google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 2018

2018年4月13日金曜日

平成日本紀行(229) 糸魚川 「姫川」





平成日本紀行(229) 糸魚川 「姫川」 .





http://tetsurohyakkei.web5.jp/gallery03/01/gallery030119.jpg
白馬連峰を望む姫川と大糸線
(提供 http://tetsurohyakkei.web5.jp/tetsurohyakkei.gallery03top.html さん)



「姫川」は、フォッサマグナの西縁、いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って白馬村から糸魚川市まで流れている。
地球規模からいうと、北アメリカプレートがユーラシアプレート(主にアジア・ヨーロッパ大陸の殆どをで、全陸地面積の37%を占めるという)とぶつかり合い、地下深くに潜り込むというの活動が、この姫川流域で地表面や地表近くに出現していると考えられている。 
姫川は、まさに日本列島を東西に分割する大断層に沿って流れる川なのである。


その姫川流域は、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸など国内でも有数の翡翠(ひすい)の産地で知られる。 
糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉(も)みだされ地表付近に出現したといわれる。 
硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流である小滝川の「ヒスイ峽」の翡翠は特に良質であるといわれ、そのため糸魚川市、青海町の産地共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられている。 
現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は海外、主にミャンマー産とみられている。 
東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。


姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 
水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 

そのため、親海湿原(およみしつげん)の湧水は青木湖からの浸透水であるともいわれる。
白馬村から発した水流は、北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流となって流れている。 
全長わずか58キロで平均勾配100分の1・3、つまり100mにつき1・3m下るという急流である。 
その流域は信州・長野と上越・新潟地方とを結ぶ国道148号線が走る数少ない交通路であり、又、大糸線が並行して走る交通の要衝でもある。 その河岸には道路、鉄道に沿って民家もひしめき合っている。 


姫川は麗々しい名前とは裏腹に「暴れ川」としても知られている。 
その急流さのため豪雨による度々の洪水に襲われている。 土砂災害も絶えず、道路や鉄道が不通となることも度々であり、近年では平成7年の大洪水で鉄道、道路がかなりに亘って流失寸断された。 
又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。
又、姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れているが、周囲の地質は非常に脆弱(ぜいじゃく)であり、地すべり地形が広く分布する。 
特に千国、小谷地区に到ると山稜が急激に狭まりトンネルが連続するところ、そこに大きな支流の「浦川」(中土駅の北側)が流れ込み、この上流に「稗田山崩れ」という大崩壊地が見られる。 


稗田山崩れは日本三大崩れの一つとも言われ、(富山県立山・「鳶山崩れ」、静岡県安倍川上流・「大谷崩.れ」)明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)の北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 
堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。 
この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているともいわれる。 
「稗田山崩れ」の詳細は以下に・・、

「稗田山崩れ」
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-2.htm 
「稗田山崩れ」
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-15.html 



【追記】

「糸魚川」は2009年8月、地質・世界遺産に認定された。
世界的に貴重な断層や火山などを有し、世界遺産の地質版とされる自然公園「世界ジオパーク」に洞爺湖有珠山、糸魚川(新潟県)、島原半島(長崎県)の三地域が日本で初認定された。
地質版の世界遺産とされる「世界ジオパーク」に糸魚川市が認定されたと、市が世界ジオパークネットワーク(GGN:ユネスコ機関)から連絡を受けたもの。 世界ジオパークは貴重な地質遺産を保護し、観光や学習の場として地域振興に役立てていくものとし、ユネスコが支援するGGNが審査し、合格すると認定される。
世界ではこれまで18カ国に58カ所あるが、日本にはなかった。 糸魚川地域は、断層の糸魚川静岡構造線やヒスイ産地の小滝ヒスイ峡、活火山の焼山など豊富な地質資源があり、国内初の認定を目指して昨年GGNに申請していたもので、ガイドマップの作製など認定に向けた準備を進めていた。




気分も晴れやかに、糸魚川の平野から山峡の地へ入り込んでゆく。
白馬方面へ近ずくにしたがって、空模様も明るくなり、小谷村の栂池高原の入り口である「白馬大池」辺りへ来ると、薄日も差して晴れ上がってきたようである。 
山間の地を抜けると、いよいよ白馬村である。 
白馬盆地といわれる山あいの平地が大きく広がり、右手に広大な北アルプス・白馬連峰の峰々が出迎えてくれている。 

昔の旅人は牛馬を連ねて、姫川流域の北アルプスの山峡の急峻な地を、艱難辛苦しながら、はるばる練り歩き超えてきた。 
そして、ここ白馬の平穏な地まで来て初めて一息入れ、おまけに、この絶景を見て心を安め、明日への活力を得たという。 


その白馬三山である主峰・白馬岳、杓子岳、鑓ヶ岳は未だ白き衣を纏ったまま、小生を迎えてくれた、有難かった。 
一事を成し遂げた満足感からも胸が熱くなり、長旅で緊張感がほぐれたことも手伝って目頭が熱くなるのを覚える。 

因みに、地域である白馬村やJR大糸線の白馬駅はいずれも「はくば」と呼称するが、山岳における白馬連峰、白馬岳の呼名は「しろうま」と称してる。 残雪期になると、山の傍に「代かき馬」、「代馬」のような雪形が現れることから代馬から変じて「白馬」になったと言われる。


白馬山系は日本一の高山植物のメッカであり、多くの行楽、登山客を迎え、山麓には長野県はおろか、全国有数の広大なスキー場が広がっている。 
その八方尾根の南側には「白馬のジャンプ台」が隣接している。 ラージヒル、ノーマルヒルと平行して並び、その存在はすぐ確認できるが、夜はライトアップされて、その曲線が美しく、いっそう存在感がある。 


白馬のジャンプ台は、オフシーズンには観光見学用として一般公開している。 
二人乗りのリフトを乗り継いで、透けて見えるデッキプレイとの階段を登るとき、余りの高さに身震いを生じるのである。 
さらに展望デッキへ・・、実際にジャンプ台を生で見ると心の底から「このジャンプ台から飛び降りるなんて、それだけですごい」という気持ちになり、あの長野冬季オリンピックの名場面が浮かんでくるのである。


原田選手が開会式後のインタビューで「鳩になってみようと思います」なんて気の利いたジョークを飛ばしていたが、いいジャンプをすると鳥になったような気分を味わえるというのは、少しもおおげさな表現ではないのだろうと感じる。 

ジャンプ台の下には記念館があって、当時の長野オリンピック、ジャンプ競技の感動的な記録が展示してある。


「終」




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2018年4月12日木曜日

平成日本紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」






平成日本紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」 .  





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-248.jpg
天津神社の「けんか祭り」





天津神社と奴奈川神社のことであるが、 

奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。 
その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。 
つまり、奴奈川姫の支配する「越の国」は、この後は出雲が統治する国の領域になる。 


一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。 
しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。 
だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていた。 

国譲りの伝説についても出雲の箇所でも述べたが、出雲の神々というは始祖のスサノオと国土開発の英雄・大国主を主人公にしているが、最後には天孫族に屈伏し国の支配権を譲るのである。 

このように出雲の神々はどちらかというと天孫族の敵役といった印象であり、謂わば大国主が造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけである。

「天津神社」は天孫族のニニギを祀り、その横の「奴奈川神社」は出雲族の首領・奴奈川と大国主を祀っている。 
お互いの神社は仇敵同士のはずであるが・・?、実際は仲良く並社して祀ってある。 
尚、天津神社の「けんか祭り」は二つの神輿が衝突、相争って競う神事で知られるが、この祭りの本来の謂れは不明とある。 
或いは、両社の如く天孫族(大和族)と出雲族の争いを表現しているのではないか、と想像するのは根拠はともかく面白い・・!。


古事記における「出雲の国譲」りは、高天原の神々が大国主に葦原中津国(日本)の支配権を譲るように迫り、遂に承諾させるというもので、武甕槌神(タケミカズチ)と天鳥船神(アマノトリフネ)が剣を突き立てて国譲りを迫るというものである。 
だが大国主の意を息子の健御名方は反対する。 
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ息子の方が敗れてしまう。(この力比べは大相撲の起源ともされる) そのために出雲の国の国譲りが実行されるのであるが、敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。 
 

姫川の上流地域の信越国境の小谷村(おたりむら)において、6年(古式で云うと7年)ごとの諏訪大社の御柱祭に併せて、「薙鎌(なぎかま)の神事」(諏訪社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける珍しい祭事。 

薙鎌とは鎌に長い柄の付いた昔の武器、諏訪大社の御神体ともいう)という奇妙な祀りが行われる。この神事の謂れや意義は定かでないが、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れ、追われて諏訪の地に逃げこんだ際、その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したとされる。 
この薙鎌は「ここからは出ない」という標し(しるし)ともいわれるが・・?。

諏訪の大神は「この地から出ない」と約束したため、八百万の神々が出雲に集まるという「神無月」でさえ、この神様だけは諏訪に留まっていて、従って諏訪地方には「神無月」というのは無いのである。 


『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも 』 万葉集十三巻より


この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。  
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。


姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠(おおだま)や勾玉(まがたま)、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。 
即ち、縄文期の紀元前4000年頃の世界最古のヒスイ文化が実証され、古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。 

更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や大平洋岸までヒスイが運ばれているという。 
陸奥の国(青森)の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されているという。

その後の神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していた。 
古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭の儀式には必ず用いられた。 このような重要な祭器であったから、特に霊力の強い勾玉は「三種の神器」の一つとなったといわれる。

この神器は、神話では国生みの神・伊邪那岐(イザナギ)が、天照大神に高天原の統治権の象徴として三種の神器を与えたものとされ、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨の際、これをお護り・御守りとして持参し地上に降り立ったといわれる。 
後に神武天皇まで継承され、天皇家の三種の神器の一つとなった。
 

三種の神器とは王の権威を表すもので、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)、神剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)、それに、神璽(しんじ)=八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされる。 

鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、特に皇宮に永く継承されている三種の神器は、日本全体の祖神ともいうべき「天照大神」の時代に端を発し、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。 そして元来それは君民一体の日本民族の精神であり、心の拠り所とされるものでもある。

神のしるしである神璽と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト)と呼ばれる職人集団の祖神とされる。 
玉祖命は岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作り、その際、天孫降臨の時ニニギに附き従って天降るよう命じられ、五伴緒(いつとものお:ニニギの降臨に従った五神)の一神として随伴したという。 

家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものといわれる。


次回、「姫川




       
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2018年4月10日火曜日

平成日本紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」




平成日本紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」 .




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奴奈川神社と天津神社の各本殿






親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。 
思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。 
そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。 

先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。
ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。 
姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。 

大儀・・!!、大儀・・!!。


前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その時、姫川や翡翠、糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)のことは若干であるが述べた。ここでは更に、糸魚川や姫川、その周辺について伝承的な意味合いで検証してみたいと思う。

尚、2005年(平成17年)3月19日:旧糸魚川市、能生町、青海町が合併して現在の糸魚川市となっている。
糸魚川の南駅前に「ヒスイ王国館」という仰々しい名前の御土産屋がある。 
駅前から海岸に向って進むと大町の商店街にこざっぱりした公園がある。 
ここは以前の旧糸魚川市役所の跡地でもあり、この一角に「奴奈川姫の像」が建つ。 
その像は、左手にヒスイを持ち、下につかまっている子供は「建御名尊」(タケミナカタ)だそうである。 
又、駅南側の現市役所の西隣に「天津神社」、「奴奈川神社」が同一敷地内に並んで建ち、殆ど同じような造りの建物で、いずれも市街地の中にコンモリとした深い緑に囲まれて鎮座している。

奴奈川神社・本殿内部には平安期・藤原時代風の木造「奴奈川姫像」が安置してあり、又、天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (ニニギ)、左が天児屋根命 (アメノコヤネ)、右が太玉命 フトダマノミコト)である。 

ニニギは御存じ九州・高千穂に降臨した天孫降臨の祖であり、又、天児屋命も日本神話に登場する神で岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる。 そして天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣氏(藤原氏、神事・祭祀をつかさどった中央豪族)などの祖となったとされる。 
所謂、この三神は天孫族(大和朝廷系)の神々である。
天津神社は糸魚川一の宮で、近年は 「けんか祭」 として知られている。 
近郷近在では昔から 「十日の祭り」 と呼ばれ、祭日は毎年4月10日で、この日待って春はかけ足でやってくるといわれる。 
一方の奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命(ヤチホコノミコ)を合祀したという。 
両神は夫婦神であり、八千矛命は出雲の大国主の別称でもある。


昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名を奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡を支配していた古代女王であったともされる(古事記)。 
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったとも言われる。 
奴奈川姫という名は、「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、又は、個人名ではなくこの地方の代々の女王一般を指す場合もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主の命は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて越の国に渡ることになる。 

大国主は一旦、能登の国に漂着し、邑知平野(おうちへいや)を開拓(七尾市・気多本宮、羽咋市・気多大社)し、伏木港より越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦は、大国主の出現にひどく怒り居所の身能輪山に乱入したが結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 
その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子が生まれる。 
この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命である。


一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいわれる。 
大国主神は侵略と脅しで姫を追い詰め、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしていたともされている。 
結局、奴奈川姫は大国主の子である建御名方命を産むのであるが、奴奈川神社(大正10年再建)の社伝によると、その後、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるという。 
その息子の建御名方命(タケミナカタ)は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は諏訪上社に、八坂刀女姫は諏訪下社に祀られている。 
真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる「御神渡り」は建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。


暫くして、大国主命は本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。 しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。 
それは出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守るという使命があったともいう。 
それでも大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。 
そこで姫は姫川の奥深く逃げ込んだが、追っ手が厳しくなり無念の自殺をしたという。 
又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。


次回は、「天津神と出雲神」


2018年4月9日月曜日

平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」







 平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」  .





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写真:国道沿いに建つ「親不知親子の像」




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写真:旧国道(親不知の見所)




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建設当時岩壁に彫られた文字「如砥如矢」




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写真:現在の親不知の景観






市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。 
営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。 
そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。

無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。 
一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。 

珍しそうに、取り留めない話の後、
「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」 
「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに」
という。 

確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。 

この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。
現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。 
山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。

その下に解説版が有って・・、
『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。  明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・糸魚川 』 と記してある。
ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。

この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師・探検家で、『日本アルプスの登山と探検』を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。
『 青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。 
彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である 』
(日本アルプス登攀日記,W・ウェストン)

これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。
W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。


天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。 
北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。 
同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。 
又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。

親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。 芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。

それでも「奥の細道」には、
『今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、』 と記している。


「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。 
又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。
この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる。

『 親知らず 子はこの浦の 波枕 
           越路の磯の 泡と消え行く
 』

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。

国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 だが、鉄道の北陸本線は7~8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。 

この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。


次回は、「糸魚川




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2018年4月8日日曜日

平成日本紀行(227) 越中境 「市振の関」





 平成日本紀行(227) 越中境 「市振の関」  .





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市振の関(2枚)






国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。 
後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。 そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。


海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。 
越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。 
やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝となり、宿場町として栄えた。



この先、小さな川であるが「境川」といって越中越後の国境の川である。 
国道には新潟県との標識が目に付いた、いよいよ最終ラウンドの新潟へ入ったという実感が身にしみる。

間もなく「道の駅・市振の関」があった。 
山地が海岸まで迫るこの地域にしては、意外と思うほどのゆとりある敷地を有している。 
こちらで一服入れる。
間もなく国道に面して北陸線の「市振駅」(いちぶり)が見えた、木造平屋のやや古びた民家のような駅であったし、当然無人駅の様な佇まいである。 
国道に「市振の関」と案内板があったので寄ることにした。

旧道であろう市振集落、玉ノ木集落があり、その市振の集落の小学校の一角に「関所跡」や碑があった。 
こちらも境の関所同様、幕府が越後・高田藩主・松平氏(徳川譜代)に命じて市振の関を築いたとされる。 
これは隣国の有力な外様大名・前田氏を牽制するためでもあった。 
又、この地は北アルプスが日本海に落ち込むところ、近くには親不知の難所が控えていて海岸平野部はないに等しい。 
従って、険路である危うい波打ち際を避けて舟で通過しようとする者を、海上から監視する「遠見番所」も併設されていたという。
近くに「長円寺」という古寺があり、ここに芭蕉の句を記念する句碑が建っている。 


「市振」の地名は、芭蕉の「奥の細道」の句と共に登場する。

『 一家に 遊女もねたり 萩と月 』
(ひとつやに  ゆうじょもねたり  はぎとつき)


そして「奥の細道」の一文・・、

『・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。 白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。 神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし・・』



芭蕉は、越後・能生町を出発、糸魚川で休憩、夕刻、市振に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したと地元では言っている。 
宿舎には宿帳記載も無く、本文のような事実は曾良の随行記にも無いので、この遊女の一件は虚構であろうとも言われているが・・?。 
それは兎も角、本文では、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るには大変な道中であり、それが為に「芭蕉」を修行僧と観た遊女らは 同行を頼むのであった。 

だが、彼はあっさり、つれなく断っている。 
普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんであろう・・!、芭蕉は私的な道中の他に、公的な役割を担っていた(隠密・・?)ともいわれるが・・?。 


いずれにしてもこの先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経ながら鈴鹿峠から津を越え、伊勢に到るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 
当時、一生に一度は伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか・・想像するだに難い・・・?!。



次回は「親不知


2018年4月7日土曜日

平成日本紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」







 平成日本紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」   .




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宇奈月温泉駅とトロッコ列車



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黒部峡谷の「後曳橋」を渡るトロッコ列車





黒部に来た。
こちらも立山黒部アルペンルート(越中富山~信濃大町)に負けないくらいの山岳観光のメッカである。 
特に黒部峡谷は秋の紅葉の絶好のポイントである。

富山地方鉄道が富山から、ここ黒部を経由して峡谷の玄関口「宇奈月」まで入る。 
宇奈月は、黒部川の渓谷沿いに広がる旅館や保養所が立ち並び、黒部峡谷と鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。 

因みに、富山地方鉄道駅は「宇奈月温泉駅」であり、駅前には60度の源泉噴水が設えてある。こちらトロッコ鉄道(黒部峡谷鉄道)の駅は「宇奈月駅」という名称で、別々に二箇所あり、どちらかといえば宇奈月駅の方が大きく賑やかである。 

宇奈月は富山でも有数の温泉場であるのは周知だが、源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉(くろなぎ)からの引湯であるという。 
源泉段階で96度と非常に高温で、尚且つ湯量が豊富であることから、宇奈月までは7~8kmと離れているが60℃前後と充分温度は保たれているのである。
 


黒部峡谷を走るトロッコ鉄道は、かつてこの峡谷に幾つかのダムが建設された際、作業員や資材の運搬用に敷かれた軌道である。 
同時に、始めの頃は一般の人も、ただ同然で利用できたらしいが、ただし「命の保証はしない」と乗る際に念を押されたという。 

今は奇麗にデザインされたミニ観光列車として模様替えし、宇奈月から欅平(けやきだいら)まで旅客を乗せて運行している。 
ミニサイズの車両で、まるで遊園地の電車のようであり、車両は全指定席でリラックス車両、パノラマ車両などあるが、一番安いオープン車両は屋根は付いているが風と共に走るようであるという。 終着・欅平までは、くねくねとノンビリと1時間20分位の旅である。 

朱塗りの鉄橋「山彦橋」、「黒薙」、そして黒薙川が黒部川と合流するところ「後曳橋」がある。 

橋は黒薙川にかかる川底から高さ60mもあり、名前の由来はあまりにも深い峡谷にかかる橋のため、思わず後退りしたといういわれから後曳橋と名前が付いたそうである。 

対岸に聳えているのは「出六峰」、そして黒部川第二発電所が現れ、その脇は「ネズミ返しの岸壁」という見所がある。
又、釣鐘のような山は「鐘釣山」、「百貫谷」(ひゃっかんたに)には雪崩が幾層にも積もって万年雪となる。 

そして終点「欅平」の直前には、本流が最も狭くなった所があり、猿が飛び越えたことから「猿飛峡」と呼び、其々の景勝地を巡りながら欅平駅に着く。 
駅は一般の終着駅となっているが、関西電力黒部専用鉄道として軌道はさらに奥まで続いている。 
駅舎はPC造りで一階には出札口や売店があり、二階にはレストランなどがあり、屋上は展望台となっている。
 

既に、十年も経とうか・・?、
新緑が映える初夏の時期に夫婦で、このトロッコ電車に揺られてここまで来たのを記憶している。 
更に、ここより徒歩で1時間のところ、「祖母谷温泉」(ばばだに)へ向って、ここで露天風呂を楽しんだ。 
この地の背後は急峻な後立山連峰の山岳地で、名峰・「白馬岳」や「唐松岳」が控える。 
祖母谷への途中、奥鐘橋のたもとに、岸壁をえぐりとって作られた歩道「人喰岩」があり、名湯・「名剣温泉」などもある。



黒部峡谷は、北アルプスの立山連峰(剣岳、別山、立山)と後立山連峰(白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍)との間に、深く刻み込まれた日本一の大峡谷である。 

黒部川峡谷は戦国期の天正11年(1583)、越中領主・佐々成政が「ザラ峠」(サラサラ峠・2348m:黒部湖の西側、獅子岳と五色ケ原の鞍部にある)越えで黒部川を横断した話しは、前に記したが、その後の江戸期には加賀藩から入山を禁じられ、長い間閉ざされていて厚いベールにつつまれ、一般の人には窺い知ることの出来ない秘境であった。

大正に入り、電源開発等で黒部の様子が次第に見えだしのであるが、冠松次郎(かんむり:明治・大正期の日本の登山家、黒部峡谷の地域研究、山岳紀行文でも知られる、「黒部の父」とも呼ばれる)が探検して「黒部渓谷」を発表している。 

欅平から黒部湖辺りまでを、「下廊下」(しものろうか=両側断崖)と表現し、S形にうねる険峡「S字峡」や「十字峡」という日本一の深い谷がある。 

十字峡とは、鹿島槍方面から下りる沢(棒小屋沢)と立山方面から下りる沢(剣沢)が、黒部川本流で十字に交わる地点のことを言う。 
また、黒部湖から黒部川源流部の「雲の平」辺りまでを「上廊下」といって道がなく、今なお人を寄せ付けない秘境である。

黒部川の源流部である雲の平は、「高天原」とともに一帯になっていて、立山連峰の南部山岳地と後立山連峰が合流する地域(三俣蓮華岳、黒部五郎岳)であり、温泉もあって文字通り北アルプスの夢の楽園とも言われる地帯である。

山岳愛好家なら憧れの地であるが、小生は残念ながら今まで登る機会がなかった・・!、今後は・・?。
 


黒部川に架かる黒部ダムに関しては、吉村昭の著「高熱隧道」に、仙人谷ダムの建設(黒部第三ダム)に挑んだ人々の苦闘を描いている。 
又、黒四ダム(くろよんだむ:黒部川第四発電所)は、戦後、高度成長期を迎え電力需給が逼迫する中、関西電力の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、近畿(関西)地方への電力供給、強いては経済活動の命運が懸かっていた。 

1956年に起工、当時の関西電力資本金の五倍という金額であり、作業員延べ人数は1000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人を数えた。 
いかにダム建設工事が苦難を極めたかが伺える。 日本を代表するダムは、1963年に完成している。 
ダムの高さ(堤高)は186メートルで日本一を誇り、総貯水容量は約2億トンで北陸地方で屈指の黒部湖を形成する。 

御存じ「黒部の太陽」は1968年公開の映画で、当時世紀の難工事と言われた「黒四ダム」建設のための隧道工事(大町ルート)の苦闘を描いた映画である。 

これによって現在は、「大町ルート」や「立山アルペンルート」が完成し、一大山岳観光地として労せずして多くの人々が黒部峡谷の“大自然”を楽しめるようになった。


次回は、「越中境」




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2018年4月4日水曜日

平成日本紀行(225) 魚津 「蜃気楼」





  平成日本紀行(225) 魚津 「蜃気楼」   .




特色ある海底地形によって“魚色”の多い富山湾で、それを表すような代表的な地名が「魚津」であろう。 その名が示すとおり古来より魚の多種多量の産地ということで、聞き伝えで大勢の人が移ってきて次第に家数も増え、町並みができたと言われる。 
魚津の名、そのものはさほど古いものではなく、小戸・小津と呼ばれていたのを、室町期頃、魚津に改称したと文献にも残るという。 
魚津が、世界に誇る三大奇観として「蜃気楼」、「埋没林」、「ホタルイカ」がある。
 

先ず、蜃気楼について・・、 
蜃気楼は、砂漠や隣国の風景が海の上に浮かんで見えるなどの現象であるが、なんと言っても「富山の蜃気楼」は有名で、テレビや新聞の報道等で知られる。 
蜃気楼は光の“いたずら現象”であることは多少なりとも承知しているが、しかし、実際には、理屈としては判りにくい・・!。
我々は、常時青い空を見、時には虹を見、光の七色の輪を見ることがある、これらは可視光線というらしい。 

光というのはテレビやラジオに使われている電磁波と同じ波の仲間であり、目に見えるものはその内の極一部で可視光線と呼び、赤外線や紫外線など、その殆どは目には見えないものである。
光には分散、回折、屈折、反射、散乱、更に偏光、干渉といった、いろんな性質がある。 

空が青く見えるのは光が強く散乱している状態で、太陽が斜めになって光が弱く、散乱も弱い状態になると赤い夕焼けにみえる。 
虹は雨上がりの空の水滴に太陽の光が当ると、光は屈折・反射を起こし七色に分かれる現象である(太陽、光に背を向ける)。 
又、プリズムやガラス、小さな隙間に光を通すと分散や回折を起こして七色に見える。


さて、蜃気楼であるが、これは大気における光の「屈折現象」であり、大気の密度の違う(温度差)境界線(層)が光の進路を曲げる(屈折)要因になっているという。 
特に富山湾における蜃気楼は「冬の蜃気楼」と「春の蜃気楼」の二種類があるといわれる。

冬の蜃気楼は、大陸育ちの冷たい空気が日本海、富山湾に流れ込み、比較して暖かい海水がこの冷気を暖め、海水の表面に暖層部をつくり、その境界で光が屈折するために起こる現象である。 
春の蜃気楼は冬のに比べると複雑で、地元の調査によると春の暖気が東の日本海からやってきて、この時、白馬岳辺りの高地から親不知の間の山地を吹き降りてくるため、一種のフェーン現象となって更に暖気温を上げ、そこで富山湾の冷海水が上部大気に冷層部をつくり、同様に光の屈折現象を起こさせるという。

冬の蜃気楼は、対岸の景色が、ある線を境に下方に反転して見える所謂、上下対象の風景に見え、又、春の蜃気楼は、対岸の景色が上方に伸びたり反転したりして、所謂、バーコード状に間延びしたように見える風景であるという。 
通称、上位蜃気楼と称して4月から5月、最高気温が18度から25度の場合が多いといわれる。 いずれにしても、富山湾に注ぐ大小の冷たい河川も大いに影響していることは確かである。


次に、埋没林とは・・、
文字どおり“埋もれた林”のことである。 
林が埋もれる原因には、火山の噴火に伴う火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などさまざまなものがあり、埋没した年代もさまざまで、数百年前から数万年前のものまであるという。 

こちら魚津の埋没林は凡そ2,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下になったための現象と考えられている。 
特に埋没林の株は、その森林が生育していた地域全体が地下に密閉されていて、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残存しているため、過去の環境を推定できる手掛かりにもなるという。
尚、ホタルイカについては、前項の「富山」で述べている。



【追記】

2009年、NHKの日曜大河ドラマで「天地人」が放送されている。 
越後の領主・上杉景勝とその重臣である「直江兼続」の戦国期の英雄物語であるが、この物語に「魚津城」が登場した。 即ち「魚津城の戦い」である。 

天正10年(1582年)、柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦いで、激戦の末、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。 
落城の6月3日のこの日、上杉軍の重臣及び側近達が敗戦後、即切腹し自害して果てている。 
だが、落城前日の6月2日に都では「本能寺の変」が勃発、織田信長が明智光秀により討たれる。 
信長の重臣で指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日6月4日であり、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退し、その幸運もあって上杉勢は失地を奪還して再び魚津城に入った。 
この急報があと1日早ければ、上杉軍の守将らの自刃の悲劇は起きなかったとされている。

この時期、光秀と景勝(兼続も・・、)は気脈を通じていたともされる。 
本能寺の変に関する文書で近年注目を集めたものに、明智光秀から上杉景勝と兼続に宛てた文書が発見され、その文書によると光秀自身の心情(信長を討つということ)を綴ったもので、上杉家は本能寺の変を事前に知っていたとも思えるのである。 
「魚津城の戦い」は、本能寺の変に関わる重要なポイントでもあった。
魚津城は現在、魚津市立大町中学校になっていて跡形も無く、校庭の隅に「碑」だけが寂しげに立つのみとのこと。


次回は、「黒部

2018年4月3日火曜日

平成日本紀行(224) 富山 「富山湾」


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平成日本紀行(224) 富山 「富山湾」 .



再び、国道8号線へ出て東へ向かう・・、 
それにしても神通川を横に見ながらであるが、富山平野は大小の河川が多く、それらの河川には、いずれも豊富な水量が流れている。

思えば、今日が本旅行の概ねの最終日であろう(長野白馬まで)、西日本を巡る大略1ヶ月の行程であったが幸いというか殆ど好天に恵まれていて、それだけ雨の日が少なかったと言える。 
山陰地方もそうであったが、特に記憶に残るのが四国地方、とりわけ瀬戸内海に面した地域の各河川は大小いずれも殆ど流水が無くカラカラ状態であった。 
それに比べると、この「富山地方」はナント水の多い地域であろうか。 
尤も、今頃は3千米級のアルプスの融雪時期でもあり、水が豊富なのは当たり前なのだが・・!。


先にも記したが、飛騨西部の白山山系を水源とする庄川、小矢部川によって形成される高岡、射水地区の平野・射水平野はその名も「湧き出ずる水の地」、「水の射ずる地」で射水という名称が古来より命名されていたという。 
この地域を西部とすると、中央部は飛騨山系、立山山系を水源とする神通川、常願寺川下流域の富山市で、狭義の富山平野であろう。 

又、東部地域の剱岳山系を水源とする早月川、片貝川流域は滑川市、魚津市であり、黒部峡谷系を水源とする黒部川流域の黒部市、入善町、これらの地域を新川平野(にいかわへいや)と呼んでいる。 

更に、西部中流域はチューリップ生産で有名な砺波平野(となみへいや)の砺波市・南砺市・小矢部市などであり、これらを一纏めに総称しての「富山平野」としている。これらは何れも富山湾に面して広がる沖積平野を成している。 


富山平野の河川の多くは、背後の急峻な山岳地帯に源を発し、狭い富山平野を一気に貫流し富山湾に注いでいる。 
このため全国でもまれにみる急流河川となっていて、しかも水量も豊富であり、特に今頃は雪解け水なので水温は冷たく、これらの各河川が富山湾に一斉に流れ込むのである。
 

富山湾についても前に述べたが、湾の地形は特徴的であり、海岸沿いには浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込んでおり、海底地形は非常に険しい谷と尾根が多いという。
湾の大部分は水深300m以上にも及び、一番深い部分は1,000mを超える。 富山湾岸の流入河川に近い海底は、今も砂地と玉石が覆い尽くしているという。 

或る潜水夫が確認したところ、やはり急斜面となって深い海底に落ち込んでいるらしい。 
そこで大きな玉石を転がしたところ、そのまま深く転がり落ちていったという。 
そして、驚くべきことにこれらの海底には多数多量の湧き水が確認され、これら湧き水を各種の魚が飲みに来るというのである。 


海水の魚が淡水の湧き水を飲みに来る・・?、 
湧き水の水質を調べたところ、アルプス中流域の河川の水と一致したという。 
アルプスの中位(標高1000m前後)はブナや楢の多くの落葉樹が茂る地域で、これら広葉樹の養分である珪素や窒素、リンといった栄養素を多分に含んだ水が伏流水となって海中に湧き出し、その栄養分を魚達が戴いているのである。

富山平野の扇状地は、北アルプスの土砂が形成したもので、その成分は砂や石が多く、アルプスの急斜面を下ってきた水は各河川に表流水となって富山湾に注いでいる。 
一方、それらの何割かは地下水となって富山湾海中に湧き出しているのである。 
富山湾の海中に涌く水の量は、1年間に数億トンとも言われる。 湧き水の温度は13度と一定しているらしい・・!。


富山湾海底には「海底林」といわれる木の株や根っ子が形を留めて存在することは知られている。 
この根株は榛の木(はんのき)や楢の木で、1万年以上も前にアルプスの造山活動により沈んだものとされる。
これらが腐食しないで現存しているのは、水温13度の冷水が腐食を防止し保存させたものだといわれる。 

これらの栄養豊富な冷水は1000m深くまで沈み込み、この深海では冷水を養分にする“変な生物”も群れを成し、謎の世界を形造っているともいう。 
その内の一種に「オオグチボヤ」という原索動物(ホヤの仲間、ナメクジのように脊椎が無い軟体動物)が群れを成していて、これは世界でも富山湾だけといわれる。

新湊の庄川の沖合い深くに「シロエビ」というのがいる。 
富山県の魚類の一つで「富山湾の宝石」と称され、生きている間は透明で薄いピンクであるが、死ぬと白く変わるのでシロエビの名前がある。 
このシロエビは、富山県内ではなじみの深いエビであるが、富山湾以外ではほとんど捕れない世界的な珍種だという。 
シロエビは体は小さく体長6~7cmで、富山湾特有の「あいがめ」といわれる海底谷の海深100~600mに生息し、漁期は4月1日~11月30日の間で(最盛期は6月~7月)、特殊な底引き網で捕獲する。 


エビは一般的に「大きいほど豪華だが、小さいほど味は美味しい」と言われており、シロエビはその説を裏付けるように、その姿形そのままに透明感を感じさせる独特の味わいがあるという。 
新湊市では、昭和44年に庄川河口沖合2kmの「おぼれ谷」と呼ばれる海面を「シロエビ群遊海域」として文化財にも指定されている。 


又、有名な「ホタルイカ」の大群が見られるのは、日本中でも、ここ滑川地域近くの富山湾に限られているという。 
日中は沖合の200m~400mという深海に棲み、夜間に海面近くの陸近くまで上がってくるのは、産卵や餌生物を追うためといわれている。 

富山湾で毎年3月~5月頃を中心にこのホタルイカの集群が見られるのは、富山湾のすり鉢のような地形と海流、河川の影響(河川の冷水が沈下すると同時に、すり鉢状の底から上に向かって流れる湧昇流:攪拌現象)で、衆群が岸近くまで押しよせるためといわれる。 
体長4~6センチのこの小さなイカは、体中に1000個もの発光器を持ち、青白い光を一斉に放つ。 滑川から魚津の沖合いは世界的にも有名な「ホタルイカ」の生息地で、その群遊海面に漂うホタルイカは特別天然記念物にも指定されている。 

漁で見られる、群れをなしたホタルイカが海面に放つ光は宝石のように美しいく、ホタルのように発光するイカであることから「ホタルイカ」と名付けられ、その発光は、熱をもたない「冷光」と呼ばれ、昆虫のホタルの発光とほぼ同じ仕組みであるという。 

滑川市では漁の模様を見学できる早朝海上遊覧方式による観光船を期間中運行している。又、当市では、珍しい「ホタルイカミュージアム」が竣工している。
 


富山湾は、これら表流水、海中の湧き水によって、水深300mより深い部分には水温1~2度ほどの冷たい日本海固有冷水塊(海洋深層水)があり、冷たい海に住む魚類が棲んでいる。 
また300mより浅い表層部では、暖流である対馬海流が湾内に入ってくるため、ブリなど南の温暖な海の魚類も同時に棲んでいる。 
このため、富山湾には日本海に生息する魚類の半分以上が生息し、獲れる魚の種類が非常に多い。 

その他、海底谷は貝やえびなどの生物の住処であり、加えて多くの河川が森からの栄養を海底に送り込むため、多くの魚が繁殖できる豊かな漁場になる条件がそろっており、ブリやホタルイカを捕獲する定置網漁業が古くから発達している。
富山湾は、海の中まで「アルプス」であり、1000mを越える海溝は今も造山運動で沈み込んでいるという・・!。


次回は、「魚津





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2018年4月2日月曜日

平成日本紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」






平成日本紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」 .





http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-238.jpg
越中・富山城






富山駅の南、国道41号線(飛騨街道)沿いに「富山城址」がある。 
南大手門より本丸南側の堀と石垣を水に映して天守閣が聳え、城内を行くと白壁の新装したであろう城郭が美景である。 
ただ、天守閣・望楼が工事中なのが、やや残念であった。 本来は、五層の大天守閣であったが、現在のものは三層の模擬天守として建てられていて、天守内部は郷土博物館になっているという。

慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主・前田利長(藩祖・利家嫡男)は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。 
寛永16年、三代・前田利常は次男利次に富山10万石を与えて分家させ、廃城と化していた富山城を修復し、寛文元年に入城して富山藩が成立している。 
その利次の次男が二代藩主・前田正甫である。 正甫自身、病弱だったこともあり、薬に興味を持ち、自分でも調合したり、内外の薬の製法を領内に広めさせた、そして富山の売薬の基礎を築いたとされる。 
以後富山・前田氏十三代の居城として明治に至る。 
園内には前田正甫の銅像が建つ。


それより以前の戦国期の天正7年(1579年)、織田信長は佐々成政(さっさなりまさ)を富山54万石封じている。 
成政は、城を改修し城下町の整備を行うが、信長の急死後の後継者争いで反秀吉の立場をとり、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降る。 
天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、肥後熊本へ転封になるが、この間、成政が富山に留まったのは僅か5年程度であった。 
だが、この時期に奇想天外の戦跡、立山黒部の山岳と渓谷を徒歩で越える「さらさら越え」で、佐々成政のその名を残した。


少年期より織田信長の家臣で、柴田勝家の北陸攻略に従軍、越中まで占領が終わるとその功によりそのまま富山城主になる。 
ところが本能寺の変で信長没後、山崎合戦、清洲会議、賤ヶ岳合戦、小牧長久手の戦いと時代の勢いは羽柴秀吉が実権を握り、越中富山は、越後の上杉景勝・越中加賀の前田利家・飛騨の金森長近といった秀吉方の大大名や側近等に囲まれ、身動きが出来ない状態であった。 

賤ヶ岳合戦で柴田勝家が破れた後は三方を囲まれて孤立無援となり、そこで天正12年(1584年)12月、成政は秀吉と対峙していた徳川家康に出兵を促す為、自ら百余名の手勢を率いて家康の居城・浜松城に向かう。 
その道程に立山・黒部渓谷越えを選んだのである。 
果たして足掛け8日で極寒の渓谷を越え、信濃の大町からその後一行は家康との面会を果たすが、家康は既に秀吉と気脈を通じていたため、説得は拒否され失敗に終わるのである、無念なり・・!!成政。


そればかりか、事もあろうに彼は、再び同じ道を引返したのであった。 
その後、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄(のぶかつ、信長の次男)の仲介により降伏した(富山の役)。 
後、秀吉軍門下、九州平定で功をあげたことを契機に肥後国一国を与えられたが、治安の失政により切腹に及んでいる。享年53歳であった。


その北アルプス黒部越えの道は、既に平安期より立山信仰圏で開けていた。 
越中岩峅寺を通り千寿ガ原、そこを流れる常願寺川の河岸から立山温泉、源流部の湯川谷から鷲岳北方のザラ峠(2348m)に到る。 
次に黒部谷の中ノ谷から刈安峠を越えて黒部川の河岸の平小屋へ、黒部川(現、黒部湖南部)を渡り、核心部である針ノ木岳の針ノ木谷、針ノ木峠、籠川谷(日本三大雪渓の一つ・針ノ木大雪渓)を経て扇沢、大町へ到っている。


若い時分より登山経験のある小生ではあるが、このルートを見ると、厳冬期にはよほどの重装備、周到な計画と底知れない体力が必要と認識する。 
当時、魔物・妖怪が棲むとまでいわれていた極寒立山の山岳地帯に踏み入った行動は、多くの人の目には、余りに無謀としか思えなかったのは当然であろう。 

だが、成政一行は、信濃や遠江、尾張地方を担当していた芦峅寺衆徒らの道案内で立山信仰圏ルートを進んだのである。 地形に精通した人々が協力し、天候を判断しながら緻密な計画のもとに決行されたと思われる
。 それにしても昔に人々の底知れない力強さは、現代人から比べれば、到底、及ぶべきもないし、この行動は冬山集団登山の先駆ともいえるだろう。


佐々成政の「さらさら越え」(ザラ峠)ルートは戦国の昔から忍びの道としても使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道として密かに利用していたという。 
この、山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、所々に小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道・越信新道に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。 
しかも我が国初の有料道路とし、その収益で道の維持を図ったとされる。 

だが豪雨や冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は開通からわずか数年の明治15年に廃道となっている。

(注・・最近では佐々成政の峠越に対して異説もあるようだ。 成政が踏破したザラ峠とは、立山ー黒部ー針ノ木越えではなく、同じくザラ(ザレ)と呼ばれていた飛騨・信州を結ぶ「安房越」ではないかという説もある。 確かに地理的にも富山から神岡、平湯で信州峠(安房峠・ザレ峠)を超え、中山道へ出ると浜松までは、ほぼ直線の最短距離であり、ルーととしても安易なようである・・??。 長く信じられてきた通説に疑問を投げかける内容は以降はどうなるか興味津津でもある・・?)


戦国の世、一向宗徒の焼討や上杉勢らの侵略によって越中の民衆と土地は疲弊し、又、常願寺川と神通川の氾濫によって、富山の城下町周辺はそのたび毎に泥海と化し、民衆の生活は悲惨のどん底だったという。 

越中に入国した成政は、このような状況に冬の休戦期間(11月~翌年3月ごろ)を利用して、常願寺川や神通川、いたち川の治水事業に取り組んだという。 
その後、上杉勢や越中の国人衆らを抑え、越中支配を遂げるのである。 

成政は、「民衆の安住と国土の平安」を願い、富山城を当初「安住城」と名付けている。 自分の政治理念を城の名前にまで込め、また自然災害から民衆の生活を守ることに努めた成政の姿勢は、多くの地元民衆に慕われたという。
一方で成政は、お家の内紛により非道を行ったとして、暴虐残忍の暗主のイメージもあったが、実情は、後に越中を治めた前田氏によって作られた捏造であったことが、近年判明している。


現在、テレビ等でもお馴染みの「佐々 淳行」(さっさあつゆき)氏は、日本の危機管理の第一人者といわれる。 
「連合赤軍あさま山荘事件」では、警備幕僚長として監督管理に携わり、昭和61年より初代内閣安全保障室長を務め、昭和天皇「大喪の礼」の警備長を行い、現在は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍している。 
彼は、佐々成政の系譜、子孫に当たるという。


次回は「富山湾



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2018年4月1日日曜日

平成日本紀行(224) 富山 「越中・富山」







平成日本紀行(224) 富山 「越中・富山」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-237.jpg
富山駅前の「薬売り像」






国道8号線から神通川に架かる大橋を渡り、富山市内を目指した。
ノーベル賞の田中耕一氏も富山市出身であり、質素倹約の富山県人のことは先に記したが、県人一般に言えることは勤勉で粘りつよく、合理性を追求する気質が伝統的に生まれ、真面目で向上心も強く、じわじわと立身出世する人が多いという。 

更に、金銭感覚に優れているため、今でも財界人や実業家として活躍する人が多いという。 
中でも富山といえば伝統的に「越中富山の薬売り」が知られている。 

拙宅にも一時置いたことがあり、会社の職場でも預託の薬を利用していたのを覚えている。 家々を回り、一軒ごとに薬箱を置いていき、半年・1年後に使用した分だけ清算するという商法である。 
ひたすら歩き回り、労力、根気の要る仕事だが、固定客を押さえれば何代にもわたって続けられる手堅さがある。 
その成功ぶりを嫉み、「北陸の浪速人」、「越中強盗」などと揶揄したり悪態をつかれた時もあったとか。


このように先に品物を渡しておいて後で料金を回収することを、地元では「先用後利」と称し、このシステム以外にも越中商人ならではの数々のユニークな創意や工夫がなされているという。 

薬を置く家の場所や家族構成、取引内容の履歴、集金状況などはすべて「懸場帳」(かけばちょう)と呼ばれる台帳に記録され、これによって在庫や資産の管理が完璧にでき、予測も出来る、現代風に言えば「顧客データベース」である。 ノーベル賞を受賞した田中氏も、几帳面さと先進的なアイデアを兼ね備えた薬売りの血を受け継いでいるのかもしれない。
これも富山人の気風であろう・・!。


その薬売りの元祖となったのが、富山藩二代藩主・前田正甫(まえだ まさとし)である。
時は元禄3年(1690)江戸城内において、岩城三春の藩主・秋田河内守が俄かの腹痛に苦しむのを見た正甫は、常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、忽ち(たちまち)のうちに痛みが治まったという。 

これを伝え聞いた諸国の大名が「ぜひ拙者の国にも広めてくだされ」と正甫に頼み、そこで正甫は領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布した。 
これにより反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の富山の薬が全国何処へでも売られる基礎を作ったといわれる。 しかも、代金は使用した分だけの後払いにしたという。

このような商売は外国ではまず見られず、売り手と買い手の信用に立った商売で極めて日本的な素晴らしい商売であり、今でも富山の置き薬の伝統は生きている。
尤も、「先用後利」のアイデアは富山には事情先例が有ったらしく、立山信仰の衆徒たちが経衣やお札を一定の宿に預け、時期後に使用分だけ代金を集金したことに発しているともいう。 

元より越中富山は立山信仰の他に、「真宗」の盛んな地でもあり、「薬売り」は御師と呼ばれる宗僧が布教職務を通じて、衆徒や人々に健康に付与することも仏に仕えることであると考えていた。 
配付した護符(神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札、護身符、護摩札、おふだ)や薬の代金は冥加金(みょうがきん)として、時を経た後に徴収していたともいう。 
越中富山は、地元信仰と併せて人々の健康に貢献する為の薬の製造、販売そして集金の方法が下地として有ったのである。



富山駅前には、行李(こうり・若い人には判るかな・・?)を背負う行商・薬売りの像と、行商に土産として貰った紙風船と戯れる子供の銅像が建つ。 
この像にもあるように薬売りの商人は、行く先々で子供達に手土産を持ってゆき、子供はそれを楽しみにしていたらしい。 
現在、大相撲で多数活躍している「モンゴル」で、この「先用後利」の配置薬のシステムが取り入れられ、重宝がられ期待されているともいう。


次回、「越中守・佐々成政



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2018年3月30日金曜日

平成日本紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」






 平成日本紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」  .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-235.jpg
駅前商店街の一角に座る銅製の「高岡大仏」(日本三大仏)




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-236.jpg
市街地を走る万葉線のチンチン電車(・・?)





その高岡はご存知、鋳物工業の発祥の地である。 
駅より1kmの地に金屋町の古風な町屋が並んでいて、高岡の歴史と文化の基点にもなった地域である。
慶長14年(1609年)、加賀藩第2代藩主・前田利長が高岡城を築いた際に、城下の産業発展のために砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師(いもじ)七人衆を高岡に呼び寄せ、鋳造作業場を開業させたことに始まるという。 
利長は鋳物師衆に対して5000坪の領地を与え、税や労役などの諸役を免除する特権を認めるなど手厚く優遇した。 

それ以後、金屋町の鋳物業は大いに繁栄し、高岡鋳物発祥の地として今日の高岡の銅器・アルミ産業の礎となっている。
現在、金屋町では銅器など芸術作品を軒先に配置したり、各所にモニュメントを配置し、観光客と住民の交流の拠点となる「鋳物資料館」も開設されている。 

現在も伝統産業として、梵鐘などの銅器製造(高岡銅器)が盛んで全国的に有名であり、日本三大大仏(奈良東大寺、鎌倉高徳院)の一つ、高岡大仏にも生かされている。 
又、豊富な水を利用した水力発電により、電力が安いことからアルミ製品の生産が発展しアルミ建材の出荷額が多く、三協アルミ、立山アルミの本社もある。


国道160号線は高岡市郊外で国道8号線になり、そこから富山方面に向う。 
高架下を派手な柄の市電と思しき電車がゆったりと走っている、この辺りの「万葉の地」に因んで、その名も「万葉線」というらしい。 
高岡駅前から小矢部川と庄川の間をぬって、河口付近から「新湊」に至っているチンチン電車(路面電車)である。
新湊市は、2005年11月に射水郡小杉町、大門町、下村、大島町が新設合併して「射水市」として新規に発足している。 「

射水」という地名は、奈良時代の「万葉集」の中で既に登場し、古くから書物や地図にその名が記されるなど、長い歴史を持つ由緒ある地名である。 
小矢部川のことを嘗ては「射水川」と称し、神通川・庄川の間に広がる富山平野の北西部に位置する呼称を射水平野ともいう。 
平野に湧き出る清水群を見て、古代の人々はこの地を「出(い)ずる水(みず)の地」と呼び、この言葉から「イミズ」(射水)という土地の名が生まれたともいう。

大きく湊を広げて発展した町を明治以降「新湊」と近代的な名称を付した。 
その後に、歴史ある「射水市」としたことは納得である。 
命名するにあたって、合併協議会での新市名の一般公募の結果「射水市」が大多数を占めたともいう。 
若くしてノーベル賞を生んだ富山県民の良識ある判断に感心する次第である。



余計だが、昨今の合併で新しい地域名、行政名の付与に苦慮している自治体もあり、時折、話題・ニュースとして取り上げられている。 
愛知県で新市の名称に「南セントレア市」というのが話題になったのは周知であるが、小生の住む(神奈川県厚木市)関東周辺地域に限定しても、珍妙にして意味が曖昧な行政名がある。 
わが独断と普見(偏見ではない・・)にて地域の方には申し訳ないが列記してみると・・、山梨県(南アルプス市、甲斐市、甲州市、中央市)、埼玉県(さいたま市・ふじみ野市、ときがわ町)、千葉県(いすみ市、南房総市)、東京都(あきる野市・西東京市)などであります。 幸いと言うか・・?、地元・神奈川県には、あやふやな地位名は無い・・!。


ところで、某テレビ局の番組で拝見したことがあるが、新湊市(当時)にはユニークで楽しい名前が多いという。 
「姓」というのは明治初期、政令で誰もが名乗る事になったが、その際、役場の担当者や地元の有力者、僧侶、神官、勤め先の社長、親方などと相談して決めたというのが一般的である。

専門家によれば、日本の苗字の八割は地名から、それ以外は職業に由来している言う。 
新湊の場合は職業に関する苗字の割合が非常に高く、しかもその立地場所から海や漁業、食品に関するものが多いのが特徴である。これ等の姓名を具体的に何処の誰が付けたかは古文書や資料が残されておらず解らないという。 


主なユニークな姓は次の通りで・・、  
釣さん、魚さん、海老さん、味噌さん、醤油さん、酢さん、糀(こうじ)さん、素麺さん、牛さん、万十さん、菓子さん、米さん、飴さん、風呂さん、桶さん、壁さん、大工さん、綿さん、等々・・、 
いやはや、ご苦労さん・・!!。          


次回は、「富山



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2018年3月26日月曜日

平成日本紀行(222)氷見 「雨晴海岸」







 平成日本紀行(222)氷見 「雨晴海岸」  .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-234.jpg
名所、雨晴海岸



氷見は、万葉集の選者・大伴家持(おおとも の やかもち)が愛した景勝地でもある。
越中国守だった家持は氷見周辺で詠んだ歌を30首以上、万葉集に収めている。 
家持は特に、富山湾越しの立山連峰の絶景を好んだようである。 
富山湾上に浮かぶように聳える立山連峰の景観は氷見市のシンボルで、このような陸から海越しに3,000m級の山々を眺めることができる場所は、この地区、氷見海岸一帯から雨晴海岸(高岡市)にかけてしか確認されないという。 
氷見が万葉の時代から歌枕の地であったのも納得できる。

大伴家持が越中守に任じられ越中国に赴任したのは奈良・天平10年(738)で、帰京するまでの5年間在任していた。 
家持には通常の国守としての任務のほか、東大寺の官業(政府が直接いとなむ営利事業)などの任があり、家持はその任をよく全うしながら、折に触れて歌を詠んだという。 
家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことにある。 
家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位であり、しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首もあり、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっているといわれる。


『 馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 
           清き磯廻(いそま)に 寄する波見に
 』 
(馬を並べてさあ出かけようじゃないか、渋谿(雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために) 万葉集 巻17 3954


『 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波  
           いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ
 』          
(渋谿の崎(雨晴海岸)の荒磯に、寄せる波のように、 なおもしきりに、昔が思われる) 万葉集 巻19  3986

氷見から国道415の海岸沿いを行く、高岡市に入り氷見線の海岸に面した駅に「雨晴駅」がある。 
そこが渚100選、家持が詠んだ「雨晴(あまはらし)海岸」であり、白い砂浜と松林の美しい海岸線が続く。 
ここ雨晴海岸からは、海の向こうに雄大な立山連峰を望むことができ、海の上に3,000m級の山々を望むことができるのは、世界でも3か所だけだそうで、富山県の観光パンフ写真の定番でもある。
「雨晴」というユニークな地名は、義経岩に伝わる源義経一行の雨宿り伝説によるものという。


『 文治三年(1,187年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、海岸沿いの岩(義経雨はらしの岩)の下に家来ともども、雨宿りをした 』
というものである。 


又、「雨晴」は雨のち晴、雨を晴らすという意味で、不幸から幸福へと幸をもたらす、ということで能登の「恋路」や北海道の「幸福」と並んで人気があったとか・・?。
この雨晴海岸の山の手に二上山、「二上山公園」がある。 
ふたつの峰からなる二上山は、月や紅葉の名所として有名で、ゆるやかに山をめぐる全長約8kmの万葉ラインを中心に、万葉の歌碑や像のほかにいろいろな施設があり、四季の景色や展望が楽しめる。 
この地が、万葉の代表的歌人・大伴家持が越中の国守として5年間赴任していたが、この間に二上山に関わる数多くの歌を残している。 
JR高岡駅前に建つ大伴家持像は町のシンボルとなっている。
 

雨晴駅からは氷見線といい国道といい、海に落っこちそうな路線を辿る。 
この海岸際に小さな岩屋があり、「雨晴」の謂れとなった「義経岩」である。 
小さな鳥居の先の岩段の上に祠があった。

国道を更に雨晴トンネルを抜けると(鉄道は海際を走っている・・?)、その名も「越中国分」の駅がある。
この辺りは伏木地区といって、字に如く昔は越中の国府があった地域であり、この地方の政治・文化の中心地であったという。 
小矢部川が富山湾へそそぐ河口に位置する二上山東麓の河岸台地、伏木町古国府の地一帯が越中国庁の跡といわれる。 
その国庁跡に建っているのが勝興寺である。 


現在の境内は約三万三千㎡、中世風の豪壮な伽藍を持つ二十四間の本堂、そして、本堂前に建つ唐門(四脚門)とも国の重要文化財である。 かつての越中国府は、現在の勝興寺境内を中心として200m四方(4万平方米)あったと推定されているという。
高岡市の中心はこれより5kmくらい内陸に入った小矢部川と庄川の扇状地に広がる。


次回は、「高岡


2018年3月25日日曜日

平成日本紀行(222)氷見 「海鮮館」


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平成日本紀行(222)氷見 「海鮮館」 .



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-233.jpg
氷見の港に建つ「海鮮館」




七尾市から国道160号線を富山湾に抜けると波打ち際を延々と走るようになる。  
この氷見市に至るまでの海岸線は素晴しく透明感があり、目を見張る美しさである。 
特に小境海岸の白砂が鮮やかで、海の色香もますます冴えてくる。 
対岸には、未だ白く雪を戴いたアルプスの山並みが見え、富山湾の海の青と対比して絵のようである。 
特に富山湾の海の色は、明るく濃い青色で水彩画の水色を何度も塗り重ねて濃く塗ったようで独特のものがある。 
このことは天気や海底の状態や様々な要因があるのだろうが、もしかするとアルプスから流れ込む清流水の所為(せい)かもしれない。
そして、いつの間にか石川県から富山県に到っていた。


富山県(富山市)出身の「田中耕一」氏がノーベル化学賞を受賞したのは2002年12月で、若干43歳の時であった。 
島津製作所の社員であり、サラリーマンのノーベル賞受賞として日本国内で話題となったのが記憶に新しい。 
氏は、「コツコツ続ける堅実さと、粘り強さは富山の地(ぢ)のおかげ」といっている。 

隣の石川県が百万石の豊かな地であったのに対し、富山は加賀藩の支藩にすぎず、僅か十万石の貧国で、衣は麻か木綿、食は雑穀、酒の代わりに茶を飲むなど倹約を勧め、贅沢を戒めた。田中氏も言っているように、この様な堅実な県民性がノーベル賞という偉大な賞を戴いた一つの要因であろうと想像できるが・・?、無論、本人の人並みはずれた精神があったことは論をまたない。


富山県は近年、耕作地における水田比率は高く、勿論、政府が勧める減反政策に対して、その休耕地比率が極めて少ないともされる。 
中部の砺波地区においては、明治時代から続く異彩のチューリップ栽培が盛んであり、特に、富山湾の漁業の恩恵は国内でも最大級のものがある。 
その漁業の中心が「氷見」であり、美味しい魚が四季を通じて各種の漁が獲れる。 それには独特の理由が有ったのだ・・!。 

3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みからの雪解け水や雨水が、森林を通って河川に流れ込む。 
河川は森林の有機質がプランクトンを培養し、富山湾は絶好の漁場環境なのである。 
更に、富山湾の海底は、水深1000mも深く複雑な地形をなしていて、一気に湾底まで落ち込む斜面を海底谷、所謂、あいがめ(藍瓶)とか、「ふけ」と呼んでいる。 

この谷底に向かって大陸棚からプランクトンを培養する有機質が流れ、格好の漁場となるのである。 
富山湾の中でも氷見沖は最も大陸棚が発達しているため、この「ふけぎわ」が多く存在し、古くから漁業が盛んである。 
今も40数ヶ所もの定置網が設置されており、富山湾は全国的にも好漁場で「天然のいけす」とも呼ばれ、県内随一の漁獲量を誇っていて、その魚の美味しさも一味異なるという。



国道から氷見市内に入って、そのまま海岸通りを行くと洒落た園地が在った。 
港はモダンな造りで、観光船なども停泊している。 
近くに「海鮮館」なる巨大な食のデパートがあり、さすがに魚色豊かな氷見ならではである。 
因みに、氷見の魚のカレンダーは、春(3~5月)はマイワシ、サヨリ、クロダイ、夏(6~8月)はマアジ、トビウオ、クロマグロ、カジキ、マダイ、秋(9~11月)はカマス、シイラ、アオリイカ、ワタリガニ、冬(12~2月)はブリ、カワハギ、スルメイカ、マダラ、フグなどである。 他にも四季を通じて150種類以上もの魚が水揚げされ、初夏の「マグロ」、冬の「寒ブリ」、そして「氷見いわし」は広辞苑にも掲載されるほど有名であるとか。


次回、「雨晴海岸





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2018年3月21日水曜日

平成日本紀行(221)七尾 「七尾城」






平成日本紀行(221)七尾 「七尾城」 .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-231.jpg
草生した七尾城址(本丸への上り口)




能登半島は、無理していうなら鮫の顔に似ている・・!、 
鮫が口を開いて能登島をガブリと銜(くわえる)え込んでいて、その口元から下顎に当たるのが「七尾市」であり、喉仏に相当するのが「和倉温泉」の地域であろう。 
その七尾市へ向った。

七尾市は能登半島の中程に位置し、平成16年(2004年)10月、旧七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町の1市3町が合併し、新生七尾市として新しい一歩を踏み出した。 
この地域は、天然の良港として栄えてきた七尾港を海の玄関口とし、古代より能登の政治・経済・文化の中心地として発展を続けてきた。


鮫の頭部に似た、能登国は小国である。 

律令制によって養老年間、越前国から分立、更に、越中の国との併合と分離の変遷を繰り返している。 
その、越中国に併合されていた時期に越中国守であった「大伴家持」が巡視に訪れた事は先に記したが、この奈良期、能登国守として実際に政務を執ったのが「源順」(みなもとのしたごう)であった。 

源順は嵯峨天皇の直系で平安初期の学者、歌人と若い頃から博学で有名で、20代で辞典『和名類聚抄』を編纂している。 
三十六歌仙の一人にも数えられ、大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』もある。 

尤も、源順が能登守に赴任するのは七十歳の老翁であったという。 
従って、国政としての真新しい実績はあまり無く、博学歌人としても能登においては名歌は残していないという。 

能登の人は、源順については余り記憶の中に無いという。 
又、実際に政務を執ったとされる国庁の跡は未だ発掘されず、源順が編纂した和名抄には「能登国国府在能登郡」とあるので、現在の七尾市古府の総社の近くか、七尾市府中町の辺りとも云われてる。   


次に、西方、高さ300mの山中に「七尾城址」がある。 
室町中期、能登畠山氏(12世紀、源頼朝の重臣・畠山重忠の分家筋)の初代当主・畠山満慶(はたけやま みつのり)が城山に城を築いたのが始まりといわれる。 
城は、尾根を平に削って曲輪(重臣達の居城)を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸など尾根筋に並び、その堅固さは日本の五大山城(謙信の越後・春日山城もその1つ)とも言われた。  
しかし戦国期、さすがの堅城も上杉謙信の侵攻により開城させらる。上杉謙信は七尾城を攻め滅ぼした後、本丸から眺める七尾湾のあまりの素晴らしさに「九月十三夜」という詩を読んだといわれる。

九月十三夜』  陣中作 上杉謙信(1530-1578)

霜軍営満秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷遠征憶


1行:見渡す限り真っ白な霜が、我が陣営いっぱいに満ちて、秋の気配がすがすがしい。
2行:幾列もの雁の群れが空を飛んで行き、真夜中の月が白々と照り映えている。
3行:越後、越中の山々の他に、手中にした能州を併せたこの光景はまことに素晴らしい。
4行:故郷では遠征のことを案じていることだろうが、ままよ、今夜はこの美しい十三夜の月を静かに賞でよう。


その後、謙信から前田利家と城主を変えたが、戦国の世も終わりを遂げつつあるとみた利家は、山城を不便として七尾城を廃城にし、行政府は平地に造った「小丸山城」に移したという。

七尾城の本丸などに見られる石垣は、造成技術が未熟な頃の戦国初期(室町期)に造られたものして貴重なものとされ、又、七尾城は山全体が城とも言える複合城で、その範囲はかなり広く、長期の篭城にも耐えうる性格を持っていたという。

七尾城跡は現在、七尾市によって保存整備計画が進められていて、現在の城跡範囲の追加、拡大と城下町の遺構の範囲までの史跡指定を進めている。 
また、七尾城下町の町並、通路の復元なども視野にいれているという。 
ただ現時点では未だ計画段階に過ぎず、本格的な保存・調査・整備はまだ先であるという。


次回は、富山県・「氷見





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平成日本紀行(221)七尾 「和倉温泉」






  平成日本紀行(221)七尾 「和倉温泉」   .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-229.jpg
最後の宿「フローイント和倉」



http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-230.jpg
部屋にて・・、(小生の素顔です)





能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。 
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。 
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。

早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。 
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。 
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。 
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。 
至福の時である。 

それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。

思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。


目覚めて、更に、朝湯に浸かる。 
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。 
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。 

加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。 
プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。 
温泉が海から湧き出るように。


実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。 
湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。 
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。 

明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。 
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。 
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。


和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。 

一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。 

大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。 
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。 
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。 
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。


江戸期、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来た・・? 
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。 
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。 
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。 
商人(あきんど)の町、大坂の「和倉の湯」は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませたといわれる。 

現在、関西方面の利用客が多いのは、この「樽湯」の伝承が大阪地域には行き渡っているからだろうとも云われる。
和倉温泉駅まで電化されていることもあって、関西の大阪・京都方面、名古屋、新潟(越後湯沢)方面からの直通特急が其々和倉温泉まで運転されている。 
能登の観光と併せて、半島唯一の名温泉・和倉温泉は今でも幅広く利用され、人気がある。


次回、再び「七尾




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2018年3月20日火曜日

平成日本紀行(221)七尾 「能登島」


.「漂泊の旅から、学問が生まれる」   





平成日本紀行(221)七尾 「能登島」 .



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-227.jpg
能登島に架かる農道橋




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-228c.jpg
能登島大橋






能登半島を巡って、穴水町に戻ってきた・・!、 
能登の内浦を更に入りこんだ七尾湾の湾口に能登島という巨大な島が浮かび、波消しブロックを置いたような海域になっている。 この島が七尾湾を北湾、西湾、南湾と三つの湾に分断していて、従って海面は鏡面の様に凪いでいる。 

そんな北湾の北に穴水港があり、周辺海域は更に複雑な入り江を成している。 
海域の穴水は古来より「海の幸」が豊富なところであり、牡蠣、サザエ、白魚(いさざ)などなど、これらの豊富な食材をキャンペーンを兼ねて、四季折々の「食材祭り」というのがあるらしい。 

穴水ではこれを「まいもん祭り」と称し、「まいもん」とは、能登弁で「美味いもの(うまいもの)」という意味だそうで、「穴水まいもんまつり」は、春夏秋冬四季折々の旬の能登の味覚(=まいもん)をお客様に提供しながら、自らも豊かな食材を楽しもうという、何とも羨ましい祭りなのである。 

春の陣、夏の陣、秋の陣、冬の陣の各期間に分け、春はいさざ祭り、夏はさざえ祭り、秋は牛祭り、そして、冬は牡蠣祭りと実に多彩である。 これらは役所自体に「穴水まいもんまつり実行委員会」という組織があって、各々音頭をとって実施しているらしい。 
いやはや、羨ましくも、結構なことです。
  

七尾湾の鏡のような美景を左にながめながら、七尾線が並行して走る国道249を南下する。
目の前に、七尾湾を塞ぐように能登島の大島が迫ってくる。 
島によって隔てられた三方の海を大口瀬戸(湾・北側入り口)によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸(湾・南側入り口)によって七尾市の本州側と対している。 
その三ヶ口瀬戸に架かる中能登農道橋(ツインブリッジのと)を渡る。 
「農道橋」という地味な名称であるが、何の々々、最近開通した実に立派な吊橋である。 
袂(たもと)に園地が有ったので、一服しながらカメラに収めた。


次に、能登島の西岸を進みながら、次に本陸へ戻るため能登島大橋をめざす。 
能登島は二つの橋が架かる以前は湾内の本土の眼前に在りながら、陸の孤島ともいわれてきた・・?、
尤も、孤島ではあるけれど古来より人が住み着き、遺跡によれば縄文期の生活跡が見られるという。 
一時期は伊勢神宮に「食」を納める御厨(みくりや)の栄誉も授かっているらしい。 そうかと思えば、江戸期には加賀藩の流刑地に指定されていて、主に政治犯(思想犯)がこの時代百数十人が流されてきたという。 

その閨(ねや)地区に「閨観音堂」(ねやかんのんどう).という古堂があり、小さな観音堂とほぼ完全な五輪塔が30基、他に10数基の欠けた碑と珠洲焼の骨壷の破片が散在している。 年代は定かでないが江戸期の流人達がこの島で骨を埋め、その祀りの古跡ではないだろうかと想像されているが・・?。

現在、能登島は能登島大橋とツインブリッジのとの二つの橋が揃い、島は観光地化していて水族館やガラス美術館、ゴルフ場、キャンプ場等が人々を寄せている。 


島から渡り返す能登島大橋は、吊り橋構造の農道橋と違って橋脚構造のオープンなコンクリートの橋である。 
橋の中ほどから既に、七尾の「和倉温泉」の賑やかそうな、ホテルや旅館の家並が見えている。 

1kmの橋程を終えれば、ここは既に和倉の温泉地であった。 
十字路を右手に行った、程なくして五階建ての本日の宿舎「フローイント和倉」が在った。 
たぶん、今回この旅程の最後の宿泊地になるであろう・・!。


 次回は、「和倉温泉





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2018年3月18日日曜日

平成日本紀行(220)能都 「石仏山祭」







平成日本紀行(220)能都 「石仏山祭」 .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-226.jpg
写真(資料):3月の残雪の中の「石仏山祭」




国道249は能都町の宇出津(うしつ)辺りから再び海岸に出た。 
能都町は現在、「能登町」に町名が変更になっているようで、能都町、内陸部の柳田村、内浦町とが平成17年3月1日付けで合併し、「能登町」が誕生している。 

能都という地名も意味ありげだが、能登町もこれはこれで結構な町名である。 
北陸の地、能登地方は「お祭り・行事」が多いことは前に記したが、ご多分に漏れず、こちらの町も実に多くの祭があり、ザッと数えても15~16もの大小の祭事が行われている。 

中でも気になったのが「石仏山祭」という祭事・神事である。
穴水町との町界近く、山田川を遡った辺りに柿生神道地区というのがあり、その名が示すとおりの古代神道形式の祭りがあるという。 

近くにはコンモリしたその名も石仏山(潔界山)という山があり、そこに立つ巨石を信仰対象としたお祭で、例年3月1日、2日にかけ例祭が行われるという。 

「田の神」、「山の神」として信仰され、3月1日の宵祭りには祭神が田の神として里へ下り、豊作の予告と必要なエネルギーを人々に与えると伝えられる。 

翌日は、打ち鳴らす太鼓を合図に人々は石仏山へ入り、急な坂道を上ると中腹に前立ちという高さ3m、幅60cmの巨石があり、左右に小さな石が並んでいて、これは大己貴命(大国主)の霊代とされていて、ここが祭場となる。  

特徴的なのが境内において古来社殿を設けたことがなく、賽銭を入れるところもないとする。

それは伝説によると、この神様は特に「自然な清浄」を好み「人工」が嫌いとされ、過去数回社殿を造営したが一夜で潰れたしまったという。 
そのため社殿を設けなくなったと言われている。


石仏山は、潔界山とも言われ今日までも珍しく女人禁制の霊山として、女子14才に達すると境内に入れない不文率がある。 
祭式は、古代の祭祀様式そのままであり、巨石をご神体として祀る石神信仰に基づく古い形態の祀りで、原始神道を今に伝える巨石崇拝の神事なのである。


ところで、この地区よりやや離れてはいるが、九十九湾の近くに「真脇」という地域がある。
ここは縄文期の遺跡が大量に発掘された処であり、遺跡は縄文前期から晩期のものまで途切れることなく遺物・遺構が出土しているという。 

凡そ、4000年もの間この地で人々が継続的に生活していたとされ、遺跡の中でも列柱といわれる天と地をつなぐ縄文のシンボルの様な木柱群などがあり、しかも整然と並ぶその様は時空を超えて我々に何かを語っているという。

現在は公園化され憩いの場所になっているが、いずれにしても能登の地域には縄文期の頃から多くの人が多数住み着いていたことが伺え、当然、石仏山の祭事との関連も有るものとしている。 
これは驚くべき事で縄文時代当時の様式の伝統文化を、そっくり、そのまま現代に継承しているのである。
 


昨今、祭りブームとやらで、祭りの内容も時代と共に華美になり、賑やかになり、派手になって、祭りの果てには傷害や死亡事件まで発生しているところもある。 
それは祭りの本来の意義をすでに逸脱してしまっていて、一種、催事としても見受けられる。 
又、最近では行政主導といわれる「まつり」もあり、住民に連帯感を持たせるとか、大勢の観光客を誘致し、商品の宣伝や観光だけが目的であったりする。 
こなると本来の祭りではなく一種のイベントであろう。 

これはこれで良いと思うが、このように俗化された「まつり」をヨソに、古式に則るというか、縄文時代当時の様式、伝統をそのまま伝承している祭事には改めて驚愕致すのである。 

能登は、これ一つとっても素晴らしいところである。 
イヤ恐れ入りました・・!!。


尚、同公園には「縄文記念館」が併設され、開館したのがH9年9月19日であった。 
これは平成8年9月19日に天皇・皇后両陛下が能都町に、そして真脇遺跡にお越しになられた記念として、その翌年の同日にオープンしたという。 

九十九湾を意識して九の字を並べた訳であろうが・・?、
これはこれで実に結構なことである。


次回は、「能登島




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2018年3月17日土曜日

平成日本紀行(219)内浦 「九十九湾」


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平成日本紀行(219)内浦 「九十九湾」 . 




 http://www.notocho.jp/images/feature/tsukumowan/photo02.jpg
長閑な九十九湾



九十九湾(つくもわん)は、内浦のほぼ中央に位置する代表的リアス式海岸の小湾で、湾の中にも更に数多くの入江があるという意味で九十九湾という名があるという。 
湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


ところで九十九というと、日本周遊を巡りつつある小生にとって、直に房総半島の九十九里浜や長崎・佐世保の九十九島を連想する。 

他に九十九の名が付く地域名や固有の名称が沢山あるようで、橋、曲、峠、山、森、沢、谷、塚・・等、「九十九」とは、概して「たくさんある」とか「大変長い」などを意味するという。 

又、中国では数にはそれぞれ意味があるとされ、九は最高の数を表すともいわれる。 九は漢数字で「久(または玖)」と書き、これは永久、つまり無限大を意味する。 
又、 「九十九」を「つくも」と読むのは・・?、「つくも‐がみ」と言うように、九十九髪、江浦草髪と書き、老女の白髪を云うらしく、伊勢物語の歌に・・、


『  百年(モモトセ)に 一とせ足らぬ 九十九髪(ツクモガミ)
                    我を恋ふらし おもかげに見ゆ
 』

から、ツクモはツグモモ(次百)の約で、百に満たず九十九の意と見ている。 
それを「百」の字に1画足りない「白」の字とし、白髪にたとえたともいう。 

関連して白里、白浜、白潟などは広いとか長いとか大きいを意味し、そして、「白寿」の祝いは「百ひく一」つまり「九十九」の祝いであり、何れも、九十九の意味を示しているものである。
こちらの九十九湾は、これらの意味合いで何を表したものか・・?、
リアス式・溺れ谷の海岸線の総延長でも表したものか・・?、一説だと小さな入江の数が九十九とも云われるが・・?、定かでないがマーいいか・・!。



ここで、九十九に因んでチョットしたクイズ式・数字遊びを・・、
江戸期に詠まれた短歌ですが何と読みますか・・?(答えは頁末)

『 三十十百九 三千百三三四八 一八二 
         四五十二四六 四百八三千七六
 』・・??、

次に見覚えのあるこの読みは・・?、(読み易く覚えやすいよ)

3.141592653589793238462643383279・・』・・?
  

関係するかどうか疑問だが、九の付く数字遊びに中国発祥の「麻雀」がある。 
4人のプレイヤーがテーブルを囲み、1から九までの同種4組のもの3種類と字牌を合わせた136枚の牌(麻雀用品のことを牌・はい、ぱい という)をやり取りして「役を揃えることを数回行い、得点を重ねてゆくゲームで、勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。

小生も若かりし頃よく遊んだが、未だ「九蓮宝燈」(ちゅーれんぽーとー)は達成していない。 
九蓮宝燈は一と九がそれぞれ3つ、二~八まで1つずつが入っていて、つまり、一一一 二三四五六七八 九九九、の形で、麻雀は基本的には14枚で上がりなので、これで、あとの1枚は一~九まで何でもOKで上がりなのである。 

九面待ちはダブル役満だよ・・!!、 
この上がり方は、全ての役上がりで最も美しい上がり方だといわれる・・!。 
エーッ・・、麻雀知らないって・・?、こりゃまた失礼しました・・!!。


数字遊びの答、覚えておいて・・!。
里遠く 道も寂しや 一つ家に 夜毎に白く 霜や満ちなむ
産医師 異国に向こう 産後厄(やく)なく 産婦御社(みやしろ)に 虫散々闇に鳴く


次回は、「能都・石仏山祭




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2018年3月16日金曜日

平成日本紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」


.「東へ行った、西にも行った、やはり、わが家が一番だった」  







平成日本紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」 .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-225.jpg
資料:須須神社の日本一のキリコ




長手の岬からは所謂、能登半島の内側に入り込む内浦湾(富山湾)である。
間もなく「蛸島」という小さな町に入った。 

辿り着いた「のと鉄道」の終点の蛸島駅は、ボロボロで落書きだらけのコンクリートの駅だった。 
田畑に面して細く延びてきたレールが途中で途切れていて、ホームから周囲を見渡せば海側の高台に「弁天公園」という展望台も見られた。 
内浦湾に沿って穴水駅から蛸島までは、直前まで「のと鉄道の七尾線」が結んでいた。 

だが2005年3月限りで全線が廃止されている。
廃線に向けた動きが出てきた頃、存続を求める沿線住民らで市民団体が結成され、激しい廃止反対運動が展開されたらしく、廃線が決定した後も復活に向けて現在も活動中であるという。
しかし、廃止後の代替バスの運行状況も芳しくなく、二社の路線とも利用者が少なく、難渋しているようである。


珠洲の市街に来たようである。 
市街といってもビルが林立するような喧騒の地ではなく、シットリとした緑豊かな、落着いた雰囲気の町並みである。 
しかし、珠洲の町は昔は違ったようだ。 

一説には古代能登文化は此の半島突端の珠洲地区から発祥したとも云われる。  
往時から出雲、佐渡、蝦夷と並ぶ海洋交通の主要地として、弥生期には出雲方面から鉄器文化を導入し、開田の営みも自ら促進していたことが伺えるとされる。

万葉集に・・、

『 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎくれば 
長浜のうらに 月照りにけり
 』


大伴家持(奈良後期の天平時代)が能登国主を兼任した折、当地に来て珠洲湾の景勝を詠んだ有名な句である。 


珠洲市の「スズ」は、須須神社からの由来とされ、祭神が美穂須須見命(ミホ・ススミノミコト)で、そこから地名をとったと考えられてる。 

ミホ=ミ(海とか神霊)、ホ(抜きん出て秀でている様)を指し、ススミ=烽(煙や火ののろしをあげる所)と解釈でき、「珠洲の地は、大海に突き出た地であり、海難等の海を守るため須須神社を奉り、この社にて狼煙を揚げて航海の安全を見守った」とする。 

その他、アイヌ語を語源とするという説も根強く、能登地方にはアイヌ語を語源とする地名が散見されると言われているが、能登はノット(突き出たところ)、珠洲はスズ(先っぽ)で同義語でもある。


珠洲は、日本海へと伸びる能登半島の最先端に位置し、三方を海に囲まれた「伝説とロマンの里」とされる。 
世界に存在する全ての造成物は海に生まれ、そしてやがて土に還る。 

そんな神々の創造を強く感じさせる大自然がそこにあり、珠洲市は神々を祀る、祭りの宝庫ともいわれる。 
祭りの主役はやはり「キリコ」に関係が多いらしく、飯田地区は「飯田燈籠山祭り」(7月20日・21日)、日本一の大提灯を囲む「ちょんがりまつり」(8月6日)、「宝立七夕キリコまつり」(宝立町・8月7日)、日本一の大キリコが登場する「寺家の秋祭り」(三崎町寺家・10月第1土曜日)、「奴振り」(正院町正院:9月15日)、「早船狂言」(蛸島町・9月11日:県指定無形民俗文化財)、と珠洲市内だけでもこれだけある。 

能登地方(口能登、中能登、奥能登)においても、春夏秋冬合わせると、何と100以上もの祭り行事が存在するという。 
これはもう、この地方は年柄年中お祭りのようなものあり、能登地方の豊かな生活基盤、深い歴史観が存在すことが見て取れる。


鵜飼地区から内陸へ入ってしまったが、この先の海岸沖に見附島というのがあり、別名「軍艦島」ともいう。 
30mの高さの船縁(ふなべり)をもつ巨大戦艦が、こちらに向ってやって来るようであるという。

武骨な厳(いかめしい)しい名称の軍艦島に対して、こちらの海岸線は何ともロマンチックな「恋路海岸」と称している。 
地名に恋路とつけるあたりは、シャイな能登人の感覚が知れるが、確か伊豆半島のアッチの方にも「恋人岬」と言う地名が在ったようだ。

七尾線が走っていた頃は「恋路」(こいじ)という、艶かしい駅名も在ったらしく、若い女性には人気の的だったという。 
思えば、北海道の内陸地方にも「愛国駅」とか「幸福駅」があって、全国的なブームを巻き起こして有名になった駅があったが、こちらも当の昔に廃止になっている。 
ただ、今だに各駅前売店ではキップが販売されているという。 
こちらの「恋路駅」はどうなんだろうか・・?。


この先、国道249号線の沿岸に「九十九湾」という景勝地がある。 
能登の海というと半島を東西に分けた海、外浦と内浦に囲まれていることは言をまたないが、この様相たるや全く異なるのである。 
冬の季節風がモロに吹きつける外海、能登金剛に代表される荒々しい景観が売りであるが、内浦は恋路海岸の如く穏やかで、優しいイメージの様である。 

その内浦のほぼ中央に位置する九十九湾(つくもわん)は、更に深く入り組んだ入江となっていて、湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


次回、「九十九湾


01. 15.

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