google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 8月 2017

2017年8月31日木曜日

平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」(Ⅱ)






平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」(Ⅱ)




倭国戦乱の具体的背景は・・? 、

2世紀頃というと、日本史の流れからすると弥生時代の後期にあたり、この頃は既に稲作文明が広く一般化し、九州、近畿はおろか中部から関東地方にまで及んでいた。

稲作を施す工具にしても、金属の青銅器はおろか鉄器が普及し、製鉄技術も朝鮮半島から伝わってきていて、砂鉄の産する出雲地方では既に製鉄が始まっていたことは既に記した。

ただ、稲作を施すには個人や部族という小規模地域では困難があり、どうしても地域の拡大や組織化された人々の連携が必要になってくる。
更には土地そのものが必要で、それも小規模からより大規模になってゆくのは必然であった。 
そこには組織化されたリーダーが必要になってきて、必然的に集落や部族間で争いが起こり、土地の収奪や新しい機器の導入のための争奪も起こってくる。

国内において、当時の現状は部族や地域のリーダー、豪族はいたものの大地域の統治者というのは未だ存在してなく、まして、国としての体裁はなく、真の国王などは存在していなかった。 

邪馬台国とか倭国という国名・・?は中国において日本につけた名称であった。 
ただ、自称・王朝なるものは存在していたらしく、そのことは九州王朝説や近畿王朝説があったとする。


「後漢書」によると・・
弥生時代の倭国は多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたとしている。

そして、倭国大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いということになっている。 ただ、国内事情においては前述した稲作文明の波及、鉄器及びその製造文明等、いわば時代の革命時期であり一大転換期、過渡期でもあった。
そして、このような時期は必然的に領土的主権を合い争う時代でもあったのである。 

このような理由で倭国大乱は必然であった。 
また、時節的に見ても、弥生期は2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けたとされ、土地の収奪争いは一層顕著になったとされる。 

いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した「倭国大乱」は、生活様式、気候的変化をも合わせて、集落に大きな変化を生じさせ、所謂、「高地性集落」を営むようになったとされている。



倭国大乱の時代背景

大乱の原因としてまず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争いであるとし、弥生時代の倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定されるようになる。

しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。『後漢書』の「何年も主がいなかった」とする記述は、上記の議論を裏付けている。

しかし邪馬台国以前に「倭国王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。『後漢書』東夷伝に出てくる帥升にしても、倭国の統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。

大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いというよりは、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる。
いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落が「倭国大乱」とどう関連するかが、大乱の性格を知る上では重要となると見られる。

また、弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大過程で各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦、すなわち倭国大乱が起き、渡来系集団は在来集団の居る各地で防御のための環濠集落や高地性集落を作ったとの説(卑弥呼の国:冨川光雄など)もある。

この説によれば、弥生系渡来集団が近畿地方にまで到達した際に両集団が協定して倭国連合政権を作り、卑弥呼邪馬台国女王をその連合政権の王に推戴して倭国大乱は治まったとする。


次回は、「妻木晩田遺跡

平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」






  平成日本紀行(188) 米子 「倭国大乱」    .




「桃太郎伝説」は実際にあった・・! 、

前回の「桃太郎伝説」の続きになるが、これらを裏付けるように2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる。

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱で、中国の複数の史書に記述が見られるという。
列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする見方もあるとされる。 

記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記日野郡誌にも記録があるという。

後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。 
この争いは後に、あの「卑弥呼」(ひみこ)を共立する事によって収まったとされている。 


この時期の古事記の条を見ると「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、共々に播磨口を入口として、吉備国を平定なさった」と記されてあり、吉備津彦命が大乱に関連していると考えられる。
2世紀後半の頃、近畿、中国地方においては出雲や吉備、九州筑紫地方で戦乱、つまり倭国内での大乱があったことが記されているようである。 

又、地元の「日野郡誌」には、中国地方(出雲国・伯耆国・吉備国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在しているとして、この伝承が倭の大乱に関連しているともしている。 


大山北麓の「孝霊山」に関して・・ 、
大和の国から遠征してきた孝霊天皇は、日本海から上陸して孝霊山に居を移したとある。
この遠征の最終目的地は出雲周辺であり、大和と出雲の騒乱は「倭の大乱」として表していると想像されるとある。 

孝霊山麓には「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)というのがあり、弥生期の2世紀頃の遺跡とされ、全国最大級の規模という。 
郡誌は、孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが、実際には妻木晩田遺跡のすぐ近くであり、伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋して姫を皇后にしたとあり、孝霊天皇の皇后の出身地であることから最大級の遺跡になったとも考えられる。 
すぐそばには高杉神社があり、孝霊天皇が祀られていることは前述した。


「倭の大乱」以前・・?の出雲統治圏については先の出雲の項にも記したが、その領域は山陰・北陸地方から信濃の国、瀬戸内海沿岸地方から筑紫の国であったとされることから、「倭の大乱」後は、出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっているのである。 


出雲神話によく登場するが、大国主が戦さに敗れて「国譲り」を行い、出雲一国の国王になってしまったことをも表わしてもいる。 

出雲の国王は、出雲地域を離れる事は無かったが、出雲に対するリーダー(吉備の主とも言われる)は各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。 

ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで数世代はかかったとされ、統一された連合が大和朝廷(ヤマト王権)で最初の統治者が「卑弥呼」であるとされる。

考古学の見地からも「倭国大乱」、つまり出雲、吉備(大和)地方においても争いがあったことは裏付けられているという。



次回も「倭国大乱」の続き、




2017年8月30日水曜日

平成日本紀行(188) 米子 「桃太郎伝説」






  平成日本紀行(188) 米子 「桃太郎伝説」    .





前回からのつづきで、これら楽楽福神社には、鬼を退治したと云う鬼退治伝説が伝えられていることは前述した 。 

そして位置がずれてズーッと南下したところ、山陽地区の広島県府中市という処にはに南宮神社という古社があり、祭神として孝霊天皇と吉備津彦を祀っているという。 

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子とされている。 
そして、そのすぐ東隣町の広島県新市町には、備後一の宮とされる「吉備津神社」が鎮座し、チョットややこしいが、その本社は岡山県岡山市にある備中・一の宮の吉備津神社(岡山市吉備)である。 

又、又、備前国一宮(岡山市備前一の宮)にも分祀の吉備津彦神社が在り、併せて三備一の宮と称している。 
因みに、備中、備前の両神は直線距離にしてわずか数㎞しか離れていないが、地域合併を繰り返した結果、備中の一部を含むようになった為に一つの都市(岡山市)に二つの一宮があるという、珍現象が起きてしまった。 

何れも、祭神は孝霊天皇及びその皇子を祭っている。 
その他、周辺及び四国にも同様の祭神を祀る支社、分社が在るといい、この辺りは、所謂、桃太郎にまつわる伝説地の本場でもある。 
これら吉備津神社には、共通して温羅伝説(うらでんせつ)なるものが有るという。 

『 吉備の国に、空から百済の王子が舞い降りた。 名を温羅と言い、髪は赤く身の丈4メートル、性格はきわめて凶暴であったため、鬼と言われた。 たまりかねた人々は大和朝廷にその暴状を訴える。 朝廷から命を受けた「吉備津彦命」は激しい攻防の末、温羅を捕らえその首をはねた。 』 


これが今に伝えられる吉備津神社(岡山県吉備津)の「桃太郎伝説」であり、又、吉備津彦命は桃太郎のモデルとも言われている。

お伽噺の桃太郎は、イヌ・サル・キジの三人の家来がいるが、イヌ=犬飼武(いぬかいのたける)、キジ=鳥取部(ととりべ)、サル=楽楽森彦(ささもりひこ)が当てられたものと云われている。 
それぞれ当時の地域・部族の集団で、軍事色が強かったという。 
「犬飼氏」は、実際に犬を集団で戦闘に使用していたらくしい。 「鳥取部」は、大和朝廷が

諸国に鳥類を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという。 
所謂、狩猟民族の一団としての色彩をもっていた、これが生じて今の「鳥取県」になったとも言われる。 

「楽楽森彦」は「楽々福神社」の元であり、これは戦いの前線基地として、伯耆の国に置かれたとされる。 

イヌ・サル・キジについては一種の物語的挿話・・?、であるとしても桃太郎がイヌ・サル・キジを引き連れて鬼を退治した物語は、吉備津彦命である孝霊天皇又はその皇子が吉備の国から北部の伯耆の国方面へ遠征して、巨大なものを征服せんとしていたことが伺えるのである。



さて、話の方向がチョット変わるが、中国地方の山系には古来より砂鉄を産したといわれる。
江戸期・藩政時代には鳥取藩は、出雲と並んで明治以前の頃まで日本の製鉄の大きな担い手であった。 
元より、出雲の国は古代より大陸との流通が盛んであり、稲作と同時に鉄器の文明が渡来していたことは承知である。


朝鮮半島では既に製鉄がはじまり、それを鉄の薄い板にした物を日本列島、特に出雲地方の人々が輸入する世の中になっていたのである。 
この時期をもって田畑の灌漑が進み、普及し、日本人の生活様式一大変化、革命が起こるのである。 
そして、鉄を入手できる者が豪族、大王になる資格を得ることにもなる。 
出雲地方は、その鉄としての素材を産出する国、そして製鉄の技術を持つ国だったのである。


先にも記したが、楽楽福神社なるものは鳥取県西部を南北に流れる日野川に沿って分布している。
神代の古代より、この日野川及び周辺河川は砂鉄の採れる川なのである。 
スサノオの八俣大蛇伝説が伝えている古事記の「肥の川」や日本書紀の「簸の川」は、鳥取県のこの日野川である可能性が大きいといわれる。 

楽楽福神社にまつわる「」なるものは、製鉄をつかさどるのことで、「ささ」は砂鉄のことであり、「ふく」は「吹く」に通じ、製鉄炉への送風を意味する。


いずれにもせよ「楽楽福」の意味を、このように製鉄に関するものと解釈すると、吉備(大和朝廷)の勢力によって、出雲から鉄に関する一切を奪ったというように解釈できる。 
そう考えると、楽楽福神社にまつわる鬼退治の話、桃太郎伝説は鉄(砂鉄)資源を奪い合う出雲と吉備の紛争であると考えることが出来るのである。
詰まるところ、大和朝廷(ヤマト王権)が出雲王国の鉄資源及び製法を力ずくで奪った事になる。

出雲伝説で、スサノオの八俣大蛇退治で体内から「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ・草薙の剣)を取り出したが、八俣大蛇は日野川を中心とした各河川流域のことで、天叢雲剣は鉄資源、製法のことである。


記紀には、八俣大蛇のその姿は八つの頭と八つの尾を持ち、八つの谷と八つの峰に跨る(またがる)程巨大な体をしており、その背には苔や杉、檜を生やし、腹は常に血を流してただれ、全部で16あるその目はまるでホオズキのように真っ赤であると言われている。

これらの伝説は、何れも砂鉄を産する産地、地域を指していて、「真っ赤な目」は砂鉄そのもの指しているふうに想像できる。 
このことは、前述した出雲地方の「斐伊川」にも、全く同様に共通、類似しているのである。 
思えば、日野川と斐伊川は呼称も類似している。


次回は、「倭国大乱

2017年8月29日火曜日

平成日本紀行(188) 米子 「大山と孝霊山」 







  平成日本紀行(188) 米子 「大山と孝霊山」   .





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Daisen.JPG
中国地方の名峰・伯耆大仙(WIKより)




伯耆大山の孝霊山(高麗山・・?)伝説

日本海沿岸を連ねる国道9号線を行く。 
米子の西はずれの淀江町(合併して現在は米子市域)辺りが、山陽道と連絡している米子自動車道、米子バイパスと合流していて車の数も多く、一段と賑やかである。

無論、これから先は伯耆富士と呼ばれる「伯耆大山」(ほうきだいせん)の裾が、一気に日本海に落ち込む裾野を行くことになる。 
進むほどに大山の大斜面が実感できるが、山腹、頂上付近の山並みは濃いガスに覆うわれて、残念ながら望むことは出来ない。  

すぐ手前に緑豊かな大山の前衛の山とでも言おうか、「孝霊山」が峰を並べていて、頂上付近には数ほんの中継アンテナなども微かに見て取れる。 
9号線沿いの道の案内板には、孝霊山やその麓に在るのだろうか・・?、妻木晩田遺跡などの紹介板が目に付く。


ところで、小生の住む相模の国(神奈川県)には、丹沢山塊の一角に同字語の「大山」がある。
こちらは素直に「おおやま」と呼んでいるが、こちらの伯耆の国の「大山」は、「だいせん」と読む。 
山陰地方では、御馴染みの氷ノ山、扇の山など、何れも「セン」といい、この地方独特の呼称だという。

「大山」は深田久弥氏の撰した「日本百名山」の一つでもあり、その冒頭に『 伝説的に言えば、大山はわが国でも最も古い山である。 昔、出雲にいた神様が、余り自分の国が小さいので諸国の余った土地を縫い足そうとして、国来、国来(くにこ、くにこ)と綱で引き寄せた。 その引き綱の杭の一つが、火神山(大山)であると「出雲風土記」が伝えている。』と記しいる。


この出雲・島根半島の「国引き伝説」のことは前項でも記したが、山好きの小生でもあるので、山容に関する「大山」のことは後にチョット詳しく述べたい。

さて、「大山」の裾野から頭を出している独立峰・前衛の山が窺がえるが、「孝霊山」(コウレイサン:751m)といい、別名を韓山又は瓦山ともいわれるらしい。
その名の通り朝鮮半島、高麗(こうらい)にまつわる伝説などが残されているという。 
この孝霊山頂に立つと、大山の北壁から島根半島まで360度のパノラマが楽しめるともいう。

この孝霊山は、第七代天皇・孝霊天皇にまつわる名称だともいわれる。
そして、この地方に孝霊伝承と云われる一群の伝承群がある。 

記紀が記す第七代・孝霊天皇、もしくはその皇子を主人公とした伝承群で、吉備国(岡山、広島)から南北に延ばした線上に沿って分布しているという。 

北の孝霊山(山麓を含む)界隈の溝口町から、概ね日野川に沿って吉備の国(現在の岡山県全域と広島県東部と香川県の島々および兵庫県西部にまたがる古代有数の地方国家の一つである)へ向かい、吉備一の宮・吉備津神社を結ぶラインである。

孝霊山の名の由来は、孝霊天皇が行幸したからと云われているが、以前は高麗山(韓山)と表され、所在する村の旧名は高麗村であったという。 
その山麓に鎮座する「高杉神社」には孝霊天皇を祀っていて、こちらにも「吉備」が発祥とされる「桃太郎伝説」があるらしい。 
この伝説は、次回に譲るとして、高麗山、高麗村は別の角度からの伝承もある。 


孝霊山伝承について・・、
鳥取県は、神話から派生した伝説や地元民の間で代々語り継がれている昔話、民話がたくさん残っているといい、その内の一つに「大山の背比べ(だいせんのせいくらべ)」というのが有る。

『 昔々、韓の国の神さまが、日本の国の山と背くらべをしようと、自信たっぷりに「韓山」を舟に乗せて日本海を渡って来たことがあります。 やがて、伯耆大山の雄姿が見えて来ました。 神さまはびっくり仰天して、「とてもこれにはかなわない」として、慌てて韓山を置き捨てて帰って行きました。 大山の手前に聳えているのがこの山で、韓の国にちなみ、高麗山と呼ばれています 』

今の山名が高麗山から孝霊山に変わったのは何時の頃からか定かでないし、又、高麗村が孝霊村に変わったかどうかも定かでない・・?。


さて、本来の伝承である。
(伝承に本来も古来も無いが、強いて言うなら面白さ、懐かしさであろうか) 

先ほど渡った、皆生温泉のすぐ横を流れる「日野川」に沿って溝口町には楽楽福神社(ささふくじんじゃ)、その奥の日南町には東楽楽福神社、そして西楽楽福神社もある。 
いずれも日野郡内において孝霊天皇とその一族を祭った神社だそうで、日野郡三楽々福神社ともいわれている。

面白いのは、溝口町の「楽楽福神社」を取り囲むように「」のまつわる、又は鬼と名の付く名称や施設がやたら多いことである。 
山陰線の伯耆溝口駅の西側には「鬼住山」なるものが聳え、駅舎には鬼の町を象徴するように鬼の像や鬼トイレが迎える。 
又、日野川沿いに鬼のモニュメント、鬼っこランド、鬼ミュージアム、鬼の館、果ては鬼の電話なるものもある。

これはまさに、鬼い纏わる伝承の地、鬼が住んでいたとする孝霊天皇の鬼退治の物語、つまり「桃太郎伝説」の地そのものなのである。


次回は、「桃太郎伝説


2017年8月26日土曜日

平成日本紀行(188) 米子 「皆生温泉と米子城」






 平成日本紀行(188) 米子 「皆生温泉と米子城」   




http://dom.jtb.co.jp/yado/photo2/l/7/7316007/73160071100031599.jpg




http://www.jalan.net/jalan/img/8/spot/0178/KL/guide000000178129_1.jpg
全国的にも珍しい海から湧く皆生温泉と汐の湯(米子観光協会)




 http://www.geocities.jp/tasii02/Yonago1724.jpg
米子城(国史跡)




境港を出て、白砂と松の緑の秀麗な弓ヶ浜を左に見ながら、先へ急ぐ。 
国道431を米子市内に入って、「皆生」という信号があった。 
左は美保湾に面したか皆生(かいけ)温泉、右は米子市街である。

左折して皆生温泉に向かってみた。
海岸出ると、特徴ある砂浜の海岸線に沿って、チョッと豪奢な旅館群が並んでいた。

海に湯が湧く」という皆生温泉は、弓ヶ浜に面した温泉街で山陰最大といわれ、山陰の“熱海”の異名を持つ。 
温泉の歴史はさほど古くはないようで、明治中期に地元の一漁師が海中に温泉が湧いているのを発見し、それを泡の湯と名付けたのが始まりであるという。 

泉質は、70度から85度と海岸に湧く温泉としては高温泉であり、開湯当初から「塩の温泉」として温泉療法として活用し、ヨーロッパで行われている「タラソテラピー」を応用しているという。 


ややこしい名称のタラソテラピーとは・・

海の資源がもたらす快適性を利用して心身を癒す療法」という意味らしい・・?。
ギリシャ語でthalasa=「海」とフランス語でtherapeia=「療法」とを併せた造語で、日本語で「海洋療法」と訳され、簡単に言えば「海辺に滞在して、その景観を楽しみながら、海洋気候のもとで海水、海藻、海泥を用いたさまざまな療法を行う」という自然療法である。 
19世紀、フランスの医師によって確立された療法で、フランスでは「予防は治療に勝る」という考え方により、早くから予防医学の研究が行われてきたという。 
もっとも、人と海との関わりは、況(いわん)や「全ての生命は、海から誕生した」し、地球の 70%は海水に囲まれ、人間の体も 70%が水分で血液、羊水中のミネラル成分は現在の海水とほぼ同じ割合なのである。 
人間の白血球は他の人工的環境では死滅してしまうが、海水中では生きることができるという。 
タラソテラピーとは、そんな予防医学の一環である。 


皆生温泉の泉質は、泉質はナトリウム、カルシウム塩化物泉(含塩化土類)の食塩泉で、ほぼ海水成分と同じであり、「海に湯が湧く」というより「海の湯が湧く」かもしれない・・?。 

浜に沿って一直線に旅館街が延び、裏側には、飲み屋・飲食店・風俗営業の所謂、温泉盛り場が集まり夜にはネオン街となる。 しかし、現在では、歓楽温泉から健康的な温泉へイメージ変化を図っているという。



海の歓楽地と言われる皆生温泉は日本海に面しているのに対し、内海である「中海」に面して商港を形成し、発展してきたのが山陰の商都・米子である。

鳥取県は昔は、西側半分を伯耆の(ほうき)国と呼ばれていて、現在の米子市域と周辺域である。 
因みに、 東半分を因幡の(いなば)国と呼ばれていて、現在の鳥取地域である。 
中海を前面に広げる米子(中海東端)は、山陰の交通の要衝であり、遠く弥生時代から大陸との交流もあったとされ、紀元前からの深い歴史を持つという。

江戸時代には城下町として繁栄し、その城下町に住む商人によって「商都・米子」の礎が築かれている。 
これには、米子は出雲参詣道の拠点になる地域で、何とか参詣客を引きとめようとする商魂が、商都としての米子の繁栄を支えたともいわれる。 
現在では「山陰の大阪」とも呼ばれているとか。


江戸期、この商都・米子を支えてきたのが山陰の名城と言われたのが「米子城」であった。
現存していれば「山陰一の美城」とまで言われており、この米子市を一望できる湊山に現在は「米子城跡」として、平成18年、国史跡に指定され市民に親しまれている。

この米子城は、悲劇の城とも言われている・・?、  
戦国後期、山陰地方は毛利家の所領であり、一族である吉川広家(毛利元就の孫)が米子平野を一望できる標高90メートルの湊山山頂に天守を築き、現在の米子市の原形、良港・米子港を拓いたとされている。 

その時に、全国や近隣から優れた商人や職人を呼び寄せ「城下十八町」といわれる町並みや寺院を築いて城下町を形造った。 
ところが、関ヶ原の合戦に敗れた毛利家・吉川広家は、1601(慶長6)年に駿河国から徳川方の中村一忠に城を譲ることになる。 

一忠は、更に米子城の築城を続け、四重五層の大天守を新たに築きあげ、吉川広家の天守とともに二つの天守を持つ美しい城となったという。 その後、領主(城主)が代々変わり、池田氏(鳥取⇒岡山城主)が領主になるに及んで、米子城は藩主のいない池田氏・城代家老の城となった。
このため「藩主不在の城下町」となった米子は、関所もなく比較的自由に出入りができ、これにより、より盛んな商都・米子が出来上がったという。 

自由闊達で開放的」という米子地域の市民性は、このような歴史から育まれたといわれる。
このような山陰の名城・米子城は、江戸期の間、殆ど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇ったとされる。 
ところが明治初期の廃藩置県で民間(旧士族)に払い下げら、その後解体されて木材などは風呂屋の焚き木にされたと伝えられる。 
さしもの名城も「悲劇の城」として終末を迎えていたのである。
  


現在、米子にはおもしろい挿話がある・・、 
東京の金持ちが山陰旅行をしたそうで、その人が米子に来たら、水は美味いし、温泉は有るし、別嬪さんは多いし、気に入ってしまい予定以上に泊まってしまった。 次に松江に行ったが、ここもまた気に入ってしまった。 そこで東京の奥さんに手紙を出した「拝啓…米子も松江も気に入ったので帰りは一週間ぐらい遅れる・・、かしこ 」すると、すぐさま返事が来て、「そんなに米子さんや松江さんが気に入ったのなら、そちらで何日(いつ)までもどうぞ、 私は実家に帰ります。 あなかしこ 」 ・・と、

気がつけば米子、松江共々女性の名前ですね・・!。 


次回は、「大山と孝霊山

2017年8月25日金曜日

平成日本紀行(187) 境港 「ゲゲゲの水木しげる」





 平成日本紀行(187) 境港 「ゲゲゲの水木しげる」   .






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Japan_National_Route_431_-06.jpg/800px-Japan_National_Route_431_-06.jpg
境港大橋



 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/%E5%A2%83%E6%B8%AF%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A6%96%E6%80%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BEPA098302.JPG
境港市街にある奇妙な「妖怪神社」




街中が“ゲゲゲの鬼太郎”・・? 、

美保関へ向かう途中、海岸道を通り過がった際、海中に何となく気になった岩があった。 
帰路、確かめて見ると、それは夫婦岩(男女岩)であった。

柱状の男岩に洞穴の女岩が太い注連縄で結んであり、艶かしく、想像を掻き立てる。 
思えば美保神社はご承知夫婦神である、この辺りの海で、事代主命美保津姫が戯れていたのだろうか・・?。

尤も、出雲地方に限らず神代の時代の物語は国造りの物語の他、人造り(神造り)の物語なのである。 
そこには男女間の赤裸々なストリーも当然展開しているのである。



海岸道をそのまま戻る、境港の町並みが遠望でき、手前の弓ヶ浜の海岸線は松の緑が眩しいほど美しい。 
境水道大橋を一旦潜ってすぐ右折するように回り込むと、その大橋を渡ることになる。 
鳥取県と島根県を結ぶ「境水道大橋」というとんでもない高さの橋であり、町並みや海面が遥か下方にみえるのである。 

橋の下を大型の船舶が航行する事から頂上は海抜40mの高さがある、ビルの高さだと13階にも匹敵するのである。 
橋上から無数の漁船(イカ釣り船)も見て取れる。
この境水道が県境になっていて、島根県から鳥取県に至る。 そしてこの橋を渡りきった地域が、その名も「境港」である。


海浜公園で一服入れる 。
所々にお化けの水木の「ゲゲゲの鬼太郎」のモニュメントがあり、気が付けば当市はお化けの「水木しげる」の出身地なのだ。 
漁業がやや下火になった今、市は「鬼太郎に会える町」をキャッチフレーズに新たな町興しを探っているようであり、市・中央通りは「水木しげるロード」と称して80体以上の妖怪ブロンズ像が並ぶ。 
又、「水木しげる記念館」などが在り、本年よりJR西日本が「鬼太郎電車」を走らせたり、隠岐汽船では「鬼太郎フェリー」運航するなど機運が高まっている。 
しかも、2010年度上半期に放送されたNHK連続テレビ小説・『ゲゲゲの女房』で、一躍脚光を浴びるようになり、それでなくとも近年はお化けブームだとか・・?。


この水木しげるロードの途中に、「妖怪神社」なるものが鎮座・・?している。 
妖怪の名に相応しい造りのお宮で、「妖力でもってあの世とこの世を結ぶ」という謳い文句に、2000年に突如出現したという。 

妖力で厄払いするという妖怪神社は、初詣は勿論、普段でも水木しげるファンや妖怪ファンの善男善女でにぎわっているとか。 
水木しげるロードの一角にあるだけに、一般観光客にも大好評とか・・!。


尚、2000年の10月6日に鳥取地方を襲った震度6強の地震にも、当時80体(現在は133体という)有った妖怪ブロンズ像や周辺の妖怪の出てきそうなお店は、全くといってよいほど被害がなかったという。
これも妖怪殿の妖力によるものではないかと、街では、もっぱらの噂だったとか・・?。


境港といえば、TVの画面で北朝鮮船籍のオンボロ貨物船が中古自転車を満載した風景でお馴染みのある。
無論、この船は日本に漁獲を水揚げされているが。 

港は対大陸貿易の拠点として格好の位置を占め、尚且つ、地理的には敦賀・下関両港のほぼ中央に位置し、 阪神・山陽・九州の各経済圏とも密接な関係を有し、戦前は日本海国内航路の要衝として、また対岸貿易港として大いに繁栄した。 
山陰地方は元より、日本海側では最大の水産都市であり、漁獲高は平成4年から平成8年まで漁獲水揚高日本一であった。

尚、平成の大合併で、境港は米子市との合併について住民投票を行い、その結果、反対が多数を占めたため単独で残ることになったとする。


次回は、「米子

2017年8月22日火曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」





 平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」   .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Shimane_Peninsula.JPG/1024px-Shimane_Peninsula.JPG
神話や伝説の多い島根半島 (Wik)





島根半島は「神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある・・!、そして遠流の島・隠岐の島諸島と竹島は・・? 、

これは時空を超えた伝説か・・!?、
島根半島は神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある。 

これは、「記紀」(古事記、日本書紀)には記録されていないが、「出雲風土記」にのみ登場するものらしい。 
「出雲風土記」の記載内容とは八世紀初頭、大和朝廷が全国の60余国に作らせたという地名起源の伝承や地勢、産物などが郡ごとに記したもので、ほぼ完本とされていて残っているのは「出雲」だけだともいう。


出雲祖神の一人・八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト:大国主と同一神ともされる)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。 
そして、佐比売山(三瓶山:太田市南の名山)と火神岳(大山:伯耆大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、出来た土地が現在の島根半島であるという。 

尚、半島沖に浮かぶ隠岐や竹島の島々は、国を引くとき落ちこぼれたものであるともいわれる・・?。 
又、完全に引き込むことが出来ず、宍道湖、中海という形で海域が残ってしまったとも言う・・? 

国を引いた綱は弓浜半島になったとしていて、いずれにしても何ともおおらかな話である。 そしてこの半島にバランス良く、「三社大神」が祀られていることは前に記した。
出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、「国引き・・」と賑やかな地柄である・・!!。



ところで、その隠岐諸島は現在、島根県に属し、2004年の合併によって島根県隠岐郡町として、諸島の全域を占める。 人口17000の空港を持つ町域であるが、一般地域同様、過疎化に悩んでいるという。 
因みに、「竹島」に関しては現在韓国が実効支配しているのは周知であるが、島根県は自国の領土として2005年は日本が竹島を編入して100周年にあたるため、同年「竹島の日」に制定された。
 
昭和23年頃のある時期、韓国初代・李承晩大統領が「竹島、対馬は韓国の領土・・だ」と言い出し、李承晩は日本海上にライン(りしょうばんライン)を引いたのである。勿論、日本側は承知していない。

ラインは、昭和27年(1952年)1月18日、李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 
そして“かの国”は、海洋資源の保護のためと称して、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。 
これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象とした。
そして実際に、銃撃される事態まで起こった。

国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの 廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。  
協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えている。

現在でも韓国は、李承晩ラインによって竹島を実効支配しているが、島根県の姿勢はともかく、日本政府の対応は未だは無為のままである・・!!



出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、大らかな「国引き・・」の伝説と賑やかであるが、現在我が国の領土は、北方の樺太を含む北方四島はロシア(旧ソ連)、そして、「竹島」が隣国・韓国によって、はたまた、中国において東シナ海・南西海域の尖閣諸島(せんかくしょとう)などは、「国引き」されているのが現実である・・!!。

尤も、竹島などは「国引き」で落ちこぼれた島であるので、元々、当国(韓国)の島である、とでも言い出すのでは・・?。


次回は、「鳥取・境港


2017年8月20日日曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」






  平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」    .




写真:雄大な展望台を持つ美保関の地蔵崎



美保関灯台




美保関の灯台へ向かう。
岬のほぼ突端辺りから斜面を登ると、良く整備されたさっぱりした園地があり地蔵崎園地とあった。 
海上交通の要衝であったこの地で、航海の安全を祈ったお地蔵様が岸壁や波打ち際に多数奉納されるようになったことから「お地蔵様がある岬」ということで中世以降から「地蔵崎」と呼ばれるようになったと言われる。 

ここからの眺望は素晴らしく、日本海の雄大な眺めが一望でき、はるか沖に「隠岐の島」が浮かぶ。


更に、岬先端に灯台があった。 
外洋北部は複雑に入り組んだリアス式の断崖の景観が圧巻である。 
この先に、白亜洋風の石造りのガッシリした美保関灯台が海抜73mの岩上にあり、高さ14mで、中間に一周の展望デッキも付いている。 

明治31年(1898)に日本人技師の設計により、地蔵崎灯台として建設、後に美保関灯台と改めたとする。
灯台脇には、同様の建造物である屋敷がある、灯台守の宿舎を改造したレストラン兼売店の美保関灯台ビュッフェであった。

只今営業中とあったが、他に客は無いようで遠慮した。
遥かに見て取れる「隠岐の島」は後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された配流地として有名である。


問題の「竹島」も、
島根半島から北東へ約65km、日本海に浮かぶ「隠岐諸島」は大小180余りの島々から成り立ち、日韓で係争中の「竹島」も含む。 

奈良時代から平安初期にかけては、大陸との日本海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たした。 
中世以降は遠流の島と定められ多くの貴人、文化人が配流され彼らが伝えた都の文化は、時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されている。


尚、隠岐諸島、竹島は次回、出雲の「国引き伝説」で・・、


2017年8月15日火曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」






  平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」    .




美保神社参道鳥居、




豪壮な拝殿と奥に本殿




美保神社は、事代主神(大国主の息子)である「えびす様」を祀る・・、

下って、美保神社へ参った。
美保漁港のすぐ前に参道があり、第一、第二と二本の鳥居が迎え、本殿はこの奥の森の中に鎮座していた。 

民謡にも歌われる「関」というのは、宍道湖と中海を抱える島根半島の東端、神話で有名な、ここ「美保関」のことで、正面の美保漁港、美保湾は日本の鯛の三大産卵地の一つとさる。 
鯛と言えばエビス様に通じ、タイ(鯛)を肩にするエビス様は事代主命(コトシロノヌシノミコト)と言われる。 

美保は事代主命と美保津姫とのロマンスの地であり、両者を祀っているのが「美保神社」である。

出雲神話では、事代主神は出雲国の支配者である大国主命の息子として国譲りの話にも登場し、漁業、海運、商売繁栄の守り神として信仰されているほか、豊作祈願の神様ともされる。 
事代主命は父神に従って河川海洋の幸を司り、四方を海に巡らされた日本に、豊富な魚類を子孫に与えた神様である。 
神話の中で事代主神が美保関で魚釣り(鯛釣り)をしていた話から一般には「えびす様」で有名で、大国主神共に福徳の神様、七福神の一人としても有名である。 

拝殿の後方に二つ並んだ本殿が鎮座している。 
写真が鮮明ではないが、屋根の上にある千木は、左の社は垂直に切られていてこれは「男神」(事代主神)を表し、右の社は水平に切られていてこれは「女神」(美保津姫)を表している。


松江を中心と考えると、島根半島の西の端にある「出雲大社」、中心に松江の北にある「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神と同一神としている)を祀る。
この神社は出雲に次ぐ古社(雲州二宮)で、珍しい三殿並立の社殿であるという。 
北殿に天照大神、南殿に素盞鳴尊(スサノオノミコト)などが祀られている。 

そして東端に鎮座しているのが「美保神社」で、いずれも重厚で圧倒的威容を示し、拝殿も、本殿もかなりの規模を誇る。


次回は、「美保関灯台




2017年8月12日土曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」






 平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」   、





http://stat.ameba.jp/user_images/20140510/19/sanin-department-store/2b/7a/j/o0576038412936691820.jpg?caw=800

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Japan_National_Route_431_-06.jpg/800px-Japan_National_Route_431_-06.jpg
堺水道に架かる境水道大橋





関の五本松、「あとは伐(き)られぬ夫婦松」・・ 、

悠々とした「境水道」際を行く。
この水道は島根県と鳥取県の県境でもある。

この外海寄りに美事な橋が架かっている、「境水道大橋」である。 境港市と島根県美保関町を結ぶ大橋で長さ700m、高さ40mあり、橋下には大型船や漁船が賑やかに往来している。 

外海の美保湾へ出ると、さすがに海の色が違って見える、鮮やかに濃いのである。 
このまま島根半島の海岸線を行くと、鄙びた美保の港へ出た。


その手前に「五本松公園」の案内板があった・・、
かなりの急斜面の山上に在るらしく、民謡・「関の五本松」でもお馴染みである。 

少し登った処に、頂上へのリフトがあり、小さな御土産屋があって夫婦で営んでいるらしく、リフトも同様に管理しているらしい。 
観光客らしい人は誰も居なく、当然リフトは止まっている。

お客さん、リフト乗るかね・・?」
ハイ、お願いします

近くにある電源版のスイッチを入れると、徐に(おもむろ)リフトが動き出し、御夫婦と三言、四言話を交わしてリフトに乗った。




http://www.shimane19.net/column/uploads/2016/07/30/s_DSC04930.JPG
五本松の尾根より見下ろす、長閑な「美保港」





好天に恵まれ、リフトが上昇するに従って眼下に美保の港が鮮明に浮かび上がってくる。
標高150mの丘は公園として良く整備されており、この一角に「関の五本松」の碑が有る。

碑のところには初代の黒松であろうか、太い幹が残されている。(小生が訪れたときは初代黒松の切り株は野ざらしであったが、その後小屋根が掛けられたらしい)



江戸期の頃、かつては船が航行するための目印にしたという島根半島先端にあたる「五本の松」であったという。

藩政時代に美保関(美保神社)と松江を結んでいた旧松江街道は、海を見下ろす尾根上を通り、そこにあったのが街道時代の景勝地が関の五本松であった。 

港に出入りする漁船や日本海を行き交う船の目印でもあったが、或る時、松江の殿様が松江街道沿いに並んだ五本の松の一本に槍が当たり、そして眺望の邪魔になるからとして突如、伐採してしまったという。 

それまで美保港へ入ろうとする多くの船の目印であった松の一本を伐られてしまったことは、当時の大事件となり、その後、民衆は「あとは伐られぬ夫婦松」と歌いながら、松江城下を練りまわり、請願のデモを行ったという。 
民衆の声を聞いた殿様は、あとの四本を伐るのを中止したというのが伝説になっている。


そして、民謡になった「関の五本松」である。
「関の五本松」は、アラ エッサッサの「安来節」とともに、出雲地方の二大民謡といわれ、大正期頃には東京にも伝わり、そこから全国的に流行したという。       


関の五本松』  島根県民謡

ハアー 関の五本松 ドッコイショ
一本切りゃ四本
あとは切られぬ 夫婦松
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ

ハアー 関の女は ドッコイショ
医者より偉い
縞の財布の 脈をとる
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ


次回、「美保神社

2017年8月11日金曜日

平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」 






 平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」   、



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/a/a1/Lake_nakaumi_landsat.jpg/800px-Lake_nakaumi_landsat.jpg
島根半島と中海(中央が大根島 衛星写真・wiki)




「昭和の決断」、中海の大干拓事業中止・・! 、

国道431から中海サイドを経て島根半島の「美保関」へ向かう。 
中海は地図上を見ると大根島(だいこんじま)、江島と二つの島が浮かぶ。 
この二つの島が「八束町」(やつかちょう)を形成している珍しい町域であった。(2005年松江市と合併) 
更に、車窓からも眺められるが長大な堰堤(堤防道路)で島の間と湖岸を結んでいるのである。
厳密に言うと湖岸部分は橋で結ばれていて、実はこの堰堤部分は干拓事業の名残という。

神話の海、まほろばの海と呼ばれる「中海」の美保関側を干拓して農地を作ろうという、当時の米増産時代の思いつきだった。 

一般的な見方であるが、公共事業は一旦動き出したら止まらないというのが普通で、好例なのが長崎・諫早干拓であろう。 
漁業被害や環境破壊が報告されているにも関わらず止まる気配がないのが実情であった。


「昭和の国引き」は失敗・・?? 、

しかしながら、この中海干拓に関しては事業が相当部分進行してしまったにも関わらず中止が決定したという。 
中海の大規模干拓および淡水化は、古来、出雲地方でよく言われる国引きの神話になぞらえて「昭和の国引き」とも言われ、1960年代に事業が開始された。 
この間、一部完成して共用されるまでに及んだが(南部、揖屋地区)、その後、時の地元出身の竹下総理の肝いりもあり、国の減反政策が本格的になり、又、水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が高まり、近年では、県の財政圧迫なども発生して、結局、凡そ40年を経て、中海・宍道湖の淡水化を目的とした大規模干拓事業は2000年に完全中止が決定したという。


無駄な公共事業費、800億円がパーー・・!! 、
結局、中海と境水道を仕切っていた中浦水門は(江島と境港間)は取り壊された。
かっては、水門の総延長は414m、10門の二段式ローラーゲート(上層と下層の2つの扉体を操作する)と中央部に設置された3門の閘門(こうもん:運河・放水路などで、水量を調節するための堰)から構成されていた。 

閘門の上の部分は、船舶が通過する時に備え、跳ね橋としての機能も持っていたという。 
現在、これらの建造物は「世紀の遺物」となり、やがて消えてしまった。
この水門の構築には100億円かかり、更に、取り壊しに100億円かかって、合計200億円がパーになったという。

結局、総じて無駄な公共事業費は700億とも800億とも言われる。


次回は、美保関・「関の五本松



2017年8月10日木曜日

平成日本紀行(185)玉造 「三種の神器」







 平成日本紀行(185)玉造 「三種の神器」   .




因みに、「三種の神器」について  、
三種の神器(サンシュノジンギ)とは、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指す 。

三種の神器は、日本の歴代天皇が継承している宝物である。 
神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。

天皇の即位に際し、この神器の内、鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。 三種の宝物は八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)のこと。 


神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われているが、本来人間が持たなければならない「三徳」、つまり鏡は知、勾玉は仁、剣は勇というように、智・仁・勇、至徳・敏徳・孝徳としているともいわれる。 

又、「命」と「愛」と「知恵」の意味を尋ねると、「命」が光の放射する「八咫の鏡」であり、「知恵」が「草薙の剣」で、「愛」が「八坂瓊の勾玉」ともいわれる。


草薙剣(クサナギノツルギ:天叢雲剣)  、
須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇を倒した場所は出雲国とされ、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」であるという説がある。 倭姫命(ヤマトヒメ)から、蛮族の討伐に東へ向かう倭建命(ヤマトタケル)に渡されたとされる。 剣は全ての問題を切り分け、整理整頓して解決し、適材適所に配置するという働きがあり、 「草薙の剣」というのは、宇宙創造の時の三大根本神力の一つとされる。 「中海」の南に位置する安木市は須佐之男命が八岐大蛇を退治し天叢雲剣を獲得した地とされる。 又、この地は、古来、砂鉄を産し、現在でも鉄鋼の生産で有名な安来市の山奥、奥出雲町でをが獲得したと古代製鉄と神話の深い関係を伺わせる。 「安木」は、神代からの名称とされ、都市名では最古の部類の属するという。
この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では「たたら吹き」(タタラ=多多良、鈩、踏鞴、鞴韜)、たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んであったがためオロチ伝説が生まれたとされている。 天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされ、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄で川が濁った様子を表しているとする説もある。


八咫鏡(ヤタノカガミ)  、
三種の内、一番大事なのが「八咫の鏡・ヤタノカガミ」とされる。 記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命(イシコリドメノミコト)が作ったとされる。 天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、そして再び世は明るくなったと記紀に記されている。 八咫鏡は天照大神自身ともいわれる。 天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された。 「鏡」は、「輝く身」であり、姿を映す鏡というのは、あくまでも裏面の話であって、光り輝く、輝くのが「鏡」なのである。 「輝く身」という意味で天照大御神の一番中心の働きを現わし、形式的に見ても皇室の御紋章(十六菊の御紋章)であるとされている。 菊の花弁である十六の方向に放射されてるということで、十六とは無限を表し、実際はそれを無限に複雑化したものを全部束ねたのが「八咫の鏡」ともされる。 無限に輝いて、全体を総まとめにしたような姿、それで十六菊の紋章として模型がつくられているともいう。


八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)  、
「神璽」(シンジ:天子の印、御璽・ギョジ=御名御璽)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠(ヒスイ)などの石を磨いてつくった勾玉(カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト、櫛明玉命ともいう)は、玉造部(たまつくりべ)の祖神とされ、「職人集団」の祖神であるとする。 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊(マサカキ)は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった鏡と勾玉をかけた神木を模したもので、その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して、「月(陰)」を表しているのではないかという説もある。 後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ニニギ)に授けられたとする。 「勾玉」というのは、お玉じゃくしのような「曲がった玉」というが、これは表面のごく一部のことで、実際は、「マアカタマ」と言い、「マアカ」というのは「完璧な玉」という意味がこめられ、その中には「無限の、全ての、完璧な形あるもの全部」という意味を込めるという。 宇宙であり、地球であり、安定した全ての形(球)あるもの全部「勾玉」とされる。 それを全部ひっくるめて束ねて、国土を安定させた姿の全体像が「八坂瓊の勾玉・ヤサカニノマガタマ」である。 
出雲大社の参道奥左に、「海幸彦 山幸彦」の一シーンと言われる像が在る、波の上にのる勾玉を大国主が天を仰いで崇敬している姿である。


次回は、「美保関

2017年8月7日月曜日

平成日本紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」






平成日本紀行(185)玉造 「八坂瓊の勾玉」  



「玉造」はその名の如く、「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)の製造元であった

松江の南に、玉造温泉がある。
小生、若かりし頃(20代)出張仕事のついでに山陰を旅行した際、宿泊した温泉であるが記憶は全く無い。 もう既に半世紀前のことであった。

宍道湖へ注ぐ玉湯川沿いに、数寄屋造りの高級和風旅館が多く並び、歓楽色は一切なく、歴史を重んじた落ち着いた風格を見せる。 
出雲国風土記にも記載があり、奈良時代開湯といわれる古湯で、神の湯として知られる。


ところで、玉造という名の由来は「三種の神器」の一つ、八坂瓊の勾玉(ヤサカニノマガタマ)が櫛明玉命(クシノアマルタマ・出雲国玉作祖:ニニギと共に降臨したとされる)によってこの地で造られたことに由来するという。 
玉造の温泉街のはずれ、玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っており、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されているという。 


玉作湯神社の縁起的資料には・・、

『 櫛明玉神は豊玉、玉祖神などの異称をもち、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた「八坂瓊之五百箇御統玉」は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」 』・・と。

要約すると・・、
八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、長い紐につなげた勾玉のことで、別名を「八坂瓊乃五百箇御統玉」(やさかにのいほつみすまるのたま)といい、特別な名前が付いている。
「玉」は鏡や剣といっしょに古代王権(現在でも)の象徴で、神話では天岩戸に引きこもった天照を引っ張り出すために賢木(さかき=榊)へ鏡や木綿(ゆう)といっしょにかけられたという。 製作者は玉祖命(たまおやのみこと)という神様で、「八坂」は八尺のことをいい、「五百箇」は多数、沢山を意味し、「御統」は多くの玉を連ねて輪にすることをいう。 「玉」はヒスイ、メノウや碧玉(へきぎょく)製品で、所謂、貴石、宝石であり、貴重な宝物である。 宮中にあっても、たとえ天皇はおろか、何人も眼にすることは許されていない宝物とされている。 

平安時代の頃に伝承が有って、時の冷泉天皇が、箱をあけて中を見ようとしたという伝えがあるが、その時、突然に白煙が立ち上り、驚いて止めたという。



玉造は「メノウ」の産地で特に、青メノウは玉造だけに産出するという。 
伝承館には2トンもある大きい赤メノウの原石が展示されている。 又、玉造温泉入口の公園には真玉の勾玉が飾られ、温泉街の各所に勾玉のモニュメントが置かれている。

明治以後、天皇即位の式典に際し、この地で作られた碧玉や瑪瑙(めのう)が献上されたという。 


次回は、その「三種の神器

2017年8月6日日曜日

平成日本紀行(184) 松江 「小泉八雲」






 平成日本紀行(184) 松江 「小泉八雲」   、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Shiominawate_Matsue05s4592.jpg/1024px-Shiominawate_Matsue05s4592.jpg
松江城のお堀端に面する旧小泉八雲邸




小泉八雲が「神々の国の首都」と言わしめた松江・・、

お城を下って堀川の北部、その名も「北堀町」の古い屋敷群をのぞいてみた。 
堀川をレイの遊覧船が水面をゆっくり滑って行く。 

お堀端には古齢の松が、幹をくねらして水面に掛かる。 
だが、路上にある松の幹根部を良く見ると、舗装に覆うわれていて、植物に対する細心さが無いようで、これはチト残念ではある。 
全体としては、趣のある良環境を造りだしていて、この辺りは時間がゆっくり流れているようでもある。

この一角に「塩見縄手」という看板がある。
縄手」とは城郭の構えを定めるとき、先ず、縄張りをして塁壕や形態を定めるもので、今の基本測量のことである。 
城下町では縄のように糸筋に伸びた道路を「縄手」と称した。 

藩祖・松平氏の町奉行「塩見古兵衛」が城を縄張りし、改修したので、その名が付いたという。 
彼の旧屋敷が路の反対側に屋敷群と共に在り、やはり、長屋門を構えた豪勢な屋敷である。



付近に旧小泉八雲邸があった。
しっかりした門構えで表に「史跡小泉八雲旧邸」とあり、只今公開中の札が下がっていた。 
純和風の建物で、表庭には枯山水の庭園が施してある。 

彼が如何に日本贔屓の彼であったことが判る。 
小泉八雲(こいずみ やくも)は、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンという名でいなじみであろう。 
アイルランド人で1850年、40歳とき日本に帰化している。 
日本研究家として知られ、一方で紀行作家、随筆家、小説家でもある。 

名前の「八雲」は、一時期当人が松江に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなんだとされる。
さすがに日本贔屓のハーンであった。



我々は、小説『怪談』の中の「耳なし芳一」、「ろくろ首」、「雪女」などでお馴染みである。
実は妻・セツの昔話が小説の元になっていることや、幼い頃の暗闇体験の恐怖が基になって、数々の名作が生まれたという。
「耳なし芳一」は先に記したが、平家滅亡時の壇ノ浦での話である。


小泉八雲の随筆文・「神々の国の首都」より・・、

『 松江の一日は、耳朶の裏でどくんと搏つ脈拍のような音で目覚めることから始まる。厳かでやわらかな鈍い低音は――規則正しく奥深い心臓の鼓動に似ており、聞こえるではなく感じるという方が相応しい様子で枕越しに震える。何のことはない、米搗き杵を使って雑穀する音だ。その次は禅宗の洞光寺(とうこうじ)の大釣鐘がゴーン、ゴーンという音を町の空に響かせる。 次に私の住む家に近い材木町の小さな地蔵堂から朝の勤行(ごんぎょう)の時刻を知らせる太鼓の物悲しい響きが聞こえてくる。 そして最後には朝一番早い、物売りの呼び声が始まる、「大根やい、カブやカブ」と大根その他、見慣れぬ野菜類を売り回る物、そうかと思えば「もややもや」と悲しげな叫び声は炭火をつけるのに使う細い薪(まき)の束を売る女たちである 』


洞光寺は八雲の好きな寺であったようで、明治6年(1873)に松江で最初の小学校が洞光寺に置かれていた。

2005年3月、松江市は八束郡鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の1市6町1村が合体合併し、新制による松江市が発足している。


次回は、「玉造



2017年8月1日火曜日

平成日本紀行(184) 松江 「松江城」







 平成日本紀行(184) 松江 「松江城」  




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/150321_Matsue_Castle_Matsue_Shimane_pref_Japan01bs.jpg/1200px-150321_Matsue_Castle_Matsue_Shimane_pref_Japan01bs.jpg
松江城天守閣







松江城は、やや小振りだが・・?信州・松本城に類似している・・?、

松江に向かっている。 
松江市街に入り西末端部の宍道湖と大橋川に架かる宍道湖大橋を右に見ながら左折すると、すぐに高めに「松江城」の優雅な姿が見受けられた。 
大手門前の有料駐車場を利用して、高台の本丸に向かう。

先ず目に付いたのが石垣の下に佇む松の緑に囲まれた清楚なお壕、お堀端である。 
そこに、遊覧船、観光船、或いは案内船と言うべきか、ロマンチックな木製の渡し船が船頭さんと共に、静かに待機し、運行していることである。 

尤も、実際のお壕の名称は「堀川」といって堀川の渡しであり、それは一種の「水郷」である。 
思えば松江の町自体が、水郷の都、水の都なのである、町の中心が宍道湖と中湖の間に挟まれた地域で、そこに大橋川とそれらの支流が編み目の様に流れ、城壕の堀川はその一部のようなのである。 
幾多の城を巡ってきたが、お城周りにこれだけ風雅な雰囲気を残しているのは見当たらない。 

松江市は、中国の「松江(しょうこう)」に似ているところから名づけられたとか。
お城の周辺には、古い町並み、屋敷跡、著名人の館が残り、更に、情緒と雰囲気を盛り上げている。
いわば松江の町のシンボル的存在になっていて、歴史、自然を大切に温存している様子が判る。


さてお城である
中央に手摺を設けた幅の広い、ゆったりした石段を少し登ったところ、よく整備された生垣の庭園が大きく広がっていて、そこに威風堂々の天主城郭が天を指していた。 
石垣の上にドンと構えた黒塗りの城壁は一見、やや小振りだが信州「松本城」を思い出した。 

天守閣は望楼様式になっていて、ここから望む風景は絶大で、眼下の宍道湖をはじめ松江市街の向こうに中湖まで遠望できるにちがいない。 
屋根上には雌雄で鱗(しゃちほこ)が天に構える。 

内部は時間的に接見できなかったが、支柱や構造材は木造で、築城当時の様子がよく残しているという、所謂、戦国時代の特徴を良く残しており、非常に実戦的な天守の構造をした貴重な遺構だという。 
このあたりも平城の松本城を彷彿させる。 

天守地階には籠城用の生活物資の貯蔵庫、中央には井戸も残っているという。 
なんでも、全国に城郭が多数ある中、築城当時が現存するのは12ヶ所のみで、松江城はその内の一つであり、山陰では唯一の天守閣であるとする。

その内、天守閣の大きさ(平面面積)では、2番目、古さでは6番目とのこと。 
因みに、記録に残っている日本の城と言われる総数は25000にも達すると言われ、その中には、天守閣を備えた立派な城もあれば、柵で囲っただけの砦の様なものもある。 

だが、江戸時代の末期にはすでにその数は200を切り、その内天守閣があった城は70箇所程度という。 
その中で、現在も昔の様相、形式、築造方式が残っているのはたったの12城という。 
古くからの形を留めているのはこれだけで、あとは復元、復興等後から建てられた物という。  
12城とは、弘前城(青森)、松本城(長野)、彦根城(滋賀)、丸岡城(福井)、犬山城(岐阜)、姫路城(兵庫)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、高知城、松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)そして松江城(島根)である。


松江城の歴史は江戸初期に始まる。
慶長16年(1611)初代城主である堀尾吉晴(秀吉子飼い)から三代の忠晴にかけて、5年の歳月をかけて完成したものであり、特に吉晴は加藤清正と並び称される程の普請上手と言われていた武将であったという。

吉晴は16歳の時、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に出会い、その家臣になっている。 
家臣とはいっても子飼いに近い存在で、名は茂助、秀吉には大変可愛がられたようで、穏和な人柄に人望があり、「仏の茂助」とも称された。 
以来秀吉に従って戦功をあげ、小田原征伐後は大大名に出世している。 

堀尾忠晴の後は京極忠高(いずれも嫡子無くお家取り潰し)、その後、徳川家康の孫に当たる松平直政が信州松本から移封され、以来明治維新まで松平氏が10代234年間に渡り18万6千石を領していた。  

松江城が、信州・松本城に類似しているのは、松平直政の影響が有ったのかもしれない。


次回も「松江





【追記】


ブラタモリ】 『松江~国宝 松江城の城下町はどうつくられた?~』

【ブラタモリ】
「 国宝・松江城 ~ 松江城の城下町はどうつくられた?~」
(NHK総合・2015/8/1放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/ (該当する内容ではありません)


<主な内容と感想>

 松江市や出雲市周辺といえば、一畑電車、旧大社線の大社駅(国の重要文化財指定)と私の興味深いものがあるので、ぜひそう遠くないうちに訪れたい町です。次回の出雲も楽しみですが、松江の城下町がどう造られたのかのも、この番組のおさらいも兼ねて町歩きしてみたいですね。

 番組の感想としては、やはり前作と比較してしまうのですがアシスタントとナレーションがまだ新作の2人に慣れることができませんね。 特にナレーション、これ以上は書きませんが声優経験のあまりない俳優さんと、声優もこなしている女優さんとの違いが際立つ。自局のアナウンサーでもいいような気がするのですが…。


<番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今回のスタート地点は7月8日に国宝指定された松江城。テーマは「国宝松江城の城下町はどう作られた?」

・戦前は国宝だった松江城。築城年が特定できず戦後、重要文化財にはなったが、国宝には指定されなかった。しかし3年前に柱に張ってあった木札が見つかったのだ。そこには江戸時代初期の年号、慶長16年(1611年)が見つかった。木札の釘穴と柱の穴を照合して一致したため築城年が特定できたのだ。
・松江城の天守閣から宍道湖が眺められる。城下町が造られる前はどうだったのか。600年前の地図を見ると、低湿地だったことが窺える。

・城を出て宍道湖を渡る橋付近に移動し、松江市史編纂委員 絵図・地図部会長の大矢幸雄さんの案内で小地図を眺める一行。中世の湖岸に沿った道を歩いて行く。標高3mぐらいの高い場所(白潟)は松江城の出来る前に町が出来ていた。回船問屋などが建ち並び栄えていた。明治時代までは回船問屋を営んでいた現在和菓子屋の内藤守さんの案内で、明治4年に松江藩が発行した船の通行手形や1830年頃の松江藩の藩札を見せてもらう。

・僅かにあった高低差を利用した商業地があったため松江藩の城下町がつくられたのではないか。

・再び西島さんの案内で城の地図を見る。堀の役割は防衛と盛土、排水の3つの役割があった。城の北側に小高い丘がある。もともと一つだった山を横240m、縦90mを掘り崩して盛土にしたといわれている(諸説ある)

・続いて堀を巡る遊覧船に乗った一行。武家屋敷の跡地のところに一段低くなっているところがある。船入(船の出入りのために設けた堀や入り江)と呼ばれる船の停泊所があった痕跡。さらに船入が1箇所だけ残されている場所に向かう。家老だった旧柳田邸跡地。

・ポンプ場に移動した一行。出雲河川事務所の西博之さんの案内で内部を見学する。毎秒3.6トンの水を移動できるポンプが2台備えられている。もともと水害の多い松江。400年前に造られた堀の排水機能をここでコントロールしている。

・宍道湖大橋に移動した一行。宍道湖から日本海に抜ける大橋川を拡幅、浚渫してきた。その副産物で汽水域が出来たことでシジミが獲れるようになったという。江戸時代は大橋川と宍道湖の一部で獲れていたが、川の拡幅工事後、全域で獲れるようになった。


(参考追記)
松江城と人柱伝説 ( https://rekijin.com/?p=15346 )




01. 15.

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