google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 12月 2017

2017年12月26日火曜日

平成日本紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」




「さすらいと変化を愛するものは生ある者である。」by(ワグナー)   





 平成日本紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」  .






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Chirihama_nagisa_driveway.jpg/1024px-Chirihama_nagisa_driveway.jpg


 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-203.jpg
羽咋市の「千里浜なぎさドライブウェイ」



金沢市を後にえしt能登を目指す。

能登入り口にあたる海岸線の「能登有料道路」を目指す。
北陸道を横切り、県道60にて海の端・栗橋(内灘町)のインターから高速道へ乗った。 
いきなり日本海が目に飛び込んでくる。 
ここからしばらくの間、左手に海を観ながらのクルージングロードとなる。


能登ハイウェイは、金沢から内灘町、そして穴水まで全長83kmを結ぶ能登半島の大動脈であり、内灘から柳田あたりまでは海岸線を、柳田から終点の穴水までは内陸部を走ることになる。 
能登一周するのであれば柳田ICで下りてR249を北上するのがベターのようである、とりあえずその柳田を目指す。


海岸線は比較的多くのインターが設けてあるようで、その中の高松町に「道の駅 高松」があった、高松S・Aでもある。 
有料道路の北向き(能登方面行き)と南向き(金沢方面行き)と別々に道の駅があるようだが、 断然お勧めなのは能登方面行きの駅の海側だろう。 

金沢方面行きが山側に位置するので眺めの良さが全然違うのである。 
こちらの駅からはすぐ海岸に降りれるようになっていて、足下にはすぐに白い砂浜が広がっている。  

もともと能登有料道路上の「高松SA」として造られ、その後「道の駅」と認定されたため、上り線と下り線の2ヶ所に「道の駅 高松」があるというチョット変わった道の駅になっている。 
「道の駅・高松」は能登有料道路からはもちろん、一般道からも利用することができるようである。 つまり、ハイウェイではS・Aであり、一般道は道の駅なのである。


落ち着いた和風ムードのレストハウスで、日本海を一望しながら時間的にはやや早いが、軽い昼食を摂る。 
一服して再び走り出すと間もなく今浜というところを通過する。 

この地は、先般、家族で北陸旅行した際に、最も印象に残った箇所で千里浜という海岸線である。
羽咋市域南部か今浜辺りは千里浜といって「千里浜なぎさドライブウェー」で有名なのである。 

家族を乗せたワンボックスカーが、道路でない波打ち際の砂浜を、否、波打ち際の砂浜の道路を走り抜けるのに、子供たちがキャーキャー言いながら感嘆してたのを覚えている。 

海岸およそ8kmの渚のドライブウェーは、車が通れる砂浜として全国的にも知られていて、それは、他の海岸の砂の粒径は1mmから0.5mmほどだが、千里浜の砂は細粒で4分の1mmほどしかないらしい。 
それに海水がしみこんで固い砂浜を作りあげ、波打ち際を自転車からバスまでも走ることができるのである。 

この道路は、れっきとした国道249号線の海岸道路なのである。 
ただここで、バイクの人は注意が必要であろう。 

千里浜の出入り口付近は砂の水分が少なくフワフワしており、タイヤを取られる恐れがあるという。 
そのうえ砂の上なのでさすがにスタンドが立ちにくく、あらかじめ板状の物を持っていく必要があると思う。 
又、渚ではバイク、車共に潮が付くのでドライブウエイから出たらスグ洗車を要するであろう。 
バイクの場合は特にエンジンむき出しだしのため、チェーンに砂が絡みつくので必ず洗車した方がいい。
 

千里浜の北側では毎年7月中頃、羽咋市主催の恒例行事「千里浜なぎさフェスタ」が開催され、この砂浜を利用した「砂の像」やその他の催しが行われる。 
周囲の砂丘で見られるクロマツの林は、飛砂防止のために江戸時代に植林されたものであり、砂浜には、ハマナスやハマヒルガオなどの海浜植物も見られる。 
遠浅の海は、潮干狩りや海水浴場としても賑やかであるとか・・!。


次回は、「気多大社



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2017年12月24日日曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「金沢の茶屋街」


.「この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが帰りはない」   <吉川 英治>





 平成日本紀行(211) 金沢 「金沢の茶屋街」   、




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-202a.jpg
東茶屋街の豪奢な一角





兼六園、金沢城址の北方、浅野川の辺に「ひがし茶屋街」があった。 
石畳の路地に、古い佇まいの町屋が並ぶ、何とも雰囲気のある通りである。 

今はまだ、お天とう様が真上にある時間帯なので、そこはシーンと静まり返っているが、夕闇とともに格子のある家々から行灯の灯が灯り、立ち並ぶ間からは三味や太鼓、笛などの音が聞こえてくる。 

金沢市は京都同様、戦時に空襲の被害を受けていない希少な都市であり、随所に城下町時代の古い姿を残し、訪れる人が絶えないという。 
金沢城を中心に渦巻状に城下町が形成され、南北に北国街道が通過し、その市中に浅野川と犀川が流れている。 
その東岸の東山地区には数箇所に分かれて残存する茶屋街が在り、その中でも最大規模と言われるのが「東茶屋街」であり、近年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されている。


文政3(1820)年に金沢城の東の廓として設置されて以来、この界隈には町人、文化人たちの集う場となり、遊興の場であった。 
石畳通りの一本道は混じり気のない全くの茶屋建築で統一されていて、当時、町人たちは二階建築が禁止されていた中で、特別に許可されていたため総二階で統一された美観と迫力がある。 

比すれば京都・祇園や飛騨・高山の古い町並み(三之町)を想起させる風情でもある。 
特に裏路地に入るとかつての茶屋街は江戸期のそのままの風情を味わえるという。


御茶屋として現在は8軒が実際に営業しているらしい。 
京の祇園や先斗町(ぽんとちょう)の如く、やはり 、一見さん(いちげんさん)はお断りだとされ、これは京都の町屋の商法・・?と合い通じるのである。 

一見さんとは、お馴染みさん・ご贔屓(ひいき)さんと言われる顧客を大事にし、大切な時間を割いて来てもらったお客に楽しい一時を過ごしてもらうよう最大限の努力をする。 
そして、細くても永い付き合いをする為の茶屋独特の接客法で、無論、支払いの仕方も特別にあるいう。


現在、金沢市内の三箇所の茶屋街には芸妓は50名、その内、この東茶屋街では20名いるそうで、年齢は20代初めから70代後半の年増さんも居るようである。  
芸妓は、芸を売るので只年齢が若ければいいと言うものでもなく、やはり芸がしっかりしていることが大切で、芸妓の仕事はお酌をし踊り、三味線、笛、太鼓などを鳴らし、飽くまで客を楽しませるのである。

席料は「一席二本」といい、一本は45分、これは線香の燃え尽きる時間だそうで、普通一席は13万から15万が相場といい、人数に関係なく時間の値段であり、大勢で割り勘をすれば結構お安い・・?とも言える。

京では、店によっては店に入る時「お帰りやす」と迎えてくれて、店を出る時「いっといやす」て云って見送ってくれるという。 
まるで我が家の様な持成し(もてなし)であるが、此方(こちら)の金沢の方は如何であろうか・・?。


すぐ近くに金沢が生んだ文豪・泉鏡花の生家跡があり、平成11年に記念館として開館し、遺品の数々を展示しているという。 
全く人気のない寂とした東茶屋町風情を、数枚の写真に捉えて後にした。


次回は「能登


2017年12月23日土曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「金沢城」







 平成日本紀行(211) 金沢 「金沢城」   .




https://kanazawa-tourism.net/wp-content/uploads/2017/12/to-kenrokuen13.jpg



https://www.gnavi.co.jp/sightseeing/ishikawa/public/images/spots/93/6425/l.jpg
金沢城と兼六園を結ぶ石川橋と金沢城公園



兼六園に隣接して「金沢城公園」がある。

主要道を跨いだ貫禄のある立派な橋・石川橋が両所を結んでいる。 
その向こうには石川門があり、左右に二つの楼閣が見えている。 

この貫禄ある橋脚の下には広大な「百間堀」というのがあり、城を取り巻いていた。百間堀は、一向一揆の尾山御坊(後の金沢城)を攻め落とした佐久間盛政が、その跡に今の金沢城を築城する際に掘らせたものだという。 
工事に駆り集められたのは、皮肉にも元の主たちである、あの一向宗の門徒達であったという。


この辺りは金沢市の中心部に位置する所でもあり、百間堀は、明治末期に埋め立てられて道路になり、市電が走るメーンストリートになった。 
道路となった百間堀通り(百万石通り)では、加賀の藩祖・前田利家が金沢城入城を記念して行われる「加賀百万石祭り」の主要会場であり、行列や木遣りの催事が行われる。そして、隣接する兼六園は、祭りの間は無料開放されるという。


1546年、前身となる空堀や柵などを備えた城作りの寺院・尾山御坊(金沢御堂)が建設され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得、本願寺の拠点となったことは先に記した。

1580年 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、そのまま尾山城と改称して用いたが、後の賤ヶ岳の戦いの際、主君・柴田勝家が敗れたのと同時に没落し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が天正11年に入城し、改築城している。 

加賀の前田氏は「加賀百万石」といわれ、江戸時代の大名の中で最大の石高を持つ大大名である。2番目の薩摩の島津氏が77万、3番目の仙台の伊達氏が62万というから、120万石をもつ前田氏は如何にダントツであったかが判る。


慶長4年、利家が没し家督を受けた利長は、豊臣家・五大老の一人であり、更に、この時の利長は豊臣秀頼の傅役(もりやく)でもあった。 
利長同様、五大老の一人であるが、内心、天下を狙う徳川家康が最も警戒したのが豊臣家と併せて利長(前田家)であり、家康にとっては厄介な存在であった。 

家康はこの厄介者を潰そうと難題をかけてくるが、それに対して利長は弱そうな振りをして何気なくも、鮮やかに難題をかわしている。 
謀反の疑いをかけられても、母親(まつ)を江戸に証人・人質として出し忠誠を示している。 一方で、利長の弟・利常と珠姫(徳川秀忠の娘、家康の孫。)の婚姻関係を約し、自ら隠居して利常に家督を譲った時には、豊臣色の濃かったはずの前田氏は徳川色に染まり、三代家光が将軍になる頃には前田氏と徳川氏は外様にしては異例の良好な関係になっていた。


「戦」という強硬手段を用いず、徐々に豊臣氏を離れ徳川氏に接近、その地味にして先見の目と緻密な利長の行動の結果が、前田家が幕末まで存続させることにつながってゆく。 

徳川・藩政時代は、各藩では家督問題等で内紛が発生した場合は即刻、縮小されるか廃藩に追い込まれる中で、加賀百万石が近世にまで温存したのは、前田氏の藩祖、及び利長の緻密な思惑を踏襲したに他ならない。


徳川家の珠姫が輿入れした時には、徳川家からは数百人の家来が付き添ってきたという。
その多くが、今の石川門正面の兼六園入り口付近に住み付き、その名も「江戸町」と呼ばれる屋敷街を形成していた。 

珠姫が24歳で亡くなった後、付人、家来たちの多くは江戸に帰り町屋は消滅したが、近年の発掘でその住居跡も確認されている。 

百間堀の中には、白鳥堀や蓮池堀といった、「江戸風」の趣を取り入れた御堀端があったとされ、徳川家康の孫・二代将軍秀忠の娘「珠姫」の威光は加賀の地で大きく執り成し、前田家の徳川への義理・忠臣が伺える。 

江戸生まれの姫さまをお慰めする理由で加賀の地に「江戸の風」を吹かせ、「二つの堀が江戸城と同じ配置で並んでいて、金沢に成立した江戸町の風情」を保ったという諸事は、加賀百万石にとって少なからず好影響を与えていたことは確かである。


次回は、「金沢の茶屋街



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2017年12月22日金曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「兼六園」



「世界は一冊の本だ。旅をしないものはその本を一頁しか読めないだろう。」
アウグスティヌス(古代キリスト教世界で最大の教父、神学者と言われる) 





平成日本紀行(211) 金沢 「兼六園」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-199.jpg
兼六園(入場口付近)と徽軫灯篭と黄門石橋




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-200.jpg
兼六園の灯篭と石橋



見れば、右手に広大な「小松空港」が横たわっていた。

走り出して間もなく梯川の橋を渡る。 
ここから先の北陸道はまるで海上の上を走るが如く一気に走り抜き、金沢西I・Cで下りて金沢市内へ向かった。  

県道25号、通称、西インター大通りから市内中心部、北陸本線を超えて名所「兼六園」へ達した。 
緑豊かな、やや勾配の道の上に入園口がある。
小生、何度か訪れているので入園はせずここまでで、記念の写真に収めるのみとした。


兼六園は、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる「雪吊」は冬の風物詩として情緒を添える。 

又、霞ヶ池の湖畔には、琴に見立てて徽軫灯籠(ことじとうろう)というのが据えられていて、園内でも有名スポットであり池に映える姿は優雅で美しい。 

徽軫(ことじ・琴柱)とは、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱に似ているため、その名が付いたと言われている。 
又、この灯籠の架台は、虹のような形の橋に支えられているため虹橋ともいい、琴橋という別名もある。 
徽軫灯籠は、水面を照らすための雪見灯籠が芸美に変化したものであり、兼六園を代表する景観となっている。


兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残されている。
岡山県の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三代名園の一つに数えられていることは周知である。 

兼六とは、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりき)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼ね備えた庭ということで、その名が付けられたという。 

園内には、池を渡る石橋や築山を巡って曲水や池、滝などが配され、随所に縮景という作庭手法が用いられている。 

例えば霞ヶ池は琵琶湖を模じったともいい、霞ヶ池と瓢池の間にある「黄門橋」(黄門と言えば水戸黄門が有名であるが、加賀三代目・前田利常も加賀の黄門様と言われた)と「獅子厳」は謡曲・「石橋」を表現しているという。


謡曲「石橋」は、能の中で最も勇壮にして豪華な演目であるという・・!、
文殊菩薩(知恵を授ける仏尊)の乗り物の霊獣・獅子を表すことにより、(文殊)浄土を象徴しているとされる。

『 平安の歌人・大江 定基(おおえさだもと) は出家して寂昭(じゃくしょう)法師と号し、唐・天竺へと渡り、清涼山へと至った。 目も眩むような深い谷には幅の細い石の橋が懸かり、渡ろうとしていると童子が現れ、「この橋は人間の渡れるものではない・・、」と諭し、「向側は文殊菩薩の浄土である。ここで待てば、やがて奇瑞(目出度いことの前兆として現れる不思議な現象)が現れるであろう。」と告げて消え失せる。 しばらくすると橋の上に獅子が現れ、国土安穏を祈念しながら、咲き乱れた牡丹の間を舞い戯れる。』  


牡丹は百花の女王、獅子は百獣の王、この最強にして最上の組み合わせは、古代、高貴な身分の人が御印として使ったものであるとされた。 
一般に、歌舞伎における「獅子物」と「道成寺物」の両舞踊は、相並んでの女形舞踊の二大ジャンルといわれ、獅子物舞踊はその発想を謡曲「石橋」に発しているという。


次回、「金沢城




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2017年12月18日月曜日

平成日本紀行(210) 小松 「安宅の関」



「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ>  





 平成日本紀行(210) 小松 「安宅の関」  .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-198.jpg
写真:安宅関の銅像
弁慶(中央)・富樫(右)・義経(左)の各像、石碑に刻まれた「智・仁・勇」の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気を表現している言葉





北潟湖の南端は既に加賀・金沢であった。
そして、北陸道の加賀I・Cがすぐ近くにあり、これに乗って金沢まで行くことにした。 

途中、「安宅PA」で休憩、ここがまた珍しくトイレ以外何にも無い、売店も無ければ自販機も、ベンチも無い、無い無いずくしでこれはこれでよかったが。 
ただ、意外なことに、トイレがとても管理の行き届いて綺麗なので、「おー!」という感じであった。


何も無い安宅のPAであるが、この地安宅は「安宅の関」で有名なところである。 
石川県小松市安宅町、日本海に注ぐ梯川(かけはしがわ)の左岸の丘、ここは美しい松原で「安宅関跡」の碑が建ち、そのほか安宅・住吉神社、神社の参道に弁慶逆植松、弁慶・富樫問答の像などがあるという。 


弁慶(中央)・富樫(右)の銅像は、七代目松本幸四郎・二代目市川左団次をモデルとし、左端は義経像である。 
石碑に刻まれた智・仁・勇の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気であり、わが国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉ともいう。


日本海の海の色は、太平洋と違って濃い紺青色で、松の緑と対照的に美しい。 
この「安宅の関」(あたかのせき)は、古来、梯川の上流にある北陸路の通行を監視する、重要な役目を持っていたという。 
その関は、加賀安宅に加賀の守護・富樫氏が設けたと言われる関所であり、歌舞伎の「勧進帳」で有名になった箇所でもある。


『 源平・壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は生来の猜疑心から、これを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしていた。 頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設け、当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家が任に当たっていた。 そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかる。 一行の山伏姿を関守・冨樫に疑われると、弁慶は、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧である称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとした。 しかし、荷人夫姿の義経に疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主君・義経を打ち据える。 冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのであった。 』
 

ここまでは、後年、歌舞伎や物語になったのであるが、以前は義経の西国落ちの道程を扱った「船弁慶」という猿楽(能楽の原型)や能になって演じられたのが始めであると言われる。 

又、能以外にも幸若(幸若舞のこと、室町後期の芸能の一つ、広義の曲舞の一種で、武士の世界を素材とした物語を謡うのを特色とする)の富樫軍記物や「義経記」などの諸要素を取り入れて成立したともいう。

安宅(あたか)能楽は、観世小次郎信光(室町期の能作者)の作とされ、曲名の四番目の出し物である。 義経追補のために設けられた新関を富樫(ワキ)が守護している。 弁慶(シテ)は、義経(子方)を荷人夫姿につくりあげ山伏の一行として新関にかかると、富樫はこれを怪しみとどめる。 一行は覚悟を決め、山伏の勤行を始めるが、勧進帳の聴聞を求められた弁慶は、これを高らかに読み上げる。 疑いも晴れ、関を通ろうとするとき、変装した義経を見出し供の郎党(ツレ)は詮議するが、弁慶の知略で事なきをえる。 安堵する主従の元へ、先度の非礼をわびる富樫から御酒が届けられ、弁慶は一差し舞って喜ぶ(男舞)。 以上のように劇的構成をもつ現代物で、後に歌舞伎に入って「勧進帳」となった。

『 それ、つらうらおもんみれ~ば  大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき・・』

勧進帳を諳(そら)んじてた弁慶は、怪力無頼の強僧でありながら、学識、知恵のある智僧でもあった。

次回は、「金沢




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/





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「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




2017年12月16日土曜日

平成日本紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」



「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」
(スティーブンソン;イギリスの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイスト)  






 平成日本紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」  .




ここで法然、親鸞、蓮如たちの浄土宗とじ浄土真宗の流れについて・・、 

本願寺とは今の西本願寺の事であって、浄土宗の流れを汲む宗門である。 
その浄土宗は、平安末期から鎌倉初期にかけて日本の高僧である「法然」(ほうねん:1133年~1212年)によって開かれた教義であり、後年、円光大師とも言われた。 
法然は比叡山・天台宗の堂僧となり、その教えを学んだ後、それを新しく展開し、教示したのが「浄土宗」であった。


法然の門下生であった「親鸞」は、法然の死後、自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、更に高めて行くことに力を注ぐためとして「浄土真宗」を起こした。 

親鸞(しんらん、1173年~1262年)は見真大師(けんしんだいし)ともいい、各地で布教活動をするが、35歳の頃、国の権威者から専修念仏禁止(真宗派による予想外の布教成果に嫉妬した奈良・興福寺やと比叡山の仏僧たちによって反旧仏教者と見なされた)の弾圧を受け、それが為、越後国府へと流罪となり、赦免まで5年間を要した。 

親鸞自身は「僧に非ず俗に非ず」という生活を送っていたが、後に、常陸国(茨城県)へと旅立ち、「教行信証」(浄土真宗の教書)など著して「浄土真宗」(一向宗、門徒宗とも通称される)を開く。 

弘長2年(1262年)、京で90歳で没する。 親鸞聖人の墓所として建てられたのが京・知恩院の近くの大谷の本願寺であり、浄土真宗本願寺派の一派とし本山とした。


時代は下って、室町中期の1457年、「蓮如」は第八代・本願寺門主となった。 
当時の本願寺は衰亡の極みにあり、宗派の中心寺院としての格を失い、「青蓮院」(最澄が開基した天台宗寺院:三千院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされている)の一末寺に転落していた。 

1465年、大谷本願寺は比叡山の僧兵によって破却され、結果、京都から近江に難を避けた蓮如は越前吉崎に移った。 
この頃、社会そのものが衰退していた時期でもあったが、徐々に民衆が力を得て進展し、農村の生産力の増大とともに旧荘園領主の没落で、農民の地位は次第に向上していった。

蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な伝道を開始した。 
蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は近畿から東海、越前、加賀地方に広がった。 

蓮如は親鸞以来の血脈を根拠として北陸の浄土系諸門を次々と統合し、本願寺は爆発的に発展し、「一向宗」とも呼ばれるようになった。 
 

教団の拡大に伴い、1473年には加賀の統治者・富樫氏(とがしし:富樫庄・石川県金沢市 を本拠とする豪族であった)の要請を受けて、守護家の内紛、政事にまで介入するようにる。 
以後、加賀には国主の代理として一門衆が在住するようになり、次第に国人層(役人)に代わって本願寺による加賀支配が行われるようになった。 

1546年には尾山御坊(金沢御堂、後の金沢城)が建立され、越前、加賀は百姓、門徒宗の支配する地域になっていった。 

又、ここを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させて行くのである。 
一向門徒宗は1560年代には越前・朝倉氏と、1570年代前半は越後、加賀の上杉氏と、その後は織田信長とそれぞれ対立し、朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたともいう(九頭竜川会戦)。 

一般に、加賀の一向一揆とは、1488年頃から1580年にかけて、加賀国の本願寺門徒らが中心となって行った一向一揆のことを指している。
 

戦国期、信長は1496年、石山本願寺(蓮如のときに摂津国石山・現大阪市中央区に建てられ、後に浄土真宗の大本山となった寺院)を降伏させ、尾山御坊は信長重臣・佐久間信盛によって陥落させられ僧・民集団の一揆は解体された。 

関ヶ原戦後の江戸開幕時、徳川家康は本願寺のすぐ東(六条烏丸)の土地を「教如」(石山本願寺の第12代門主)に与え、最大の宗教勢力であった本願寺の勢力分散をはかった。 
これにより本願寺は、西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)と東本願寺(現在の真宗大谷派・真宗本廟・)とに分裂することになった。 
東西本願寺は、この時点から現在まで存続している。


次回は、「小松・安宅



2017年12月13日水曜日

平成日本紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」






平成日本紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」   .






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北潟湖と蓮如上人記念館略図(資料)







再び国道305から芦原へ出て、金沢方面を目指す。 
北潟湖」という湖畔を右に見ながら暫く走るようになる。 

湖畔は葦の茂る静かな湖で、さして深さも感じられず、所々で釣り人が糸を垂れている。 
広い湖のわりには比較的で身近な沼のような雰囲気をもっている、こんな湖はきっと魚影も豊
富なのだろうと勝手に想像してしまう。 


北潟湖は南北に長い湖(正確には南西から北東)で、北側の先端部は大聖寺川と合流して日本海に繋がっている。 
北部では汽水湖(海水と河水とのチャンポン)の状態であるが、南部ほど真水であるという珍しい湖であり、そのため確かに魚の種類は多いという。 
中には1m以上もある草魚を釣り上げた人もいるとか・・ギョッ(魚)!。


湖のほぼ南端の細くくびれたところの橋を渡ったところ、ここ吉崎地区に「蓮如上人記念館」というのが在った。 
湖の畔にある大きな施設であり、蓮如上人(れんにょしょうにん)の足跡や付近の歴史が分かる資料館で蓮如館、民話館、自然館の三館からなっているようだ。 

資料館である「鳳凰閣」は蓮如上人に因んだものであろう、寺院を模した堂々たる建物である。 
ただ、見学料は各施設込み込みで2000円というのはチト高く、時間のことも考慮して入場は遠慮した。



蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧で、本願寺中興の祖といわれる。 
時に、本願寺蓮如とも呼ばれる。 

浄土真宗を起こした親鸞の直系とはいえ、蓮如が生まれた時期の本願寺は、他宗や浄土真宗他派に対し、衰退の極みにあった。 
その本願寺を中興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた高僧であった。 

明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師(えとうだいし)の諡号(しごう、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る)を追贈されている。 
蓮如は五十歳前後に、ここ越前吉崎に来て坊舎を建て、数種の教文を刊行するなど、独創的な教示を展開しながら、凡そ、四年間滞在していたという。 

蓮如は本願寺・第八世の門主でもあった。 


次回は、「高僧と浄土宗派


2017年12月12日火曜日

平成日本紀行(208)三国 「東尋坊」






     平成日本紀行(208)三国 「東尋坊」






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東寿坊お絶壁


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東寿坊




芦原から三国の、あの「東尋坊」までは一投足であった・・、

案内に従って進み、道路側帯が松の緑の覆われている間をぬって行くと、お土産屋や宿舎のある賑やかな一角へ出る。 東尋坊岬であった。 

観光看板に荒磯遊歩道とあり、そこの岩盤の上をソロリソロリと行く、間もなく絶壁の端へ立って下を見下ろすと、全身ザワザワとして、下のほうがキーンとなって緊張感に震える。 
高さ50mにも及ぶ断崖絶壁は約1kmも続き、絶壁には日本海の荒波が打ち寄せる、実に豪快であり、周囲は迫力ある眺望が展開する。


東尋坊は、安山岩(火山岩)とかいう岩塊の柱状節理(マグマが冷却固結する時に生ずる柱状の割れ目、多く岩脈・岩床・溶岩などに生ずる)、地質学的にも貴重で日本ではここ一ヶ所のみ、世界でも韓国の金剛山、ノルウェーの西海岸とあわせて三ヶ所しかないという。 
冬になると、季節風による日本海特有の烈風が吹きすさび、波濤のちぎられた波屑が泡となって岩礁の間にたまり、再び風に舞い上がる「波の花」が見られるという。 ふわふわ飛ぶ姿はまるでシャボン玉のようで、この模様は冬の東尋坊のお薦めだという。

日本海に面して衝立する一大観光名所・国定公園「東尋坊」にはもう一つの顔があるという。 
実は、ここは自殺の名所でもある。 

平成13年の統計によると、30人が投身自殺し、保護された人は62人にのぼるという。 
自殺決行者は、綿密に場所、天候を選択するそうで、豪雪や台風時には人は死なないといい、快晴の日は危ないという。 
尤も、福井地方は「弁当を忘れても、傘を忘れるな」という言い伝えがあるほどの多雨地域でもある。


小浜署の、あるベテラン刑事に忘れられない体験があった・・、

昭和53年7月初の快晴の白昼、男性2人が署内に駆け込んできた。 挙式を控えたカップルが七夕の夜、小浜市の海岸のレストランを出た後「行方不明になっている・・」という急報であった。  
二人は地村 保さんと浜本雄幸さんで、不明者は息子の保志さんと娘の富貴恵さんであった。 
刑事は「ただ事ではない」と緊張して聞きいった。 

「何かのトラブルに巻き込まれたか・・?」

スワッ・・!とばかり、小浜署や福井県警、その他の関係者達は東尋坊の海さらい、近辺の山狩りなどを続けたが手がかりは無かった。
その後も両親たちは長期間あきらめる事なく、新潟から島根に至るまで足を延ばし、情報を集め、探索を続けたという。 


後年、北朝鮮による拉致事件と判明した・・!!。

刑事は、改めて命の重さ、それに拘る(かかわる・こだわる)ことの大切さを学んだという。
その地村さん、浜本さん(ご夫婦)は、過ぐる日、家族と共に北朝鮮から幾星霜ぶりに帰国した。しかし、 北朝鮮による拉致事件は、未だ、未解決のままである。 
平和ボケ日本、ひ弱な日本の国情が、ここにも一つ在る。


ともあれ、昨年の自殺者は3万2千余人、ここ数年、3万人を超えたままである。 
東尋坊の自殺志願者の多くは、金銭苦か夫婦間のトラブルといわれるが、昨今、元刑事に当る方が当時の東尋坊の自殺志願者に対して、13人にも及ぶ人々を諭し、善意の施しをして救命したという。

現在、地元では各所に自殺を思い止める為の句碑や看板を設置し、また、公衆電話にテレホンカードや「お経の書かれた紙」を常備し、自殺防止と東尋坊のイメージダウンを避ける努力をしているという。 

又、家族や民間団体など誰かに相談ができるようになっている「救いの電話」を設置し、自殺を思いとどまらせるようにしている。 かつては、飛び降りても簡単に死なないことをアピールするため敢えて飛び込みを実演する者もいたという。
 

「東尋坊」という地名の由来は、昔、越前・勝山の平泉寺に東尋坊という横着な僧がおり、自分の怪力を誇って暴れまくり、民・百姓をいじめていた。 
そのため、寺院から破門され岬に飛び込んで自殺したか、或は、あまりの悪僧なので他の御坊が岬に誘って突き落とした、という言い伝えがあるという。 

後年、やはり平泉寺の御坊が東尋坊をいたく哀れみ、

『 沈む身の うき名をかえよ 法の道 
          西を尋ねて 浮かべ後の世
 』

という歌を詠んで、これを海に流し供養したという。
  
2004年3月1日、坂井郡芦原町は金津町と合併して新規に「あわら市」が発足している。
又、2006年3月20日に同じ坂井郡に属する三国町は丸岡町、春江町、坂井町と合併し「坂井市」となっている。


次回は、吉崎  





2017年12月11日月曜日

平成日本紀行(208) 芦原 「芦原温泉」




「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)







平成日本紀行(208) 芦原 「芦原温泉」   .






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日帰り温泉施設 「セントピアあわら」



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えちぜん鉄道三国芦原線の「あわら湯のまち駅」





九頭竜川の清流を渡り、今夜の泊まり宿「芦原温泉」へ急いだ。

普通、温泉場の立地といえば山懐、河川際、湖の畔、海辺と何かしら自然とマッチした、それなりの雰囲気を持った環境に佇んでいるのが普通のように思っていた。 

芦原温泉は、そんな意識とは別に平凡な田畑に囲まれた平地に在った。  
後で知ったのだが、北陸・芦原温泉は明治16年、農民が灌漑用の井戸を掘っていたところ温泉がいきなり湧き出したのがはじまりというから、さもありなんであった。 
今では、北陸屈指の名湯として知られるようになり、人気も誇っているのである。


先刻、観光案内所より紹介をして頂いた宿屋へ向かう、駅前のT字形の突き当たりにその旅館はあった。 
駅は華やかな温泉街のわりには意外と、こじんまりしてて「あわら湯のまち駅」とあった。 
鉄道は北陸本線ではなく、「えちぜん鉄道」という第三セクター方式の鉄道会社であった。 
2キロメートル東方に、本線である北陸本線の「芦原温泉駅」があるが、地域として金津町に属するようである。



旅館は紹介によって、便利な駅前にある政府指定の一流旅館のはずであったが、印象としては極めてゾンザイな感じが最後まで拭えなかった。

その某旅館の顛末をしたためておく・・!
先ず、玄関で訪問の呼声を掛けたが、返事が無くなかなか応対に出てこない。 
車を置くところへ案内されたが狭くてやっとのところ。 
案内された建物は継ぎ足しの迷路のような部屋組であり、部屋係り女性の御客への対応も扱いも気だるそうで、迷惑そうでゾンザイそのものであった。 
そして、館内の様子からも泊り客が居るのか、居ないのかシーンと静まりかえっている。 
何かしら、否~な予感がした。

何はともあれ、何時ものように待望の温泉浴室を目指した。 
人っ子一人居ない浴室、大きな湯船には湯がトウトウと流れ込み、大いに期待したところまでは良かったが、湯を浴びると、これがまた熱い・・!!、

我慢して静かに浸かると数秒も浸かってられない程の熱さである。 
元々、温湯(ぬるゆ)の好きな小生にとっては、到底我慢がならない・・!。 
気が付くと外風呂も有るようなので、仕方なく露天風呂へ向かった。 ここなら何とか入れるだろうと思ったが、これが又甘かった、こちらも同様でアッチッチ・・!!、だめだ、こりゃ・・!!。


結局、掛け湯と洗身のみで間に合わせ、女将にこの事を話して善処置をするように申し入れた。 
食事の後(食事に関しても不満充分であったがここでは省略)、就寝前に再び入湯に出向いたが、いっこうに以前と全く変わりなく、そして次の朝も入湯に出向いたが、善処された形跡は無く、昨夕と全くの変わりはなかった。 

帰り際、旅館の女将に厭味たっぷり言ってやったが、なにやら涼しい顔をしていたようにも思い、後はソソクサトと逃げるように宿舎を出奔した。
芦原温泉の善し悪しを全く味わうことなく、後味悪く温泉場を後にする始末であった。



芦原温泉は、北陸、福井屈指の温泉街として「関西の奥座敷」とも呼ばれ、昔から多くの文客にも愛されてきたようで、温泉医療師がすすめる名湯百選にも選ばれているという。 
この名湯を堪能すべく期待を持って、一流旅館を紹介していただいたのに・・!。 
この旅館の対応は、お客のサービス以前の問題で、全く期待はずれであり、終いには腹が立って仕方が無かった。 

思えば、こちらの芦原温泉でも、昨年(2004年)に発生した温泉偽装問題が発覚している。温泉の利用表示に問題がある旅館および源泉の無断開発の疑いがある旅館が、複数軒あったとして、ニュースで大きく取り上げられた。 
ひょっとしたら当の旅館も温泉偽装の関わった宿では・・?、と疑いたくなるほどである。 

その後、あわら市では独自の温泉表示に関する基準を設けたようであるが・・!。

これが政府指定の一流旅館の顛末であり、不満タラタラの芦原温泉、否、温泉宿であった。


次回は、「東尋坊


2017年12月9日土曜日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)



「漂泊の旅から、学問が生まれる」  






 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)  .






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写真:現在の白山神社本殿




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平泉寺(賢聖院)の名勝・庭園(地面は全て苔に覆われている)





16世紀の戦国期、当時の寺社勢力は農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく、有力大名と結び、さらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展開されていた。 

平泉寺、延暦寺もそれらの一つであり、特に比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであった。 

それでも比叡山そのものは多くの人々にとっては神聖不可侵の地として崇められていたのである。 
それと同時に山全体が要害でもあり、八百年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢の寄宿に耐えうる力を持っていたといわれる。

このような時期、戦国大名として台頭してきた「織田信長」は天下統一(天下布武)を目指していた。


その頃の延暦寺は、信長と対立している室町暗君将軍・足利義昭の側に付き、宿敵、浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の姿勢、行動を起こしていた。

元亀2年(1571年)、延暦寺の武力が天下布武の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう数度にわたって通達した。 
しかし、これらは全て悉く拒否されたのを受けて、信長は、敵対・比叡山を打つべしの意志を固めた。 

同年9月12日、織田勢は素早く比叡山相手に戦線を引き、全ての出入口を封鎖した。 
三万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。 

ここに至って、佐久間信盛や武井夕庵ら仏教徒である臣下の諫止などは一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りを鎮めようとした山門の申し出も全て一蹴した。 

信長は、宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。
 

合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。 
見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺され、山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ4~5百あったとされる堂塔・坊舎の全てに火がかけられた。 

殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にも上り、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。 
この放火と殺戮と奪略は9月15日までの4日間続けられた。 初志の目的を忘れ、時政(じせい・時の政治、軍事)に介入した悪僧坊に天罰が下ったのである・・!。


この時期、白山平泉寺は最盛期を迎えていて寺領9万石、48社36堂6千坊、それに僧兵8千人と称するまでになっていた。 
しかし、叡山消失や信長と朝倉義景の決戦に巻き込まれて苦境に立ち、更に、一向一揆と対決し、最後は一揆の群集に攻められて平泉寺全山が焼き払われたという。  

幸い後の権力者・豊臣秀吉が当寺を保護し、禁制を与えたので寺運は順調に開かれ、元の僧坊らによって白山平泉寺が再興され、江戸期には福井藩、勝山藩の庇護のもと順調にその地位を守った。



時代は下り、明治維新に至って、神仏分離政策により神仏混淆(こんこう)を禁ぜられた平泉寺は寺院、仏像、僧徒を排し、権現の称を廃し、元の「神の宮」に戻った。 

白山神社は、祭神を革めて菊理媛神(ククリヒメノカミ:イザナギ、イザナミの仲裁の神)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冊尊(イザナミ)の三座とした。 

今、勝山盆地の山懐には、僅かな社殿を残して鎮まっている。 白山神社からみれば、中世の物情は夢のようであろう・・!。 



平泉寺の現在の拝殿は、元の大拝殿には及ぶべきもないが、千年前の石畳参道や当時の礎石などが今でも残り、絨毯を敷きつめたような青苔の美しさと共に、美しい自然の姿を見ることが出来る。 

又、賢聖院の庭園は、室町末期の細川高国の作庭で、鮮緑の苔に囲まれ、曲水庭園の様式が取り入れられた名園であるという。 
現在、文部省指定名勝にされていて、住職・平泉家(賢聖院の元別当が平泉家として引継ぐ)の承諾を得て見ることができるという。

  
次回は「芦原

2017年12月8日金曜日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(2)





日本周遊紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(2)   .






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資料:往時の平泉寺絵図と現在の様子





九頭竜川中域の平泉寺・白山神社と白山信仰について・・、

九頭竜川中流域は、勝山市域で白山山域の山麓に位置する。 
平泉寺・白山神社は、加賀、越前、飛騨(石川・福井・岐阜)の県境にそびえる霊峰・白山(2,702m)の信仰に端を発し、富士、立山とともに日本三霊山に数えられ、古来修験道の修行道場として栄えた。 
寺院の開祖は、奈良期の名僧・泰澄大師(たいちょうだいし)が開いたとされる。



日本では山そのものを、古来、神聖なものとして崇拝されていた。
加賀・白山は夏でも残雪があり、何時でも雪をいただく神聖な山として信仰の対象となっていた。 

以前の山岳信仰は神聖な山を遠くから遙拝するだけであったが、地元の高僧・泰澄大師は夢のお告げに従って直接白山の頂上を目指した。
そして、その登程の苦しさを厳しい一つの修行、禅定(心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想)と捉えた。 

白山の頂上を白山天領といい、又、その修行の登山道のことを白山禅定道ともいった。 
白山信仰が広まるにつれ、白山は、村の鎮守の神として地域に多くの社も建てられたという。 

江戸時代、三国間(加賀、美濃、そして越前)には白山山頂の領有をめぐっての激しい争いがあり、最後には江戸幕府が山頂と山麓の村を天領とすることで決着がついたという。 
しかし、争いの本質は宗教的なものではなくて、むしろ権益を奪い合うということであったとする。 

白山へは三国其々の馬場(ばんば、道のことで信仰登山の登山口)があり、その馬場には白山を祭祀する社寺がある。 
越前の馬場は、勝山の「平泉寺」(白山神社)であった。 

しかし、越前では白山の表道として白山馬場があったが、本峰、主峰が加賀の国に在ったことは口惜しいかったに違いない。(現在は加賀、美濃の国境)


白山の主尊仏は「九頭龍」であるから水神の性格を持つものであり、それが白山信仰の根幹となり、本来は古代から越人(古代名でコシノヒト)の土俗の神であり、地主神であった。 

平泉寺は、今から1300年前の奈良時代に「泰澄大師」(越前国、現、福井市出身、泰澄寺)という徳の高い僧によって開かれた。 
その後に神仏習合が進み「白山平泉寺」と呼ばれるようになり、白山を神としてあがめる白山信仰の寺院として白山権現とも通称された。


若狭一の宮でも述べたが、所謂、平泉寺は白山神社の別当寺であった。 
つまり、神が仏に乗っ取られ・・?、全て仏式による祭事が、ここでも行われるようになったのである。 

今では勝山の古(いにしえの)の由緒ある寺院であるが、だが、その歴史を辿れば中世の頃の白山平泉寺は「悪僧の巣」でもあったともいう。


比叡山と白山平泉寺・・、

平安初期には,叡山系の修行僧が白山によく入山し、9世紀には叡山の僧徒が白山権現を延暦寺に勧請したともいう。 
従って、越前馬場の平泉寺は1084年に延暦寺末寺となり、加賀馬場の白山寺、美濃馬場の長滝白山神社(白山中宮長滝寺)も平安末には延暦寺の末寺となった。 
かくして白山を取り巻く末寺は、白山教団として延暦寺を背景にした政治的にも軍事的にも一大勢力に成長した。 

白山の僧徒は、延暦寺の僧徒と呼応して権現の霊験を説き、北陸、濃尾地方に散在しながら隆盛を極めたという。 
同時期、各地に白山神社が創祀されたが、とくに中部より東日本に濃密であったという。
僧侶達の軍事的意味合いの一つの例として、「平家物語」に次の行(くだり)が有る。

『 白山が一大鳴動を起こし、それが叡山に伝わって一山震動して、叡山僧兵団が都に乱入して御所を脅す・・』・・と

南北朝期には、平泉寺の名で代表される白山勢力は「日本国一番の法師大名である」と、当地を治めた朝倉氏の史記にもある。 
又、「平泉寺に行けば食える」といって、近郷近在の次男、三男坊が遥か遠方から素浪人として寄り集って来たともされる。 

当時の平泉寺は、僧兵八千といわれる北陸一の武装勢力で、社、お堂、院坊合わせると、その数三百とも四百とも言われた。


次回、「叡山の滅亡と平泉寺

01. 15.

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