google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 1月 2018

2018年1月29日月曜日

平成日本紀行(215) 輪島 「輪島塗」


.「長旅はつらいが、楽しみのがビール待っている」







平成日本紀行(215) 輪島 「輪島塗」 .






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朱色の漆塗りに「輪島漆器」





道の駅・輪島、「ふらっと訪夢」の和風造りは、地場産の集成材(多数の板材・角材を接着剤で接合して作った木材)を利用し、内部の柱には「漆」(うるし)を施し、「輪風」(外観の切妻屋根と格子に代表される輪島らしさ)を表現して輪島地方の文化、伝統の発信拠点にしているという。 物産館も併設してあり、中には「輪島塗」の品々が陳列してある。


輪島塗、輪島漆器は全国でも屈指と言われる。
漆器はお茶の道具、箱物、膳物、椀物、盃物と日用品から趣向品、飾り品から工芸品まで多種多様で、製品は世界共通語の「ジャパン・メイド」と呼ばれるほど有名な器であるとか。 
漆器は、古来から日本が世界に誇れる最も素晴らしい工芸品であり、日本の誇るべき伝統文化でもある。


輪島塗の塗装素材は漆である。 
漆は、ウルシの木の樹液で、古来は主として塗料、塗装剤のほか接着剤としても用いられている。


私事ながら、幼少の頃、漆の木を切って、皮を剥いて、刀を作り、チャンバラごっこをして遊んだ。 そんな幼少の頃は、漆の木や樹液で「かぶれる」などということは露ほども知らなかった。 手の平に付いた黒い物(漆の液が汚れたもの)は、石鹸でいくら洗って も落ちることはなく、数日経ったら手足の皮膚といわず、顔から股座、チンポまで、荒れに荒れ、膨れに膨れて散々な目にあった。 後日、医者で診てもらったら「漆のかぶれ」ということが判明した。 その後も、これ程でなかったが、数回軽い炎症を起こしたのを記憶している。 漆の樹液は人によって“被れる” (かぶれる)のである。


漆は、漆の木から採取される樹液で、天然の高分子化合物であり、化学的にはフェノール系の樹脂で、防腐剤のクレゾールなどと同類だという。 
弱い体質の人が漆にかぶれるのは、フェノール系の物質が皮膚のタンパク質と反応して起こるアレルギー現象という。

漆は酵素と反応して硬い皮膜をつくる性質があり、硬化する温度(25℃)と湿度(85%)が必要なので、謂わば、カビの発生しやすい環境が漆の硬化に最適という。 
然らば、日本の気候にピッタリ当てはまるのである。 

熱硬化性プラスチックのフェノール樹脂と同じ現象で、昔は鉄砲や大砲、鉄鍋などに、錆び止めとして使われていたらしい。 
漆は酸やアルカリ、塩分、アルコール等に対しての耐薬性、それに防水、防腐性もあり、電気に対する絶縁性もある。 

更に、浸透力が有りその塗膜が乾固しても、中で酵素が生き続けていて、表面の色艶が褐色から徐々に透明感を増し、美しい色合いへ鮮やかに変化するという。 
これは千利休が求めていた美の世界の「わび」とか「さび」に通じるものだという。
 

数千年も前から食器類をはじめとする日用品や船舶、建築物等に塗料として広範囲に利用され、そのルーツを辿ると何と足長蜂にたどり着くという。 
足長蜂の巣の付け根の部分に黒いものが固まっているのが漆であり、自然の中で蜂は本能的にそのことを知っていたのである。 
それを知った人間が狩猟の時に使う鏃(やじり)の取り付け、部分接着剤として利用したのが人と漆の出会いの始まりと言われている。 
その後、食文化と共に発展をしてきた訳で、漆と漆の技法は大陸の仏教文化や食文化と共にシルクロードを経て日本に伝えられたという。 正倉院宝物や法隆寺の宝物館には、それを窺い知ることができるという。
 

漆:うるしの語源は「麗し(うるわし)」とも、「潤し(うるおし)」ともいわれている。
漆の艶や塗り肌を表現したもので、日本の永い歴史の中で漆が愛され続けられたことが言葉の中に残されている。 
知れば知るほどに不思議で奥の深い漆は、自然の天然素材で地球環境にやさしい無公害の塗料とのことで、中国をはじめアジアの各地で遥かな昔から生活のなかに取り入れられていたようである。 
漆の木からにじみ出る樹液は、枝が折れたり、虫や動物に傷つけられた時、手も足も出ない漆木は、漆汁をにじみ出して傷を直そうとする。 
自然の治癒力であり、人が怪我をした時にできる「カサブタ」に相当するもので、人間がこの現象を逆手に取ったのである。 

成木になった漆木に欠き傷を入れて、滲み出てきた樹液を人間が取ってしまい、治癒出来なかった漆木は、やがて枯れる運命にある。
天然漆は環境に敏感である。 
従って、日本では国産漆が塗りやすく、また仕上がりも美しいといわれる。 

しかし、産出量は年々減少傾向にあり、いまでは輸入漆液で需要の九割以上を補っているのが現状だという。 
漆器の品質は、国産漆をどれだけ使うかが一つのバロメーターといわれるが、ここ輪島は国産漆を最も多く使っている漆器の産地として名高く、近年、塗師達は自家用として自宅で漆木の栽培を始めたといい、これも輪島の「本物志向」の表れである。 
輪島の漆木は、能登の気候にも合っているのかもしれない。


次回は、「輪島・朝市

2018年1月28日日曜日

平成日本紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」


.「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る」 
<アラブの諺>  





 平成日本紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」  .






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能登の奇祭・御陣乗太鼓





南北朝時代に足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって能登、越中を領する守護大名に列せられるのが「畠山氏」であった。 
かの、鎌倉幕府創立時、頼朝の重臣として大活躍する「畠山重忠」を祖にもつ名門であり、室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家(将軍を補佐して幕政を統轄した官位)として名を連ねていた。


天正5年(1577年)の戦国期、能登・畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされる。 
この時、上杉軍が畠山残党退治に遠征してきたとき、名舟(輪島市名船町)の地で村人達が鬼面や海草を顔に付け陣太鼓を鳴らして驚かせ、追い払ったといわれる。 

これは伝説の域をでないが、この事が有名な「御陣乗太鼓」の発祥、起源とされている。 
御神乗太鼓は、名舟大祭といわれ、白山神社の祭礼で披露され、御輿の渡御・還御の先導として露払いを務める役割を担うという。


天正5年、越後の上杉謙信は能登・七尾城を攻略して、

『 霜は軍営に満ちて  秋気清し 
越山を併せたり  能州の景
 』

と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。
 

現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。  
武器らしいものがない村の人達は、鍬や鎌で打ち向かったが散々な負け戦であった。 

そのような時、村の古老の指図に従い、急場の一策として樹の皮をもって仮面を作り、海草を頭髪とし、太鼓を打ちならしつつ上杉勢に逆襲をかけた、この奇襲作戦が功を奏し、戦いを勝利に導いたという。 
面をつけ、太鼓を打つことによって、「御陣乗っ取り」を果たしたのである。

この戦勝は舳倉島(へぐらじま)の奥津姫神社(白山神社)の御神威によるものとし、毎年、神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)には仮面を被り、太鼓を打ち鳴らしながら、御輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っているという。 
以来名舟の村人たちは、戦勝の感謝を氏神に捧げるために、この御陣乗太鼓を叩くようになり、400年以上にわたって今に伝えられる。


始めはゆっくり、次にやや早く、最後はもっと早く、即ち序・破・急の三段で打ち切り、各自が自由な形で見えを切り、面に応じ、個性を生かした芸を入れるのが御陣乗太鼓の見どころであり、聞きどころであるという。 
又、御陣乗太鼓の踊り手は、地元に生まれたものにしか資格がなく、地元の子供たちは週2回、大人は毎晩太鼓の練習をし、一般に御神乗太鼓は男性が打つものとされ、女性の演奏は単に太鼓演奏として区別しているという。 

尚、ゴールデンウイークの4月29日(土)から「道の駅・輪島 ふらっと訪夢」でも夜に実演されるといい、御陣乗太鼓は今や、すっかりテレビでもお馴染みでになっている。


次回も更に輪島で、「輪島塗

2018年1月18日木曜日

平成日本紀行(215) 輪島 「越の国」


.「旅は真の知識の大きな泉である」 
(ベンジャミン・ディスレーリ;イギリスのヴィクトリア朝期の政治家、首相 ) 






平成日本紀行(215) 輪島 「越の国」 .




古代のある時期まで、富山から東は縄文遺跡、福井から西は弥生遺跡が多いと言われる。 
そんな中で石川県能登地方は両者が拮抗しているいわば縄文と弥生の接点になっている地域であった。 

この地は縄文期におけるアイヌの痕跡もあり、アイヌ語も色濃く反映しているという。 
「能登」の地名の由来もアイヌ語の「ノッ」で「岬、あご」という意味だそうで、「ノッ」が「能登」というように変化したというのは納得である。


この頃の、国としての名称は能登を含む北陸一体は「越の国」といわれた。 
今の新潟から福井・若狭にかけての越後、越中、越前である。 

これには日本列島へ中国江南の「越人」(※)が直接、又は、朝鮮半島南部を経て到来し、青銅器や稲、鉄器を中心とした弥生文化を伝えたものとする一説がある。 
その意味で、「越」の地名が日本列島にあっても、特に不思議ではない。 


北陸地方の「」が、越人に由来するかどうかは確定はされてないが、おそらく、中国の「越」という国名、地名が先にあって、それが「古志」や「高志」、又は「越智」などの漢字表記の際に当てられたものではないかともされている。 

尚、北陸における「越」の地名は、京(平安京)に出向くのに山を幾重にも越えてゆく、遠方の北の陸地(北陸地方)であるから名付けられたとする説もある。 
だが、実際はこれよりはるか以前(奈良期以前に・・)に、既に「」というのは存在していたという説が大勢らしい。


(※)紀元前8世紀頃の古代中国・春秋時代における中国江南地方・長江下流域に「呉」、「越」などの国があり、中流域に「楚」があって所謂、古代春秋三国時代といわれた。 古代中国の物語として呉、越の国の争いで、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」という故事が生まれたとする。 尚、古代中国江南地方は稲作発祥の地とされていて、一方、現在のベトナムは漢字で書けば「越南」であり、この地は現在の浙江省周辺にあり、古代中国の江南地方に当っている。


紀元前3、4世紀に日本に成立した稲作は、この中国長江流域が元祖といわれる。 
又、同時期に金属、鉄器が大陸で発明されていて、これらの総合文明が縄文期の未開の文明を刺激しないはずは無く、後年、日本海の狭い領域を超えて九州、山陰、北陸の地へ次々と移入してくるのは必須であった。 

この当初の日本は、日本神話で語られる神代の時代であったが、その後、大和王権(後の大和朝廷とは異なる)が設立されるに及んで、日本各地を席巻、統一してゆくことになる。
同時に、日本民族の文明が大陸によってもたらされ、所謂、大陸ルーツの文明が花開く時期でも合った。

古代中国の越人によってもたらせれたかどうかはさておき、移植された「稲」は各地を点々しながら越前の地(福井平野とその周辺)に、ひとまず定着したとされる。 
飛鳥、奈良期における越前の米の石高は国内一であり、越前は日本一の裕福な国であった。(今でもそうらしいが・・?)

この頃、越前の国の富を背景に、越前出身とされる継体天皇(けいたいてんのう:第26代天皇、応神天皇の5世孫)が、大和朝廷の大王(天皇)として迎えられたといわれる。 

大国・越の国は、奈良期の7世紀後半、律令制によってに分割され越前、越中,越後の三つの国に分かれた。 
さらに、養老2年(718年)には、越前の国から羽咋、能登、鳳至、珠洲四郡を割いて「能登国」とし、弘仁14年(823年)には、江沼、加賀の二郡を合して「加賀国」としたとする。 この時点で近代の北陸地方の地域名が固められたという。


次回、「能登・御陣乗

2018年1月15日月曜日

平成日本紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」


.「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」  






 平成日本紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」  .





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旧輪島駅の「ぷらっと訪夢」



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旧輪島駅ホームと「シベリア」行きの次駅表札





能登道路の終点である穴水の此木から、一般道を「輪島」に向けて走ることにする。 
途中、別所丘P.Aで一息入れる。 
このPAは、僅か数台のみの駐車場で、実に小規模でサッパリしたところである。 

だが、目の前にはこの名に因んだ「別所岳」がドーンと座っているし、エリア内には小さな丘があって、そこから能登島や能登の海・七尾湾が一望できる絶景の地でもある。

此木から輪島までは内陸の一般道・県道1号線(輪島-七尾線)になる。 
古い手持ちの地図には能登鉄道が、この道路と並行して輪島まで達しているのだが、実は極最近の2001年に乗客減少が著しいということで穴水⇔輪島間が廃止されたのである。 


克っては、能登観光の交通は、金沢からJR七尾線が七尾まで、更に七尾から輪島までの鉄道が走り、金沢から直通の急行「能登路」や自社のパノラマ気動車を使用した急行「のと恋路号」が運転されていたらしいが、しかし、時代の趨勢には勝てず穴水~輪島は廃線となってしまった。


因みに、穴水から半島の東部を行く「のと鉄道能登線」(穴水⇔珠洲市蛸島)は、その後も暫く存続していたが同様に乗客の減少が続いており、遂に2005年3月限りで全線が廃止され、路線バスに転換されたという。 
ただ、廃止決定後、地域住民の活動が活発化し、2005年3月には県議会議員の間で「廃止」ではなく「休止」にしようとする論調も強まり、廃線となった後も、能登線を復活させようという動きが続いているという。

その代わりかどうかわ知らんが穴水、輪島の中間地点である三井町に、「能登空港」が2003年夏、開港している。


輪島市、穴水町、能登町にまたがる木原岳周辺に整備された空港で、滑走路長は2,000mあり、エプロン(駐機場)は小型ジェット機、プロペラ機各2機が同時駐機できるという。 

日本初の試みとして、空港ビルと行政機関(奥能登行政センター)が合築されており、交通だけでなく、奥能登地域の広域行政の拠点としても位置付けられている。  
又、道の駅・能登空港は、道路を拠点とした能登地域の情報や観光情報を提供しているという。

航路として当面は、東京国際空港への1日2往復のみのようだが、ただ、開港時、年間平均搭乗率が70%未満の場合は、県と地元自治体が航空会社に2億円まで損失を補填するとした全国でも珍しい「搭乗率保証制度」を導入している。 
逆に目標以上の利益が得られた場合は、地元に還元するとしているが、如何かな・・?。
  


輪島の市街へ入って自然と脚が向いたのがやはり「旧輪島駅」であった。 
木板張りの外壁と黒光りした瓦の大屋根に大商屋風の木造の建物が建ち、「ぷらっと訪夢」という、取って付けたような名前が付されている。 

今度は道の駅・輪島として再出発しているようであり、廃止された「のと鉄道」の旧輪島駅の駅前広場を活用して新しく建てたようである。 
だが、旧駅舎であろう・・?、白いコンクリートの建物が、和風の大屋根の奥上から見えていて、変に違和感を覚えるが・・?。 

「ぷらっと訪夢」の中の半分は観光案内所になっていて、輪島の有名な祭り「きりこ祭り」(後述)の“きりこ”が飾られていて、もう半分はかってのJRの旅行センターとなっていて、みどりの窓口の看板も見える。 

その奥には、元のホームの復元というか痕跡というか、旧のホームと線路があり、旧輪島駅を起想させている。 
そして「メモリアルホーム旧輪島駅」と表示があった。 
ホームには昔懐かしい次駅表示板があって、当駅・輪島、前駅・「のといちのせ」、まではよかったが、何故か次駅は「シベリア」としてあった・・?。 
このユーモアは判らんでもないが、せめて「ウラジオストク」くらいにしてほしかった・・が?。
  

太古・古墳時代の頃、日本は中国などから「」と称され、能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの人が渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきた。 

渤海交流史などを見ても、この国から何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していると記され、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いという。 
その大陸の者たちが、輪島や能登半島の先端を見つけたとき、倭の半島を島と勘違いし「倭島」と呼び、これが、現在の輪島の名の由来だといわれる。


渤海又は渤海国は、かって8世紀から10世紀始め頃まで実際に存在した国であり、今の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方のことで一部シベリヤも含み、中心がウラジオストク辺りとされてる。 
これで旧輪島駅のプラットホームの駅表示に次駅名をシベリヤ(ウラジオストク)としたのは、ジョークとはいえ納得できるのである・・?。


次回、「能登・越の国

2018年1月13日土曜日

平成日本紀行(214) 門前町 「曹洞宗・祖本山」


.「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」 
<松尾芭蕉(奥の細道)> 






 

 平成日本紀行(214) 門前町 「曹洞宗・祖本山」  .





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豪壮な総持寺祖院の山門





総持寺祖院 山門と僧堂





この辺りの地名で、「門前町」というのは一寸な奇異な感じもするが・・?、

一般に、地域区割で門前町といわれる市町村は多々あろうが、門前町をそのまま行政名にしているのは極めて珍しい。 

能登・外浦に面する門前町はこんな町である。 その門前町の本院は「総持寺」である。 
外浦の八ヶ川を少々内陸部に入った地に、大本山総持寺が在り、この辺り、門前町門前というからご丁寧である。



1321年に瑩山禅師(けいざんぜんじ)が開き、永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えてきた。 
その後、明治31年(1898年)の大火で多くを焼失し、本山は神奈川県の鶴見へと移された。 
現在では、祖院として、大本山のおもかげを偲ばせる幽玄な寺院となっていて、焼失を免れた経蔵、伝燈院、慈雲閣などが境内にたたずみ、また、七堂伽藍も再建され、威厳と風格を今に伝えている。


私事ながら、横浜・鶴見は母の実家であり、小生が若かりし頃一時住んでいた地域であった。 
鶴見・総持寺は、首都圏である京浜工業地域の真っ只中にあり、東海道、京浜、京急などの各線が走る鶴見駅の駅前という、好立地・・?にも恵まれている。 
山門を入った広大な境内には幾つもの伽藍が林立してたのを覚えている。

因みに、近くには「生麦事件」(江戸末期、薩摩藩主の行列にイギリス領事館員が馬で行列を妨害し斬殺された。薩英戦争のきっかけになる)で有名な生麦地区があり、又、1963年(昭和38年)11月9日、国鉄・鶴見事故が発生し、死傷者300人を出した地域でもある。


曹洞宗」の本山は、現在はこの鶴見・総持寺と御存じ越前福井の「永平寺」である。
大本山永平寺は、高祖・道元禅師(どうげんぜんじ)が鎌倉期・1244年に開いたのが始まりで、今では全国に1万5千の末寺、檀信徒は800万人といわれている。 
無論、禅師が入滅した地でもある。 


道元禅師の後、数えて4世にして瑩山禅師に受け継がれ、師は、58歳にして、能登国の諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されたのを期に、名を総持寺と改称し禅寺に改め、瑩山禅師教えの「大本山諸嶽山総持寺」とした。 

今でこそ、半島の外れの片田舎にあり、八ヶ川が造りだした小さな小さな盆地、清流と新緑に囲まれた幽玄の地に忘れかけたように大伽藍群が静座しているが、大本山当時は、時代が遡るに従って信徒をはじめ多くの人物が往来し、隆盛の極みであったという。

福井の「永平寺」を「越本山」と称したのに対し、こちらは能登の総持寺能本山」と称した程である。 曹洞宗の拠点寺であったためか、鶴見への移転には多くの信徒達から反対された経緯もあったらしい。

曹洞宗を開いたのは、道元禅師であるが、今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)は、幕府や貴族階級など時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依(きえ)を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていったという。 

この辺りにも、庶民相手とする大本山が能登の僻地へ構えたのも納得できる。
2006年2月1日、門前町は隣接する輪島市と新設合併し、新しい「輪島市」となった。


【追記】  、

平成19年(2007年)能登半島地震・・、
2007年(平成19年)3月25日9時41分58秒、日本海の輪島市西南西沖でマグニチュード(M)6.9(気象庁暫定値)の地震が発生し、門前町(輪島市)も震度6強を記録したという。 

幸い死者は無かったが、門前町地区(旧門前町)の中心商店街(総持寺通り商店街)では主要な各商店も傾き、崩れた商品がいたる所に散乱、特に160年にわたって続く造り酒屋の酒蔵も崩れ、「のれん」を下ろすという。 

避難した住民の中には、「もうこの町は元には戻らない」と焦りの声も聞かれるという。

頑張れ・・!、門前町民・・!!。


次回は、「輪島

2018年1月12日金曜日

平成日本紀行(213) 能登 「能登金剛」


.「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 <イギリスの諺>



  

平成日本紀行(213) 能登 「能登金剛」   .




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能登金剛のヤセの断崖(東尋坊より高い・・?)





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志賀町増穂浦の世界一長いベンチ(ギネス登録) 




気多大社から海岸道の国道249を行くべきを、勘違いで県道から七尾湾に出てしまった。
仕方なし有料道の七尾・輪島線の徳田大津インターから輪島へ向かう。 


“勘違い”で能登の内陸を行くことになってしまったので、ここで、能登の西海岸について述べておこう。 

志賀町の福浦港から関野鼻までの約29km区間は、断崖絶壁が連なる海岸線が続く。 
この辺りを「能登金剛」といわれている。 
“荒ぶる”日本海の波濤が岩を削り、浸食しながら岩塊の芸術品を造り上げている。 

岬の先端まで行くことができる関野鼻は、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台にもなった「ヤセの断崖」というところで高所恐怖症の人は足がすくむという。 

又、二つの岩が太いしめ縄で結ばれた「機具岩」は、能登二見の夫婦岩ともいう。 
高くそそり立つ「鷹の巣岩」、 更に、波の侵食により岩に大きな穴が開いた「巌門」の姿も圧巻だという。


更に近くには、かぶと岩や義経一太刀の岩、弁慶二太刀の岩などが見応えあり、「義経の舟隠」という源義経主従が奥州渡航の際に隠れ場所とされる岩棚の溝も圧巻だという。

能登金剛」の名前は、北朝鮮にある金剛山が海に張り出し、千変万化の岩礁美をもっていて海金剛と呼ばれているところから、その景勝にも優るとも劣らぬ日本の国定公園として名付けられたものという。


烈しい景勝地である能登金剛の中にあって対比され、もっとも美しい海岸といえば、「増穂浦海岸」(ますほがうらかいがん)という。 
能登金剛の北側、高岩岬に囲まれた地域で、緩やかに弧を描く海岸線が美しく、この海岸は、「日本の水浴場55選」にも選ばれ砂浜が実に美しいところという。

ここ、増穂浦の小高い丘の上に、海を見下ろす様に作られている世界一長いベンチがあり、何と長さが460mもあり、過去に1346人座った記録があるとという。 
因みに、徒歩を分速80メートルで計算すると、世界一長いベンチの端から端まで往復12分かかることになる、これはギネス・・?。 
ここからは増穂浦海岸が一望でき、特に夕日が美しく、気分リフレッシュにはよいとか。


ところで、小生が若年の頃、読書、特に推理小説にのめり込み、当初に読んだのが松本清張の「点と線」や「ゼロの焦点」などであった。勿論、その内容については全くの忘却の彼方だが・・。


ゼロの焦点」の筋、
『 北陸の金沢や能登半島を舞台に、新婚早々失踪した夫の足取りを訪ねるうちに、ヒロインの禎子が事件に巻き込まれていくというミステリー、 夫の秘密の領域に徐々に踏み込んでいく妻の疑惑がサスペンスをかき立てられる。 とともに、日本海に面した北国の12月、暗くもの哀しい風景が、この作品の雰囲気や色調を決定づけている。夫の自殺現場である能登金剛の絶壁・「ヤセの断崖」の頂上テラス(平坦地)から花を手向けに来た主人公は、そこで意外な話を語りはじめるのだった。 暗い過去を隠ぺいするための悲劇、後の名作「砂の器」を彷彿とさせる先駆的作品となり、冬の北陸の荒涼たる風景をバックに、哀しい人間のドラマがあぶり出されて行く・・』
 

又、能登半島の後頭部に相当するのが、奥能登の外浦海岸であろう。 
以前は人が近寄れない秘境と言われたが、最近になって観光用の道路が整備されつつあるようだ。 
それでも、猿山岬灯台などへ向かうには、娑婆捨峠辺りまでしか行けず、あとは遊歩道を歩むようになる。 
こちらも、海岸の景勝地であるが「雪割草」の群落原生地で有名だという。 

荒々しい日本海の風景と可憐な雪割草の花とが対照的で、観光地としては喜ばれているという。 
だが、今でも秘境の地に変わりはなく、日本の秘境100選の一つでもある。


次回、「門前町

2018年1月7日日曜日

平成日本紀行(212)羽咋 「気多大社の由緒」


.
「旅から戻ってくると、故郷の煙さえも甘く気持ちのよいものである。」
(グリボエードフ;帝政ロシアの外交官・作家・作曲家)



 

平成日本紀行(212)羽咋 「気多大社の由緒」 .






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気多大社神宮寺の正覚寺




気多大社が文献に初めて見えるのは「万葉集」である。 
天平20年(748年)、万葉歌人でお馴染みの越中守・大伴家持(おおとものやかもち)が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、


『 之乎路から 直超え来れば 羽咋の海 
          朝凪ぎしたり 船楫もがも
 』

(はるばると羽咋の地に赴けば、羽咋の千里の海は朝凪ぎで素晴らしい景色である。ここに船や楫(かじ)が有れば、漕ぎ出してみたいものよのう・・)


と早速詠んでいる。

本社がいかに重んじられ、後に能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。 
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、このような国家の厚遇は、北越、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではないといわれる。 

能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威は中央国家にまで及んでいたのである。
  


普通、を「」と発音すべきか「け」と発音すべきかで、両方の読み方があろうが、この辺り、北陸地方では「」と読むのが慣わしらしい、敦賀に気比(けひ)神宮、こちらは気多(けた)大社である。


「気」という字は、気になる字である・・!。 
大げさに言えば全ての生き物には気が生じていて、これが生命の基本になっていることは確かである。 
しかし、それよりも尚、自然の営み、自然現象そのものが、気の力で成り立ち、地球そのものが気なのである。 

戻して、人間同士、気が気を呼ぶ、気多で、気が多いのは困るが、合縁気縁(奇縁・・?)女性の方は気麗になって気縁を結ぶ。 


気多大社は、出雲大社と同一神であり、縁結びの神なのである。 
気多大社は女性に関する催し物もあり、昨今では、うら若き女性に大変人気があるとか。 

「超」と付くほどの由緒ある神社で、真剣に願を賭ければ気が多く受けられて、必ずや適う事請け合いである。


本殿西隣に「正覚院」(しょうがくいん)という寺院がある。
越前・平泉寺を開基した「泰澄大師」が伊勢内外宮を参拝しての帰り、夢枕の歌として


『 恋しくば 尋ねても見よ 能く登る 
         一つの宮の 奥の社へ
 』
 
のお告げを受け、かの地に神宮寺を創建したと言い伝えられる。 

その一院が正覚院である。
院は元々、千年以上にわたり気多大社神宮寺で別当寺(神宮寺)であった。 
明治初頭の神仏分離により、主要な寺院の長福院・地蔵院・薬師院などが廃退したが、ただ一つ正覚院のみが残存し、現在に至っているという。 

元神宮寺・正覚院の配置を見ると、建物はは気多大社の本殿に向かって建っているといわれる。 
本院も、他の神宮寺に見られるように、神社を支配下に置き、仏事で社宮の祭り事を行われたことを伺わせる。
  

次回、「能登金剛

2018年1月6日土曜日

平成日本紀行(212)羽咋 「気多大社」


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「旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。」  <アントニオ・マチャド>



  

平成日本紀行(212)羽咋 「気多大社」   .




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気多大社の大鳥居と本殿




千里浜を左に見ながら、柳田のインターで高速より出る。
ほぼ同時に「気多大社」の大鳥居が目に入った。 

4本の支柱に支えられ、風雪に耐えているかの如く、やや色褪せて木製の大鳥居が天を刺している。 
鳥居をくぐり石畳の 広い境内を100mも行くと、神門の奥に開放感のある本殿に達する。 

参拝礼拝・・!! 。


ご神域は、2000年以上の歴史を持つといわれるが、社殿群はともかく境内一円の自然の成合(なりあい)は太古の史を重ねていることに納得させられる。 

特に、本殿裏に広がる鬱蒼とした、ほの暗い社叢林(しゃそうりん・神社の森)は古来より「いらずの森」として、その名の如く人の出入りが厳重に禁じられてきたという。 

森は北陸地方の代表的な照葉樹林で、凡そ、3ha(ヘクタール)の自然林が茂っている。 
樹齢三百年から五百年で、古くから神域として信仰の対象となり、住民の出入りが禁じられてきたという。 


ところで先般、森の実勢調査をしたところ、強い季節風で倒木の箇所も多く将来が心配されることが判り、県内をはじめ山形、新潟、鳥取などから国天然記念物に指定されている同種の神木の種を集め植林したという。 
幼木が生育するまで最低二百年はかかるという。 

克って昭和天皇が昭和58年5月、全国植樹祭のみぎり当大社の 「入らずの森」を視察され、お詠みになった御歌。


『 斧入らぬ みやしろの森 めづらかに 
           からたちばなの 生ふるを見たり
 』 

と歌碑にある。


気多神社(きたたいしゃ)と読みそうであるが、正しくは気多大社(けたたいしゃ)と呼び習わされてきたという。  
能登一宮として知られ、国幣大社(全国六ヶ所)であり、日本四神宮(気比神宮・気多大社・香取神宮・鹿島神宮)の一つに数えられる。 
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命と同一)で、能登開発の大神と仰がれている。 


出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた「大国主命」は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせながら、地方を平定開拓するともに、美姫・奴奈河姫(ヌナカワヒメ:大国主の妻・子の建御名方命は後に諏訪の大神となる)を求めて越の国に渡ることになる。 
大国主は能登の小木港(珠洲郡内浦町)に漂着し、七尾市所口に鎮座し、(気多本宮)これより能登を開発しながら、鹿西町から羽咋の港に鎮座した(気多大社)といわれる。 この間の邑知平野(おうちへいや)の開拓を進め、後に伏木港(越中・高岡)より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
邑知平野は、気多神社の辺りから羽咋川、七尾線に沿って七尾湾に至る細長い平野で、能登半島一の穀倉地帯でもある。


次回、「気多大社祭礼

01. 15.

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