2009年12月2日水曜日

日本周遊紀行(30)青森 「三内円山遺跡」


三内円山遺跡の中心的建物 「大型堀立柱建物」


三内円山遺跡の「縄文住居」



三内円山遺跡の発掘展示品 「縄文土器」



日本周遊紀行(30)青森 「三内円山遺跡」



「内真部」(うちまんべ)あたりから、R280の立派なバイパスがついている、ここから青森の「三内円山遺跡」を目指した。 

かなり広い駐車場であるが、夕刻とあって車の数はそれ程でもない。施設の建物は「時遊館」といって、かなりモダンな建物である。 
それにしても入場料が無料とはウレシイ。 

住居跡の遺跡や展示室の出土品・遺跡物等を、少時間をかけて見て回った。 
特に気に止まったのが、「大型堀立柱建物」と言われる巨大な柱組の建物である。
一説によると、のろし台、見張り台、古代の城、倉庫、といわれる物らしいが、いずれにしても生活・政事(マツリゴト=祭事)の中心・象徴であったことは想像に難くない。 
この巨大柱のクリの木が、しかもロシアからの輸入品らしいってんで、これまた驚きである。 この柱は日本海、津軽海峡を船に載せて、あるいは其々につなぎ合わせて、海上に浮かべて曳航したのであろうか・・?、後は陸揚げ、里引き、木落とし(・?)、御柱立て、組み付け、とまるで「御柱祭」を見ている様な光景が展開したのであろうかと、想像できるのである。


前にも記したが長野・諏訪地方の「御柱祭」のことである・・、

この諏訪地方にも縄文前期の巨大柱組の遺構が見つかっているとか。そちらと、こちらを関連付けるのは今のところ無理は有ろうが・・?、いずれにしても古代へのロマンを感ずるのは確かなようである。

施設内の帰り道、立派な建物の「時遊館」の大壁に目が留まった。
出入り口、玄関から入って、左手である・・、この壁におおきな「世界地図」が描いてある。主題は定かでないが、「北緯41度でつながる文明地・・文明都市・・」とあったように思ったが。 
北緯41度は青森・三内円山から東方にニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 
いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、 勿論、日本の中枢都市でもあったと想われる。

近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実である。 蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだが、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降ほんのチョット南・西にズレたにすぎないと、小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!、と言いたいところである。

縄文期の東北、蝦夷は弥生文明に翻弄されてきて、はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、その象徴が会津戦争だった。
その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国へ流されている、テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。



「三内丸山遺跡」は、既に江戸時代から知られている有名な遺跡であるらしい。
これまでの発掘調査で、縄文時代前期から、中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡(約1,000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部が見つかってい。

特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大量の遺物がすてられた谷(泥炭層)、約1,000年かけて造られた盛土、大人の墓、子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかっている。 
また、谷から見つかった動物や魚の骨、植物の種子や花粉からは、当時の自然環境や食生活などを具体的に知ることができ、さらに、ヒスイやコハク、黒曜石は遠方との交易を、漆器などは専門的な技術をもった人々がいたことを物語つたいるという。 


「三内丸山遺跡」は、縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡である。この遺跡の出現に、世界の考古学者、学会が驚嘆したという。定説とされた縄文時代の定義をことごとく覆し、15,000年以上もの縄文時代を長期にかけて高度文明を構築しつつ継続していた。

実は、当時の青森県(北緯41度線上の各地にも云えるが・・)は特に縄文期には棲みやすい環境であったらしく、津軽半島の旧蟹田町(鍛冶田の訛り)大平遺跡では15,000年前の土器が出土して、世界最古の土器ではないかと学会で論議を呼んでいる。

その他県内には「亀ヶ岡遺跡」、「三内丸山周辺の遺跡」、「小牧野遺跡(ストーンサークル)」、「是川遺跡」、「風張遺跡」等々縄文期の超一級遺跡が存在し、多数出土品が調査されている。

特に「三内丸山遺跡」は縄文時代の定説を覆し、1,500年間も定住集落生活していたものであるが、三内丸山人はその後、忽然と消えているのである。

それは、何故か・・??、

縄文時代のおける季節で、前期、中期あたりの頃は「縄文海進」といわれる時期で、云わば、現代の「温暖化」の時節であった。
縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことであり、海面が今より3~5メートル高かったと言われる。
縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされ、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かったという。

三内丸山遺跡は青森の南西4~5kmのやや高台に存在している。
当時は、この辺りまで海岸が迫っていて、所謂、ここが生活の場所であった。
しかし、縄文後期あたりからは気候が寒冷期に入り、海岸線が後退して食糧事情や住環境が悪化し、三内丸山集落は集団での生活が困難になり、個々に新天地を求めて分散、移動したのではないかと一般的に考えられていると・・?。

青森県では、縄文時代の「村・むら」を体験できる公園として、「三内丸山遺跡」の整備を、現在も進めている。

次回も、「青森」



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