな職務と言われている。 
現在は、産業育成の成長時代から環境、又は自然保護の時代と言われる。 
人間生活の基本は衣・食・住であるが、ここに環境が加わり、これが意外と大きなウェイトを占めているという。 

その原点は田舎にある
経済的にも中流となった人々は、精神的にも安定した生活を求めようとしているはずであり、これは一種の田舎への回帰現象とも言える。
現実に、「三位一体」、「地方分権」の施策が進みつつあるようで、これからの21世紀は地方の時代、田舎の時代に移りつつある象徴のようでもある。
 

序に、「村」についての最近の話題を一つ・・、
岡山県に新庄村(しんじょうそん)という極小さな地域がある。 人口約1300人足らずの村で、県の北西部に位置し鳥取県と境を接する。
2005年3月に、周辺地域・上房郡北房町、勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村ら5町4村が合併し「真庭市」が発足している。
ここで真庭市は面積は県下自治体の中で最大になったという。 
又、同年・同月に隣接する新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の1市4町が合併により新たな「新見市」が発足している。

その新庄村は大地域となった真庭市、新見市との間に挟まれ、今にも押し潰されそうな存在になっている。 
当初は当然両市から合併話はあったようであるが、新庄村は敢えて単独で存続することを選択したのである。 
1990年より就任4期目となった村長の小倉 博俊氏は 「小さいからといって合併しないといけないということはないし、財政問題のみで合併してはならない。合併したとしてもメリットが無いと予想されるし、夢やビジョンも見えない。又、新庄の村民には歴史や文化を大切にしていて、自分たちのことは自分達でやるという主体性がある」との強い意向を示している。 
村民はそんな村長の意向を全面的に支持してきたという。 

つまり、吸収合併して大地域となったとしても僻地には変わりなく、行政においても僻地地域ということで取り残される恐れもあるし、尚且つ合併によって自主性が失われ、独自の政策が執りにくくなるというのである。
一郡一村となった新庄村は、行政と地域住民が一体となった村造りを真っ向・正面から取り組んでいるといわれ、この様な村は、現代の理想郷とも言うべきもので、当然、Uターン者、Iターン者も多いのではと想像される。

平成14年度に、新庄村のPR用に制作した「健康で元気な村づくり」と題するテレビ30秒CMが、2002年度ACC(全日本シーエム放送連盟) CMフェスティバルにて銀賞並びに審査員特別賞を受賞したという。 
国内のラジオ・テレビのCMコンクールとしては最も権威があるものとされていて、新庄村のような自治体の作品が上位入賞することは全国的にも珍しく、岡山県においては民間会社のCMも含め、初めての快挙だという。

次回は、今治・「泰山寺



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2011年2月14日月曜日

日本周遊紀行(80)波方 「村上水軍」

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 日本周遊紀行(80)波方 「村上水軍」   、


来島海峡大橋


来島海峡は海賊大将・村上水軍の発祥地

大西町から波方町の半島付け根を横断して今治に入り、程なく今治・尾道ルートと言われる「瀬戸内しまなみ海道」へ通ずる西瀬戸道と交差する。
近くに今治I・Cがあり、中国・山陽地方の尾道へ抜けることが出来る。
小生は四国一周をするつもりなので、当然、このまま国道196を行くことになる。 

この時、偶然にも「大三島」において山火事が発生している。 とカーラジオが報じていた。
大三島は、この瀬戸内しまなみ海道の中間にあたり、大小の島が連なる内の最大の島である。
「瀬戸内しまなみ海道」(本四連絡道路・今治―尾道ルート、西瀬戸自動車道)は、愛媛・今治市と広島・尾道市間を来島海峡大橋や多々羅大橋など十本の橋で結ぶ、文字通りの「海の街道」(全長約六十キロ)である。
すべての橋が徒歩や自転車で渡れるといい、珍しいのは四国側玄関の今治市にある世界初の三連つり橋の来島海峡大橋(愛称・くるくる橋ともいうらしい)といわれる。 
急流で名高い来島海峡は「海の大名」といわれ、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した「村上水軍」ゆかりの地でもある。


瀬戸内海は太古から、九州はむろん大陸や朝鮮半島から畿内に向けてのルートとして、重要な交通の要所である。 
然るに、この内海を堰堤のように大島、伯方・大三島、生口・因島などが阻んでいる。
海流や船舶はこれら島々の間を縫うように流れるのであるが、特に、南端の来島海峡は瀬戸内海の主要航路のようで、大小の主な船舶はこの航路を通過するようになる。

この今治と大島(吉海町)の間にある来島海峡は、「内海では一に来島、二に鳴門、三にくだって馬関瀬戸」と詠われたように、鳴門海峡、関門海峡とともに日本三大急潮として知られる。
潮流が10ノット(時速18.52キロ、1時間に1海里〔1852メートル〕)にもなる所もあり、特に動力の無い時代には、船を操作するのに特殊な技術が必要であった。 
この辺りの海難の地が、往時、海賊を発生させる要因になったのかみしれない、

海賊」とは、陸の山賊と同じで、武装した略奪者集団というものであり、「海賊」という言葉のイメージは恐らく昔も今もこれと変わることはない。 
だが史上遡って室町から戦国時代になると「海賊」は盗人的蔑称でなくなり、「海賊大将」などと誇らしげに自称する軍事勢力であり、それらを統率する首領も現れてくる。 
海賊は、軍事力を備えた戦術を行使する「水軍」と呼ばれるようになったのである。


60年程続いた南北朝の時代に、南朝の後醍醐天皇の懐良親王(かねよししんのう・後醍醐天皇の第11皇子)を助けたとされる「村上義弘」が頭角を現し、村上水軍の基盤を確立した。
一時は、瀬戸内全域を制する海賊大名であったが、織田水軍(和歌山・九鬼)と2度戦い、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船(紀伊の九鬼水軍)の前に大敗し、次第に勢力を弱めていった。 
更に豊臣秀吉の時代になり、海上の権力を警戒した秀吉によって海賊禁止令が出され、次第に衰退してゆくが、中世の歴史を語るのに村上水軍を外して語れないともいわれ、晩年、朝廷より義弘公は正五位を賜っている。


来島海峡大橋のすぐ西側に、周囲1kmほどの小島が「来島」である。(来島の南に実際に「小島」という島もある) 
往時、来島・村上水軍がここに根拠をもち、来島城の城塞が全島をめぐらしていたという。
しかし、水軍の将家・来島家も、徳川幕府の成立にともない豊後(大分県)に移封され、その後再び今治に戻ることはなかったという。 

こんな、村上水軍の古跡の地に、今でも、その精神、技術が継承されているのだろうか・・?、大西町、波方町(現今治市)には、造船で有名な来島ドッグがある。 
戦前は、軍艦などを建造していたが、現在は日本でも有数の産業用の造船所として伊予地方の経済を支えている。
戦後、経営難に陥った「来島ドック」の再建を引き受けたのが、伊予地方出身(松前町)の坪内寿夫であることは有名な話である。
社長に就任いらい伊予商人独特の月販方式(月賦販売、今で言うクレジットは伊予今治が発祥地といわれる)などをテコに急成長し、その後も佐世保重工業など造船会社の再建を相次ぎ引き受け、巨大な造船グループを築いたことで、業界では造船の神様、四国の大将とも称される。

次回は、「今治



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2011年2月13日日曜日

日本周遊紀行(79)菊間 「菊間瓦」

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 日本周遊紀行(79)菊間 「菊間瓦」  ,



菊間の町は、いぶし銀に輝く美しい「甍の波」が冴える

可愛らしい「坊ちゃん列車」を横目に見ながら、瀬戸内の北条方面を目指す。
国道196号を北上すると眩しいほどの瀬戸内海へ出る。久しぶりの内海の海で、風も無く、いつものように海は穏やかであった。 
西方・紺碧の海上にコンモリとした緑一色の島が浮かぶ、「鹿島」である、当地では別名「伊予の江の島」と呼ばれるらしい。

小生、地元の湘南・江の島を思い出すが、やはりこの地も四季折々の景観を呈する観光名所になっていて、島へ渡るには渡し舟で行くらしい。 
首都圏の二本も道路(江ノ島大橋)が架かる(車道、歩道の2本)湘南・江ノ島と違って、何とも優雅で結構である。 


北条の先に大浦という港があって、ここから波妻鼻(岬)が出ばっている。 
この付け根から見る海岸線もまた実に綺麗で、盛夏には海水浴客で一杯になることだろう。
この先、R196通称、今治街道は美しい海岸線をしばらく走る。 
交通量は結構多いので、窓の外の景色に見とれて事故など起こさぬようにと、自分に言い聞かせて車を滑らせる。



菊間町の民家の瓦が、いぶし銀に輝いていて美しい「甍の波」を見せている。 
菊間は、全国に誇る菊間瓦の産地であり、銀色に輝くことから別名「いぶし瓦」とも呼ばれている。 
700年の歴史を誇ると言われており一般の屋根瓦の他、独特の形状をした鬼瓦や飾り瓦なども生産されており、各地の名高い神社仏閣やお城の屋根などで見ることができるという。 

道後温泉本館や松山城、そして明治17年皇居造営に際しては菊間瓦が特選の栄誉を賜っているという。
昭和になって生産工程や燃料などが近代化され、瓦職人の数も最盛期に比べると少なくなっていが、こうした中、昔ながらの工法を続ける鬼師は伝統工芸として世襲家系に今なお続いており、各地の名高い神社仏閣にその名をと留めている。町の施設としては珍しい「かわら館」(瓦のふるさと公園内)があり、菊間瓦の歴史や伝統的な製造工程の模型をはじめ、様々な瓦作品が展示されている。瓦の製作体験実習もできるという。



菊間の町並みを過ぎ、太陽石油の大きな石油タンク群をを左に見る。 
菊間から大西町、予讃線が相変わらず山側を、ほぼ並行して走っているが、その丘陵というか山肌は濃い緑におおわれている。どうやら蜜柑の木であろう。
関東より以西は、みかんの木などは珍しくないが、その中でも愛媛県は全国一のみかんの産地であり、瀬戸内の温暖な陽光を浴びた、菊間、大西町は古くからのみかん農家が多いのである。

蜜柑は愛媛、和歌山、静岡が県別収穫量のベスト3と言われる。
その歴史は比較的新しく、愛媛の場合200年ほど前の江戸末期、南伊予の吉田町辺りが発祥といわれる。 
元々は中国浙江省の温州地方が原産地で、始め九州に伝わり、その後和歌山・有田地方で栽培が盛んになったといわれるが、同時期、伊予地方でも栽培されたという。
通常の小粒の愛媛みかんを「温州みかん」とブランドとして称しているが、愛媛県下ではその他にも多様な品種が生産されている。
その代表的なのが伊予柑であるが、その他にも主要なものでネープル、八朔、ポンカンなど20数種に及んでいるという。 
この辺りの越智今治地域はネープル、八朔が多いようであるが、菊間、大西町の蜜柑の種類は何であろうか・・?。

次回は、波方の「村上水軍



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2011年2月12日土曜日

日本周遊紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」

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 日本周遊紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」  ,





秋山好古(兄)と秋山真之(弟)


明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。
明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 
日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。

この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。
弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。


秋山兄弟は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている。
兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 
コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 

好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。
しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。 後の陸軍大将、勲一等章


弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。 
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ 』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。 

兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成したもの。 この文章に感動した、時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。
東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した。 海軍中将。


日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から、今年(2005年)は100周年に当たる、奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であり、司令長官・東郷平八郎、参謀・秋山真之が乗った戦艦「三笠」が神奈川県・横須賀港の三笠公園に停泊している。(横須賀の項で記述あり)

松山市は、「日露戦争100周年」、「21世紀の新しい町造り」として、司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」をモチーフした「坂の上の雲・まちづくりチーム」を発足させたという。
正岡子規と秋山兄弟の三人の生き方を通して訴えている「夢」や「理想」や「目標」を持って、前向きに行動していく素晴らしさを市民みんなで共有し、「松山らしさ」を演出し、その情報を全国に発信にすることにしている。 
内容は、「坂の上の雲・記念館」(建築構想)を中核施設として、松山全域を一つのフィールドミュージアムとし、主人公にまつわる事物を探索・発見・収集・再現しようととするものという。

又、NHKは平成19年度(2007年度)以降の放送に向け、司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」を原作として、21世紀スペシャル大河「坂の上の雲」の制作を開始している。 
放送は、平成21年度 (2009年度)に、総合テレビやハイビジョンなどで1回・75分の枠で、20回程度を予定するらしい。
 

道後を辞して、一旦、松山市内へ向かう。
市街の中心に緑豊かなお椀を伏せたような小高い丘がある、丘といっても標高130m程度であるから小山といったほうがよい、山の名前は「勝山」というらしい。 その山頂に、華麗な天守閣が見えている、松山城である。 松山という地名は、秀吉の頃(戦国期)、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の一人・加藤嘉明が拝領し、お城と城下町を築いたときに周辺地域の赤松の見事さに感嘆し、城下周辺一帯を「松山」と名付けたという。
正岡子規や夏目漱石が居た頃は、町並みと松並とが調和して美しかったに違いないが、今の街にその面影は無い、緑の松山は、勝山だけになってしまった感もある。 
子規がこの故郷の町に帰ったとき城山に登って・・、

『 春や昔 十五万石の 城下かな 』 

と、のびやかに詠っている。

この山上、中腹、麓からなる城構えを平山城と呼び、姫路城、和歌山城とともに松山城は日本三大連立式平山城と称され、我が国最後の完全な城郭建築といわれる。 創設者は、豊臣秀吉の重臣、賤ヶ岳の七本槍の1人でもある加藤嘉明である。 
初め伊予・松前六万石の城主であったが、「文禄・慶長の役」(豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮を侵略した戦争)等の活躍により10万石に加増された。 

1600年の「関が原の戦い」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、初めて「松山」と雅称し、松山城の築城にかかる。 
堅固にして壮麗な連立式五層天守の松山城がほぼ完成したのは、26年を過ぎた後のことであった。 ところが嘉明はその完成を喜ぶ暇もなく、同年、奥羽の要の会津若松(福島県)40万石に転封されている。 
永い歳月を費やした一大牙城を、いくら倍の会津40万石への栄転にしても、完成直前(9割以上)の城を後にしなければならなかった加藤嘉明・主従の心境はいかばかりであったろうか・・ ?。 入れ替わりに名将・蒲生氏郷の孫・忠知が入城している。 
蒲生氏は、奥州藤原氏の系統に属する鎌倉時代からの名門であり、奇しくも戦国期の雄・蒲生氏郷自身は以前、30数年間会津藩主であった、これも因縁であろうか・・?。

次回は「菊間



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