google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 4月 2009

2009年4月27日月曜日

日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

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日本周遊紀行(16)鶴岡 「出羽三山」

羽越線・鶴岡駅前の中心街より真東に向かうと、羽黒町の田園地帯が広がる。 
この田園のど真ん中、羽黒山域(神域)の入口には東北第一の大きさを誇る大鳥居が天を指す・・。
羽黒山は月山、湯殿山とともに出羽三山の一つであることは周知だが、今日でも山伏の修験の山としても広く知られている。 

その歴史は蘇我馬子(推古天皇期・西暦626年:飛鳥時代の政治家、「馬子」であるが男性である)に暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子(第一子ともいわれる)とされる蜂子皇子(はちこおうじ:聖徳太子の従兄弟)に始まるという。 

蜂子皇子は、蘇我馬子の更なる魔手を逃れるため宮中を脱出して「弘海」と改名し、日本海側の由良(京都府宮津由良海岸)から船で北上し、由良の浦(鶴岡市由良海岸:どちらも「由良」と同じ名称であるが偶然か、はたまた丹後の地域名を戴いたのか、などは不明)に上陸したと伝承されている。 
そして羽黒山にたどり着き、推古元年(593年)に開山し、さらに月山、湯殿山を開山したという。
後に、役行者が羽黒山に来て蜂子皇子の法を継いだといい、この蜂子皇子の苦行が発展したのが羽黒山の古修験道になったという。 
平安期以降は神仏習合で真言宗となり、江戸時代には天台宗に改め、明治に入り神仏分離が実施された神社でもある。

大鳥居をくぐって神域に到ると「神路坂」と称される坂道があり、正面に「羽黒山正善院黄金堂」という古刹がある。1193年、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討つ際に戦勝祈願のため土肥実平(といさねひら:相模の国・湯河原、桓武平氏の流れをくむ、鎌倉創生期の源頼朝の重臣・御家人)に建てさせたという。

総門からは大杉林に沿って長い石段の先、朱塗りの太鼓橋を渡ると、有名な「羽黒山五重塔」へと至る。
五重塔は、「羽黒年代記」によれば創建は、平将門が寄進したという伝説もある。
関東以北では最も美しい塔と言われ、第一級の国宝に当たる名建築であるとされる。
克っては周囲に多くの堂舎が建っていたが、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により破壊され、この五重塔だけが破壊を免れたといわれる。あまりの美事さに破壊を免れたのかもしれない。
ただ、周囲が太古の杉林に囲まれ、湿り気が多いはずである、しかも当地は豪雪地帯でもある。長年の風雪に耐え、悪条件の中の地形に屹立していて腐食しないものかと心配もし、はたまた感嘆するのみである・・、国宝に指定。

この先、「出羽三山神社」までは、荘厳なまでの古老の杉並木の石段を延々と登ってゆく・・。思えば紀州・熊野、那智大社の熊野古道の「大門坂」を彷彿させるが・・、尤も、此方(こちら)のほうが自然の中で森閑としているようでもある・・。 
「出羽三山神社」の大社殿の前に額ずいた・・。 
社殿正面の上部には大額縁が飾ってあり、月山神社を中心に出羽神社、湯殿山神社と記してある。

普通、出羽三山といえば羽黒山、湯殿山、月山を言うが、壮大な社殿を持つ神社が三社あるというのではなく、湯殿山は山自体がご神体であるし、月山も山頂に社殿があるだけであり、神社社殿としては羽黒山だけなのである。 

出羽三山はもともと修験道の行場の山であって・・、
修験道とは、山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とする神仏が融合した宗教である。 
修験道の実践者を修験者または山伏といい、開祖は役行者(役小角)とされている。 
因みに全国の修験道場は、江戸期・徳川幕府により京都聖護院「本山派」と京都醍醐寺三宝院「当山派」の二派に統括されるといわれるが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山(ひこさん)は特別に別派として公認されていた。

「神仏融合」とは・・?、
古来、日本では自然の山や川を神として敬う山岳的信仰の「神道」と、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教体がある。 
所謂、神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、土着の神的信仰と仏教的信仰を折衷して、一つの信仰体系を再構成することで、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも、本地垂迹(ほんじ‐すいじゃく)ともいう。
この思考によると、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変え、実体を表したもの、即ち、迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、平安時代頃から盛んに信仰されるようになった。
平安初期に中国より伝来した密教(真言、天台など)との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。
しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により集合体は禁止され、神と仏とは分離された。
又、その後に定められた廃仏毀釈により、仏閣、寺院など関係する物などが破壊された。だが、著名な神社寺院においては、この神仏混淆の強い思想に影響され、一部はそのままの形で残った地域もある。

出羽三山の神仏習合について・・。
出羽三山に現在祭られている神々は、それぞれ出羽神社が伊氏波神[いではのかみ]、月山神社が月読神[つきよみのかみ]、湯殿山神社が大山祗神[おおやまづみのかみ]、大己貴神[おおなむちのかみ]、少彦名神[すくなひこなのかみ]などで、日本古来から崇拝してきた神々である。
奈良時代に入ると仏教流布と共に仏教者達が修行の地を求めて山岳に入ったことから有り様を変え、神仏が渾然一体となって定着するようになった。
出羽三山においては、羽黒山神の本地体を観世音菩薩とし、月山神は阿弥陀如来、湯殿山神は大日如来が各々定められた。

神仏習合の宗教形態として、はじめは神社の境内に神宮寺、別当寺を建てて神々を補佐するような立場であったが、次第に神々と統合し、後には祭事は全て仏式で行はれるようになった。
これらが明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されるまで続いたのである。 
平たく言えば、全ての祭事事項が神式から仏式に変わった、つまり、仏が神に成り代わり、仏が神を乗っ取ってしまったのである。 
明治期の神仏分離により出羽三山は一応は神社ということになっているが、紀州・熊野三山などの比べると、多分に寺院としての性質が未だ色濃く残っているとも言える。

出羽三山では、現在も修験者や山伏が闊歩して法螺貝を吹き、社域には宿坊が並び、参拝される人々の拝礼の仕方も神式、仏式どちらでも良い感じである・・?。 
どだい、出羽三山の「山」という表現の山号(さんごう)は、仏教の寺院名に付与される修飾語の一つとされる。これは中国伝来の仏教用語で、禅宗系に所在するの寺院に、「山」の名称を付けている場合が多い事でも理解できる。

次回は、「出羽三山と松尾芭蕉」

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2009年4月25日土曜日

日本周遊紀行(15) 鶴岡・「庄内と西郷どん」

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日本周遊紀行(15) 鶴岡・「庄内と西郷どん」


庄内地方では西郷隆盛(薩摩藩)が人気があるという。
幕末において酒井・庄内藩は、徳川の譜代であったため、幕臣として会津藩と同様江戸、京都などで攘夷方に対する締め付けを行い、鳥羽・伏見の戦いの契機となった。
庄内藩士は、江戸薩摩藩邸焼き討ちや戊辰戦争で薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。そのため会津藩と同様に徹底した征討の対象となったが、新政府軍に対して庄内藩の防備は固く領内には一歩も入れなかったとも云う。

戊辰戦争は新政府軍が圧倒的に優位の中・・、
庄内藩が、もし会津、仙台などを中心とする旧幕府側として戦い、長引けば会津と同様に玉砕の道を選ばざるを得なかったはずである。
この時、時の東征大総督府下参謀・「西郷隆盛」との直接折衝を隠密理に行っていたという。その結果、「無条件降服」という形で平和的に解決し、事なきを得たという。

戊辰戦争後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。
早速、新政府から会津若松への転封、賠償金等を命ぜられたが・・、藩内は一致団結し、藩主自から先祖代々の宝物等を売却し、藩士は家財などを売却し、更に商人や領民なども新政府への積極的に献金に応じたという。 
又、裏からの平身低頭の交渉の結果、領地替は撤回され、賠償金は決定金額の半分であったという。
これにも陰で「西郷」が指示し、温情ある態度で極めて寛大ものであったという。
西郷は折衝に臨んで、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と納得したという。

そのことを知った旧庄内藩の人々は、西郷の考え方に感激、感謝し、後日明治3年(1870年)に、旧庄内藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね教えを請うたという。 
薩摩の人材教育に学び、旧藩主「酒井忠篤」も釈放後、東京より鹿児島へ留学し学んでいる。 
また西郷卒いる「西南戦争」の際には、一部の庄内藩士は薩摩・西郷方に味方して戦っている。 

「南洲翁遺訓」・・、
西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたためたのが「南洲翁遺訓」であるという。
平和裏に戊辰戦争を終結させてもらった、大恩人・西郷隆盛に対する庄内人の律儀さを示す逸話として今も語り継がれているという。 

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は、成し得られぬなり。」

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、        我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。」

「南洲翁遺訓」の中の一節であり、明治23年発刊された。

尤も、西郷の寛大な処分については若干の異論も有るという・・、
それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて、藩の御用向きを「株式組織」にするよう提案しているのである。 
西郷は、郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか・・、とも言われているが・・?。


鹿児島市城山の北東約1キロメートルの所、錦江湾と桜島を望む丘に、西郷南州をはじめ、桐野利秋・村田新八ら西南戦争で戦死した2023名の志士が葬られている。南洲とは、勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 
この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌であると・・。 
西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、善戦の末、戦死しているのである。 

山形県酒田市の飯森山に「南洲神社」が鎮座している。 
戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を誘導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。

現在、「西郷隆盛」が縁で、鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市を結んでいる。

次回は、庄内・「出羽三山」

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2009年4月24日金曜日

日本歴史紀行(14) 庄内「鶴岡」




日本歴史紀行(14) 庄内「鶴岡」

山形県の日本海に面した地域を、近世以降「庄内地方」と呼んでいる。
東に出羽三山、西に日本海、北に鳥海山、南に朝日連峰に囲まれ、所謂、庄内平野といわれる豊かな自然、環境に恵まれた土地である。その中心が鶴岡であり、酒田である。

鶴岡といえば・・、
同じ庄内でも最上川の河口に位置し、日本海に玄関を持ち水運で栄えた商業都市「酒田」(後述・・)とは異なり、少し内陸に入った平野の真ん中といった地にあり、どちらかと云うと農業地、特に農産、穀類(特に庄内米)の生産地としての性格がある。

現在の鶴岡は、平安末期には「大泉の荘」としてが古誌による歴史に登場してくる。 
「義経記」の中にも、義経が京より落のびる途中「鼠ヶ関に上陸し大泉の庄、大梵字(だいぼんじ)を通った」と書いてある事から、現在の鶴岡が大梵字もしくは大宝寺等と呼ばれていたらしい・・。 鎌倉初期には武藤資頼が大泉荘の地頭となり、その後土地の名を取り、羽黒山別当として「大宝寺氏」を名乗るようになったという。
武藤資頼(むとう すけより)は平安末期から鎌倉期の平家の武将で、初め平家隆盛期においては平知盛の属将であったが「一の谷」の敗戦後投降し、後に赦免されて源頼朝の家人となっている。後の奥州藤原の合戦に出陣して功を治め、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられてる。
「大宝寺」は、鶴岡市の古い地名で、平安時代には大泉庄に属し、中心地が大宝寺であった。

大宝寺は往時、衆徒五千といわれた大寺であり、羽黒山を望む内川の東側に居城を築きここに本拠を構えていた。
この地に武藤氏が着任し、仏徒集を治めて根拠を持ち、勢力を拡大して「大宝寺氏」と名乗った。この跡が、今も鶴岡市大宝寺町としてその名が残っている。 

下って江戸開府期の慶長6(1601)年、「関ヶ原の戦い」で徳川方について功をおさめた最上義光が、この地方を与えられ治めることとなり酒田に城を築く。 酒田の港に巨大な海亀が這い上がった事を吉事とし、酒田の城を「亀ヶ崎城」と名付けた。実際にこの辺り、湯野浜温泉の故事にも見られるように、古来より白砂海岸には大亀が産卵のため上陸したとされてる。 
最上義光は、更に大宝寺城を改め落とし、「鶴ヶ岡城」と命名している。
今の「鶴岡」は、このように亀と鶴の吉事に因んで名付けられた縁起の良い地名なのであり、最上氏も粋なことをするもんである・・。

1622年、今度は最上氏がお家騒動が発端で改易しなり、徳川四天王の一人酒井忠次の孫酒井忠勝が信州松代10万石から転封となり、庄内を統治する事になった。
以後庄内藩14万石は、250年に渡り庄内を治め事となったのである。同時に城を改修し一の丸、二の丸、三の丸からなる立派な城が完成した。あわせて城下町の整備を行い、今の鶴岡の町の外殻が出来上がった。


庄内・鶴岡地方の温泉郷の1つに「湯田川温泉」が古くから知られている。 
鶴岡南部・金峰山の麓にある湯治場として栄えた鄙びた温泉郷で、開湯1300年という伝統がある。鶴岡の奥座敷として地元民に親しまれ、庄内藩政の時代には、藩主や美人の湯としてお姫様がお忍びで温泉を楽しんだという。 
温泉街は、黒塀の宿や白壁の宿が並び、多くの文人にも愛され、中でも地元が生んだ歴史小説作家「藤沢周平」を始め、種田山頭火、竹久夢二、柳田国男、横光利一など、鄙びた情緒ある宿に逗留して構想を練り、執筆を重ねた足跡が今でも残されているという。

その、藤沢周平(小菅留治)は現在の鶴岡市高坂に生れている。
山形師範学校(山形大学)卒業し、湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は廃校)へ赴任し、国語と社会を担当している。 教え子達は「遅咲きの作家といわれながら精力的に名作を次々と発表し数々の賞を授けられながら、決して驕る事もなく私達教え子と会えばいつも変わらぬ小菅先生でした。」と言っている。

病気療養で苦労しながら、あの時代小説を書き上げるのである。
藤沢周平作品の舞台として度々登場する架空の藩名・「海坂藩」(うなさかはん)が登場する。 江戸から北へ百二十里(480km)、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある酒井家庄内藩、現在の山形県鶴岡市を基にしていると言われている。

「腕におぼえあり」、「清左衛門残日録」、「人情しぐれ町」、「蝉しぐれ」等NHKで放送されたが、小生も夢中になって見たものである。
又、映画として「たそがれ清兵衛」、「 隠し剣 鬼の爪」、「武士の一分」が上映されている。
寅さんシリーズでお馴染みの山田洋次監督の「時代劇三部作」ともいわれ、特に、第3作目(完結・・?)の「武士の一分」は(木村拓哉、檀れい主演)興行収入が40億円を超え、松竹配給映画としての歴代最高記録を樹立したという。 
山田監督らしい綿密な人間描写やコミカルな要素が取り入れられ、重層なドラマが展開され、「山田組」と言われる時代劇の新境地を拓いたとも言われている。  

海坂藩の地図を山形県米沢市出身の井上ひさし氏が「蝉しぐれ」に基づいて「海坂藩・城下図」を作成したのは有名であり、井上ひさしも藤沢文学に陶酔したひとりである。
藤沢作品での山形庄内・海坂藩は城下町として栄え、家老の邸宅や藩の重職の屋敷を中心にその周囲を住居が立ち並んでいる。 
幕藩時代に布かれた武家制度は、身分や家柄が自由な恋愛を束縛し、派閥抗争など悲劇的な結末を迎えるストーリーが多い。
上司の命令は絶対であり、生まれながらにして、下級武士や貧農家庭で育った者のやるせなさは、現代・サラリーマン時代に通じ、同様のものであろうともいわれる。
藤沢周平は、我々に本当の豊かさ、人を愛することを優しく諭しているようである。

次回は、「庄内と西郷どん」 

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2009年4月23日木曜日

日本周遊紀行(13) 温海・「鼠ヶ関」」と(安宅関)

『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着


日本周遊紀行(13) 温海・「鼠ヶ関」」と(安宅関)
   

「山形県」に入りました・・、

国道7号線が新潟県から山形県への境を過ぎたところ、羽越本線が交差するあたりに、「史蹟・念珠関址」(鼠ヶ関・ねずがせき))が在る。
実は、この地・鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所跡が二ヶ所あるという・・。 江戸開府から明治初期まで設置されていた「近世念珠ヶ関」と、ここから南方至近の県境にある古代の関所址である「古代鼠ヶ関」とである。

鼠ヶ関は、古代より陸奥国(東北)への入国に際しての関所であり、勿来関(太平洋岸の陸前浜海道・国道6号)に、白河関(中通り・陸羽海道・奥州街道・国道4号)のとともに「奥羽の三関」の一つであった。 


国道沿いにある「念珠関址」は近世の関所址ということで、江戸期には「念珠関御番所」と呼ばれていた。 最上氏の時代に地元鼠ヶ関の領主が関守として国境を警護し、酒井氏の時代には藩士も上番として国境警護にあたったとされてる。 
古代の「鼠ヶ関」は鼠ヶ関駅の南、現在の山形県・新潟県県境付近にあったという。古跡は現在は石碑のみの形で残されているが・・。 

古代「鼠ヶ関」について・・、
源義経が奥州に逃れる際「勧進帳」の様な姿形で、この地へ上陸して、この関を通過したとされる。古書には文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐軍が越後から出羽「念種関(ねずがせき)」を通って合戦に及んだことが記されている。この戦は奥州の覇者・藤原一門と義経を滅ぼす為だったのだが・・。


義経の下りであるが・・、
平安後期の1185~1186年、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、温海町鼠ヶ関から鶴岡市に入り、羽黒山に立ち寄り、立川町清川に出て舟で最上川をさかのぼり、戸沢村を経由し新庄市の本合海に至り、ここから亀割峠を越して最上町に入り、宮城県との県境の境田を経て岩手県平泉に逃れたという。

義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、ここからは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅たって行ったという。
この鼠ヶ関の通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」の劇的場面として描かれているが・・・??。


一方、加賀の小松(石川県)の「安宅関」の項でも・・、
山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守・富樫左衛門丈泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。

「勧進帳」とは、寺院建立(東大寺)などの資金集めの趣意をしたためたものである。
弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。 なお顔が似ているという関守の前で、 “義経に似た貴様が憎し” と主人を打ちすえする。その忠義の心に感じた富樫は、義経と知りながらも一行を解放したとある・・??。

因みに、安宅という土地は海岸線にあって、大昔から異国の襲来に悩んでいたようであるが、国内の関所としての役目を果たしていたかどうかは疑問で、まして、平安期、鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいともいわれる。 

元より、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関であるが、実は「義経記」などには「安宅の渡し」(現安宅関跡は海岸近くの悌川の畔にある)とあり、「安宅関」とは出ていない。
また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、加賀にやってくるが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はなかったか、意味をなしてなかったとされる。

江戸後期の加賀の地誌などにようやく「安宅関」の記載が見られるというが・・。
この頃の天保11年(1840)3月、河原崎座でた謡曲『勧進帳』が初演され、更に歌舞伎でも上演され、「安宅関」の名は全国的に広まったようで、その後一般的な小説やドラマになったとされる。

尚、2005年、NHK放送の大河ドラマ「義経」放映において、基本的に「安宅関」に関わる場面は当然登場し、出演者の熱演に見入ったが(富樫泰家:石橋蓮司、 武蔵坊弁慶:松平健、 源義経:滝沢秀明)・・、義経一行が「安宅」を通ったのか、通らなかったのかというのは「史実」の世界ではなく、物語の世界であるようだ・・。

ただ義経が、「判官びいき」と言う言葉を生んだ大きな要素の一つに「安宅の関」の出来事が発端といわれる。
「歴史の史実」は、大切で重要ではある・・が、 「作られてきた」、あるいは「言い伝えられてきた」ことも尊重すべきではあると思う・・。


小生が想像(創造・・?)するに・・、「安宅の関」と「鼠ヶ関」を両方登場させ、物語として構成すると、更に面白くなるのでは・・?。 

それは・・、
加賀・「安宅の関」は都(京都)からもまだ近く、当然、頼朝臣下の目が届きやすく手配も充分であったろう・・。 関守・富樫左衛門丈泰家が義経一行を咎め、捕らえようと待ち構え、厳しい詮議も当然行はれたと観るべきであろう・・。 

一方の出羽・「鼠ヶ関」の方は、頼朝の目から最も遠く、陸奥の国の入り口でもあるので、ここは藤原秀衡の息がかかっていたことも想像される。関所の役人・五十嵐治兵衛は、秀衡の意向に添って義経らを丁重に歓迎し、懇ろにもてなして世話をする・・。

という両関所の対比、対極が面白いと思われるが・・。

歴史の各物語は北の北海道まで次第に北上して行きます・
御期待下さい・・!!。
次は、 庄内鶴岡です・・、乞う、御期待・・!!

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2009年4月22日水曜日

日本歴史紀行(12) 新潟・「信濃川と上杉家」

日本歴史紀行(12) 新潟・「信濃川と上杉家」

新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る。
万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なのである。 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。

橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達している。
信濃川は、全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。
実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。

千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」の歌「小諸なる古城のほとり・・・・」などが有名である。
因みに、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。
この両河川のことを安曇野節が詠っている。

『安曇野節』 長野県民謡

槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎
チョサイ コラサイ

小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。
延べ10年位をかけて5回も行うことになるが・・、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。


この後、信濃川河口においても動乱があった・・。
天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、お家騒動である。 
謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっているが・・。

その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。
「関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう・・。

この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
 この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである、原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい・・。 重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。

重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。しかし、4年後には景勝によって落城している(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所は分かっていないという。 
その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。

信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。
その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。
結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来するが・・・!!。

江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。 
幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎とともに、日本海側ではただ一港の「官港」として開港している。


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2009年4月21日火曜日

日本歴史紀行(11)  出雲崎・「金と良寛」

主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来ました。
そして今回、特に印象に残った地域の「歴史的一面」等を
ピックアップして、当サイトに載せてみようと思った次第です。
御意見、御感想宜しく・・!!。

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日本歴史紀行(11)  出雲崎・「金と良寛」

出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・。
地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。

 日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。
「妻入住居」とは・・、 建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根とと直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。

 海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えたという。 道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。

江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して、凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は、木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 官船は、御座船とも呼ばれ船のまわりには、幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられた。

出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368㌔)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37㌔のペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという。
その道を「金の道」と称した・・。 現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。


出雲崎は良寛(りょうかん)(1758~1831)生誕の地としても知られてる。

良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという・・。 

良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。
岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。

越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。 名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。
良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している・・、

    「 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ 長き春日を 暮らしつるかも 」
    「 霞立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ 」 と詠う。
良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。

 「禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす」

良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した、 それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。
老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったと・・。

良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理、・・・・・型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   

町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。



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2009年4月19日日曜日

日本周遊紀行(10) 上越・「越後と雪」

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日本周遊紀行(10) 上越・「越後と雪」

新潟県を地域で呼ぶと通称三つに地域を云い、北部より下越、中越、そして上越の各地方のことである。 地理的な表現だと下越が上方で上越が下方になる・・? 
しかし、地名というのは古来より伝承されたものが一般的であり、「上越」という地名は、当地に平安期の「国府」が存在したのが大きな理由だろう・・?、
しかも「京」に近い地域を“上“としたのであろう・・。


この上越は小昔の昭和期までは、懐かしい名称の「高田」、「直江津」と其々の地域に分かれていた。
高田地区はやや内陸に在り、妙高山麓にちかいこともあって、豪雪地帯で有名である。 この地区には越後で最大とされた高田藩の拠点であり、高田公園・高田城がある。 戦国末期、徳川家康の六男「忠輝」が築城したもの。

直江津・・、
直江の津は中世より拓かれた港町であり、「津」は港を意味する・・。
上杉家の家臣、「直江氏」が現在の直江津の辺りを本領とし、津(港)の支配権を所持していたようである。地名は戦国時代末期に、上杉景勝の家臣・「直江兼続」が、姓名を取って直江津港を開いた事に由来する。

直江兼継は、越後の二代目藩主・上杉景勝の主席家老であり、文武兼備の智将でもある・・。
戦国末期、家康が上杉景勝に「謀反の疑いが有る」と、言掛りを付け、その上杉景勝に疑いを晴らす為に「大阪へ来い」と使者を会津(上杉景勝の領国)に派遣する。 
この返事を上杉景勝に代わって家老の直江兼継が、「謀反などありえない、大坂へ行く必要はない、来るなら来い・・・」と言う「果し状」(直江状と呼ばれる)とも云うべき檄文を届ける。
この返書が家康を激怒させ、「関が原の役」の引き金となったともいわれる。


上杉家は関が原の役で、交戦する事なく敗者となったが、兼継は、勝者の家康に面会の折死を覚悟して「私は、天下一の弓取り内府公(家康)と戦いたかった」・・ともらしたという。 
家康は、兼継の男気に惚れ、本来ならば上杉家断絶・切腹のところ、気骨ある人物、殺すには惜しい男と観て、上杉家そのものも米沢へ減封(120万石から30万石に・・)されただけで済んだという。

兼継は、上杉景勝より6万石を貰っが5万石を同僚、家臣に分け与え、更に5千石を小身の者に与え自分は5千石で暮らしたという。


現在、NHKで「風林火山」を放映中でお馴染みであるが・・、

上越には何といっても「春日山城址」がある。 標高190mの春日山山頂に築かれ天然の要害を持つ難攻不落の城で、戦国期の名将「上杉謙信」の居城であった。

「謙信」は初名は長尾景虎といい、越後の龍と恐れられた戦国屈指の闘将である。 山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、後、仏門入道して上杉謙信と名のった。
戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。 
宿敵・武田信玄や、関東の雄、北条氏康・氏政父子を相手に、生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという“正義の人”でもある。


さて、豪雪地帯の「上越」であるが・・。

「トンネルを抜けると雪国であった」・・・、というのは同じ越後でも越後湯沢のことであったが、こちらも大の雪国である。

日本の国土で雪国(積雪寒冷特別地域)と称される地域は、日本の国土の約6割、人口は2.5割を占めるといわれ、高齢化は全国平均を上回るスピードで進展しているという。 一昔前までは、雪国の地域である日本海側を「裏日本」と称し、少雪国の太平洋側を「表日本」と称したようである。

雪国の対極にあるのが暖国・表日本であり、積雪寒冷特別地域以外の地域で、いわゆる太平洋ベルト地帯である。 かの明治維新以降、先進工業化が優先的に整備され、日本人口の7割、工業生産出荷額の約7割が集中するなど、日本の産業、経済、サービスの中心であることは確かである。

昭和の宗匠・田中角栄氏が・・、
『上越国境の山地をブルを総動員して削り取ってしまおうか・・?』と冗談とも、本気とも取れる発言をしたことは知る人ぞ知るであるが・・。

雪国は弱者であり、絶えず豊かな暖国から支援されてきたといわれるが・・??。
雪で閉ざされ暗く、高齢化率も高いから未来も暗いのであろうか・・?、否であると・・。 

雪国の代表の一つである新潟の人口は、明治20年ころまでは、東京、大阪、兵庫を抜いて日本一であり、昭和40年代の初めころまで納税額もトップクラスだったそうである。

また、江戸期以前の日本海には、上方(大阪)と蝦夷(北海道)とを結ぶ物流航路が存在していたのは周知で・・、高田屋嘉兵衛でも有名な北前船である。

大阪からの「下り荷」は塩、酒、雑貨、北海道・東北・北陸からの「上り荷」は海産物、米、材木が主体であり、中継港の敦賀、新潟、酒田は繁栄を極めたなど、経済でも暖国に引けをとらない時代もあったのである。

雪国には、雪で閉ざされた時期を生き抜く衣食住の知恵がある。 
また、自然の雪ダムで水が豊富で、食料自給率も高く、米、酒が旨く、自然が豊富でもある。 
21世紀に世界が抱えるであろう問題は、地球温暖化、食糧問題である。
日本も確実に直面するであろう、これを克服する素地は暖国にはない、・・が雪国にはあると・・。
21世紀は、あるいは雪国の時代ではないか、これから雪国の反攻が始まるというが・・!!。

次回は、出雲崎・「金と良寛」

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2009年4月17日金曜日

日本周遊紀行(9)糸魚川 「姫川とひすい」

【東北・日本海道】 新潟(糸魚川)⇒⇒⇒⇒青森(大間)


糸魚川のヒスイと姫川の伝説・・、

昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡辺りを支配していた古代女王であったとされる(古事記)。
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠(ひすい)を支配する巫女であったとも言われ、「奴奈川姫」という名は「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、個人名ではなくこの地方の代々の女王を指す可能性もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主(オオクニヌシ)の命は、能登半島に上陸し少名彦命(スクナヒコ)と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて「越の国」に渡ることになる。
越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸し、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は、現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後地方の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。
美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦(ネチヒコ・姫川沿い糸魚川市根知)は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入したが、結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子を生む、この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命(諏訪地方参照)である。

一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいう。 大国主神は侵略と脅しであり、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。つまり、征服者と被征服者の関係であったと・・、
その後、奴奈川姫は、大国主の子である建御名方命を産むのであるが、「奴奈川神社」(糸魚川市の一の宮)によると、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるというが・・。 
大国主命はその内、本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った、出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かったのである。 大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。  そこで、姫は、姫川の奥深く逃げ込み、追っ手が厳しくなると姫川に無念の入水をしたという・・。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる・・。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという・・。
奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが・・、  

『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも
 あたらしき君が老ゆらく 惜しも・・』   「万葉集十三巻」より

この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。 
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。
姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」(糸魚川市一の宮、美山公園北・ 縄文時代の遺跡で、古代にはここでヒスイ加工が行われていたという)からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。

太古の紀元前4000年頃には世界最古のヒスイ文化が実証されているともいわれる。
古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や、大平洋岸までヒスイが運ばれているという。陸奥の国の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されている。

神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉(まがたま)を身につけ霊力を発揮して統治していた。 古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭りに用いられた。そのような重要な祭器であったから、このうちの特に霊力の強いものが「三種の神器」の一つとなったといわれる。
「神璽」(しんじ・皇位のしるし)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト・神話、岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作ったとされる神、天孫降臨の1神)と呼ばれる職人集団の祖神である

糸魚市川の姫川流域、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸などは、我が国での殆どの翡翠が産出するという。
糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉みだされ地表付近に出現したといわれる。 硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流、小滝川「ヒスイ峽」の翡翠は良質であり、糸魚川市、青海町の産地と共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられているという。 
現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は、海外、ミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。



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2009年4月16日木曜日

日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れとは・・」

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日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れとは・・」

日本三大崩れ」・・、というのをご存知であろうか・・?。

北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流が流れている、そして、その河岸に道路、鉄道、民家がひしめきあっている。

姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 

水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原の湧水は青木湖からの浸透水であるとの説もある。

全長わずか58キロで平均勾配1000分の13という急流であるため、度々洪水におそわれている。 

近年では平成7年(1995年) の大洪水の災害で姫川温泉が甚大な被害を受け、国道、JR大糸線がかなりに亘って流失寸断され長期不通となった。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。

尚、この年に息子と白馬の大雪渓を登ったとき、あの白馬大雪渓が例の大雨の影響で完全に土砂で埋まっていたのを思い出した。



元より、日本は国土の約70%が山地であって、これらの山々は地質的にも脆弱な山域が多く、 火山や地震で大規模な崩壊を起こす山も数多くあるという。  主な大規模崩壊地としては、富山県「鳶山崩れ」、山梨県と静岡県の分水嶺・安倍川の 「大谷崩れ」、そして長野県「稗田山崩れ」を三大崩れと言うらしい・・。この崩壊は20世紀の日本における最大の崩壊ともいわれるという。

姫川中流域にある「稗田山崩れ」は、明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。

この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているといわれる。 

その前後の江戸期、昭和期のおいても数回に亘り浦川上流地区の稗田山系において土砂崩落があり、被害を出している。この辺りは、糸魚川・静岡構造線の断層地帯に含まれる、そのため脆弱な不安定な地形を形造っているという。 



この忌まわしい現場を1976年(昭和51年)、「幸田文」氏が72歳にして「稗田山大崩れ」を視察、見学している。 文氏は明治の文豪・幸田露伴の次女で、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねて一種のルポルタージュ文学として『崩れ』を紹介している。72歳にして「崩れ」に興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で荒々しい崩落地の様子を記述してある。

普通、このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは想像し難く、老文学者で高齢の女性を掻き立てたエネルギーは何なのだろうかと・・。 生まれつき好奇心が強く、たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのかとも思う。 そして、あのお年でなお、あそこまで執着できたのかと尊敬する次第である。

「稗田山崩れ」の現場の途中には、幸田文による「歳月茫々脾」が、遭難稗と共に建立されている。



幸田 文氏の『崩れ』、「歳月茫々・・稗田山崩れ」の断片

 『この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ8km、高さ河床から約300mのところまで、ほぼ1kmの厚さですべる落ち、その莫大な量の土砂が大音響とともに浦川の谷に落ち込み、浦川はたちまち埋め尽くされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原形を姿を止めぬ姿になってしまった。

更に、この新平原は下流に移動し、行く手にあるものは田畑も人家人命も、全て押しつぶし呑み込み、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢いのあまり対岸の大絶壁に打ち当たると左右に分かれて堆積し、堆積のの長さ凡そ2km、高さ65mのも及び、ために姫川は堰きとめられて、冠水の長さ5kmという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地を浸した。

 そのままにしておけば渦は上流へ拡がるので、水路を切って水を落したところ、まずい事に土砂交じりの濁水は沿岸を削って流れ、下流に氾濫し、町も美田も潰されて、惨憺たる河原へと変じた・・。(以上は村人による「小谷ものがたり」より)・・。

崩壊が始まって2度、3度しつこく続けられた災害である。破壊家屋27棟、失われた人命23人、10kmに亘って変貌した土地・・。 今この村を、集落を訪れても昔日の面影はない・・が、あの時埋まってしまった家々も、その家の人達も、今もってそのままになっています。 掘り起こす事の出来ないほどに、深く埋まったのです・、と村人が言う。

連れ立って話してくれる村の人は実直に、事の起こったことに対し「 ・・・という話です、・・・だそうです、・・・らしいけれど 」という。 道野辺に生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々の思いに打たれる。

だがここのそうした想いを、からりと晴れ上がるような、これまた感動の強い話を聞いた。・・・聞けばこの人今66歳、災害の時はお母さんの胎内の中、だったという。

稗田山の崩れは午前3時でまだ真っ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ゴーッという土石流の轟音で驚いたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。 どういうわけでそうなったかわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打ち上げられ、無事みごとに助かったのである。 なぜ転々する土砂の上で、土中に巻き込まれる事なく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下の中でどうして錯乱もせずに無事にいられたのか、気丈でもでもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。

こんな怖い目にあったのは非運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運ともいえよう。 凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである・・・。

ここにこうして稀有の天助をうけた一人の人が、静かに落ち付いた暮らしを続けていると思うと、崩壊と荒涼と悲鳴ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。

 「 あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおいくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われた、としか思えないのである・・ 』



後日であるが、幸田 文氏の『崩れ』を読み・・、そして、別宅・白馬の近くでもある、その現地を訪れてみた。

崩壊地手前の耕地の一角には崩壊に関する説明碑、幸田文氏の「崩れ」の碑文が在り、又、平成7年の大洪水の被害に関する記念碑も立っていた。

更に、山間の奥まった所、吊橋から稗田山塊と思しき上空をを見上げると、垂直の岩肌がいかにも陰惨に見える。 切り立った崩落部分は一山全山が崩れ落ちたのだろう・・と想像させる程、周囲が大絶壁、断崖となって岩石というよりも茶色の土が露出しているのである。 見渡しても、何しろ視界の180度以上の山塊が崩壊しているのである。 撮影に際しては空から撮るか、よほどの広角レンズでもないと、まとめて撮れないくらいである。 自然の脅威に圧倒されるばかりであった・・!!。

吊り橋の手すりに寄りかかり谷底を見ると、余りの高さに怖さで身体が縮む想いであった。 とこr5おでこの吊り橋は、その後の日本列島に長大型橋の時代を迎えるが、その横浜ベイブリッジや瀬戸大橋を初めとする吊橋架橋の礎(もと)になったともいわれる。





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2009年4月15日水曜日

日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」

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日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」


我が第三の故郷になった「白馬村」について・・、
白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。

その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である・・。
信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。
そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた・・、これを通称「千国・塩の道」といっている。

日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世~昭和初期まで主として使われた生活の道である。 こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。
又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。
武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。
戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 
このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。

ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。
 駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。
武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・」と言い残している。 実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという・・。
改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが・・、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。
因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが・・。
この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。

余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。


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2009年4月14日火曜日

日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」


写真:信州・「松本城」 


西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。

薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの・・。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。

ここで「石川数正」について・・若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが・・。 
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ・・。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという・・。

次回は、「白馬村」

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2009年4月13日月曜日

紀行(5)諏訪 「御柱祭について」


奉納された「御柱・心柱」


諏訪にまつわる「御柱・心柱」の意外性・・、

その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 
天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 
上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 
上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。
祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。
天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かなおんべ(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が御柱祭である。

この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが・・。
古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。
 「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。 地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている・・。
古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名であるが、高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。 超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 

諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。
現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 
諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると・・。 本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。
大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。
御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。
柱は、神の依代(よりしろ)である。 御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。

日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある。
五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいう・・。
それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている・・、その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると・・。つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。
先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。
柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。
我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。
かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。
仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない・・。

序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる。1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。
建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。
古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。



紀行(4)諏訪 「諏訪地方」


諏訪の地は「御柱祭り」一色であった・・、

周遊中の今年(2004年)は諏訪の街とその周辺は7年ぶりの大舞台の地であった・・ 。あの有名な「御柱祭」が、既にこの春季に行われたが・・。
諏訪大社・上社本宮のすぐ横の路上にて、丁度、御柱を曳行する秋の祭りに遭遇した、聞けば、「里宮・小宮」の秋例祭で今年は本宮の御柱祭なので、それに倣って挙行しているとのこと。 全国各地の諏訪系神社では同様に御柱にちなんだお祭りが行はれるらしい、それも秋祭りが多い。
諏訪大社は、諏訪湖の南北に上下・二社ずつ対座し、四ケ所に鎮座する神々である。 諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。
全国に分布する分社は一万有余社を数えると言われ、我が家の近くや実家にも「お諏訪さん」「諏訪様」の通称で庶民の間に鎮座している。
神様は出雲系(大国主)の神であることに先ずびっくりであったが、全国的にも親しまれ敬まわれ巾広い信仰を有していて、歴史的にも当然のように古い・・。
祭神は建御名方命、八坂刀売命の夫妻神が奉られている。
建御名方命(タケミナカタ)は、大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供で、諏訪の国の国造りの神である。 建御名方命は地元の諏訪の美しい神、八坂刀売命(ヤサカトメ)を娶ることになる。その後、両人は諏訪大明神となり、これが現在の諏訪大社のはじまりという。

上社は建御名方命、下社は八坂刀売をそれぞれ祀り、名前の「ミナカタ」は「水潟」の意で、元々は大国主や出雲とは関係のない諏訪湖の水の神であるとされる。
八坂刀売は下社の背後に聳える白樺高原や霧が峰の山の守護の神とされる。
記紀神話(古事記、日本書紀)に基づくと、大国主命の「国譲り」、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫った。 これに対して建御名方命は国譲りに反対し、大和王朝の代表である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦った。結果、戦に負けたことから諏訪まで逃れてきて、その地で王国を築いたということになっている。
「国譲り」では、大国主の出雲での末子の建御名方はどうしても承知せず、力比べを挑んだが、逆に投げ飛ばされて出雲から逃亡し、武甕槌が追って科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ)にいたるまで追い詰め、建御名方は遂に降参し、今後、この地からはどこへも出ないことを約束して命だけは助けられた。つまり、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。
八百万の神が出雲へもう出るため、この月を「神無月」と言われるが、諏訪の建御名方の神は出席を許されず、この地方だけは「神有月」と言われる。

「御柱祭」については次回・・。



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2009年4月10日金曜日

日本周遊紀行(3)甲府 「風林火山」

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日本周遊紀行(3)甲府 「風林火山」


国道20号の始めは先ず「甲府」であろう。今年(2007年)、NHK大河で「風林火山」を放送していますね、・・皆さん見てますか・・。
「甲府」という名称は、永正16年(1519年)に武田信虎(信玄の父)が居館を躑躅ヶ崎館(つつじがさき:現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から「甲府」と命名したことに始まります。 

武田信玄の信玄とは法名で「晴信」甲斐守護を代々務めた甲斐源氏武田氏の信虎の嫡男として生まれ、隣国の信濃を平定し、越後の上杉謙信との「川中島の戦い」は余りに有名である。現在このあたりが放送の真っ最中ですが。 
戦いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、駿河、上野(こうずけ)、遠江(とうとうみ)、三河と美濃の一部を領するようになるが、上洛の途中に信玄は三河で病没することになります。
信玄は「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬軍は戦国最強と評され、今もなお広く人気を集めている戦国武将である。

信玄死後、側室の子である四郎勝頼が家督を継ぐようになるが、勝頼の母は、あの諏訪の姫「由布姫」である。 
勝頼の時代、台頭してきた織田信長、徳川家康の連合軍に鉄砲を主力とした集団新鋭兵器の登場、所謂「長篠の戦い」で破れる。 
その後の武田家は次第に衰退してゆき、天正10年(1582年)、信長の追手に追われた勝頼は笹子峠付近で進路をふさがれ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である大和村・天目山を目指した。
しかしその途上、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき追手に捕捉され、身内とともに自害して果てたという。(天目山の戦い) 享年37。 
これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡することになる。 その後、家康が入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、田野寺(現、甲州市大和村・景徳院)を建立し、現在、境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる「甲将殿」がある。

甲斐・武田氏は、清和源氏の本流と言われ、元は「常陸の国」の出身である。
NHKのドラマは「山本勘助」が主人公であるが、今後の武田四郎勝頼との関わりも楽しみである・・。

次は、「諏訪」


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2009年4月9日木曜日

日本周遊紀行(2)勝沼 「甲州街道」

日本周遊紀行(2)勝沼 「甲州街道」


「甲州街道」から・・、

私の旅・「日本一周」の出発路は先ず国道20号線で、往時の「甲州街道」と呼ばれる筋道であった。
甲州街道は、甲斐国(山梨県)へつながる道で、江戸幕府によって整備された五街道の1つである。 ・・と言っても今、は国道20号のことを指しているが、江戸期における同街道は「旧甲州街道」とも称している。旧街道は、内藤新宿(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈で当時内藤家の中屋敷のあったところ)、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれていた。

ところで、江戸城(皇居)内堀の真西、千鳥が淵に面したところに「半蔵門」がある。
名称は、江戸城警備を担当した徳川家の家来である伊賀同心組頭・服部正成・正就父子(忍者・服部半蔵:忍者ハットリ君のモデル)に由来している。 立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことからその名が付き、将軍が、非常時に脱出するための門だったともいわれ、脱出の際には服部家は真っ先にその護衛に当たることされていた。
この半蔵門の正面に今の国道20号線、つまり「甲州街道」が位置し城に直結している。
家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。 
江戸と各城下町を結んだ街道もその一つであり、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結んだ。 
日本橋から京都の三条大橋にいたる、最も主要な街道であった「東海道」、そして中山道、日光街道、奥州街道がある。 五街道では、主に大名の参勤交代が行はれ、併せて一里塚や宿場町がつくられている。

参勤交代であるが・・、 
沿道には東海道が145家、日光・奥州街道の41家、中山道で30家の各藩があったといわれる。 
では、「甲州街道」では何家の大名が使ったか、実は3家だけであった・・。
この道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名で、何れも小藩ばかりである。
又、甲州街道以外の街道は日本橋から出ているのに、甲州街道は何故江戸城に直結していたのか・・?。
甲州街道を進んでいくと、新宿(信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があり、新しい宿場を設けて内藤新宿とした)の北側に百人町がある。さらに進むと八王子に千人町があり、その後、甲府城につながる。 
武田家亡き後「甲府城」は徳川家康が築き、その後、幕府の天領(幕府直轄管理)となり、幕府が治めている。 
百人町とは、鉄砲百人隊が住んでいた場所であり、千人町は、千人同心が住んでいた場所である。
江戸幕府で事変があった時、将軍は、半蔵の部下達に守られながら、甲州街道を進み、そして、百人鉄砲隊に守られ、更に千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのであった。 つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのであり、甲府城には常時「甲府勤番」(こうふきんばん)が勤めていた。

ただ、甲州街道の大行列に「お茶壷道中」というのがあった・・、
幕府に献上される「京・宇治の茶」で、中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入った。
この道中は将軍通行と同じ権威をもち、道中で行き合った大名といえども道の端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠りものを取り、土下座をして行列の通過を待ったという。 
庶民の歌に「茶壷に追われて戸をピッシャン 抜けたらドンドコショ・・・」というのは、どこかで聞き覚えがある・・。  
このお茶壷道中は、慶長18年(1613)から230年間続いたという。

笹子峠から勝沼にかけて・・、
江戸末期、慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦で官軍に敗れ、再起を図る近藤勇が新選組を母体として結成した「甲陽鎮撫隊」が甲府城奪取に向かったのもこの街道であるが、笹子峠を越え甲府の手前の勝沼で新政府軍に敗れ、虚しく江戸に帰還している・・。
同じ場所でもう一つの悲劇があった、それは江戸期の直前であったが・・、450年の歴史を誇る名門・武田氏の滅亡の地でもあった。
天正9年(1581年)、武田勝頼は織田信長、徳川家康の連合軍によって築城中の「新府城」(韮崎中田、七里岩台地上に位置する平山城)は陥とされ、武田氏ゆかりの地である天目山を目指して逃げたが、しかしその途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害して果てる(天目山の戦い)、こうして甲斐武田氏は事実上滅亡した。
街道沿いに、ぶどう寺とも呼ばれる古刹「大善寺」がある。
718年奈良時代に僧・行基の創建とあり、遠く中国から運ばれてきた葡萄の種を薬草として植えた事が始まりでこの地に伝わり、勝沼甲州葡萄の発祥の寺とされる。 
武田家が追い込まれた天正10年3月、大月の岩殿城を目指す勝頼一行がこの寺に泊まり、武田家再興を祈願して薬師堂に一晩こもったとされる。
この時の記録を住職の理慶尼(武田家の親族)が細かく書きとめ、寺の古文書「武田勝頼滅亡記」として一冊ずつ保存されているという。

大和村(現、甲州市)田野に勝頼一族の菩提寺「景徳院」がある。
又、大和村から勝沼町(現、甲州市)に入ってすぐの深沢橋の袂に「近藤勇」の像がある。

次は、「甲府」です


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2009年4月8日水曜日

日本周遊紀行(1)愛川、津久井  「出発・・、」

【中部道】 神奈川(厚木)⇒⇒⇒⇒新潟(糸魚川)


日本周遊紀行(1)愛川、津久井  「出発・・、」

出発・・、

本日は平成16年(2004年)9月20日、秋の彼岸の入り、そして何より「敬老の日」である。 日本の人口の凡そ1/5が65歳以上の高齢者が占めるといわれが、小生も本年65歳を迎えこの割合の中の一人になった・・。 つまり年金生活を送るようになってしまったのである・・、だからどうなんだ・・「別に・・」、歳月の経過とともにたまたま65才に成ったにすぎない、ただそれだけである。 そして今年の今日(きょう)、「日本一周の旅」に出掛けるタイミングになっただけである。
勿論、これまでに思案し、計画し、準備し、そして万端、整えたつもりである、愛車の整備も含めて・・。

本日は旗日である、その為か世間は何となく普段より静かな雰囲気である。上(カミ・妻)さんも休日休勤の”のんびり曜日”であるが、小生の出発とゆうことで早朝より起きて準備を整えてくれた。 そして発車の際は車の横で道中の無事を祈ってくれた。
上さんに暫しの別れを告げて先ずは、第二の我が家である長野・白馬村の別宅へ向けて車を走らせる。 いつものルートである国道412号を経由する。
愛川町に入り「中津川」の清流を右に見ながら、半原へ・・、そして半原の尽きる所に宮が瀬ダムの巨大なダム堰堤が遠望できる。(宮が瀬ダムについては「厚木」の項で詳細を記載)

愛甲郡愛川町半原は日本を代表とする「撚糸」の町として名を高めたことは余り知られていないようだ。 撚糸とは、糸に撚(ヨリ)をかけることで、糸は勿論絹糸のことである。
山間の地、半原は中津川などにより大気中に適度の湿気があり、そのため養蚕産業や糸を扱うのに良い条件となっていた為といわれる。 それに明治の頃はまだ電気がなかったため、この繁盛ぶりを支えたのが中津川であり、動力にその水を活用して「水車」を動かしたのであった。其の優れた製品は主に江戸、桐生(埼玉県)、足利、それに郡内に接した八王子に商いに行ったとされる。

津久井の町に入る・・、
神奈川県の北西部に位置する津久井郡は自然に恵まれ、郡土の70~80%は森林におおわれている。 津久井は大自然豊かな町であり、歴史と民話の里でもある。そして、近年ではダムの町としても知られる。
津久井は県下の水源の町で、宮が瀬ダムより遥か以前に町内には五つの湖(相模ダム、沼本ダム、道志ダム、城山ダム、本沢ダムなど昭和20年から40年にかけて完成している)が在り、神奈川県の発展に貢献し、現在でも大都市への水と電力の供給源として大切な役割を果たしている。いずれも、長い年月をかけて湖底に沈む集落の方々との土地交渉・移転先等々の話し合いが行われた末に完成している。
因みに宮が瀬ダムは平成12年(2000年)に竣工している。

R412・・、相模湖の手前に「ピクニックランド」の広大な遊園地がある。子供達がまだ幼少の頃、数度遊びに連れて行ったもんであるが・・、このピクニックランドにも意外なエピソードがあった。
遊園地の南端に「正覚寺」という名古刹がある。 鎌倉初期、源頼朝が西行法師を鎌倉に招聘した折、この名僧も正覚寺を訪れている。
この時西行は・・、

『 吾妻路や 間の中山は ほどせばみ
           心の奥の 見ゆばこそあらめ 』
と詠み、寺院境内の片隅に歌碑が残っている。
又、近年では民俗学者・柳田国男が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて10日間滞在し、帰りに遺して行った当時の有名な一句

『山寺や 葱と南瓜の 十日間』
を残している。 
この事が縁で最近では正覚寺は俳句の寺としても名を成している。
西行が詠んだ「・・間の中山・・」とは嵐山の意味で、裏山に控える優美な山を、京の嵐山になぞらえて詠んだといわれている。
そして近年の昭和30年代には大活躍したプロレスラー「力道山」が正覚寺を訪れているという。
丁度、TVの普及期、力道山はカラテチョップを使って大型外国人をやっつけたことでもしられるが・・。そのかたわら力道山はリキ観光株式会社という事業家としても大いに手を広げ、昭和37年には相模湖町で土地の開発事業を計画し、このため正覚寺も裏の山林5ヘクタールを譲渡協力したという。それが現在の相模湖ピクニックランドの前進であった。
その直後に力道山は突然の事故で帰らぬ人となりましたが、開発事業は三井物産に引き継がれ、「相模湖ピクニックランド」として現在に至っているのであった。

中央道の相模湖から大月へ、そのあとは一般道の国道20号、所謂、甲州街道を北上する。街道の大月には名勝・「猿橋」がある。
長さ31m、幅3.3mのさして大きくない木橋ですが谷が31mと深く、橋脚が立てられないため、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えている。 市内にある桂川(相模川の山梨側の名称)の峡谷に架かる橋で、日本三奇橋の一つとしても知られ、往時は甲州街道に架かる重要な橋であった。
猿橋については、7世紀に「猿が互いに体を支えあって橋を作った」のを見て造られたと言う伝説があり、名称もここからきている。 鎌倉時代には既に存在していたらしいが、その起源ははっきりとしていない。 
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため、往来が多く、歌川広重が描き、荻生徂徠など多くの人が訪れた感想や詩・句を記録している。
笹子トンネルを抜けると、既にここは甲斐の国・大和村そして勝沼である。

次回は、勝沼・甲州街道


2009年4月7日火曜日

日本周遊紀行・「旅とは・・、」(7)

日本周遊紀行・「旅とは・・、」(7)

さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。

そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。 
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、今も昔も変わることは無い・・。

文明は、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いたようにも思える。
その事を示す例として、日本の鉄道敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参拝のために造られた事が挙げられるのである。


さて、小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。 
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。 
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。
実は、それらのことを考慮しながら、熟年になって『日本一周の旅』を決行するのに繋がったのであるが・・。


次回より、日本周遊紀行「東日本編」より、「厚木」から紹介します。


「日本一周」の記録については、下記のホームページ及びブログのURLにて好評投稿中です。
ホームページ・・・ http://www.geocities.jp/orimasa2001/  「旅行、登山、その他の記録」 

小生の日本一周記・・・ http://orimasa2005.blog101.fc2.com/   日本周遊紀行「西日本編」 


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2009年4月6日月曜日

日本周遊紀行・昔の旅人(6):「正岡子規」


写真:正岡子規の貴重な旅姿

日本周遊紀行・昔の旅人(6):「正岡子規」

松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで・・、「正岡子規」(1867-1902)のことである。

『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』 子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが・・、「天性の楽天家」と言われる明治の子規は、いとも気楽に・・

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。

四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。 
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。 

「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京

余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、
『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 
『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。

元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性、事象における「深さ」、「捻り:ひねり」、「切り」に欠けていると断じたのであった。

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』
余りにも有名な句であるが・・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。
子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く吟人」と呼んでいる。


序ながら、司馬遼太郎のドキュメント小説で『坂の上の雲』という大作がある。
伊予・松山出身の正岡子規や秋山好古(日本陸軍の父)、秋山真之(大日本帝国海軍の
軍人、参謀、中将:日本海海戦の一節で『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』や「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と発した言葉は有名)の兄弟の3人を主人公に、彼らが明治という近代日本の勃興期をいかに生きたかを描く青春群像小説である。
子規は、この三人を・・、

『 不生不滅 明けて鴉の 三羽かな 』
と詠んでいる。

小生、「日本一周」で四国・松山に寄った時、このお三方の様子を若干記しているので参考にして戴きたい・・。

URL  http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-8.htm 

尚、この『坂の上の雲』は、2009年より3年に渡りNHKスペシャルドラマとして放映が決定している。
NHKが総力をあげて取り組み、国内各地・世界各国でのロケ・最新の特殊映像効果を駆使し、これまでにないスケールで制作中とのこと、2009年、10年、11年と3年に渡って放映される予定。


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日本周遊紀行・昔の旅人:「松尾芭蕉」


写真:芭蕉と弟子のそ曾良の旅姿


日本周遊紀行・昔の旅人:「松尾芭蕉」


次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、

『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。 古人も多く旅に死せるあり。』
「百代の過客」とは、月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなもの・・と、御存知、「奥の細道」の冒頭・序文である・・、

江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。

芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。


道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に

『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。 
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。

普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。 
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。


次回は、 「昔人の旅人:正岡子規」


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2009年4月5日日曜日

昔の旅人(4):「吉田松陰」

昔人の旅人(4):「吉田松陰」

前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。

先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。 
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。

旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。 
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。 


吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。

記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。 
無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。

尚、「吉田松陰」については、小生の周遊歴史紀行の山口・萩の項(下記URL)で詳しく記載してあります。

http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-23.htm 


次回は、 「昔人の旅人:松尾芭蕉」

2009年4月4日土曜日

日本周遊紀行旅・「旅のはじめに・・、」(3)

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日本周遊紀行・「旅のはじめに・・、」(3)


『人が旅をするのは到着するためではなく、旅をする為である。』 (ゲーテ)
(仮に目的地に到達できなくても、そこに至る道のりには多くの発見がある。 到達という結果しか見ることが出来ない人は、そこに到達しても何も発見しないだろう。 発見する目を持たない人の人生には、何の花も咲かず、実を結ぶこともない。)

「旅」をしようとするにもそれなりの目的やキッカケはあろうが、心に決するのはやはり自分である。 
それは積極的、能動的であるのが望ましいが、消極的、受動的であっても構わない、先ず行動を起こす事であるし、旅に限らず物事を起こそうとする時、とかく面倒くさい、億劫だ・・、と思ってしまったら人生の展開、発展性は望めないのである。
日常の矮小な循環社会で、中々時間がとれないという人もいるが、それは言い訳にすぎず、思考力、行動力に乏しいソレッキリの人生であろう。

旅は一人旅でも、二人旅(夫婦旅)、家族旅行でも何でもよいが、周りを干渉しない、されないですむ一人旅はお勧めである、密かに自分を見つめ直す機会にもなるはずである・・。
ところで「あなたの趣味は?」と聞かれて、昨今は皆さんが無意識のように「旅行」と答えているようである。でも、「旅行」って何だろう・・?、「旅」ってなんだろう・・?

よく、「旅行」は現実からの逃避、普段の煩わしさからの逃がれる、違う場所でぼーっとしたい、色んな観光地を訪ね、その土地を歩く、日常を刺激する営みを求める・・などと言われる。
だが「旅」には、しっかりした目的があるはずだし、合わせて修養・冒険でもあり、楽しさもさることながら、辛さとの対比も生ずる。 
興味の無い人に言わせれば「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても即答に困るのである。 自然との触れ合いとか、異郷との交わりとか、何れも、一端は示しているようであるが・・。 
しかし、筆者の場合は単純である、「好奇心」である、別世界を覗き見たい願望である、その単的な例が「山」であったのだが・・、

小生の「旅と山の記録」のほんの一部です・・、
http://www.geocities.jp/orimasa2001/ 


次回は、昔の旅人・三人を例に挙げ、先ず「吉田松陰」について・・、


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2009年4月3日金曜日

日本周遊紀行・旅のはじめに・・(2)

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日本周遊紀行・旅のはじめに・・(2)

「熟年」になった今日・・、
今、「団塊の時代」(昭和20年前半頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた世代。他世代に比較して人数が多いところから云われている)と言われて久しい。 これらの人々が定年期を迎えて、少し真面目にセカンドライフの人生設計を考える必要もあろう・・。
少しの貯えも出来、趣味や余暇など自由に使える時間も増えるし、これからの長い時間に備えて「自分の生き方」など、可能性を模索してみるべきでしょう。

例えば「旅」のことである・・。 
或いはヒョットすると、旅の中で第二の人生を発見出来るかもしれないのである。
「旅はカンフル剤」」といったのは著名な作家・五木寛之であるが、旅というのは日常空間から、日常住み慣れた地域から先ず飛び出す事から始まる。   

「旅:たび」の語源は不定であるが、その意味上の共通性やアクセントの面から、「とぶ(飛)」との関係や、度数を表わす「たび(度)」が「たび(旅)」が転じたものともいう。 
英語でいう「トラベル」とは旅行のことで普通にはツアー会社の旅行を想像するが、トラベルという英語の語源は「トラベイユ」(労苦、苦労の意味)、フランス語の語源「トラベラー」(拷問の意味)に近い状態であるという。 
ラテン語の語源では何と「拷問、拷問のための責め具、拷問台」という意味もあるという。 
それを受けて「つらいこと」や「苦しみ」という意に派生し、現在では「旅」という意味を持つに至っているという。 
尤もで、一昔は「旅」というのは自分の脚で歩いて移動したものであって、そこには多大な苦労や苦痛があった筈である。
然るに、語源の「トラベイユ」というのは納得なのである。

又、「可愛い子には旅をさせよ」という諺を例にとってみても、旅というものに対する前途多難さや、若者もしくは学を志す者たちのとって、「旅」とは何らかの「苦行」から切り離せない意味合いが含まれている。
旅が、我々に楽しみや喜びだけを付与する存在であるとは言い切ることはできないのである。

近年よく耳にする「自分探しの旅」という言葉から連想されるように、異なる土地の住む人々の文化に触れるということは、自己を啓発し、自己の存在を再確認するためでもあるし、もしかしたら新たな自分の居場所を探し出す機会になるかもしれないのである。
「旅」は観光と同義語のように思われ、単なる好奇心や喜びをを満たすだけの手段とも解釈できそうであるが、本来は、同時に苦しみを伴うものでもあろう。

通常の、日常の生活の中では特別なエネルギーは必要としないが、日常から離脱しようとする時、何がしかの定量以外のエネルギーが必要であり、又、発揮されるだろう、その新鮮な活力、エネルギーが時には人間にとって必要なのである。 
非日常体験は多岐にわたるが、その中でも代表的なのがやはり「旅や旅行」であろう。
何事にもそれを実行しようとする時、キッカケが必要であるが、キッカケは自ら心のうちに湧き上がるものであり、決意するものである。 

更に「旅・旅・旅」(3)へ・・、


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日本周遊紀行・.「旅」のはじめに・・、

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日本周遊紀行・「旅」のはじめに・・、

『旅』という字をバラバラにすると、「方」という字に「人」という文字が三つ入っているのが判る。 何とも意味ありげな文字である。
そう云えば、古典落語に三代目・三遊亭金馬師匠が演じた【三人旅】:(さんにんたび)というのが有ったっけ。 何でも十返舎一九の『東海道中膝栗毛』になぞらえて作ったと云われています。

無論、御承知の方も多いと思うが「東海道中膝栗毛」という内容は・・・、
江戸神田八丁堀に住む、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ、通称ヤジさん)と食客喜多八(しょっかく きたはち、通称キタさん)が、厄落としのためにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮、京都、大坂へと上っていく様子を、狂言や小咄(こばなし)を交えながら描き出した滑稽話である。
各地の名物や失敗談がふんだんに織り込まれ、二人のコンビは、俗に「弥次喜多(やじきた)」と呼ばれている。
弥次、喜多が大坂よりさらに西に向かい、「讃岐の金刀比羅宮」、「安芸の宮島」、更には「信濃の善光寺」を経て江戸へ戻るまでが書かれている。
なお、「膝栗毛」とは膝を栗毛の馬の代用とするという意から、徒歩で旅行するという意味である。 よって、「東海道中膝栗毛」とは自分の足を栗毛の馬に見立て、東海道を歩いていくの意味である。
一般に、小説や漫画、映画では、「弥次喜多珍道中」の題でも有名である。

「旅」については・・、この後に続きます。


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01. 15.

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