google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 5月 2017

2017年5月31日水曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」





 平成日本紀行(182)出雲大社 「御本殿」    ,






http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿




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出雲大社・本殿(Wik)





本殿内部の祭神配列の異様さ・・? 、

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 

こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 

その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。


その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 
千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。


現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) 
ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48メートル、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。

普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 
背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。


2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 
48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。

平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 

ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、即ちその本殿へ誘う階段がまた長大であったという。 だが本殿そのものの建物(建屋)は現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。
いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。


ここで、(ヤシロ)と(ミヤ)の概念について。 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 
代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く示された場所を表す。 
つまりヤシロとは社であって聖域を指している。
又、屋代(ヤ・シロ)は宮のことで、社の一角に臨時に屋根をしつらえて神事を行う場所のこと、つまり神仙(神様)の住居としてのミヤ(御屋・宮)のことで、本宮とか本殿とも呼ばれる。 

出雲大社はその起源からして祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ち、神の宮であり、神宮本殿・なのである。
その出雲の宮社(本殿)が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである



出雲大社御本殿内部の祭神(御神体)配列について・・、



写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)


出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという。
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 
御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。

大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 
その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 

しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 
従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。
つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 

要するに、我々参拝者と大国主神とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っているともいえる。
このことは大和神(天孫神)の意に反して、主神が「祟り」を起こすための「行い」を監視しているともとれるのである。
このことは、神話における大国主が大和神へ「国譲り」を行った結果、その構図が現れているとも観れるのである。(「国譲り」については次回後述)


以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるという。
先ず、古代の住宅様式における居住まいは、入口部と最上席との位置、配置関係は御本殿のそれと一致するという。(現在でも通じる)
出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。

又、古代では西の彼方には「常世(とこよ)の国」(霊魂が鎮まるところ)があると信じられていた。
そして出雲大社のすぐ西には「国譲り神話」の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされている。
大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 
現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事があるという。

いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建時の様子が隠されているのかもしれない。


御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 
上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 
出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 
            八重垣作る 其の八重垣を
 』

という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊と社の後方に聳える八雲山との縁により描かれているとされる。
だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば、何故七雲しか描かれていないのか・・?、という疑問である。 
このことも、「国譲り」伝説の影響による出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊の歌と絡めて疑問視されてきているという。


次回は、「国譲り


2017年5月30日火曜日

平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」




 平成日本紀行(182)出雲大社 「拝殿と拝礼」   、




http://www.dokuritsuken.com/izumo/images/2008/08/08/DSC_1489.jpg
出雲大社の主要神殿の配列;手前から拝殿、八足門、桜門、一番奥が御本殿



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出雲大社・拝殿 (以上はWikから)




出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 
小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。

拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 
早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 


出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 
四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 
御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。

因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである



拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う。

気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 
早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。
「お百度参り」であろう・・!。 

拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。
 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。


更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 
本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。
 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。


次回は、「大社・本殿



2017年5月27日土曜日

平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」







 平成日本紀行(182)出雲 「日本人と藁」   、





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Izumooyashiro89.JPG/800px-Izumooyashiro89.JPG
出雲大社の注連縄




引き続き、注連縄に絡んだ「藁」(わら)について・・、

序ながら、昨今、都会では「」を見かけなくなったが、それでもお正月になると注連飾りなどで、藁に接する機会がある。 

注連縄を作るために、農家では秋の収穫の時に茎の長い青い藁を蓄えておくという。 
藁(わら)とは稲の米をとったあとに残る葉や茎の部分の乾燥したものを言い、古来より、藁は日本人の衣食住の全てを、その温もりで包んできた。 

その水田や藁葺(わらぶき)屋根は、安らぎを感じる日本の原風景でもあろう。 
藁葺屋根をはじめとして、日本全土で受け継がれてきた藁細工には草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、俵(たわら)、蓑(みの)、雪長靴 お櫃(ひつ)などの各種保温材、そして藁人形など様々な種類があり、それらは地域によっても形が異なるが。


鰹(かつお)どころ土佐では、タタキ造りに [藁焼き] が一番とされ、藁は火力が強く、しかも藁の燃える時の香りはより一層、鰹の風味を引き立たるという。

藁は筒状で中が空洞になっているので燃え易く、藁の強い炎は鮮度のよさを示す「鰹の肉色」を損なう事無く、表面のみを瞬時に焼き上げ、藁が燃える時に発する「けむり」や「におい」には、魚の脂の酸化を防止し、尚且つ、殺菌効果のある成分「フェノール類」が含まれているという。 

又、茹でた大豆を藁づとに包み、藁についている納豆菌で自然発酵させたものが納豆である。 
最近でも季節になると報じられて見られるのが、風物詩ともいえる金沢・「兼六園」の藁縄による雪釣りの風景である。 
芯柱と呼ばれる棒を立てて、縄を渡す「りんご吊り」というらしい、芯柱は高いもので16mにも及ぶと言う。


藁は、我々現代人が考えている以上に強いといい、湿れば伸び、乾くと縮む性質がある。 
この性質を上手に利用したのが藁で編んだ「」である、縄で物を縛る時(祭屋台など・・)、湿らして縛ると後に乾く時にきつく締まるのである。 

藁といえば幼少だった頃、故郷田舎で牛舎の藁小屋で、藁まみれになって遊んだのを思い出す。
日本人と藁は、今でも切っても切れない関係に有るのである。


藁は単に米をとった後の残り物などではない・・、! 
燃料であり、様々な生活の道具を作る素材であり、新たに息を吹き込まれるべきものである。 
今、日本人の生活からどんどん失われようとしているものが多数あるようで、藁文化もその一つであろう。 
先人達の暮らしを知って、それらを残し、更に回帰・復古的にも行使、実施してゆくことは、環境問題にも一役かうかもしれない。

最近では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にあるという。
特に、或る研究機関は「バイオマスエタノール」(バイオマスとは生物から発生できるエネルギー量で、これをエタノールに変換し、内燃機関の燃料としての利用)の製造実験も発表されている


ところで、都会では米が白い状態のまま田んぼに出来ると思っている子供達がいるという。
そして、米のとぎ方も知らない若い母親もいるという。
冗談のようで何とも切なく悲しいな話である。 

故郷は遠きにありて思うもの」も結構だが、米のできる日本の田舎、田園、故郷、古里をもっと知らなければならない。


次回は、「出雲大社・社殿


2017年5月26日金曜日

平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」 




 平成日本紀行(182)出雲 「出雲大社」   、






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出雲大社の神楽殿を飾る日本一の「大注連縄」





先ず、出雲大社の日本一の大注連縄について・・、

午前6時を回った頃の早朝、国道9から国道431にて大社方面へ向かった。
国道は、それなりであったが大社の町は未だ朝の静けさの中であった。 

歴史を感じる古い家並みへ入ると、国道は急に狭くなってきて、老舗とおぼしき旅館なども目に入る。 右横に大きな駐車場があったが、早朝であまり人の気配が無いので、おもいっきり車を奥まで進めてみた。

左に祖霊社(信徒祖霊を祀る、法事なども行う仏寺院のようなもの・・?)と言われる社宮の参道が延びていて、右側には大社殿に一番近いと思われる門前横丁の商店街が並んでいる。 広い通りのお土産物商店街は、無論未だシャッターが下りていて、こちらの外れの方に車を置かせてもらった。


この辺りは大社本殿の西側に位置しているようで、正面にはすでに「神楽殿」の一際大きな社殿が鎮座している。 
表面には出雲大社特有の大きな注連縄(しめなわ)が配されて人目をひく。 

長さ13メートル、胴回り9メートル、重さは3トンにもなるという圧倒的な量感に驚かされる。 この大注連縄は、「国引き神話」の出雲を象徴しているともいう。(国引き神話については後述)

下向きの三個の末広がりの注連下がりには、よく見ると、あちこちに硬貨が突き刺さっている、誰が言い出したのか、うまく刺さると願い事が叶うと言われるが・・?。

神楽殿は本殿と同じように朝夕のお祭りの他、時に応じて御神楽や御祈祷が奉仕される。
全国には出雲大社の分社、支社、講社や教会が各所にあるが、それらに属する人々が揃って本社へお参りすることを「おくにがえり」と言い、ここ神楽殿でそのお祭りが奉仕されているという。 

出雲では祭事を行い献納することを「奉仕」と称しているらしく、祭事は8月6日~10日、「おくにがえり」の神事として執り行われるという。



「注連飾り」について・・

出雲大社・神楽殿の大注連縄(おおしめなわ)は日本一の大きさを誇るという。 
その長さといい、重量といい他の神社を圧倒しているが、その何よりの違いは、撚り(ねじり)が左綯い(ひだりない)となっているのが特徴であり、出雲地方の神社は概ねそうらしい。 

この注連縄とは、〆縄とか七五三縄の字も当てられ、又、「注連飾り」とも呼ばれている。 
注連縄は神聖な場所を意味するもので、俗的な世界と神聖な世界とを区別する結界の意味もあり、日本神話の天の岩戸に張った「しめくりなわ」が元祖とされている。

その起源は古事記に、「天照大神が須佐之男命の乱暴を畏れ天の岩戸に隠れた時、この岩戸の前で天宇受売命(アメノウヅメノミコト)らの神々が賑やかな宴を催した。 これを怪しんだ天照大神が覗いたところ、傍に隠れていた天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)がその手をとり天の岩戸から引き出だした。 そして、布刀玉命(アメノフトダマノミコト)が尻久米縄(しりくめなわ・しりくべなわ)をその後ろへ張り渡し『ここより内に戻れませぬぞ』と告げた」と書かれている。


注連」をなぜシメと読むのか・・?、
中国では、人が死んで魂が外に出たとき、戻らないように水を注いで清め、縄を連ねることを注連(ちゅうれん)といい、その縄を注連縄と読んでいたらしい。 
日本神話における「しりくめなわ」が、中国での意味の「しめくりなわ」の意味となり新たな語彙が生じたのかもしれない。


又、注連縄の別の意味合いでは、古神道でいう大自然そのものを現しているという。
大自然そのものの中心になるのが太陽であり、天である、その自然現象を表したのが「注連縄」であるという。  

横に張られた縄の部分が「」、垂れた縄が「」、神垂(紙垂)が「」とされ、その奥にくるのが神様()となり、総じて自然現象を象徴しているといわれる。 
この注連縄を祭りや祭事に付けることにより五穀豊穣に感謝する春、秋祭りの意味を持つことになる。

又、注連縄には清浄・神聖な場所を区画するための境界線としても引き渡される。 
従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸、瀧(滝)、寺院などにも掲げてることろをよく見かける。 
正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、上述の意義により家の中に悪霊を入れず、穢れ(けがれ)を去り、無病息災・家内安全を願ってのことである。 

相撲の「横綱」は土俵入りの際、紙垂のついた注連縄を化粧まわしの上につける。 
相撲界では横綱が最上位であり、穢れてはいけない神に近い存在ともされている所以である。


注連縄は、左捻り(ひだりより)を定式として三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(かみしで)を一般には4本下げる。 
紙垂は、御幣(ごへい)、幣束(へいそく)ともいい、ご神体(神様)を魔神、魔物から守る力があるという。

因みに、数本の藁(ひもや糸も同様)などを、より合わせて1本にするこのを捻る(よる・撚る)といい、普通、捻りと綯い(ない)は逆になる。

注連飾りには「大根締め」、「ゴボウ締め」、「輪飾り」など色々な種類の形式があるが、最も一般的な大根締めは両端がつぼまり中心部が太くなる形、そして、ゴボウ締めは片側が細太となり、一般に左側が細く右側が太くなるとされる。


又、古代、注連縄の材料である藁自体にも神が宿るといわれ、幸運を呼ぶ力があると信じられている。 
藁は神に奉げる米、稲穂を支えている芯でもあるからである。 

正月には、この藁で注連縄を飾り、小正月や孟蘭盆には藁火を焚いて先祖の霊を迎える。 
正月の注連縄は、その家が神の家であることを示し、注連縄のシメはそこを占める、占有するといった意味で、占有するのは神である。 

建物を建てる時の地鎮祭でも注連縄が張られるが、この地を神が占有し魔物を遠ざけることで、その建物も守られるという考えからきている。


次回は、「」についての考察


2017年5月24日水曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)







 平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)  .






 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/2/78p1.jpg
大森代官所跡近くにある「井戸平左衛門正明」を祀る井戸神社





序ながら、「いも代官」と言われた大森代官の逸話を一つ

石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したという。
無論、当地の代官は銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。


1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。 
彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。 

その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させたとされ。 
又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。


普通、代官といえば私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが、こちらは善政の見本の如くの人物である。 
しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 

平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。 
井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町に鎮座している。


境内の顕彰碑には・・・、
『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』

平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県の外に鳥取県や広島県にも建てられていりという。




引き続き近世の「石見銀山史」であるが・・、

幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、その1ヶ月後、浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出し落城している。

これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。
この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 


こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、それに各所の墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。 

又、大森代官所跡に「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。


世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。  

尚、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。



【付記】  .

世界遺産に指定された大森地区は山間の狭い地域のために、観光目当ての自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。 こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。
因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3~4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)

本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました。 



関係書物は下記石見銀山に関する資料です。

「世界遺産石見銀山を歩く」 穂坂 豊
「石見銀山 四季 暮らし ものづくり」 いなとみ のえ
「石見銀山 (別冊太陽)」江田 修司 田中 琢
「出雲と石見銀山街道 (街道の日本史)」 道重 哲男 相良 英輔
「石見銀山を歩く」―ガイドブック
「江戸幕府石見銀山史料 (1978年)」 村上 直
「石見銀山の港町温泉津紀行」 伊藤 ユキ子

 
 
次回からは再び日本周遊を辿ります。 先ず、湖陵から出雲大社


2017年5月23日火曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」   .



「石見銀山」が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないという。
ただ、「銀山旧記」という説話古文書にはは以下のように記されているという。

『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・』 とある。


日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 

寿禎は先ず、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。 

寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。 
とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになり、秀吉が朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が今も現存するという。


次に、関が原の戦いに勝った徳川家康は、その僅か10日後には石見地方を直轄化(天領)している。
慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。 

石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。

天領である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。


以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つであり、「石見」の場合の所領は、銀山を中心とする約5万石相当で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。


先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
この「銀山旧記」は現在、「生野書院」(生野史料館;朝来市生野町口銀谷)に展示してあるという。
生野は「生野銀山」として石見銀山同様、大量の国内銀産出地として有名。



ただ、「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされているが、その中に、馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成された「銀山記」なるものもある。 
本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本(手で書き記した書物、写は書き記すという意味)や一般の読み物として流布したものとされている。 

時代が下って銀山が衰退する中、山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を編纂して幕府への貢献をアピールすることも行われたという。 
従って、誇張した表記も多く、真実性にはやや乏しいともいわれる。

その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500kg)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとある。 又、この頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り」と記している。 

如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう。



一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算がある

16世紀後半から17世紀前半の石見銀の最盛期における産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1が日本の銀が占めていたといわれる。(世界生産量の平均は年間200トン程度)  

そして、その石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていたことは、戦国時代後期のポルトガル人によって石見が「銀鉱山王国」と照会されたことでも判る。 

石見銀山は灰吹法の導入からわずか35年後にして、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれていたのである。 


石見銀山の最盛期の頃は世界史でいう大航海時代にも当たり、西洋では日本とも交流をもったポルトガルやスペインを中心とした航海時代に突入した時代でもあった。 

海上交通や貿易などで人々が地球規模で交わり始めていた中、貨幣価値は世界的にも「」とされていた時代である。 

日本に伝わったとされる「ポルトガルよりの鉄砲伝来」や「スペイン人のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教活動」(いずれも16世紀頃)などにおいて、彼らの本来の目的は日本の「」にあったともいわれている。


石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではなく、人々の往来により、海外から新しい技術や産業などを含め、驚くほど多様な情報や文物が伝わり、当時の庶民生活を豊かにしたともいわれる。


次回は、引き続き「銀山の歴史


2017年5月22日月曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」  .






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石見銀山の尾道銀山道
( このMAPは、筆者・○○氏から拝借したものです。
詳細URL; http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/49iwami-ginzan.html ) 





龍源寺間歩より先は、車では行けず山道となる。 

先にも記したが、この山道こそ石見銀山と温泉津を結ぶ、所謂「銀山街道・温泉津・沖泊道」であり、街道の中でも最重要の銀山ルーとで、しかも一番の難所と言われている。 

降路坂」と呼ばれる頂上部には「妙法蓮華経」という名号が彫られた石塔や石碑などが各所にあり、約1時間で麓の西山部落へ達する。
現在は「中国自然歩道」となって整備されている。

沖泊道は、主に16世紀後半の毛利氏の時代、約40年間にわたり銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地としても機能した港である。

沖泊道よりの北側、大森町の西側に「鞆ヶ浦道」が山間を貫いている。
沖泊道より更に古く、16世紀前半から中頃の大内氏の時代、銀鉱石を鞆ヶ浦から博多に積み出した港である。

二つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残っているという。
道中には運搬に関係した伝承の地跡、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが多数点在して残っている。



当初、銀の搬出は日本海側の温泉津港を使用し、海路により輸送されていたらしいが,海上輸送は危険を伴うため、江戸時代には陸路を通じ、今の広島県尾道へ運ぶルートが整備された。

慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦いが終わると石見銀山は徳川幕府の支配下に入り、初代の銀山奉行として大久保十兵衛長安(石見守長安)を重用し、積極的に開発をすすめた。
長安は、慶長中期(1608年ごろ)以後、銀の輸送は海上輸送から陸路輸送に切り替え、新たに広島県尾道までを結ぶ銀山街道を整備した。

近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町・尾道まで運ぶために設けられた街道で、難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。 
尚、この街道は江戸時代には出雲大社道としても往来があったようで、大いに盛んであったという。

大森を出発した銀は、荻原から険しい「やなしお道」(現在の国道357号線の南側、中国自然歩道;平成8年に文化庁の「歴史の道百選」)を抜けて粕淵、九日市、酒谷を経て赤名峠を越え、広島・安芸に入って三次、甲山から尾道まで運ばれた後、瀬戸内海路で大坂や京の「銀座」に集められたという。

この道中、「」の集積中継地として安芸・上下町(じょうげちょう;現、府中市上下町)に代官所が置かれ、幕府直轄の天領として政治的にも経済的にもこの地域の中心となっていた。
陸路の終着である尾道をはじめ豊かな商人が多かったこの宿場町は、現在でも商店街を中心に賑わいを見せており、奥行きの深い白壁の町屋など、文化財的建物が数多く残っている。


尚、大森銀山する生産する精錬された「灰吹銀」は、その都度代官所脇の御銀蔵に貯蔵され、百姓が動員されやすい農閑期に入った時期を見計らって年1回尾道に運ばれた。
尾道からは船で瀬戸内海を通って大阪に運ばれ、大阪銀座か大阪御銀蔵に一旦納められた後、京都の銀座に移され、そこで幕府が発行する銀貨に鋳造されたという。


次回は、 「銀山の歴史


2017年5月19日金曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」





 平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」   .






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石見銀山遺跡・「龍源寺間歩」入口




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龍源寺間歩の内部





落ち着いた雰囲気の「安養寺」からは道路は山峡の地へ入り、車がやっと一台通れるくらいの道幅である「新切間歩」や「福神山間歩」などがあり、間歩までは約1.5kmの坂道を緩やかに登って行くと最奥に「龍源寺間歩」があった。 
尚、間歩(まぶ)とは、明治以前は坑道(こうどう)のことを指していた。


この「龍源寺間歩」の近くには、前述した「佐比売山神社」があり、鉱山の神様をまつる神社として知られている。
社は参道、鳥居、山裾の階段を登った先、鬱蒼とした木立の中に鎮座している。

佐毘賣山神社は、鉱山開発の祖神である益田の同社・佐毘賣山神社から分霊、勧請したもので石見銀山の主神であり守り神である。 
主神は鉱山の神とされる「金山彦命」を祀る。


面白いのは石見銀山の主神・佐毘賣山神社と同名の神社が、同地域の大田市内の三瓶山の麓にも鎮座していることである。
この社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山の旧山名)山麓に池を穿ち、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたので神徳を仰いで、この地に祀ったという。 
所謂、米造り、金属の神とされる。 

配神として鉱山の神である「金山彦命」を祀ってはいるが、直接の鉱山の神ではないらしい。


だが、新羅(朝鮮)からの伝承をもつ三瓶山であり(国引き伝説)、元より稲作技術、金属精錬、鉱山開発の技術、それらの集団は朝鮮半島より伝わったものとされている。
これらの意味をこめて三瓶山の麓に、自身の山名でもある佐毘賣山神社を祀ったことは道理なのである。

出雲地方に共通した社名が付くのは決して偶然ではなく、神社としては珍しいことに三瓶山の佐毘賣山神社をはじめ、益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の三社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。

佐毘賣山神社の各社は、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生して鎮座している。



さて、「間歩」のことである。

小さな受付小屋があって、「変な・・おじさん・?」が居座っている。 
山蔦に覆われた坑道の入り口に「史跡石見銀山遺跡龍源寺間歩」とあり、現在唯一内部を見学できるのが、この龍源寺間歩のみであるという。 

龍源寺間歩案内板より・・、
『 江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。  坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。 』


銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)というが、石見銀山に500余り存在するとも言われる間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみとう。  
しかしその龍源寺間歩にしても、見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている坑道は見ることができない。 

龍源寺間歩よりもっと大きな坑道もあったようで、 近年までは電動のトロッコ列車なども使用されたようである。


間歩入り口は小さな洞窟で、古い坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残ってている。最盛期の頃は間歩の掘削は1日5交代の24時間フル稼働であったそうで、縦1m・幅60cmの横穴堀は大変な作業であり、当時の技術では熟練の堀子(ほりこ・鉱山労働者)でも1日に掘り進める距離は凡そ30センチがやっとであったと言われている。 

因みに、掘子の賃金は熟練の者で銀2匁(1匁=3・75g)で、今のお金で5000円位であったとか。(江戸・慶長年間) 
壁面に残る当時のままのノミ跡が堀子たちの過酷な労働を想像させる。


龍源寺間歩は、石見銀山に掘られた500ほどの坑道のうち、江戸時代の中頃に開発された坑道で、代官直営坑道「五山」の一つである。 
「御直山五ヶ山」とは、「龍源寺間歩」、「永久間歩」、「大久保間歩」、「新切間歩」などを五ヶ山と呼んでいる。


次回は、「銀山街道



2017年5月18日木曜日

平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」






 平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」  .





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街外れの山襞に苔むして一人寂しく眠る 「大久保石見守長安」の墓



人家も疎らになった山間の地をゆっくりと車を進めると山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に「大久保石見守長安」の墓地があった。

石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
単一のみの墓地なので寂しさは免れず、忘れられた様にヒッソリとしていた。 
しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう。 


長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。


大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。


大久保長安」は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。 
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。

甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。 

家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時に姓を「大久保」に改めている。 

関東250万石の内、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務采配の一切を任されている。 


1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に再び石見奉行、9月には美濃奉行など、錚々(そうそう;多くのもののなかで傑出している)たる略歴に任じられている。 

同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。



長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期で1601~1603年の間とされ、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「」の増産に務めた。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、脳卒中のために死去している。

享年69歳であった。


長安の事柄は、ここで終わらないのである・・!!。

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に、不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあっている。 

更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。 

だが、長安が不正蓄財を行っていたという証拠や見解は殆ど無く、これは近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・?。 

又、彼の財力と権勢を警戒した徳川家は、粛清や不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。 


一説には、長安は家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人に相応しいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われ、ある種、謀反の疑いを懸けられたともされてるが・・?。


一般的評判として、権勢をかさにした長安の立居振る舞いは、死後の風評を含めて決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見などは無いとされる。 

このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に、ただ一人で静かに眠っているのである。


尚、大久保石見守の墓は「大安寺跡」に建てられている。
大安寺は慶長10年(1605年)、大久保長安が自分の氏名から2文字をとって建立した寺で、墓はいわゆる逆修墓(ぎゃくしゅぼ)の墓とされている。

逆修とは、「生前に自分の法名をつけて墓を建立すると大きな功徳を得られる」との当時の謂れにちなんで建立した墓である。 
ただし、現存する墓石(五輪塔)やその横の石碑(紀功碑)は寛政6年(1794年)のもので、おそらく長安自身が建てた逆襲墓は家康の仕置き直後には当然ながら壊されていた。

紀功碑(きこうひ;功績を記した碑の碑文)を起草したのは、石見銀山第39代代官となった「菅谷弥五郎」であった。
銀山が凋落の一途をたどる時勢のなか、代官・菅谷弥五郎は石見銀山の再興再来を願い、碑文をしたためたのだろう。
寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上がある。


次回は、 銀鉱山・「間歩


2017年5月16日火曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」







 平成日本紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」  、




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深い入り江の「沖泊湾」



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穏やかな「鞆ヶ浦」



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入江で船を係留する岩・「鼻ぐり岩」 (以上、Wikから出典)






温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に、石見銀山の銀の積出港であった「沖泊」(なかどまり)そして「鞆ヶ浦」(ともがうら)がある。  
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江が数層連なった鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える。 
沖泊港を取り巻く岩場には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。

又、南に鵜丸城跡、北に櫛山城跡という二つの砦跡があり、大内氏や尼子氏それに毛利氏の戦国時代の拠点であり、港を確保し、銀を防衛するための要衝であったことも伺える。


因みに、その鵜丸(うのまる)城跡であるが・・、
温泉津の町並みの入り口から波止場沿いに進むと日村の港に着く。
その対岸から急な坂道を登ると、毛利元就ゆかりの鵜丸城跡である。

1562(永禄5)年、石見を手中にした元就は、勢いに乗じ宿敵・尼子氏の本拠地・月山富田城(安来市)に兵を進め、1566年、ついに出雲をも制覇した。
ところが、三年後、尼子再興を図る山中鹿介らが尼子勝久を擁して出雲に攻め込み、翌年に再び毛利と尼子が激突する。 

事態に驚いた元就が「石見を堅守すべし」と伊藤蔵之丞(温泉津町中の伊藤家の先祖)らに命じ、わずか一カ月で完成させたのが鵜丸城であった。 

標高59mの丘にある小さな城だが、鉄砲戦を想定した三段の帯郭(おびくるわ)が今もよく認められるといい、頂上に立つと、日本海がはるか遠くまで見渡せ、眼下に温泉津港や沖泊に入る船がよく見える。

又、標高38mに位置する櫛山城は更に古い築城で、1281(弘安4)年、元寇(げんこう)に備えて築かれた石見十八砦(とりで)の一つであったとされる。 
戦国時代は毛利氏に対抗した尼子氏の居城だった。


琴が浜に近い「鞆ヶ浦」(ともがうら)はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる。
その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという。 このことは沖泊と共通している。 

港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。
両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。  

昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。

その名残かどうか不明であるが、近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


次回は、 銀山の町・「大森町




2017年5月15日月曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」





 平成日本紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」  .





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温泉津温泉




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温泉津温泉・「薬師の湯」




江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 
やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようであるが。 
昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。 
駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」。
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していた津(湊)である。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。


中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。 

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。


温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 

街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ひなびた温泉津温泉の中でも、ひときわ目を引くレトロ調で洋風建築物である震湯(しんゆ)、薬師湯(湯元)は、古くから石見銀山の玄関口として栄えた温泉津の町並みの中心地に位置し、日本温泉協会の認定で、中国・四国地域で唯一の最高評価を取得した薬効豊かな湯と共に建築学的にも重要な建物として、専門家の間でも高く評価されている。

ある温泉ライタ―が・・、
『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに500~600m続く。 大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ 』と書いている。

ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた「いなばの白兎」でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。 
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  

昔は岩間から湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で湯水の如く、大量に噴出し始めたという。 


「源泉掛流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってくる温泉で加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉、これぞ本物といった感じであると。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されている。


次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦


2017年5月14日日曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」






平成日本紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」 ,





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG/800px-%E4%BD%90%E6%AF%98%E5%A3%B2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE.JPG
石見銀山の守神・「佐比売山神社」(Wikより)



さて石見三田・世界遺産大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜や四季を通じて楽しめる国立公園・「三瓶山」(大山隠岐国立公園)など自然が豊富に揃っている。

大田市街の南に聳え立つ三瓶山は、室の内(むろのうち)と呼ばれる低地より、主峰の「男三瓶」(1126m)に寄り添うように並ぶ「女三瓶」、「子三瓶」、「孫三瓶」などを主として、計六つの峰が環状に連なっている山である。

元より、石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場する。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。

佐比売山として出雲国風土記に出てくる民話「国引き神話」では、八束水臣津野命という神さまが出雲の国を見て
『 ずいぶん小さいな国じゃから、土地を引き寄せてきて大きくしよう 』
そして、『 くにこくにこ(国来国来)と引き縫える 』と言いいながら新羅の国から引っ張ってきた土地を杭につなぎ止められたという。
その引っ張ってきた国が今の島根半島で、其の時の一つの杭が佐比売山・三瓶山だそうだ。


『 出雲の国を造ったとされる「八束水臣津命」(やつかみずおみつぬのみこと;大国主命と同一とされる)は、その国が細く狭かったため、海の彼方にあった国のあまりに綱をかけて引き寄せ、つなぎ止めたというもので、引き寄せた国は日御碕から美保関へ続く島根半島(支豆支の御埼、狭田の国、闇見の国、三穂埼)、綱は大社湾岸の「園の長浜」と美保湾岸の「夜見島」。そして、「堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」。すなわち、三瓶山(佐毘売山)を杭としてくにびきの綱を止めた。(一方の夜見島の綱を留めたのは火神岳(鳥取県大山)ともされます。) 』  出雲風土記より


「出雲国風土記」では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
また、「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名が「佐比売村」として残っていた。

神亀3年(726年)ときの朝廷は、全国の山の名や土地の名を「三字名なら2字名」に、凶音をもつ名は好文字の名に変えるように命令した。
佐比売山(さひめやま)という古名をもっていた三瓶山は、このときに改まったと言われている。
(古代の三瓶山は、実は佐比売と三瓶の2つの名を一緒に使っていた。恐らく三瓶は愛称であり、その愛称が正式な名前になった)


三瓶山の山頂には佐比売山神社山頂祠、そして山麓には佐比売山神社の山麓社鎮座している。 御祭神は大己貴命 少彦名命 須勢理姫命など、配祀として「金山彦命」が祀られている。
ただ、三瓶町の「佐毘賣山神社」は、直接、鉱山を祀る神社ではないらしい。


三瓶地区に伝わる物語では、朝鮮・新羅から渡った狭姫「さひめ」が赤雁(益田市に赤雁町というところがある。地名は佐毘売命の神話にある、古代朝鮮から五穀の神を背に飛来した赤雁の伝承によるという)に乗ってきて三瓶へ移り住み、やがて、狭姫(さひめ)を祀ったことから佐毘賣山神社となったといわれる。

更に、朝鮮から狭姫が渡ってきた際、併せて製鉄やタタラ(古代より鋼の製法)の技術を持ってきたとされ、これを契機に、山伏などが製鉄を営んでいたので「さび山」といわれ、サビが転化して「サヒメ」になったともいわれる。

元より、「出雲国風土記」にもあるように、古代出雲ではすでに鉄が生産されていた。 
この鉄の原料は砂鉄で、奥出雲での生産が有名である。 
原料の砂鉄は出雲の海岸では容易に目にすることができ、それも、白い海岸を真っ黒に覆うように砂鉄があるといわれる。
「ヤマタノオロチ伝説」は、最先端の技術であった製鉄、鉄剣の逸話ともいわれる。


古代の製鉄技術や鉱山技術は出雲地方と古代朝鮮の関わりから始まったといっても過言ではなく、その象徴たる神が「佐毘賣山神社」であった。 
ただ、先にも記したが三瓶山の佐毘賣山神社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山)山麓に池を築き、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたという伝承から祭祀されているらしい。
しかし、稲作技術には鋤や鍬が必要なように、製鉄技術と同時に始まったとされ、これが弥生文化の創年の事象ともされている。

三瓶山の佐毘賣山神社には配神として「金山彦神」が祭られているように、製鉄、鉄鉱(砂鉄)そして鉱山の神の一面が明らかに見得ているのである。


佐毘賣山神社の創祀年代は不詳とされている。 
社伝によると天武天皇の頃、また、寛平三年(891)という説もある。 
何れにしても祖神は有史前後にも遡る、古い古い神であることが創造できる。


ところで、益田の鉱山神である佐毘賣山神社の創建も不詳とされている。
社伝によると寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・「金山彦命」を勧請して創建されたらしい。

序ながら、美濃国一ノ宮の南宮大社は別名・仲山金山彦神社ともいわれ、美濃国(岐阜県)でも有数の壮大な社殿を誇る。 全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めているという。
南宮大社は、金気一切を司る神として公権力より認知され、金山彦神は金属精錬の神々として、関連した多くの神々の集積したもので、強いて言えば新しい製鉄の神と言える。
元より、銅鐸とのつながりをもったより古い祭神で、鉄山を管理しながら製鉄神となって、各地に分遷されていったとされている。


歴史と伝承の三瓶山の佐毘賣山神社、鉱山開発の祖神である益田の佐毘賣山神社、更には石見銀山の主神・佐毘賣山神社と出雲地方には共通した社名が付く。
何れも、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生している。

尚、三瓶山の佐毘賣山神社は定かでないが、神社としては珍しいことに益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の両社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。


次回から実際の「石見銀山遺跡」を巡ります。



2017年5月13日土曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」






 平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の神


平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」



 平成日本紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
        ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。


さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、世界遺産・「鉱山の神


2017年5月11日木曜日

平成日本紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」





 平成日本紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」   、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Susanoo-Orochi.jpg
石見神楽(日本神話におけるスサノオの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を題材とした内容)


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG/1024px-Haiden_of_Izumo-taisha-1.JPG
スサノオと大国主(縄文の親玉を祀る・・?)を祭る出雲大社(妻入り風の拝殿と最奥は御本殿、高さ24m社建築最大高;後述)



石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい。

日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。
そして、「石見銀山遺跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。
赤は「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようである。 

本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「」についてチョット触れておこう。


大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」である。
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 
山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。
石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 

日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方と兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。
石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 

山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 
現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。


石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが、日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 

東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると。
人を指す時も、石見人とか出雲人と云われるそうで、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的であるという。 

古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 
その後、石州とも呼ばれることもある。 

尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。

地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるといい、全国的な知名度は決して高くはないというが・・?。


ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう。
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。
これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生も、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある。


日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
(余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになる。)
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する。 両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。


東北特有のズーズー弁は「縄文語」である、という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。

出雲王朝(大国主)は旧来の縄文人とも喩えられのである。 
大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。

弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に広まっていても何の不思議もないのである。

ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だったという推論である・・?。


又、同質の説も可能である。
縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ;古代からの装飾物)が大量に発見されているという歴史的事実がある。 

記紀(古事記、日本書紀)には、大国主が「翡翠」を求めて能登地方を巡りながら越後へ達している。
この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。
同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。
この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できるのである。

出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じで、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・


ところで、ズーズー弁の出雲弁は、現在でも出雲地方の山間の一部地域に残っているとも云われる。
何故孤立しているのか・・?、

ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 
大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。
そして遂には王朝の首都であった出雲を囲むように分断し、出雲弁が孤立するようになったと・・?!

これは歴史の面白さであろう・・!!

小生の「日本一周記」より、
出雲大社:「石見銀山」の後に記載します。 

奴奈川姫と翡翠: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27-7.htm 


次回も引続き「石見地方


2017年5月10日水曜日

平成日本紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」





 平成日本紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」   、




写真:世界遺産の「龍源寺間歩」、公開中の坑内



世界遺産・石見銀山遺跡(1) 「はじめに」

2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。
正式名称は『石見銀山遺跡とその文化的景観』としている。

年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」(事実上の凍結、落選)の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。

石見銀山は16世紀以降のもので『産業遺産』としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 
世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。



「石見銀山遺跡」の核心部分

一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。

二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」で、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。

三つ目に、それらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。
それに温泉のある港町・「温泉津」(ゆのつ)は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。

平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」(重要伝統的建造物群保存地区)を受けている。


それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である。


因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。
日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。


ユネスコについては次のように記されている。
ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationといい、頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している。


次回は、「石見地方


01. 15.

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