google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」

2009年5月14日木曜日

日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」


資料:干拓前後の八郎潟の変化


日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」

日本最大の干拓地で、地域名を「大潟村」と称している・。 

大潟村は、田畑と集落地が分かれており、そこに、ユーモラスな日本一低い山・・ 「大潟富士」がある。高さ3.776mで、無論「三千・・」でなく「三点・・」である・・。
ただ、頂上が海抜ゼロ米という貴重な・・?山でもある。
因みに、国土地理院の話では、「現状の小さく造られた山では、山とは認定できない。山とは歴史的認知度・・?も必要だ」とのことらしい。

村の全域が、かつて日本の湖で二番目の面積を誇った八郎潟で、昭和の干拓によって出来上がった人工の土地である。 
合併・分割などで新設されたのではなく、純粋に新しく造られた自治体としては日本最初で、そして最後であろう・・、
大潟村の誕生は昭和39年10月で、歴史も40年程度しかない。 
村は、山手線よりも二周りほど大きいらしい。 

北緯40度と東経140度の交点でもあり、日本でも十度単位での交点がある地域はここだけであるらしい。    

湖(八郎潟)の中に堤防を造り、堤防で囲まれた中の湖水の排水場から、ポンプで掻き出し(干拓)てできた村である。 土地は元々、湖の底だったところなので、その殆どが平らで村全体が海面より低く、もっとも低い所では約4~5メ―トルも低くなっているという、つまり海抜マイナス5mの村である。
そのための周囲は堤防で囲み、村の中に水が入らないようにする大切な役目をしている。 
村の土地の約7割は、田や畑で、あとの3割は道路や水路や集落地となっていて、田畑は集落地の北側、東側、南側に広がっている。 

ここで、「エピソード」を1つ・・、
八郎潟の干拓が始まって初まってからの最初の入植者は、おそらく「ネズミ」だったと云われる。
野ネズミやどぶネズミで、それも、猫も逃げ出すほどの大きさであったそうな・・、
このネズミらに、農業を始めたばかりの大潟村では、それは頭を痛めていたという。
そこで思いついたのがイタチであった、
イタチはネズミの天敵で、昭和43年頃奄美大島から58匹のイタチが空輸された。
今度は、イタチの入植が始まったのである。

お蔭で“ねずみ算式”に増えたネズミは、イタチのためにグッと少なくなったといわれる。
巷間人が、「次にイタチが増えすぎたらどうするの?、イタチの天敵捜さなくちゃー。これがホントの『いたちごっこ』だね」と・・、
しかし、実際イタチが増えすぎることはなかったという。
今でも、奄美大島出身の子孫イタチが、運が良ければお目に掛かれる時もあるという・・。

次回は、八郎潟干拓について、
01. 15.

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