google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 2017

2017年12月26日火曜日

平成日本紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」




「さすらいと変化を愛するものは生ある者である。」by(ワグナー)   





 平成日本紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」  .






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Chirihama_nagisa_driveway.jpg/1024px-Chirihama_nagisa_driveway.jpg


 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-203.jpg
羽咋市の「千里浜なぎさドライブウェイ」



金沢市を後にえしt能登を目指す。

能登入り口にあたる海岸線の「能登有料道路」を目指す。
北陸道を横切り、県道60にて海の端・栗橋(内灘町)のインターから高速道へ乗った。 
いきなり日本海が目に飛び込んでくる。 
ここからしばらくの間、左手に海を観ながらのクルージングロードとなる。


能登ハイウェイは、金沢から内灘町、そして穴水まで全長83kmを結ぶ能登半島の大動脈であり、内灘から柳田あたりまでは海岸線を、柳田から終点の穴水までは内陸部を走ることになる。 
能登一周するのであれば柳田ICで下りてR249を北上するのがベターのようである、とりあえずその柳田を目指す。


海岸線は比較的多くのインターが設けてあるようで、その中の高松町に「道の駅 高松」があった、高松S・Aでもある。 
有料道路の北向き(能登方面行き)と南向き(金沢方面行き)と別々に道の駅があるようだが、 断然お勧めなのは能登方面行きの駅の海側だろう。 

金沢方面行きが山側に位置するので眺めの良さが全然違うのである。 
こちらの駅からはすぐ海岸に降りれるようになっていて、足下にはすぐに白い砂浜が広がっている。  

もともと能登有料道路上の「高松SA」として造られ、その後「道の駅」と認定されたため、上り線と下り線の2ヶ所に「道の駅 高松」があるというチョット変わった道の駅になっている。 
「道の駅・高松」は能登有料道路からはもちろん、一般道からも利用することができるようである。 つまり、ハイウェイではS・Aであり、一般道は道の駅なのである。


落ち着いた和風ムードのレストハウスで、日本海を一望しながら時間的にはやや早いが、軽い昼食を摂る。 
一服して再び走り出すと間もなく今浜というところを通過する。 

この地は、先般、家族で北陸旅行した際に、最も印象に残った箇所で千里浜という海岸線である。
羽咋市域南部か今浜辺りは千里浜といって「千里浜なぎさドライブウェー」で有名なのである。 

家族を乗せたワンボックスカーが、道路でない波打ち際の砂浜を、否、波打ち際の砂浜の道路を走り抜けるのに、子供たちがキャーキャー言いながら感嘆してたのを覚えている。 

海岸およそ8kmの渚のドライブウェーは、車が通れる砂浜として全国的にも知られていて、それは、他の海岸の砂の粒径は1mmから0.5mmほどだが、千里浜の砂は細粒で4分の1mmほどしかないらしい。 
それに海水がしみこんで固い砂浜を作りあげ、波打ち際を自転車からバスまでも走ることができるのである。 

この道路は、れっきとした国道249号線の海岸道路なのである。 
ただここで、バイクの人は注意が必要であろう。 

千里浜の出入り口付近は砂の水分が少なくフワフワしており、タイヤを取られる恐れがあるという。 
そのうえ砂の上なのでさすがにスタンドが立ちにくく、あらかじめ板状の物を持っていく必要があると思う。 
又、渚ではバイク、車共に潮が付くのでドライブウエイから出たらスグ洗車を要するであろう。 
バイクの場合は特にエンジンむき出しだしのため、チェーンに砂が絡みつくので必ず洗車した方がいい。
 

千里浜の北側では毎年7月中頃、羽咋市主催の恒例行事「千里浜なぎさフェスタ」が開催され、この砂浜を利用した「砂の像」やその他の催しが行われる。 
周囲の砂丘で見られるクロマツの林は、飛砂防止のために江戸時代に植林されたものであり、砂浜には、ハマナスやハマヒルガオなどの海浜植物も見られる。 
遠浅の海は、潮干狩りや海水浴場としても賑やかであるとか・・!。


次回は、「気多大社



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2017年12月24日日曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「金沢の茶屋街」


.「この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが帰りはない」   <吉川 英治>





 平成日本紀行(211) 金沢 「金沢の茶屋街」   、




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-202a.jpg
東茶屋街の豪奢な一角





兼六園、金沢城址の北方、浅野川の辺に「ひがし茶屋街」があった。 
石畳の路地に、古い佇まいの町屋が並ぶ、何とも雰囲気のある通りである。 

今はまだ、お天とう様が真上にある時間帯なので、そこはシーンと静まり返っているが、夕闇とともに格子のある家々から行灯の灯が灯り、立ち並ぶ間からは三味や太鼓、笛などの音が聞こえてくる。 

金沢市は京都同様、戦時に空襲の被害を受けていない希少な都市であり、随所に城下町時代の古い姿を残し、訪れる人が絶えないという。 
金沢城を中心に渦巻状に城下町が形成され、南北に北国街道が通過し、その市中に浅野川と犀川が流れている。 
その東岸の東山地区には数箇所に分かれて残存する茶屋街が在り、その中でも最大規模と言われるのが「東茶屋街」であり、近年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されている。


文政3(1820)年に金沢城の東の廓として設置されて以来、この界隈には町人、文化人たちの集う場となり、遊興の場であった。 
石畳通りの一本道は混じり気のない全くの茶屋建築で統一されていて、当時、町人たちは二階建築が禁止されていた中で、特別に許可されていたため総二階で統一された美観と迫力がある。 

比すれば京都・祇園や飛騨・高山の古い町並み(三之町)を想起させる風情でもある。 
特に裏路地に入るとかつての茶屋街は江戸期のそのままの風情を味わえるという。


御茶屋として現在は8軒が実際に営業しているらしい。 
京の祇園や先斗町(ぽんとちょう)の如く、やはり 、一見さん(いちげんさん)はお断りだとされ、これは京都の町屋の商法・・?と合い通じるのである。 

一見さんとは、お馴染みさん・ご贔屓(ひいき)さんと言われる顧客を大事にし、大切な時間を割いて来てもらったお客に楽しい一時を過ごしてもらうよう最大限の努力をする。 
そして、細くても永い付き合いをする為の茶屋独特の接客法で、無論、支払いの仕方も特別にあるいう。


現在、金沢市内の三箇所の茶屋街には芸妓は50名、その内、この東茶屋街では20名いるそうで、年齢は20代初めから70代後半の年増さんも居るようである。  
芸妓は、芸を売るので只年齢が若ければいいと言うものでもなく、やはり芸がしっかりしていることが大切で、芸妓の仕事はお酌をし踊り、三味線、笛、太鼓などを鳴らし、飽くまで客を楽しませるのである。

席料は「一席二本」といい、一本は45分、これは線香の燃え尽きる時間だそうで、普通一席は13万から15万が相場といい、人数に関係なく時間の値段であり、大勢で割り勘をすれば結構お安い・・?とも言える。

京では、店によっては店に入る時「お帰りやす」と迎えてくれて、店を出る時「いっといやす」て云って見送ってくれるという。 
まるで我が家の様な持成し(もてなし)であるが、此方(こちら)の金沢の方は如何であろうか・・?。


すぐ近くに金沢が生んだ文豪・泉鏡花の生家跡があり、平成11年に記念館として開館し、遺品の数々を展示しているという。 
全く人気のない寂とした東茶屋町風情を、数枚の写真に捉えて後にした。


次回は「能登


2017年12月23日土曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「金沢城」







 平成日本紀行(211) 金沢 「金沢城」   .




https://kanazawa-tourism.net/wp-content/uploads/2017/12/to-kenrokuen13.jpg



https://www.gnavi.co.jp/sightseeing/ishikawa/public/images/spots/93/6425/l.jpg
金沢城と兼六園を結ぶ石川橋と金沢城公園



兼六園に隣接して「金沢城公園」がある。

主要道を跨いだ貫禄のある立派な橋・石川橋が両所を結んでいる。 
その向こうには石川門があり、左右に二つの楼閣が見えている。 

この貫禄ある橋脚の下には広大な「百間堀」というのがあり、城を取り巻いていた。百間堀は、一向一揆の尾山御坊(後の金沢城)を攻め落とした佐久間盛政が、その跡に今の金沢城を築城する際に掘らせたものだという。 
工事に駆り集められたのは、皮肉にも元の主たちである、あの一向宗の門徒達であったという。


この辺りは金沢市の中心部に位置する所でもあり、百間堀は、明治末期に埋め立てられて道路になり、市電が走るメーンストリートになった。 
道路となった百間堀通り(百万石通り)では、加賀の藩祖・前田利家が金沢城入城を記念して行われる「加賀百万石祭り」の主要会場であり、行列や木遣りの催事が行われる。そして、隣接する兼六園は、祭りの間は無料開放されるという。


1546年、前身となる空堀や柵などを備えた城作りの寺院・尾山御坊(金沢御堂)が建設され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得、本願寺の拠点となったことは先に記した。

1580年 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、そのまま尾山城と改称して用いたが、後の賤ヶ岳の戦いの際、主君・柴田勝家が敗れたのと同時に没落し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が天正11年に入城し、改築城している。 

加賀の前田氏は「加賀百万石」といわれ、江戸時代の大名の中で最大の石高を持つ大大名である。2番目の薩摩の島津氏が77万、3番目の仙台の伊達氏が62万というから、120万石をもつ前田氏は如何にダントツであったかが判る。


慶長4年、利家が没し家督を受けた利長は、豊臣家・五大老の一人であり、更に、この時の利長は豊臣秀頼の傅役(もりやく)でもあった。 
利長同様、五大老の一人であるが、内心、天下を狙う徳川家康が最も警戒したのが豊臣家と併せて利長(前田家)であり、家康にとっては厄介な存在であった。 

家康はこの厄介者を潰そうと難題をかけてくるが、それに対して利長は弱そうな振りをして何気なくも、鮮やかに難題をかわしている。 
謀反の疑いをかけられても、母親(まつ)を江戸に証人・人質として出し忠誠を示している。 一方で、利長の弟・利常と珠姫(徳川秀忠の娘、家康の孫。)の婚姻関係を約し、自ら隠居して利常に家督を譲った時には、豊臣色の濃かったはずの前田氏は徳川色に染まり、三代家光が将軍になる頃には前田氏と徳川氏は外様にしては異例の良好な関係になっていた。


「戦」という強硬手段を用いず、徐々に豊臣氏を離れ徳川氏に接近、その地味にして先見の目と緻密な利長の行動の結果が、前田家が幕末まで存続させることにつながってゆく。 

徳川・藩政時代は、各藩では家督問題等で内紛が発生した場合は即刻、縮小されるか廃藩に追い込まれる中で、加賀百万石が近世にまで温存したのは、前田氏の藩祖、及び利長の緻密な思惑を踏襲したに他ならない。


徳川家の珠姫が輿入れした時には、徳川家からは数百人の家来が付き添ってきたという。
その多くが、今の石川門正面の兼六園入り口付近に住み付き、その名も「江戸町」と呼ばれる屋敷街を形成していた。 

珠姫が24歳で亡くなった後、付人、家来たちの多くは江戸に帰り町屋は消滅したが、近年の発掘でその住居跡も確認されている。 

百間堀の中には、白鳥堀や蓮池堀といった、「江戸風」の趣を取り入れた御堀端があったとされ、徳川家康の孫・二代将軍秀忠の娘「珠姫」の威光は加賀の地で大きく執り成し、前田家の徳川への義理・忠臣が伺える。 

江戸生まれの姫さまをお慰めする理由で加賀の地に「江戸の風」を吹かせ、「二つの堀が江戸城と同じ配置で並んでいて、金沢に成立した江戸町の風情」を保ったという諸事は、加賀百万石にとって少なからず好影響を与えていたことは確かである。


次回は、「金沢の茶屋街



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2017年12月22日金曜日

平成日本紀行(211) 金沢 「兼六園」



「世界は一冊の本だ。旅をしないものはその本を一頁しか読めないだろう。」
アウグスティヌス(古代キリスト教世界で最大の教父、神学者と言われる) 





平成日本紀行(211) 金沢 「兼六園」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-199.jpg
兼六園(入場口付近)と徽軫灯篭と黄門石橋




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-200.jpg
兼六園の灯篭と石橋



見れば、右手に広大な「小松空港」が横たわっていた。

走り出して間もなく梯川の橋を渡る。 
ここから先の北陸道はまるで海上の上を走るが如く一気に走り抜き、金沢西I・Cで下りて金沢市内へ向かった。  

県道25号、通称、西インター大通りから市内中心部、北陸本線を超えて名所「兼六園」へ達した。 
緑豊かな、やや勾配の道の上に入園口がある。
小生、何度か訪れているので入園はせずここまでで、記念の写真に収めるのみとした。


兼六園は、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる「雪吊」は冬の風物詩として情緒を添える。 

又、霞ヶ池の湖畔には、琴に見立てて徽軫灯籠(ことじとうろう)というのが据えられていて、園内でも有名スポットであり池に映える姿は優雅で美しい。 

徽軫(ことじ・琴柱)とは、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱に似ているため、その名が付いたと言われている。 
又、この灯籠の架台は、虹のような形の橋に支えられているため虹橋ともいい、琴橋という別名もある。 
徽軫灯籠は、水面を照らすための雪見灯籠が芸美に変化したものであり、兼六園を代表する景観となっている。


兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残されている。
岡山県の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三代名園の一つに数えられていることは周知である。 

兼六とは、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりき)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼ね備えた庭ということで、その名が付けられたという。 

園内には、池を渡る石橋や築山を巡って曲水や池、滝などが配され、随所に縮景という作庭手法が用いられている。 

例えば霞ヶ池は琵琶湖を模じったともいい、霞ヶ池と瓢池の間にある「黄門橋」(黄門と言えば水戸黄門が有名であるが、加賀三代目・前田利常も加賀の黄門様と言われた)と「獅子厳」は謡曲・「石橋」を表現しているという。


謡曲「石橋」は、能の中で最も勇壮にして豪華な演目であるという・・!、
文殊菩薩(知恵を授ける仏尊)の乗り物の霊獣・獅子を表すことにより、(文殊)浄土を象徴しているとされる。

『 平安の歌人・大江 定基(おおえさだもと) は出家して寂昭(じゃくしょう)法師と号し、唐・天竺へと渡り、清涼山へと至った。 目も眩むような深い谷には幅の細い石の橋が懸かり、渡ろうとしていると童子が現れ、「この橋は人間の渡れるものではない・・、」と諭し、「向側は文殊菩薩の浄土である。ここで待てば、やがて奇瑞(目出度いことの前兆として現れる不思議な現象)が現れるであろう。」と告げて消え失せる。 しばらくすると橋の上に獅子が現れ、国土安穏を祈念しながら、咲き乱れた牡丹の間を舞い戯れる。』  


牡丹は百花の女王、獅子は百獣の王、この最強にして最上の組み合わせは、古代、高貴な身分の人が御印として使ったものであるとされた。 
一般に、歌舞伎における「獅子物」と「道成寺物」の両舞踊は、相並んでの女形舞踊の二大ジャンルといわれ、獅子物舞踊はその発想を謡曲「石橋」に発しているという。


次回、「金沢城




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2017年12月18日月曜日

平成日本紀行(210) 小松 「安宅の関」



「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ>  





 平成日本紀行(210) 小松 「安宅の関」  .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-198.jpg
写真:安宅関の銅像
弁慶(中央)・富樫(右)・義経(左)の各像、石碑に刻まれた「智・仁・勇」の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気を表現している言葉





北潟湖の南端は既に加賀・金沢であった。
そして、北陸道の加賀I・Cがすぐ近くにあり、これに乗って金沢まで行くことにした。 

途中、「安宅PA」で休憩、ここがまた珍しくトイレ以外何にも無い、売店も無ければ自販機も、ベンチも無い、無い無いずくしでこれはこれでよかったが。 
ただ、意外なことに、トイレがとても管理の行き届いて綺麗なので、「おー!」という感じであった。


何も無い安宅のPAであるが、この地安宅は「安宅の関」で有名なところである。 
石川県小松市安宅町、日本海に注ぐ梯川(かけはしがわ)の左岸の丘、ここは美しい松原で「安宅関跡」の碑が建ち、そのほか安宅・住吉神社、神社の参道に弁慶逆植松、弁慶・富樫問答の像などがあるという。 


弁慶(中央)・富樫(右)の銅像は、七代目松本幸四郎・二代目市川左団次をモデルとし、左端は義経像である。 
石碑に刻まれた智・仁・勇の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気であり、わが国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉ともいう。


日本海の海の色は、太平洋と違って濃い紺青色で、松の緑と対照的に美しい。 
この「安宅の関」(あたかのせき)は、古来、梯川の上流にある北陸路の通行を監視する、重要な役目を持っていたという。 
その関は、加賀安宅に加賀の守護・富樫氏が設けたと言われる関所であり、歌舞伎の「勧進帳」で有名になった箇所でもある。


『 源平・壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は生来の猜疑心から、これを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしていた。 頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設け、当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家が任に当たっていた。 そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかる。 一行の山伏姿を関守・冨樫に疑われると、弁慶は、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧である称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとした。 しかし、荷人夫姿の義経に疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主君・義経を打ち据える。 冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのであった。 』
 

ここまでは、後年、歌舞伎や物語になったのであるが、以前は義経の西国落ちの道程を扱った「船弁慶」という猿楽(能楽の原型)や能になって演じられたのが始めであると言われる。 

又、能以外にも幸若(幸若舞のこと、室町後期の芸能の一つ、広義の曲舞の一種で、武士の世界を素材とした物語を謡うのを特色とする)の富樫軍記物や「義経記」などの諸要素を取り入れて成立したともいう。

安宅(あたか)能楽は、観世小次郎信光(室町期の能作者)の作とされ、曲名の四番目の出し物である。 義経追補のために設けられた新関を富樫(ワキ)が守護している。 弁慶(シテ)は、義経(子方)を荷人夫姿につくりあげ山伏の一行として新関にかかると、富樫はこれを怪しみとどめる。 一行は覚悟を決め、山伏の勤行を始めるが、勧進帳の聴聞を求められた弁慶は、これを高らかに読み上げる。 疑いも晴れ、関を通ろうとするとき、変装した義経を見出し供の郎党(ツレ)は詮議するが、弁慶の知略で事なきをえる。 安堵する主従の元へ、先度の非礼をわびる富樫から御酒が届けられ、弁慶は一差し舞って喜ぶ(男舞)。 以上のように劇的構成をもつ現代物で、後に歌舞伎に入って「勧進帳」となった。

『 それ、つらうらおもんみれ~ば  大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき・・』

勧進帳を諳(そら)んじてた弁慶は、怪力無頼の強僧でありながら、学識、知恵のある智僧でもあった。

次回は、「金沢




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/





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「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




2017年12月16日土曜日

平成日本紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」



「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」
(スティーブンソン;イギリスの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイスト)  






 平成日本紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」  .




ここで法然、親鸞、蓮如たちの浄土宗とじ浄土真宗の流れについて・・、 

本願寺とは今の西本願寺の事であって、浄土宗の流れを汲む宗門である。 
その浄土宗は、平安末期から鎌倉初期にかけて日本の高僧である「法然」(ほうねん:1133年~1212年)によって開かれた教義であり、後年、円光大師とも言われた。 
法然は比叡山・天台宗の堂僧となり、その教えを学んだ後、それを新しく展開し、教示したのが「浄土宗」であった。


法然の門下生であった「親鸞」は、法然の死後、自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、更に高めて行くことに力を注ぐためとして「浄土真宗」を起こした。 

親鸞(しんらん、1173年~1262年)は見真大師(けんしんだいし)ともいい、各地で布教活動をするが、35歳の頃、国の権威者から専修念仏禁止(真宗派による予想外の布教成果に嫉妬した奈良・興福寺やと比叡山の仏僧たちによって反旧仏教者と見なされた)の弾圧を受け、それが為、越後国府へと流罪となり、赦免まで5年間を要した。 

親鸞自身は「僧に非ず俗に非ず」という生活を送っていたが、後に、常陸国(茨城県)へと旅立ち、「教行信証」(浄土真宗の教書)など著して「浄土真宗」(一向宗、門徒宗とも通称される)を開く。 

弘長2年(1262年)、京で90歳で没する。 親鸞聖人の墓所として建てられたのが京・知恩院の近くの大谷の本願寺であり、浄土真宗本願寺派の一派とし本山とした。


時代は下って、室町中期の1457年、「蓮如」は第八代・本願寺門主となった。 
当時の本願寺は衰亡の極みにあり、宗派の中心寺院としての格を失い、「青蓮院」(最澄が開基した天台宗寺院:三千院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされている)の一末寺に転落していた。 

1465年、大谷本願寺は比叡山の僧兵によって破却され、結果、京都から近江に難を避けた蓮如は越前吉崎に移った。 
この頃、社会そのものが衰退していた時期でもあったが、徐々に民衆が力を得て進展し、農村の生産力の増大とともに旧荘園領主の没落で、農民の地位は次第に向上していった。

蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な伝道を開始した。 
蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は近畿から東海、越前、加賀地方に広がった。 

蓮如は親鸞以来の血脈を根拠として北陸の浄土系諸門を次々と統合し、本願寺は爆発的に発展し、「一向宗」とも呼ばれるようになった。 
 

教団の拡大に伴い、1473年には加賀の統治者・富樫氏(とがしし:富樫庄・石川県金沢市 を本拠とする豪族であった)の要請を受けて、守護家の内紛、政事にまで介入するようにる。 
以後、加賀には国主の代理として一門衆が在住するようになり、次第に国人層(役人)に代わって本願寺による加賀支配が行われるようになった。 

1546年には尾山御坊(金沢御堂、後の金沢城)が建立され、越前、加賀は百姓、門徒宗の支配する地域になっていった。 

又、ここを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させて行くのである。 
一向門徒宗は1560年代には越前・朝倉氏と、1570年代前半は越後、加賀の上杉氏と、その後は織田信長とそれぞれ対立し、朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたともいう(九頭竜川会戦)。 

一般に、加賀の一向一揆とは、1488年頃から1580年にかけて、加賀国の本願寺門徒らが中心となって行った一向一揆のことを指している。
 

戦国期、信長は1496年、石山本願寺(蓮如のときに摂津国石山・現大阪市中央区に建てられ、後に浄土真宗の大本山となった寺院)を降伏させ、尾山御坊は信長重臣・佐久間信盛によって陥落させられ僧・民集団の一揆は解体された。 

関ヶ原戦後の江戸開幕時、徳川家康は本願寺のすぐ東(六条烏丸)の土地を「教如」(石山本願寺の第12代門主)に与え、最大の宗教勢力であった本願寺の勢力分散をはかった。 
これにより本願寺は、西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)と東本願寺(現在の真宗大谷派・真宗本廟・)とに分裂することになった。 
東西本願寺は、この時点から現在まで存続している。


次回は、「小松・安宅



2017年12月13日水曜日

平成日本紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」






平成日本紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」   .






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北潟湖と蓮如上人記念館略図(資料)







再び国道305から芦原へ出て、金沢方面を目指す。 
北潟湖」という湖畔を右に見ながら暫く走るようになる。 

湖畔は葦の茂る静かな湖で、さして深さも感じられず、所々で釣り人が糸を垂れている。 
広い湖のわりには比較的で身近な沼のような雰囲気をもっている、こんな湖はきっと魚影も豊
富なのだろうと勝手に想像してしまう。 


北潟湖は南北に長い湖(正確には南西から北東)で、北側の先端部は大聖寺川と合流して日本海に繋がっている。 
北部では汽水湖(海水と河水とのチャンポン)の状態であるが、南部ほど真水であるという珍しい湖であり、そのため確かに魚の種類は多いという。 
中には1m以上もある草魚を釣り上げた人もいるとか・・ギョッ(魚)!。


湖のほぼ南端の細くくびれたところの橋を渡ったところ、ここ吉崎地区に「蓮如上人記念館」というのが在った。 
湖の畔にある大きな施設であり、蓮如上人(れんにょしょうにん)の足跡や付近の歴史が分かる資料館で蓮如館、民話館、自然館の三館からなっているようだ。 

資料館である「鳳凰閣」は蓮如上人に因んだものであろう、寺院を模した堂々たる建物である。 
ただ、見学料は各施設込み込みで2000円というのはチト高く、時間のことも考慮して入場は遠慮した。



蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧で、本願寺中興の祖といわれる。 
時に、本願寺蓮如とも呼ばれる。 

浄土真宗を起こした親鸞の直系とはいえ、蓮如が生まれた時期の本願寺は、他宗や浄土真宗他派に対し、衰退の極みにあった。 
その本願寺を中興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた高僧であった。 

明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師(えとうだいし)の諡号(しごう、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る)を追贈されている。 
蓮如は五十歳前後に、ここ越前吉崎に来て坊舎を建て、数種の教文を刊行するなど、独創的な教示を展開しながら、凡そ、四年間滞在していたという。 

蓮如は本願寺・第八世の門主でもあった。 


次回は、「高僧と浄土宗派


2017年12月12日火曜日

平成日本紀行(208)三国 「東尋坊」






     平成日本紀行(208)三国 「東尋坊」






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東寿坊お絶壁


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東寿坊




芦原から三国の、あの「東尋坊」までは一投足であった・・、

案内に従って進み、道路側帯が松の緑の覆われている間をぬって行くと、お土産屋や宿舎のある賑やかな一角へ出る。 東尋坊岬であった。 

観光看板に荒磯遊歩道とあり、そこの岩盤の上をソロリソロリと行く、間もなく絶壁の端へ立って下を見下ろすと、全身ザワザワとして、下のほうがキーンとなって緊張感に震える。 
高さ50mにも及ぶ断崖絶壁は約1kmも続き、絶壁には日本海の荒波が打ち寄せる、実に豪快であり、周囲は迫力ある眺望が展開する。


東尋坊は、安山岩(火山岩)とかいう岩塊の柱状節理(マグマが冷却固結する時に生ずる柱状の割れ目、多く岩脈・岩床・溶岩などに生ずる)、地質学的にも貴重で日本ではここ一ヶ所のみ、世界でも韓国の金剛山、ノルウェーの西海岸とあわせて三ヶ所しかないという。 
冬になると、季節風による日本海特有の烈風が吹きすさび、波濤のちぎられた波屑が泡となって岩礁の間にたまり、再び風に舞い上がる「波の花」が見られるという。 ふわふわ飛ぶ姿はまるでシャボン玉のようで、この模様は冬の東尋坊のお薦めだという。

日本海に面して衝立する一大観光名所・国定公園「東尋坊」にはもう一つの顔があるという。 
実は、ここは自殺の名所でもある。 

平成13年の統計によると、30人が投身自殺し、保護された人は62人にのぼるという。 
自殺決行者は、綿密に場所、天候を選択するそうで、豪雪や台風時には人は死なないといい、快晴の日は危ないという。 
尤も、福井地方は「弁当を忘れても、傘を忘れるな」という言い伝えがあるほどの多雨地域でもある。


小浜署の、あるベテラン刑事に忘れられない体験があった・・、

昭和53年7月初の快晴の白昼、男性2人が署内に駆け込んできた。 挙式を控えたカップルが七夕の夜、小浜市の海岸のレストランを出た後「行方不明になっている・・」という急報であった。  
二人は地村 保さんと浜本雄幸さんで、不明者は息子の保志さんと娘の富貴恵さんであった。 
刑事は「ただ事ではない」と緊張して聞きいった。 

「何かのトラブルに巻き込まれたか・・?」

スワッ・・!とばかり、小浜署や福井県警、その他の関係者達は東尋坊の海さらい、近辺の山狩りなどを続けたが手がかりは無かった。
その後も両親たちは長期間あきらめる事なく、新潟から島根に至るまで足を延ばし、情報を集め、探索を続けたという。 


後年、北朝鮮による拉致事件と判明した・・!!。

刑事は、改めて命の重さ、それに拘る(かかわる・こだわる)ことの大切さを学んだという。
その地村さん、浜本さん(ご夫婦)は、過ぐる日、家族と共に北朝鮮から幾星霜ぶりに帰国した。しかし、 北朝鮮による拉致事件は、未だ、未解決のままである。 
平和ボケ日本、ひ弱な日本の国情が、ここにも一つ在る。


ともあれ、昨年の自殺者は3万2千余人、ここ数年、3万人を超えたままである。 
東尋坊の自殺志願者の多くは、金銭苦か夫婦間のトラブルといわれるが、昨今、元刑事に当る方が当時の東尋坊の自殺志願者に対して、13人にも及ぶ人々を諭し、善意の施しをして救命したという。

現在、地元では各所に自殺を思い止める為の句碑や看板を設置し、また、公衆電話にテレホンカードや「お経の書かれた紙」を常備し、自殺防止と東尋坊のイメージダウンを避ける努力をしているという。 

又、家族や民間団体など誰かに相談ができるようになっている「救いの電話」を設置し、自殺を思いとどまらせるようにしている。 かつては、飛び降りても簡単に死なないことをアピールするため敢えて飛び込みを実演する者もいたという。
 

「東尋坊」という地名の由来は、昔、越前・勝山の平泉寺に東尋坊という横着な僧がおり、自分の怪力を誇って暴れまくり、民・百姓をいじめていた。 
そのため、寺院から破門され岬に飛び込んで自殺したか、或は、あまりの悪僧なので他の御坊が岬に誘って突き落とした、という言い伝えがあるという。 

後年、やはり平泉寺の御坊が東尋坊をいたく哀れみ、

『 沈む身の うき名をかえよ 法の道 
          西を尋ねて 浮かべ後の世
 』

という歌を詠んで、これを海に流し供養したという。
  
2004年3月1日、坂井郡芦原町は金津町と合併して新規に「あわら市」が発足している。
又、2006年3月20日に同じ坂井郡に属する三国町は丸岡町、春江町、坂井町と合併し「坂井市」となっている。


次回は、吉崎  





2017年12月11日月曜日

平成日本紀行(208) 芦原 「芦原温泉」




「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)







平成日本紀行(208) 芦原 「芦原温泉」   .






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日帰り温泉施設 「セントピアあわら」



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えちぜん鉄道三国芦原線の「あわら湯のまち駅」





九頭竜川の清流を渡り、今夜の泊まり宿「芦原温泉」へ急いだ。

普通、温泉場の立地といえば山懐、河川際、湖の畔、海辺と何かしら自然とマッチした、それなりの雰囲気を持った環境に佇んでいるのが普通のように思っていた。 

芦原温泉は、そんな意識とは別に平凡な田畑に囲まれた平地に在った。  
後で知ったのだが、北陸・芦原温泉は明治16年、農民が灌漑用の井戸を掘っていたところ温泉がいきなり湧き出したのがはじまりというから、さもありなんであった。 
今では、北陸屈指の名湯として知られるようになり、人気も誇っているのである。


先刻、観光案内所より紹介をして頂いた宿屋へ向かう、駅前のT字形の突き当たりにその旅館はあった。 
駅は華やかな温泉街のわりには意外と、こじんまりしてて「あわら湯のまち駅」とあった。 
鉄道は北陸本線ではなく、「えちぜん鉄道」という第三セクター方式の鉄道会社であった。 
2キロメートル東方に、本線である北陸本線の「芦原温泉駅」があるが、地域として金津町に属するようである。



旅館は紹介によって、便利な駅前にある政府指定の一流旅館のはずであったが、印象としては極めてゾンザイな感じが最後まで拭えなかった。

その某旅館の顛末をしたためておく・・!
先ず、玄関で訪問の呼声を掛けたが、返事が無くなかなか応対に出てこない。 
車を置くところへ案内されたが狭くてやっとのところ。 
案内された建物は継ぎ足しの迷路のような部屋組であり、部屋係り女性の御客への対応も扱いも気だるそうで、迷惑そうでゾンザイそのものであった。 
そして、館内の様子からも泊り客が居るのか、居ないのかシーンと静まりかえっている。 
何かしら、否~な予感がした。

何はともあれ、何時ものように待望の温泉浴室を目指した。 
人っ子一人居ない浴室、大きな湯船には湯がトウトウと流れ込み、大いに期待したところまでは良かったが、湯を浴びると、これがまた熱い・・!!、

我慢して静かに浸かると数秒も浸かってられない程の熱さである。 
元々、温湯(ぬるゆ)の好きな小生にとっては、到底我慢がならない・・!。 
気が付くと外風呂も有るようなので、仕方なく露天風呂へ向かった。 ここなら何とか入れるだろうと思ったが、これが又甘かった、こちらも同様でアッチッチ・・!!、だめだ、こりゃ・・!!。


結局、掛け湯と洗身のみで間に合わせ、女将にこの事を話して善処置をするように申し入れた。 
食事の後(食事に関しても不満充分であったがここでは省略)、就寝前に再び入湯に出向いたが、いっこうに以前と全く変わりなく、そして次の朝も入湯に出向いたが、善処された形跡は無く、昨夕と全くの変わりはなかった。 

帰り際、旅館の女将に厭味たっぷり言ってやったが、なにやら涼しい顔をしていたようにも思い、後はソソクサトと逃げるように宿舎を出奔した。
芦原温泉の善し悪しを全く味わうことなく、後味悪く温泉場を後にする始末であった。



芦原温泉は、北陸、福井屈指の温泉街として「関西の奥座敷」とも呼ばれ、昔から多くの文客にも愛されてきたようで、温泉医療師がすすめる名湯百選にも選ばれているという。 
この名湯を堪能すべく期待を持って、一流旅館を紹介していただいたのに・・!。 
この旅館の対応は、お客のサービス以前の問題で、全く期待はずれであり、終いには腹が立って仕方が無かった。 

思えば、こちらの芦原温泉でも、昨年(2004年)に発生した温泉偽装問題が発覚している。温泉の利用表示に問題がある旅館および源泉の無断開発の疑いがある旅館が、複数軒あったとして、ニュースで大きく取り上げられた。 
ひょっとしたら当の旅館も温泉偽装の関わった宿では・・?、と疑いたくなるほどである。 

その後、あわら市では独自の温泉表示に関する基準を設けたようであるが・・!。

これが政府指定の一流旅館の顛末であり、不満タラタラの芦原温泉、否、温泉宿であった。


次回は、「東尋坊


2017年12月9日土曜日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)



「漂泊の旅から、学問が生まれる」  






 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)  .






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写真:現在の白山神社本殿




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平泉寺(賢聖院)の名勝・庭園(地面は全て苔に覆われている)





16世紀の戦国期、当時の寺社勢力は農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく、有力大名と結び、さらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展開されていた。 

平泉寺、延暦寺もそれらの一つであり、特に比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであった。 

それでも比叡山そのものは多くの人々にとっては神聖不可侵の地として崇められていたのである。 
それと同時に山全体が要害でもあり、八百年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢の寄宿に耐えうる力を持っていたといわれる。

このような時期、戦国大名として台頭してきた「織田信長」は天下統一(天下布武)を目指していた。


その頃の延暦寺は、信長と対立している室町暗君将軍・足利義昭の側に付き、宿敵、浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の姿勢、行動を起こしていた。

元亀2年(1571年)、延暦寺の武力が天下布武の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう数度にわたって通達した。 
しかし、これらは全て悉く拒否されたのを受けて、信長は、敵対・比叡山を打つべしの意志を固めた。 

同年9月12日、織田勢は素早く比叡山相手に戦線を引き、全ての出入口を封鎖した。 
三万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。 

ここに至って、佐久間信盛や武井夕庵ら仏教徒である臣下の諫止などは一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りを鎮めようとした山門の申し出も全て一蹴した。 

信長は、宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。
 

合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。 
見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺され、山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ4~5百あったとされる堂塔・坊舎の全てに火がかけられた。 

殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にも上り、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。 
この放火と殺戮と奪略は9月15日までの4日間続けられた。 初志の目的を忘れ、時政(じせい・時の政治、軍事)に介入した悪僧坊に天罰が下ったのである・・!。


この時期、白山平泉寺は最盛期を迎えていて寺領9万石、48社36堂6千坊、それに僧兵8千人と称するまでになっていた。 
しかし、叡山消失や信長と朝倉義景の決戦に巻き込まれて苦境に立ち、更に、一向一揆と対決し、最後は一揆の群集に攻められて平泉寺全山が焼き払われたという。  

幸い後の権力者・豊臣秀吉が当寺を保護し、禁制を与えたので寺運は順調に開かれ、元の僧坊らによって白山平泉寺が再興され、江戸期には福井藩、勝山藩の庇護のもと順調にその地位を守った。



時代は下り、明治維新に至って、神仏分離政策により神仏混淆(こんこう)を禁ぜられた平泉寺は寺院、仏像、僧徒を排し、権現の称を廃し、元の「神の宮」に戻った。 

白山神社は、祭神を革めて菊理媛神(ククリヒメノカミ:イザナギ、イザナミの仲裁の神)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冊尊(イザナミ)の三座とした。 

今、勝山盆地の山懐には、僅かな社殿を残して鎮まっている。 白山神社からみれば、中世の物情は夢のようであろう・・!。 



平泉寺の現在の拝殿は、元の大拝殿には及ぶべきもないが、千年前の石畳参道や当時の礎石などが今でも残り、絨毯を敷きつめたような青苔の美しさと共に、美しい自然の姿を見ることが出来る。 

又、賢聖院の庭園は、室町末期の細川高国の作庭で、鮮緑の苔に囲まれ、曲水庭園の様式が取り入れられた名園であるという。 
現在、文部省指定名勝にされていて、住職・平泉家(賢聖院の元別当が平泉家として引継ぐ)の承諾を得て見ることができるという。

  
次回は「芦原

2017年12月8日金曜日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(2)





日本周遊紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(2)   .






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資料:往時の平泉寺絵図と現在の様子





九頭竜川中域の平泉寺・白山神社と白山信仰について・・、

九頭竜川中流域は、勝山市域で白山山域の山麓に位置する。 
平泉寺・白山神社は、加賀、越前、飛騨(石川・福井・岐阜)の県境にそびえる霊峰・白山(2,702m)の信仰に端を発し、富士、立山とともに日本三霊山に数えられ、古来修験道の修行道場として栄えた。 
寺院の開祖は、奈良期の名僧・泰澄大師(たいちょうだいし)が開いたとされる。



日本では山そのものを、古来、神聖なものとして崇拝されていた。
加賀・白山は夏でも残雪があり、何時でも雪をいただく神聖な山として信仰の対象となっていた。 

以前の山岳信仰は神聖な山を遠くから遙拝するだけであったが、地元の高僧・泰澄大師は夢のお告げに従って直接白山の頂上を目指した。
そして、その登程の苦しさを厳しい一つの修行、禅定(心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想)と捉えた。 

白山の頂上を白山天領といい、又、その修行の登山道のことを白山禅定道ともいった。 
白山信仰が広まるにつれ、白山は、村の鎮守の神として地域に多くの社も建てられたという。 

江戸時代、三国間(加賀、美濃、そして越前)には白山山頂の領有をめぐっての激しい争いがあり、最後には江戸幕府が山頂と山麓の村を天領とすることで決着がついたという。 
しかし、争いの本質は宗教的なものではなくて、むしろ権益を奪い合うということであったとする。 

白山へは三国其々の馬場(ばんば、道のことで信仰登山の登山口)があり、その馬場には白山を祭祀する社寺がある。 
越前の馬場は、勝山の「平泉寺」(白山神社)であった。 

しかし、越前では白山の表道として白山馬場があったが、本峰、主峰が加賀の国に在ったことは口惜しいかったに違いない。(現在は加賀、美濃の国境)


白山の主尊仏は「九頭龍」であるから水神の性格を持つものであり、それが白山信仰の根幹となり、本来は古代から越人(古代名でコシノヒト)の土俗の神であり、地主神であった。 

平泉寺は、今から1300年前の奈良時代に「泰澄大師」(越前国、現、福井市出身、泰澄寺)という徳の高い僧によって開かれた。 
その後に神仏習合が進み「白山平泉寺」と呼ばれるようになり、白山を神としてあがめる白山信仰の寺院として白山権現とも通称された。


若狭一の宮でも述べたが、所謂、平泉寺は白山神社の別当寺であった。 
つまり、神が仏に乗っ取られ・・?、全て仏式による祭事が、ここでも行われるようになったのである。 

今では勝山の古(いにしえの)の由緒ある寺院であるが、だが、その歴史を辿れば中世の頃の白山平泉寺は「悪僧の巣」でもあったともいう。


比叡山と白山平泉寺・・、

平安初期には,叡山系の修行僧が白山によく入山し、9世紀には叡山の僧徒が白山権現を延暦寺に勧請したともいう。 
従って、越前馬場の平泉寺は1084年に延暦寺末寺となり、加賀馬場の白山寺、美濃馬場の長滝白山神社(白山中宮長滝寺)も平安末には延暦寺の末寺となった。 
かくして白山を取り巻く末寺は、白山教団として延暦寺を背景にした政治的にも軍事的にも一大勢力に成長した。 

白山の僧徒は、延暦寺の僧徒と呼応して権現の霊験を説き、北陸、濃尾地方に散在しながら隆盛を極めたという。 
同時期、各地に白山神社が創祀されたが、とくに中部より東日本に濃密であったという。
僧侶達の軍事的意味合いの一つの例として、「平家物語」に次の行(くだり)が有る。

『 白山が一大鳴動を起こし、それが叡山に伝わって一山震動して、叡山僧兵団が都に乱入して御所を脅す・・』・・と

南北朝期には、平泉寺の名で代表される白山勢力は「日本国一番の法師大名である」と、当地を治めた朝倉氏の史記にもある。 
又、「平泉寺に行けば食える」といって、近郷近在の次男、三男坊が遥か遠方から素浪人として寄り集って来たともされる。 

当時の平泉寺は、僧兵八千といわれる北陸一の武装勢力で、社、お堂、院坊合わせると、その数三百とも四百とも言われた。


次回、「叡山の滅亡と平泉寺

2017年11月30日木曜日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」





「旅は道連れ、世は情け」>(日本の諺;江戸いろはカルタ)



 

 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」  .






九頭竜川河口に広がる三国港





荒々しくも見所一杯の越前海岸の国道305号を北上し、三国町に近付くに従って、どうやら穏かな平地が広がってきた。 

左手には、今までの自然景観とは異なって、海岸に沿って物凄い工場群が連なっていた。 
その終点に「九頭竜川」が万端の水をたたえて、すぐ其処の日本海へ注いでいる。 

三国の地柄は日本海に沿って臨海企業、工場群が林立し、湊は九頭竜川の河岸に沿って開けている港といってもよい・・!。 
これは往年の九頭竜川水運の特徴を今に残しているのかもしれない。


九頭竜川(くずりゅうがわ)は、福井県嶺北地方を流れる九頭竜川水系の本流で、越前福井と飛騨岐阜の国境にある油坂峠(717m)辺りを水源として、九頭竜ダムを経、大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野を潤しながら日野川と合流し北進、三国(現在の坂井市)で日本海に注いでいる。 


その九頭竜川は昔から河川物流、水上交通、水運の要として重要な地位を占めていた。

昔の人々が辿った陸路は、峠越えなど自然条件も過酷で難渋が多かった。 
そのため林産物や平地で採れた穀物など重い荷物の輸送には大変苦労する。 
そこで舟を利用した海、湖、川を利用する水上交通が発達した。

九頭竜川流域には、奈良時代は東大寺荘園、平安時代には興福寺兼春日社領荘園が多くあり、流域で産出された米や穀類などは、舟で九頭竜川から三国湊に集められた。
それから海路を敦賀まで廻送し、敦賀で陸揚げされた産物は駄馬に積み替えられて、陸路を琵琶湖の北岸にある海津、塩津まで運ばれ、次に琵琶湖水運を利用して大津まで廻送され、再び、荷揚げされて陸路を都や大阪へと運ばれたという。


九頭竜川は本流、支流とも昔から舟を利用した輸送が盛んに行われ、併せて良港や街道と交差する河川付近には市が立ち、人々が集まって発展してきたとする。 

特に嶺北七郡の諸物資は、舟で九頭竜川などを下り、日本海沿岸にある交通の要地、三国湊に集まったという。 
江戸近世の頃は、三国湊と越前国内の諸河川を往来する舟の利用度が高くなり、三国湊~福井間を往来する舟は昼夜の別なく舟便があったとされている。



九頭竜川の名の由来や伝説
この川は有史以来氾濫を繰り返す大河で、当初は「崩れ川」とも呼ばれていたが、いつしか変じて九頭竜川と名づけられるようになったという説もある・・?。 

しかし、“九頭竜“とは本来、印度伝来の仏法から生じたもので八大竜王(原型はインドの河の神様。後に仏教に取り込まれ、護法尊となり、その数が増えて八になった)の一仏神とされる。
昔から水の神、雨乞いの神様として各地に祀られている。 
或いは、水を治める為に命名されたものであろう。 

他に、平安中期、平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れ、その尊仏像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を抱いて流れに下り黒竜大名神社の対岸に着いたという。
それ以降、この川を九頭竜の川と名付けられたとする。

その九頭竜は仏教と神道を守る神仏習合の神となり、水の神、雨乞いをつかさどる神として信仰を集めた。 
そして、九頭竜川の源流域から中流域の東部にかけては、「加賀白山」の大山域が横たわり、この山麓一帯は日本の三大山岳霊地とされた加賀白山信仰が盛んな地でもあった。 

その中心が勝山市の「平泉寺・白山神社」である。


次回は、「平泉寺・白山神社」 
  

2017年11月29日水曜日

平成日本紀行(206) 越前 「越前海岸」





.「旅へでたら、石ころをひろってこい・・!」  






  平成日本紀行(206) 越前 「越前海岸」  . 






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越前岬灯台




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国道が交差する越前梅浦漁港





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弁慶の洗濯岩と柱状節理の鉾島





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呼鳥門(こちょうもん)




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越前海岸の水仙



鄙びた、玉川温泉から新造成った玉川トンネルを抜けると突端の越前岬である。 
小さな(断崖絶壁にやっと設えたスペース)駐車場があり、古めかしい「越前海岸」と記した看板がチョコナンと立っていた。 

越前岬は、越前海岸で最も西に突き出した、所謂・「く」の字の先端地点である。 


海岸に見える、一種異様な岩の形は、海食洞やノッチ(VあるいはU字形の切り込みやくぼみ)、ベンチ(腰掛状の平らな部分)などの姿で数多く見られ、日本海の荒波が作り出した変化に富んだ奇岩・断崖でもある。

この海岸段丘の高さ130mの断崖に白亜の越前岬灯台建っている。
光は53kmまで届くという。 

すぐ近くには、呼鳥門、鳥糞岩といった奇岩怪岩の名所がある。 
海食による自然が造り上げた洞穴に国道が走るという珍しい岩である・・!。(現在はすぐ横に迂回路ができ、歩行にての見物スポットになっている) 

糞鳥岩というチョット変わった名称の断崖は、多くの鳥住み着き鳥の糞が白くなっているで名づけられたという。 
この先の国道沿いにも、夫婦岩、軍艦島、弁慶の洗濯岩、鉾島、亀島といった奇態な岩峰群が無数に乱列しているのである。 

車のドライバーは、周囲のあまりの景観に注意しなければいけない・・!、越前海岸は全体的にこのような風景が連続しているのである。


又、越前海岸一帯は日本一の水仙の名所であることは周知である。 

既に花の時期は終わったのであるが、海岸のほぼ全域に細く、しなやかな葉をそよがせている。 
冬から早春にかけて、甘い香りを放ちながら海岸一帯に咲き誇るのが特に「越前水仙」といわれる。 
日本海の寒風にもかかわらず、強く美しい花を咲かせ、雪が積もっても折れることのない越前水仙は別名「雪中花」ともいい、可憐な花と冬の荒々しい日本海との対比が印象深い。 

この越前岬を中心とする中部でも水仙が自生し、12月から3月にかけて咲き乱れるといい、「越前岬水仙パーク」も整備されている。


ところで、日本のスイセンは外国のものが帰化したものとされている。 
日本への伝来については中国・朝鮮からの渡来説と,暖流による漂流説とがあるが定かではないという。 

まさか、稲作、鉄器、更には、焼き物と一緒に渡来した訳ではないだろうが、同一視することで一段とロマンも広がるというものか・・?。 

一帯は、福井県を代表する自然景観でもあるが、日本海の季節風にさらされたスイセンは花が引き締まって日持ちも良く、香りも最高といわれ、切り花として関西を中心に中京、関東などへ出荷されている。 

越前スイセンは,「福井県の花」に指定されており、郵政省の「花の切手シリ-ズ」第1 号に取り上げられた。



河野村は2005年1月南条町、今庄町との合併で「南越前町」として誕生している。 
やはり2005年2月、越前町、織田町、朝日町、宮崎村の3町1村が合併し新「越前町」としてスタートしていることは先に述べたが、又、2005年10月、嶺北地方の中南部に位置する武生市と今立郡今立町が合併して「越前市」が誕生している。 

この地方、地域の人々は古来からの名称である「越前」という名に相当固執しているようで、これはこれで大いに頷けるのである。 

一方、越廼村(こしのむら)は、 2006年2月に福井市へ編入された。この村は岬の先端に位置していて、合併廃止の前の時点では福井県の市町村では面積最小、人口最少であったらしいが、これで県内の貴重な村は全て消えて無くなったことになり、残念でもある。


次回は、「三国・九頭竜川流域


2017年11月27日月曜日

平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」(2)



「旅のなかで生きる喜びを感じ、創造への意欲をかりたてる」 




 

 平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」(2)  .





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越前町厨地区:甲羅に似た「越前がにミュージアム」





この先、その越前海岸を行くことにする。
早速、険しい海岸線のR305を行くことになる。 
間もなく「白竜の滝」という園地が在って、そこから一筋の滝が流れていて涼味を誘う。 

山中ならば何処にでも在りそうな、何の変哲も無い小滝であるが、海岸にいきなり流れ落ちているのは普通でない。 
道路も園地もない以前の自然のままであったら、いきなり日本海に落ちていたのかもしれない。 

又、この公園の南には、大正末期に舞鶴へ向かう途中、この沿岸付近で座礁・破船した軍艦の遭難園地があり、園内には墓銘碑も建っていた。 
大正13年12月12日、舞鶴港へ向かう特務艦・「関東」(民間から転用された軍需用の給油艦)が激しい吹雪に見舞われ、河野村糠地区の沿岸で座礁破船した。
事故の報せを受けた河野村民は、自らの危険も顧みず献身的な救助活動を繰り広げたというが、97名の尊い命が奪われた。



山肌の急斜面を無理やり切り取ったような海岸線に道路を付け、所々に道路に沿って人家があり、鄙びた漁村も点在している。 
傍目(はため)では、長閑な雰囲気の海辺の田舎の風景であろうが、われわれ都会人・・?から見ると実際の生活は大変だろうな、と変に勘ぐってしまうのである。 
しかし現地の生活者に言わせれば、余計なお世話と叱られるかもしれない。 
それにしても、厳冬期に日本海の季節風を的もに受け、実感としては厳しい地域風景を想像するのである。


河野村は、2005年1月南条町、今庄町が合併、「南越前町」として誕生している。
そして、「此れより越前町」の標識があった。 
その千飯崎海岸近くにも集落と小さな漁港があり数艘のイカ釣り船が待機している。 
この近辺も、海水面付近の波の侵食作用によるのだろう、海上には無数の奇岩、怪岩や海食洞などが形成されていて、見る者を圧倒させる。

久しく賑やかな港へ出た、越前町のである、である・・?、 


ミナト」のことである、
昔はミナトを「」と書き、今は「」と書くらしい・・? 、
漢字源から察すると湊は陸の部分を指し、港は水の部分を指すらしい。 
船が越前の港に入り、越前の湊に着く、とするのが正しいようである。
今、日本語が乱れていると言われるが、このぐらいの事はどうでもいいか・・?。


貴重な平地(殆どが人工的に造作した)に細長く人家が立ち並び、やはり陸地にへばり付くように湊が展開している。 
ここは言わずと知れた「越前カニ」の最先端の基地である、カニの看板を付けた漁業関係の店や民宿風の宿屋が目立つ。  

日本海の冬の味覚、ズワイガニ漁は11月頃から冬場にかけて最盛期をむかえる。 
解禁と同時に海が荒れなければ、日本海に繰り出していた漁船が底引き網を投下し、網を引いて海底にいるカニを捕る。 
福井県内の漁船は夕方には港に帰り、水揚げされたカニは早々に競りに掛けられる。


一般には「ズワイガニ」と呼び、福井県では越前ガニ、山陰地方にいくと松葉ガニと呼ぶらしい。 
ズワイガニは雄カニの名称で、雌ガニはセイコガニと呼ぶらしい。 これは初耳であった。 雌のセイコは背(背中)に子(卵)をもっていることから「セイコ」と呼び名が付いたという。 
他に山陰地方ではセコガニ、石川、富山県ではコウバガニ、丹後地方などではコッペガニとも呼んでいるという。


ズワイガニは日本海、北方海域に広く生息していて、日本海では水深200メートルから500メートルの範囲に生息し、カニを賞味する日本人の嗜好が、ズワイガニを冬の味覚の代表とした。 

一時は取りすぎで、カニ資源が枯渇するのでは、という懸念があったが、最近では沿岸自治体、漁港関係者等の努力で資源保護の成果も挙げてきているという。

最近、某水産メーカーが「ベニズワイガニ」を「ズワイガニ」として商品表示したとして、公正取引委員会から排除命令を出された事件があった。

ズワイガニ(本ズワイ)は、「松葉ガニ」、「越前ガニ」などの地域ブランドで知られる高級品として扱われている。 
それに対し、ベニズワイガニは同じズワイガニ属の近縁種であるが、若干水っぽい肉質・鮮度落ちが早いなどで、加工用として用いる場合が多いという。 
価格もズワイガニの1/5以下の値段で取引されているようである。

越前ガニで名高い越前町厨海岸(くりやかいがん)には、国内にただ一つ、越前がにの生態を学べる「越前がにミュージアム」がある。 


次回、「越前の渡来人





2017年11月22日水曜日

平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」





 「旅は私にとって、精神の若返りの泉だ」  
<アンデルセン>







平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」 .







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日本海の荒波寄せる特異な越前海岸







敦賀から福井・越前に入るには、越境山脈を超えなければならない。

ところで、現在の福井県の県域は若狭湾から北陸と呼ばれる三国町(現、坂井市)辺りまでをさすが、昔は若狭の国、越前の国と行政上の二国としての区分があったらしい。 

今の呼称としては若狭とか越前というのは余り言わないらしいが、愛称として、若狭、越前の代わりに越境山脈を境に嶺北、嶺南などと呼んでいるらしい。 

即ち、鉢伏山を主嶺とした海側から山中峠~木ノ芽峠~栃ノ木峠の稜線より北東部を嶺北(れいほく)地方と、南西部を嶺南(れいなん)地方と称しているようで、この福井県の両地域は人や地域の気性(サガ)も異なると言われている・・?。

又、歴史的な経緯を見ても、明治4年の廃藩置県により福井県ができてから、現在の嶺北地方を福井県、嶺南地方を敦賀県に整理・分県された時期もあった。 
その後(のち)、10年後の明治14年に其々分離統合されて、現在の福井県が設置された。 従って、往時の呼称、分県状況から越前即ち嶺北地方、若狭を嶺南地方と今でも呼んでいるようでもある。


北陸越前といったら一般には、この敦賀の山域を越えた今庄辺りから武生、鯖江、福井本庁から丸岡、金津あたりと、内陸部の大野、勝山あたりを指すのが普通である。 
所謂、越前平野(福井平野)といって、肥沃な平地が広大に広がる地域で、日野川、足羽川、

そして、あの九頭竜川が揉み合うようにして氾濫を繰り返し、その都度大量の土砂を置き去りにし、沖積平野を形造ったという。


この越前地区は、古来より越の国として人、物が頻繁に流通し、又、戦乱の相克が激しく興った地域でもある。 
現在でも道路、鉄道、高速道が南北に駆け巡り、古来より変わらぬ交通の要衝となっている。 

尚、新幹線についても構想が進捗中で、長野から上越、富山、金沢、福井、敦賀、小浜を経て新大阪へ繋がる北陸新幹線が着々と進められている。 
これによって何れは、北陸新幹線が東海道新幹線と、即ち、日本の中心地域である太平洋岸と日本海側が直結され、関東・北陸・近畿・中京・東海を環状に結ぶ高速交通ネットワークが形成されつつある。 



敦賀より発した国道8号線は、一旦、沿海を北上するが山中峠(トンネル)を抜け、河野村辺りで内陸の福井平野に至っている。 
海岸線は敦賀北部の比田地区で分岐した国道305号線が走っている。 
この越前海岸地域は、越前岬を西端に緩い「く」の字形で日本海へ突き出ている。 
海岸線はいきなり聳え立つ山稜を呈し、急峻な海岸段丘や海食断崖が続いていて近年まで人跡少なく、陸路は永年交通の難所だった。 

所謂、標高700m前後の「丹生山地」が、沿岸山地と内陸の福井平野を切り離すように壁が造られているのである。 


次回、引き続き「越前地方


2017年11月21日火曜日

平成日本紀行(205) 敦賀 「原子力発電」




旅の諺  「東へ行った、西にも行った、やはり、わが家が一番だった」





平成日本紀行(205) 敦賀 「原子力発電」 .





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敦賀市にある高速増殖炉「もんじゅ」



敦賀へ来たら、もう一言書かねばなるまい、「原発」のことである

敦賀原発街道とも言われ、敦賀一帯は原発が多いところである。 
敦賀原発、美浜原発、他・・、そして、高速増殖炉の『もんじゅ』と軒並み話題の多いところでもある。 

そして、「もんじゅ」は原子炉設備の疲労破壊で金属ナトリウム漏れが発生し、運転停止してからもう10年以上になるがまだ動かない・・!。



ここで高速増殖炉と「もんじゅ」について・・、

原子力発電の原料とされるウランには、燃え易いウラン235(0.72 %)と燃えないウラン238(99.28 %)がある。 
通常、ウラン235は容易に核分裂反応を起こすため、原子力発電に用いられている。

ところが、燃えないウラン238にも使い道があって、中性子を吸収することにより新しい燃料のプルトニウム239に変わる性質をもっている。

この性質をうまく利用し、消費した以上の燃料を作り出すのが増殖炉といわれる。 
即ち、プルトニウム239に効率よく変換することで、燃料を生み出すことができるという。 これを「増殖」といい、増殖によりウラン資源を有効利用できるとされる。

中性子の中に、エネルギー値の高い「高速中性子」というのがあり、これを利用してプルトニウムを更に「増殖」させることから、この原子炉を「高速増殖炉」と呼んでいる。 

燃やした燃料よりも多くのプルトニウムが炉内で生成され、つまり発電しながら燃料が増えてゆくわけである。 
この高速増殖炉を使うことによってウラン資源の利用効率が100倍以上と飛躍的に向上するともいわれる。

ウランを輸入に頼っている日本にとっては貴重な「国産燃料」が獲得でき、将来のエネルギー政策の本命と位置づけられている。 
現在、敦賀市で試運転中の『もんじゅ』と云われる原子炉がそれである。(現在は休止)


しかし、それには単純ではない問題がある・・!、
普通の原子炉(軽水炉)に比べて非常に危険で技術的にも難しく、費用も高くつくとされている。 
特に、冷却材として金属ナトリウムが使用されている。 

これは熱伝導率が良く、高速の中性子を減速させない特性があり、現在のところこの冷却材が最適とされている。 だが、ナトリウムは水と激しく反応し、発火性が高い欠点をもっている。 
実験・開発中の増殖炉型原子炉では事故や故障が相次ぎ、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど、先進諸国もすべて開発を諦めたという。


ウランを燃やす過程で、燃料のプルトニウムが生成され増殖する高速増殖炉・・!、
即ち『もんじゅ』は、水と激しく反応する「ナトリウム」を冷却材に使用している。 
この原子炉は今だ研究開発の段階であるが平成3年4月、敦賀市に完成し、同6年4月に初臨界(原子炉内において核分裂連鎖反応が一定の割合で継続するようになること)を迎えた。 

しかし、この炉は平成7年12月8日、試験運転中に冷却管の温度計のサヤが折れて約640kgのナトリウムが漏れ、火災が発生するという事故を発生させた。 
この時、開発事業団の事故隠しや対応の遅れなど不透明性さが社会的批判を浴び、そのため現在は操業中止になっている。 


因みに『もんじゅ』の命名は、仏教の文殊菩薩に由来する。 文殊菩薩は「知恵の菩薩」とされる仏さんであり、高速増殖炉は高度な知恵が必要とされることから命名されたのであろうか・・?。


ところで、国内初となる原子の火が点ったのは半世紀前の1957年で、茨城県東海村に日本原子力研究所東海研究所の第1号原子炉において臨界に達してた。 
その後、石油危機を経て、電力供給の安定が求められ、原子力発電所の建設が相次ぎ、現在は全国で50基以上の発電用原子炉が運転しているという。 

その原発による電力量は日本の電力の約3分の1を占め、火力発電に次ぐエネルギー源となっている。 
その中にあって、特に、福井県若狭湾に面した一帯は、原発関係の設備が集中立地して原発銀座と言われるほど多く、関西電力の電力構成に占める原子力発電の割合が他社よりも高くなっているという。 

現在、敦賀に二基(二基増設計画)美浜町に三基、大飯町・高浜町に各四基の計13基、営業稼動中であるという。 
その中に高速増殖炉・『文殊・もんじゅ』は、敦賀市の敦賀半島北端部に位置する、日本原子力研究開発機構の原子力発電所内にある。


次回は、「越前海岸


2017年11月20日月曜日

平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」


「百聞は一見にしかず「」 <日本の諺>






 平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」  .






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気比神宮摂社・角鹿神社(ツヌガ神社)





若狭地方の敦賀は、古来より日本海を通じて大陸との交流が盛んでであった

古代(奈良朝時代以前は歴史的には原始古代ともいう)、特に仲哀天皇の時期(2世紀末)においては日本は朝鮮との緊張状態にあり、天皇は即位してすぐに気比神宮に戦勝祈願の参拝をしたとされる。 

この時の主人公で女帝に順ずる「神功皇后」も同行して、三韓征伐の前に武内宿禰(タケウチノスクネ;天皇に仕える棟梁之臣・大臣で、国政を補佐したとされる伝説的人物)や玉妃命(タマヒメノミコ神功皇后の御妹)とともに当社に祈願している。

このとき気比大神が玉妃命に神懸りして皇后の勝利を予言したという。 
更に、三韓平定の後、皇后は子である誉田別命(ホコタワケノミコト;後の応神天皇)らを従えて参拝したともいう。 


三韓征伐(さんかんせいばつ)とは日本書紀にも記述があり、神功皇后が行ったとされる朝鮮への(主に新羅・しらぎ)出兵をさしている。 
新羅が降伏した後、三韓の残り二韓(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため三韓の名で呼ばれ、新羅征伐と言う場合もある。 
神功皇后が帰国の際、子である応神天皇を身篭っていたともされる。



気比神宮は日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として大和朝廷(最近はヤマト王権ともいう。因みに、大和朝廷は6世紀頃の古墳、飛鳥時代とも・・、)も重視し、三韓征伐を前提として創建、鎮座したともされる。 

神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から半島へ船出したという記述もあり、又、気比神宮は、若狭地方における御食(みけ)の国(食の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料〈穀類以外の副食物〉を貢いだ国を指す)の総社ともいわれる。


気比神社の境内に、摂社として「角鹿神社」(ツヌガ神社)が祭られている。 
摂社祭神は、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノ命)とされ、元々、渡来の任那(みまな、にんな・朝鮮半島の南部地域、三韓の一部)の皇子であり、気比の浦に上陸してこの地方を治めていたとされる。 

後に、都怒我阿羅斯等命は朝廷(王権)に貢物(御食・みけ)を奉じたことから笥飯大神とされ、気比神宮の司祭と共に敦賀の地に祀られた。 
敦賀の地名は、古代「角鹿(ツヌガ)」と呼称されており、元々、この地方を治め、地名発祥の神であった。 


応神天皇が皇太子の頃、角鹿(つぬが)にてツヌガの神から御食(みけ)を賜わったことから御食津大神(ミケツオオカミ)と讃えられ、笥飯大神(ケヒノオオカミ)としても崇められたという。 
ケヒとは「食(け)霊(ひ)」の意味であり、即ち、「気比」の名の起こりとされる。 

つまり、応神太子が角鹿の地(敦賀)へ遠征された時、この地を収めていたされるツヌガの神と談判し、その結果この豊穣の地を譲り受け、土地の領有支配や物資(食料その他)の調達を認めさせたとされる。 

即ち、大和朝廷(大和王権が正式名・・?)の支配下に置いたということか・・??。 

当初は、敦賀を支配していた角鹿の神(ツヌガアラシトノ神)が主神の「角鹿神社」であったが、応神天皇(大和王権)らによって支配下におけれ、気比大神の摂社になってしまったというのである。


気比神宮は、古くから御食津神(海産食物を司る神)として、海の航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に神徳・霊験著しいとされて鎮座した。 
尚且つ、渡来系の神とあって、海人族に信仰されてきた神ともされているという。 


以来、越前国一宮として隆盛したが、室町期における南北朝の対立の時代には南朝に、又、戦国時代には信長に亡ぼされた朝倉氏に付いたことから社勢は一時衰退したという。 

江戸時代になって福井藩祖の結城秀康(家康の次男、秀吉の養子)の保護を受けて再興し、明治28年(1895年)、神宮号が宣下されて正式に「氣比神宮」に改称され、官幣大社に列格している。


いずれにしても、古き良き時代の神社や寺院仏閣の成り合いを紐解いてゆくと、そこに必ずといっていい程、当時の日本の歴史の一端が垣間見えてくる、これが何とも面白く、愉快なのである。


次回、「敦賀原発


平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」


「百聞は一見にしかず「」 <日本の諺>






 平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」  .






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気比神宮摂社・角鹿神社(ツヌガ神社)





若狭地方の敦賀は、古来より日本海を通じて大陸との交流が盛んでであった

古代(奈良朝時代以前は歴史的には原始古代ともいう)、特に仲哀天皇の時期(2世紀末)においては日本は朝鮮との緊張状態にあり、天皇は即位してすぐに気比神宮に戦勝祈願の参拝をしたとされる。 

この時の主人公で女帝に順ずる「神功皇后」も同行して、三韓征伐の前に武内宿禰(タケウチノスクネ;天皇に仕える棟梁之臣・大臣で、国政を補佐したとされる伝説的人物)や玉妃命(タマヒメノミコ神功皇后の御妹)とともに当社に祈願している。

このとき気比大神が玉妃命に神懸りして皇后の勝利を予言したという。 
更に、三韓平定の後、皇后は子である誉田別命(ホコタワケノミコト;後の応神天皇)らを従えて参拝したともいう。 


三韓征伐(さんかんせいばつ)とは日本書紀にも記述があり、神功皇后が行ったとされる朝鮮への(主に新羅・しらぎ)出兵をさしている。 
新羅が降伏した後、三韓の残り二韓(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため三韓の名で呼ばれ、新羅征伐と言う場合もある。 
神功皇后が帰国の際、子である応神天皇を身篭っていたともされる。



気比神宮は日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として大和朝廷(最近はヤマト王権ともいう。因みに、大和朝廷は6世紀頃の古墳、飛鳥時代とも・・、)も重視し、三韓征伐を前提として創建、鎮座したともされる。 

神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から半島へ船出したという記述もあり、又、気比神宮は、若狭地方における御食(みけ)の国(食の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料〈穀類以外の副食物〉を貢いだ国を指す)の総社ともいわれる。


気比神社の境内に、摂社として「角鹿神社」(ツヌガ神社)が祭られている。 
摂社祭神は、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノ命)とされ、元々、渡来の任那(みまな、にんな・朝鮮半島の南部地域、三韓の一部)の皇子であり、気比の浦に上陸してこの地方を治めていたとされる。 

後に、都怒我阿羅斯等命は朝廷(王権)に貢物(御食・みけ)を奉じたことから笥飯大神とされ、気比神宮の司祭と共に敦賀の地に祀られた。 
敦賀の地名は、古代「角鹿(ツヌガ)」と呼称されており、元々、この地方を治め、地名発祥の神であった。 


応神天皇が皇太子の頃、角鹿(つぬが)にてツヌガの神から御食(みけ)を賜わったことから御食津大神(ミケツオオカミ)と讃えられ、笥飯大神(ケヒノオオカミ)としても崇められたという。 
ケヒとは「食(け)霊(ひ)」の意味であり、即ち、「気比」の名の起こりとされる。 

つまり、応神太子が角鹿の地(敦賀)へ遠征された時、この地を収めていたされるツヌガの神と談判し、その結果この豊穣の地を譲り受け、土地の領有支配や物資(食料その他)の調達を認めさせたとされる。 

即ち、大和朝廷(大和王権が正式名・・?)の支配下に置いたということか・・??。 

当初は、敦賀を支配していた角鹿の神(ツヌガアラシトノ神)が主神の「角鹿神社」であったが、応神天皇(大和王権)らによって支配下におけれ、気比大神の摂社になってしまったというのである。


気比神宮は、古くから御食津神(海産食物を司る神)として、海の航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に神徳・霊験著しいとされて鎮座した。 
尚且つ、渡来系の神とあって、海人族に信仰されてきた神ともされているという。 


以来、越前国一宮として隆盛したが、室町期における南北朝の対立の時代には南朝に、又、戦国時代には信長に亡ぼされた朝倉氏に付いたことから社勢は一時衰退したという。 

江戸時代になって福井藩祖の結城秀康(家康の次男、秀吉の養子)の保護を受けて再興し、明治28年(1895年)、神宮号が宣下されて正式に「氣比神宮」に改称され、官幣大社に列格している。


いずれにしても、古き良き時代の神社や寺院仏閣の成り合いを紐解いてゆくと、そこに必ずといっていい程、当時の日本の歴史の一端が垣間見えてくる、これが何とも面白く、愉快なのである。


次回、「敦賀原発


2017年11月16日木曜日

平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」


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「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る。」 <アラブの諺>  






平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」   .




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写真(資料):三方五湖俯瞰



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三方五湖の1つ「久々子湖」



国道27号の丹後街道から三方町、三方五湖へ向かった。 

先刻から若狭湾の入り組んだ入り江を見慣れた来たため、五湖の一角を眺めても入り江と錯覚してしまうほどである。

先般、身内親戚等と北陸旅行した際に五湖を訪れているが、周辺には展望ロードがついていて五湖を見下ろすのに最適地といわれる「梅丈岳」という高所から若狭湾や五湖の自然景観を眺め、その眺望の良さを充分堪能したのを覚えている。
そんな訳でもないが、今回は一湖でも二湖でもいいから美景を眺めて済まそうと思った。


国道より小浜線の気山という駅の手前から左へ逸れて、立派な地方道をゆくと名前は知らないが一つの湖畔に達した。 
すぐ横が小高い園地になっていて湖面が一望できる、右はるか前方は大きく開けて、若狭湾の大洋を示しているとすれば、ここはあるいは「久々子湖」なのかも知れない。 

久々子と書いて「くくこ」と読みたいが、湖(こ)を合わせると「くくここ」となって何か妙な読み方になってしまう。 
実際は、「くぐしこ」と称するらしい。 

湖面は微風に揺られて微かに小波が立ち、遠くの周囲は緑の小山に囲まれ、実に茫洋として気持ちがいい。  

なにか頼りなげになってしまったが・・、    


『 若狭なる 三方の海の 浜清みい往き 
               還らひ見れど 飽かぬかも
 』

と万葉集にも詠われている景勝地である。
 


五湖の関連性・・、

久々子湖や日向湖は直接外海とつながっていて、塩水混合湖、即ち、汽水湖になっているが、奥まった三湖も現在では人工的につながっているという。 

水月湖、菅湖は半汽水湖になり、最奥部の遠く離れた三方湖は完全淡水湖であるという。
久々子湖は昔は大きな若狭湾の入江であったが、東に流れる耳川によって海に運ばれた土砂が入江に堆積し、入口が殆ど塞がれてしまったことで久々子湖(潟)が誕生したという。 

対して他の湖は、地層の変化によってできた天然湖である。 
即ち、五つの湖は海水・汽水・淡水とそれぞれに違った水質や水深を持ち、また同じ汽水湖でも日本海に直接つながっている久々子湖と奥にある菅湖や三方湖、中間の水月湖ではそれぞれ海水と淡水の割合が違っている。 

そのため梅丈岳(三方五湖レインボーライン展望台)から見える景色は、五つの湖がそれぞれに違った青色をして見えるという。 
形成過程の異なる五つの湖は、濃さの違う青色に見えるので「五色の湖」とも呼ばれている。
 

三方湖、水月湖は、色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し出し、自然と調和していて家並みや湖を囲む低い丘陵、湖畔沿いの梅林など、緑豊かで穏やかな風情に満ちている。 

又、隣町の美浜町にまたがる久々子湖は、単調な砂浜と松林の続く久々子海岸、松原海岸に接している美しい景勝地で、北端の岳山から日本海と三方五湖を眺めることがでる。 

外洋に直結している日向湖は、以外にも周囲には急峻な山をめぐらし、あたかもすり鉢の底に水をたたえたような形である。 

日向湖北岸には山と湖にはさまれた狭い湖岸の山の陰に、細く長い日向集落が軒を連ね、漁村風景の趣が感じられる。 

それぞれの特性を持つ三方五湖は、若狭の景勝地として国の指定の「若狭湾国定公園」の代表的な地域である。



車を進めながら気が付いたが、湖の湖畔には延々と梅ノ木が、しかも奥行き深く植栽されていた。
梅林は三方五湖周辺全体に植えられていて、スケールの大きさは五湖周辺だけで7万本もの白梅の木(白加賀という品種・・?)があるという。 


梅の植栽は江戸末期、旧西田村の豪農・助太夫家と平太夫家の庭に、偶々(たまたま)、梅の木を植えたことから始まったといわれる。 

この梅は、両家の名にちなんでそれぞれ「助太夫梅」や「平太夫梅」と呼ばれ、品種改良を経て「紅映(べにさし)」、「剣先(けんさき)」などの名を付け、福井の地に定着したという。


又、湖畔に割烹や小料理店の「ウナギ」と書いてある看板が多く目立つ。 

ウナギといえば浜名湖の養殖が有名であるが、同じ汽水湖の三方五湖も条件としては同様で、やはり地域の特産、名物なのであろう。 


しかし、昔から梅干しとウナギは食い合わせが悪いものと言われていたはずだが、相反するものが同じ場所にあるのはなんとも奇妙である。 
だが実際、食い合わせが悪いというのは迷信であり、梅干しもウナギも真夏を乗り切るためには欠かせない、スタミナ食でもある。


次回は「敦賀

2017年11月14日火曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」


「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」 






平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」 .




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写真:神宮寺本堂




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本堂横の霊水・閼伽水




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霊水・閼伽水の名札




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写真:鵜の瀬の清流




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「お水送り」の神事



その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 

閼伽水(あかのみず)は、仏教において仏前などに供養される水のことで、この「霊水の井戸」は若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。



「お水送り」の行事とは・・?、 

先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 

え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、

この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。 

この法会(ほうえ)は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。

又、二月堂の名もこのことに由来している。
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 
奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。


これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 
昔、実忠和尚が、東大寺二月堂・修二会の行法中、全国の「万の神」である一萬七千余の神名を読み上げ参集を求められた所、若狭の国・「若狭彦神社」の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 

諸神に其遅刻を咎められ、そのお詫びとして本尊に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へ「お水送り」の儀式を行うことになったという。



若狭・神宮寺境内にある井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 
こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 

東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。 
遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。


現在行われている実際の「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 
夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 
白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 

鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 
そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。


過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 
この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法で、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。 


行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。 
この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。


『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』  芭蕉(野ざらし紀行)
(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)


因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。



2017年11月4日土曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」


「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>






平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」   .





ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。

日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。 

又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。
そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 


日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 
即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。


早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残し、その後に、記念としてその者を奉るに過ぎず、時々、お祭りをしてやればそれで良かった。 
そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 

しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、どうじゃ・・!、こうじゃ・・!と人の心の中の説教をしはじめる。 
人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 


八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 
そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 

つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 
これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。


別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。 

神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。
奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 
その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。 

そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 
しかし、信長の偉業・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。


元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 
近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。 

これは日本特有の折衷文化、融合文化であるが、しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。
これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。


次回は、「神宮時・お水送り



2017年10月31日火曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「若狭一の宮と神宮寺」



「着くことよりも、楽しい道中がよい」






平成日本紀行(203) 小浜 「若狭一の宮と神宮寺」   .







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若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社




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神宮寺本堂と神宮寺・仁王門付近





海神(綿津見神:ワタツミノカミ)の娘、豊玉姫を祀る若狭姫神社と、豊玉姫の夫、彦火火出見尊(ヒコ・ホホデミ:山幸彦)を祀る若狭彦神社は、二社あわせて「若狭一の宮」と呼ばれる。 
祭神二神は海彦・山彦の神話の登場人物でお馴染みで、二人のあいだには鵜萱草葺不合尊(ウガヤフキアエズ:日向・鵜戸神宮)が生まれ、ウガヤの子、つまり両神の孫が神武天皇である。

若狭彦神社は畳、敷物の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も厚いという。
この訳は、豊玉姫が産気づいたので海辺に産屋を作ろうとし、茅草のかわりに鵜の羽を葺(ふ)こうとしたが、葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、その子の名を「ウガヤフキアエズ(鵜茅葺き合えず)」と名付けられたという、つまり鵜の羽の葺物、敷物の伝説に元ずいたものであろう。


若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。 
創建は、社伝によると和銅7年(714年)に両神が示した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。
そして下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)上社より分祀して創建されたとある。 延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、現在、祭事は下社・若狭姫神社で行われているという。


両神の鎮座する道に沿った更に奥まったところに、小浜・若狭地方でも随一と言われる古刹・「神宮寺」がある。 
714年(若狭神社と同一)の創建と古く、鎌倉初期には若狭神社の別当寺(神社に付属した寺院で、神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺の一つ)であった。 若狭随一の木造本堂が雄大な姿で座して居る。


若狭神宮寺は五木寛之の百寺巡礼の20番目にも記述されているほどの古寺である。
この寺の面白いところは、神仏を合わせ持っているのが特長てあろうか。 
山門や本堂には注連縄が飾られ、本堂内でも仏像と並んで若狭彦、若狭姫をはじめこの地にゆかりの神々の名が書かれた「神号」が祀られているという。 
参拝も神仏両用で、柏手を打って神様仏様を拝んでも良いらしい。


江戸末期までは三重塔など二十数の御堂が在ったとされるが、明治政府による神仏分離令、その後の廃仏毀釈の嵐で殆どを破壊されたが、しかし、本堂、仁王門など一部の建物は生き抜き、今でも神仏を合わせ拝む習俗が残っているともいう。


ところで、小浜の市街地や周辺地域に古い寺や神社が多いのは、朝鮮半島にも近く大陸の人や文物がこの地を経由して、鯖街道、御食(神や天皇に供進する食物、食事)の道を100キロほど先の奈良・京都へ運ばれたことと関連があるかもしれない。 


次回、「神仏習合



2017年10月29日日曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「後瀬山」





平成日本紀行(203) 小浜 「後瀬山」 .


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後瀬山(左の山)の麓にある空印寺(元、若狭の守護・武田家守護館)




鯖街道」は、現在の国道27号線の上中町より303号線、367号線となり、所謂、若狭街道と呼ばれる国道を、比叡山系から比叡山山麓、大原を経て京都に達する道である。 

運ぶ人達は『京は遠ても十八里』と歌いながら寝ずに走り、歩き通したという。 
尤も、広義には「鯖街道」とは福井方面から海産物を運んだ街道全てを指す場合もある。 

尚、小浜では当時のルート(福井県小浜-京都市出町柳間76キロ)を走り通す「鯖街道マラソン」というのが毎年開催されているらしい。 ルートの大半が未舗装路であり高低差も大きいことから別名、ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)とも呼ばれるとか・・。


『 かにかくに 人は言ふとも 若狭路の 
後瀬(のちせ)の山の 後も逢はむ君
 』

と、古くは坂上大嬢(さかうえのおおいらつめ・大伴家持の妻)が、「万葉集」に詠んだ後瀬山(のちせやま)である。 

この山は小浜の市街地のすぐ南にある山で、標高168メートルの比較的低い山というより丘である。

この後瀬山に戦国の世に相応しい山城が築城されたのは、大永2年(1522年)のことで、当時の若狭国守護・武田元光が、全国的にも飛躍をみせ、海外との貿易も視野に入れた小浜湊を望み、山麓に往来する丹後街道を掌握する要衝の地に、この城の縄張りを行ったとされる。 

城主は、築城した初代・若狭武田氏から八代元明へと継承されたが、戦国期、1568年(永禄11年)8月に越前朝倉氏の若狭進攻によって武田・領国は失うことになる。 

1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、若狭を任されたのは丹羽長秀だった。
若狭武田氏が滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、後瀬山城は若狭国を統治する拠点として存続していた。 

やがて、関ヶ原合戦後に入国した京極高次(若狭国小浜藩初代藩主)によって後瀬山城は廃城となり、新しく築城された「小浜城」(東の小浜湾の海岸を背に、北川と南川に挟まれた中州に築城、水城:現、小浜神社近辺)にその役目が引き継がれることになる。


因みに、若狭武田氏は甲斐源氏武田氏と同族で、鎌倉政権発足時は甲斐守護であったが、「承久の乱」後に安芸の守護職も獲得、そして、元寇に際して初めて安芸に下国したとされる。 

武田元光は、1519年に父の元信が出家したため、家督を継承して第6代の若狭国守護となり、後瀬山城を本拠とした。

承久の乱」とは、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の死が発端となり、1221年(承久3)に起こった鎌倉幕府と朝廷との争乱である。 
皮肉にも実朝没後、源氏将軍の断絶を契機に、都では朝廷(後鳥羽上皇)が権威挽回のために乱を起こしたが、幕府側が勝利した事により、幕府は朝廷を含め当時の日本全国を掌握することになった。



古来より日本海側の諸国の物資を京都へ運ぶ中継港として栄えた小浜であるが、室町期、若狭武田家の守護舘は現在の「空印寺」の境内あたりにあったとされる。 

空印寺は、若狭の守護・武田元光が守護館とした場所で戦国末期、小浜城を築城するまでは、この地が小浜の政治の中心地であった。 
江戸期には、小浜藩・酒井家の菩提寺でもあった。

城址である後瀬山からの眺望は、眼下に西流する北川と南川が一望のもとに眺められ、その南川の河口には、諸国の産物で賑わう天然の良港小浜湊が望める。

こんな、小浜の豊かな風土と文化は、今日の町社会にも少なからず影響が残っている。 


小浜西部地区の後瀬山周囲には、歴史的建造物や町並み保存地区が並び、数多くの歴史と由緒ある寺院が点在する、否、密集していると言ったほうがいいかもしれない。 

著名な寺院が、その数合わせて50とも60ともいわれ、正に寺社だらけで、若狭の海のある小奈良、小京都といえる所以である。

又、小浜には、現在も「四社参り」と称して由緒ある神社へ市民がお参りする習慣が続いているという。 
氏神の「八幡さん」、火の神の「愛宕さん」、水の神の「瀧の天神さん」と「神明さん」 と、生活に密着した社宮がある。 

更に、これとは別に小浜・宮の前地区には、神話時代からの伝説的神社、若狭の国の開祖神、総鎮守とされる「若狭一の宮」が鎮座している。


小生は、ここ若狭一の宮を訪ねることにした。
国道27より案内にしたがって山手の方向へ右折すると間もなく先ず、「若狭姫神社」があり、更にその奥に「若狭彦神社」が鎮座していた。 

両神とも、山裾の静寂な田園地帯に建ち、鬱蒼とした鎮守の森に鎮まっていて、神霊を感ぜずにはいれないほどである。 

若狭姫神社境内へ入ると、手水鉢に美しい水が溢れて、広葉樹の森を背に建つ拝殿脇には樹齢千年といわれる千年杉が聳えたつ。


次回は「若狭一の宮


2017年10月27日金曜日

平成日本紀行(203) 小浜 「鯖街道」


.「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 
<イギリスの諺>





 平成日本紀行(203) 小浜 「鯖街道」  .





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小浜市内、鯖街道起点の路面表示





舞鶴を後にして、国道27号線、通称、丹後街道を行く。

舞鶴から若狭へ抜ける半島を横切るようにして、若狭の小浜方面に向かう。 
青葉山系のトンネルは既に京都府と福井県との県境に位置していて、抜けると福井県である。 
その最初の町が高浜町であるが、暫く行くと若狭の素敵な海岸が広がっていた。 
更に、大飯町(おおいちょう)の小浜湾もなかなか結構な海岸であり、和田の青戸の入り江などは鏡のように静かである。 

それもその筈で、小浜湾が鋸崎、松ヶ崎といった両岬に挟まれた狭い湾口の奥に小浜湾があって、その又西側の奥へ細長く入り込んだ青戸入を形成しているためである。
尤も、若狭湾そのものが日本海側では珍しい海と陸とが交互に出入りする、大規模なリアス式海岸になっているのが特徴である。


若狭本郷の駅前を過ぎると、間もなく対岸を結ぶ巨大な橋が見渡せる。 
静かな若狭湾が更に深い入江となっている青戸入江の付け根に架かっているのが青戸大橋で、海上橋が国道27号と大島半島の犬見崎を結んでいる。 

かつて陸の孤島と呼ばれていた大島半島の大島地区と本土・JR線などを最短で結んでいる。
生活には非常に重要な橋であろうことが伺える。


静かな若狭湾に点在する各港は古来より良港で、(サバ)などの魚介類の水揚げ地でもあり、しかも京都にも近いため丹後街道、若狭街道などは、いわゆる「鯖街道」とも言われていた。 
その最も良港の一つである、小浜湾の東に位置する小浜市に入って来た。


小浜は歴史と伝統が息ずく町である。
古代から日本海を隔てた大陸との交易が開け、日本海側屈指の要港として栄え、陸揚げされた大陸文化や各地の物産は所謂、鯖街道などを経て、近江、京都、奈良にもたらされた。 

それらの証しとして小浜の大陸とのつながりは、市内に点在する数多くの文化遺産からも伺い知ることができ、即ち、「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれてる。


小浜には「鯖街道基点の印」が今も残る。
市内のいづみ町商店街内に、その起点プレートがある。 
ここが鯖街道の始まりで、小浜から熊川宿、朽木を経て、京都へ18里、約70kmであった。


若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた
と古来よりいわれたという。 

因みに、昔の鯖は今と全く比較にならないほど大量に獲れ、体形も大きく、一般庶民、特に都人にはに喜ばれたという。 
このため鯖を担いで走る街道を、いつしか鯖街道の名が付けられたという。 

しかし、鯖は一つの代名詞にすぎず、その他、多種の海産物などが運ばれたのは当然で、いわゆる北前船から陸揚げされた物資も盛んに輸送され、この中には日本海の塩も加わり、別名、塩の道でもあったという。 

小浜は、鯖街道である“食の道”の他に政治の道、軍事の道、特に文化の道でもあった。 
特に大陸文化の交流、渡来品も盛んで、室町時代には南蛮船が小浜へ””をもたらした史実などがあり、遠く南方との交流をも覗かせるという。


近年、差別用語として余り使われなくなったが、つい最近までよく用いられた「裏日本」という言葉があった。 

そのイメージは暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせた。 

しかし、雪の国・越後新潟の項でも記したが、この裏日本という用語は僅か百年ばかりの歴史しかなく、この日本海に面する越の国を含む一帯は、大昔より、まさに国土の表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもあった。


次回も小浜の「後瀬山


2017年10月26日木曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」




  平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚者と戦争難民」  ,





引揚者、そして戦争難民とは・・?! 、

一般に、満州からの集団引揚げは1946年春から一時期の中断を含め、尚連続して行われていたらしいが、しかし中国内戦が激化したことや、その果てに中国大陸を支配した中国共産党政権が樹立することによって中断された。 

日本政府はこの間、中国と国交を結ばなかったという背景もあり、1958年には集団引揚げは打切られ、家族には不明家族の死亡宣告を迫り、そして残留者保護対策の終息を図った。


日中国交正常化から9年後の1981年頃より、再び、彼らの多くは日本での肉親を探し始め、やがて肉親探しよりも日本への帰国を目的とするようになった。 
彼らが次第に中国残留孤児や中国残留夫人と呼ばれるようになり、帰国のための調査、面談が行われるようになったのは承知である。 

中国残留の人々は、小生達(引揚者)とは異なった“次元”(一時、外地・中国での生活を強いられた人々)で大変な苦労をされた方々である。



そのことについても一言、記しておきたい
「満州国」崩壊と難民化:、主として拓務省および関東軍との関わりについてである。

拓務省とは、1929年から1942年にかけて設置された省で、拓務大臣(たくむだいじん、拓相)を長とした行政組織である。 

当時、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖などの業務監督、海外移民事務などを担当した。
中国残留孤児や中国残留婦人とは、「昭和の屯田兵」、「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと強調、賛美されて満州への移住を勧められ人々である。 

戦時下の現地(満州国の開拓期)では、兵役のため召集(18~45歳男子)された父や兄弟や夫からは切り離され、殆どは女性、児童、高齢者しか村には残っていなかったのである。 

そんな中、内地では敗戦濃厚となっていた終戦間際、満州では突如としてソ連軍が侵攻してきてソ連兵や中国の現地民に追い立てられ、鉄道等の避難経路へのアクセスが困難な地域では、住民たちは戦争難民になった。 

尚且つ、付近に駐屯していた関東軍がいたにも関わらず、満州国防衛はおろか、人民を放棄して撤退していった。
その関東軍に置き去りにされ、指定された避難所への集結をめざして徒歩による逃避行となった。 

当然ながら逃避行の途中では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者および自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え、寒さ、伝染病等に苛まれ、死ぬか生きるかという切迫した状況の下におかれた。 


人々の中には現地人(主に中国人)に招かれたり、拾われたり、もらわれたり、買われたり、さらわれたりするかたちで妻あるいは養子として現地の家族へと統合されていった児童や女性もいた・・!。


これら満蒙開拓民(中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称)として渡満した人々が、そうでない人々よりもどれだけ「艱難辛苦の砂を食わされた」かを指し示す資料として、満州開拓史刊行会(1966年版)を参考にした数字が下記に表される。



開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異

A:終戦時在満邦人数(関東州を含む)
B:敗戦に基づく一般邦人の死亡者数
C:何人に一人が死亡したか
D:死亡指数(非開拓民比)

「全体」   「開拓民」   「非開拓民」
A:1550000人   270000人   1280000人
B:176000人   78500人    97500人
C:8.81人      3.44人     13.13人
D:1.49倍      3.82倍      1.00



岸壁の母』 歌・双葉百合子 詞・平川浪竜 曲・藤田まさと

母は来ました 今日も来た 
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

呼んで下さい おがみます
あゝおっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
何で遠かろ 何で遠かろ
母と子に


(台詞)
また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない…
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ…。
帰れないなら大きな声で…
お願い…
せめて、せめて一言… あれから十年……
あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう……
つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて……
この肌で温めてやりたい……
その日の来るまで死にはせん。
いつまでも待っている……


悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ


(台詞)
ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛し子待ちて今日も又
怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……



次回は「小浜・鯖街道」

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2017年10月25日水曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」



「旅から戻ってくると、故郷の煙さえも甘く気持ちのよいものである。」
グリボエードフ(帝政ロシアの外交官・作家・作曲家)




  平成日本紀行(202) 舞鶴 「引揚当時の私的回想」   .




ここで、勝手ながら小生の幼少時分の満州から引揚状況を、「記憶を振り絞って」思い出してみた。
 
大陸、特に中国東北部を、戦中は通称・「満州」(満州国・日本の傀儡政権国家ともいわれる)と呼んでいた。 
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に日本が占領し、翌1932年から1945年までは日本による傀儡国家(かいらいこっか)・満州国が建国された。 

満州国は、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ:映画、「ラストエンペラー」で知られる)が13年の間にわたって元首としていたが、1945年8月、第2次世界大戦終結直後にソ連軍が満州に侵攻、日本の敗戦と同時に消滅している。 

尚、翌年の1946年には、ソ連は占領した満州地域は中華民国(現、中国)に外満州を除いて返還している。
 


さて、私事であるが

親父が満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任したのは昭和12年の頃であろう・・?、小生は昭和14年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。 

満鉄職員ということで、比較的安楽で普通以上の生活をしてたらしく、中国人やロシア人を家へ招いては茶会や麻雀などを楽しんでいたようである。

小生が物心ついた小学生入学当初、この頃から戦争の影響が次第に生活の中にも入り込むようになり、灯火管制など電灯に黒幕を被せて部屋を暗くして静かにしていたり、非常時の場合に備えて非常用具や防空頭巾などが手元に有ったのを覚えている。 
又この時期、不幸にも実母と妹を病(結核)で亡くしている。 

警戒警報や空襲警報が盛んに発令されるようになって、当時、鉄筋コンクリートの三階建ての官舎に住んでいた我々も、遂に地下の防空施設に避難するようになった。
 

ある日、地下で待機している時、ズーン、ズシーンという地鳴りのような音が聞こえたかと思っているうちに、突然、物凄い爆発音がして地下室が振動し、上から物が落ちるほど揺れた。 親父が仕事で不在の中、小生は弟・二人で近所の人に抱きかかえられながら泣きじゃくっていたという。 

警報が解けて表へ出ると、真向かいにあった床屋さんが大きな穴の中に屋根から真逆さまになって突っ込んでいて、大いに驚いた・・!!。 
大人たちが「1トン爆弾が落ちた」などと話していたのを今でも記憶している。 

それから後、数日間は静かな日々が続いたようだが、(この時期、既に日本の敗戦が決まっていたらしい)ある日突然、予想もしないことがおこった。 
親父が「ソ連が攻めてきたらしい・・!」といって官舎の人全員に呼びかけ、取るものも取り合えず駅まで誘導し、我らも防空頭巾を被って貨物列車に乗り込んだのである。 

後は、奉天駅(現、中国瀋陽)から釜山(ふざん・プーサン)へ来たことは覚えているが、途中の長い道程(みちのり)は記憶が無い。
 

建国当時、南満州鉄道(満鉄)は満州国が成立すると、日本から朝鮮半島、中国大陸へ向かう需要が急増していた。 
東京、大阪方面からは、主要幹線である東海道本線、山陽本線が其々の地方を経由しながら下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山へ、更にそこから朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)へと乗り継ぐルートが最速であり、これを弾丸列車と称していた。 
中国大陸・満州へは奉天から新京(現長春)、大連、旅順などを結ぶ。

以上のことから、親父が満鉄職員ということもあり、奉天から朝鮮半島を経て釜山へは重要幹線ということもあって、比較的容易に来れたようである。 
因みに、親父の満鉄での業務は、旅客関係ではなく保安・保線関係の現場技術的な仕事であったため、比較的早めに解放されたらしい。 
奉天~釜山は、概ね東京から下関の距離で凡そ1100kmある。


釜山からは貨物船に乗せられて(載せられて)舞鶴に向かったのであるが、船中の居場所は船底の貨物室で、人々はごった返し、筵(むしろ)の上に居たのを記憶している。 
又、この時、小生が甲板付近で遊んでいる時、階段から転げ落ちて右腕を骨折してしまい、船医による応急処置をした後、東京の東大医学部で手術したが、あと数日遅れたら腐食して右腕を切断する羽目だったという・・!。 

未だ3歳の弟と小生の幼少の二人を引き連れ、上陸してからは舞鶴からはるばる東京へ向かうのであるが、おまけに上の子(小生)は怪我で半病人の身であったことからして、親父の労苦が偲ばれるのである。 


この間、東京・足立の親類(叔母・父姉)で厄介になり、その後、親父の実家である福島県の石城郡磐崎村白鳥(現、いわき市白鳥町)へ戻り、同村及び隣町の湯本町で敗戦の辛苦を味わいながら、少・青年期を過ごすのである。 
幼少のみぎり、上陸した「舞鶴」という地名は確かながら、当時の詳しい様子等それ以外の事は残念ながら全く記憶に無い。
 

子供時代にNHKで「尋ね人の時間」というのがあった。 
”どこで・・、何をしていた・・、誰々さんを・・、誰々さんが探しています”、という内容を次々と読み上げていた。 

この時、「旧満州」という言葉がよく出てきて、その頃は何とも思わず聞いていたが、今思うとあの頃は戦後の混乱期がまだ続いていて、あのような番組が相応に役に立っていたことが判るのである。 
その番組も、気が付かないうちに無くなっていたが。
  

次回は「引揚者と戦争難民


2017年10月24日火曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「戦後の引揚港」





平成日本紀行(202) 舞鶴 「戦後の引揚港」   .




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引揚記念館




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『異国の丘』・歌碑




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復元された引揚桟橋





小生家族も世話になった、舞鶴・「引揚港と桟橋」・・!! 、

舞鶴港は、戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていたが、終戦直後は大陸に進駐していた軍人、軍属や一般人の日本本土への引揚、および日本に在留していた中国、朝鮮人の送還のための指定港の一つとなった。 

さらに、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国へ(当時の日本領、小生の出生地)侵攻したソ連軍によって捕虜になり、シベリアに不法抑留されていた旧軍人についても舞鶴へ帰還している。 


他港が早々に引揚港から除かれたため、これら引揚の人々の殆どが舞鶴港を入港先・帰還港とした。 
これに伴い、日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。


昭和20年から33年まで13年間にわたり、凡そ、66万人余りの引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れた引き揚げの町・舞鶴である。 
その当時をしのぶ建造物は残っていないが、港を見下ろす小高い丘に、戦争を語り継ぐ平和のシンボルとして、昭和45年「引揚記念公園」、同63年「引揚記念館」が建設された。



この記念館には辛い抑留生活、生きて祖国へ帰り着いた再会の喜び、遺骨の帰還、帰らぬ人を待つ家族など、そして、その展示は戦争を知らない世代にも胸を打つものがある。 

引揚の丘公園の展望台からは、眼下左手に湾を横断するモダンな大吊橋が時の流れを消すかのように光っている。 
又、北側には、引揚げ時に上陸したと思える復元された木製の記念桟橋跡らしいのが見える。その引揚桟橋まで降りてみると、釣りをしている人しかおらず、いかにも平和な感じである。 だが「引揚桟橋」の文字と脇に立つ「平和の鐘」を見ると、一顧の念に駆られるのである。



昭和20年8月15日、(日本の降伏の日)終戦時海外にいた日本人は、極東、シベリア、中国、朝鮮、ヨーロッパなど軍人350万人、一般邦人310万人、合わせて660万人にのぼったという。 
この日本兵及び一般邦人達は、短期間のうちに日本へ引き揚げることを強制されることになり、日本では、舞鶴、浦賀、呉などの主要港がこれら日本兵の受け入れを許可し、それから約13年間の長きに渡り、日本兵の引き揚げ業務が行われてきた。


この引き揚げのニュースを聞き、舞鶴などの引き揚げ受け入れ港には、全国から大勢のの肉親達が集まり、平引揚桟橋にて息子や夫・肉親などの帰りを待った。 
中には、既に海外の戦地で戦死してしまった夫の帰りを待つ妻、最愛の息子を長く待ちつづけたが無念の想いで死んだ母など、悲しい歴史が沢山ある。 
中でも、菊池章子、二葉百合子らによって歌われた「岸壁の母」は余りにも有名である。

これら流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、「端野いせ」という名の女性であった。 


「端野いせ」は石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)の出身で、息子である「新二」は軍人を志し、昭和19年満州へ渡って入隊し、同年ソ連の攻撃を受けて中国・牡丹江にて行方不明となったという。 
終戦後、端野いせは東京都大森に居住しながら生死を知らされないまま、新二の生存と復員を信じて昭和25年1月の引揚船初入港から以後6年間、引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立って待つ続けたという。 

時は過ぎ、「新二」に関して昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日、牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行した。 
その後、端野いせは「未帰還兵の母」として、昭和51年9月以降は高齢と病のため通院しながらも生計をたて、息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で亡くなっている。

しかし、である・・、
端野新二は実際には生存していたらしい。

終戦後、ソ連軍の捕虜となってシベリアへ抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍、その後レントゲン技師の助手などをしながら上海に居住し妻子をもうけていたという。 

新二は、母が舞鶴で待っているということを知っていたが、帰ることも、又、連絡することも無かった。 

理由は様々に推測され、語られているがはっきりしないという。
因みに、日本から船を外地の主要港湾に派遣し、海外にいた一般邦人をまとめて内地へ連れて帰るのを「引揚」とよび、軍人については「復員」とよんだ。 以下、これをまとめて引揚者、引揚船と称した。 

尚、小生の家族も満州引揚者ということで、この中の一員になっている・・!。 
このことは次項で・・!、 



軍歌・『異国の丘』 

今日も暮れゆく異国の丘に 
友よつらかろ切なかろ 
がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ 
帰る日もくる春がくる

今日も更けゆく異国の丘に 
夢も寒かろ冷たかろ  
泣いて笑って唄ってたえりゃ   
望む日がくる朝がくる




次回は、「私的引揚げ体験の回想」


2017年10月23日月曜日

平成日本紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」


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   平成日本紀行(202) 舞鶴 「舞鶴港」    .




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舞鶴軍港に停泊中の護衛艦群
舞鶴軍港に停泊中の最新鋭護衛艦・「すずなみ」





宮津の町から岬付け根の粟田トンネルを抜け、粟田湾から由良川沿いを南下する。 
八田の交差点を左折して由良川を渡り、小さな峠を越えると間もなく舞鶴の港である西港の大きな埠頭が目に入る。   


舞鶴港は、日本海における重要港湾の一つとして位置付けられ、現在は大きく二つの港に区分されている。 

この西港は対中国、韓国、ロシアなど対岸諸国への定期コンテナ航路をもつ国際貿易港としての機能分担をもち、中でも、現在、拉致などの諸問題を抱える朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の清津港(チョンジン・日本語・セイシン)の航路も開かれているが・・?。 

そしてこの先の東港は、近畿圏と北海道を結ぶ長距離フェリーを中心とする国内貿易港としても利用されているが、主に海上自衛隊の軍港として使用されている。 



一旦、西港から離れて次に東港へ向かう。 
舞鶴港は西の金ヶ岬、東側が博奕岬(ばくちみさき・・?)に挟まれた狭い湾口を成していて、その地形から湾内の干満の差が極めて小さく、四方を3~400m級の山で囲まれていることから、強風や荒天をも避けることもできる。 
また日本海から湾内を目視する事ができないため、天然の良港としても重要視された。 


このような地形的に優位な舞鶴港は古来より開かれ、江戸期には北前船の寄港地として貴重な存在となり、日本海側でも有数の商業港として栄えていた。 

だが、北方において軍事色が濃くなる明治期には、日本海側唯一の海軍の舞鶴鎮守府が開府し、軍港として飛躍的に発展してゆくことになる。

日露戦争の際、その殆どの船がここから出港したことは有名であり、当時の海軍記念館も存在している。 
昭和の戦時期は、更に東港が軍港として整備され、戦後も海上自衛隊基地として現存している。


現在の舞鶴港はロシア、中国、韓国との航路もでき、そして北朝鮮との貿易港としても期待されていた。 
しかし北朝鮮の不審船事件や、その他の不穏な動向により舞鶴の海上自衛隊は更に増強されているという。 

軍港は、海上自衛隊の舞鶴地方総監部(戦前の鎮守府にあたる)として、イージス艦、給油艦、護衛艦などの海軍基地として、昔のように整備されつつあるという。 
舞鶴港の歴史は、そのまま日本の歴史を見るようでもある。


因みに、現存する国内の主要な軍港は、北から北海道・むつ市の大湊港、横須賀港、呉港、佐世保港と舞鶴港である。 

そして、日本の戦後の歴史としては舞鶴東港は何といっても引き揚げの港として著名である。 
実は、小生も戦後満6歳の時に、この港に上陸した「満州引揚難民」の一人なのである・・!。
(このことは後ほど・・、)


港の公園からは蔦を絡ませた赤煉瓦の堅固な倉庫も見えてる。 
横浜の赤煉瓦倉庫とは異質な 雰囲気に満ちた建物で、ここは旧日本海軍の軍需施設として使われたもので現在でもその面影は色濃く感じられる。 

今実際は、赤レンガ博物館や市政記念館・また海上自衛隊の補給所などとして使われているようである。 
公園からは更に海上自衛隊の埠頭が臨まれ、各種軍艦(自衛艦、護衛艦)が常駐停泊していているのが伺える。


一旦、街中を通って湾の東側を北上する。 
広い自衛隊基地、日本板硝子の敷地を過ぎると間もなく小高い公園風のこざっぱりところに「引揚者記念館」があった。 
近代的な堂々たる建物で、一つの歴史的記念施設でもある。


次回、「舞鶴引揚港

2017年10月21日土曜日

平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)



旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。 」  (アントニオ・マチャド;スペインの詩人)





  平成日本紀行(201)宮津 「天の橋立・南」(2)  .




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林春斎の三景碑(天の橋立)



海岸へ出ると間近に砂州と松林が延々と対岸へ延びている。 
その景観は海と緑が対象の妙をなし、確かに、その美しさは人々の心の琴線に触れるものであろう・・!。 
海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵である。 

天橋立は古き時代から数々の歴史の表舞台にも登場し、和歌や文学にも登場してきた美景であり、いつの世も代わることなく人々を魅了し続けている。 
日本人の旅心の原点でもあろう。

一例として良く知られる百人一首の「小式部内侍」(こしきぶ の ないし・平安時代の女流歌人、母は和泉式部)の歌で・・、

大江山 いく野の道の 遠ければ 
           まだふみもみず 天橋立
』 がある。

又、その母である和泉式部も・・、
橋立の 松の下なる 磯清水 
           都なりせば 君も汲ままし
』 と吟じている。  

人をして 廻旋橋の 開く時 
          黒くも動く 天橋立
』   与謝野晶子

はしだてや 松は月日の こぼれ種』   与謝蕪村

などもある。



松林の一角に古式の文字で「日本三景」の碑が建っていた。
碑には、『丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す』  林春斎
と刻してある。

御存じ、「天橋立」は日本三景の一つである。 

日本三景とは、ここ京都府宮津市の「天橋立」、宮城県松島町の「松島」、そして広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことである。 

これには所縁があって、江戸期の儒学者・「林春斎」が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に著述されていて、三景石碑に記された文面の如く、我国の卓越した三つの景観としてと書かれたのが始まりと言われている。


ところで、これら三景の地には同じ様な文字の記念石碑が建てられているというが、面白いのは其々紹介する場所で、刻した順序が違っていて、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、宮島」(冒頭写真)、松島では東から「松島、天橋立、宮島」、厳島では西から「宮島、天橋立、松島」の順となっているという。 

尚、2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。


林春斎は、幕府の仕事として全国をかなり広範囲に行脚したようで、その見識の上で日本三景を選出したようである。 
当時の江戸期の国内事情から考えると、日本三景を死ぬまでに全てを観光したという人はかなり限られていたと思われ、現代においても日本三景の総てを見たという人は案外と少ないどころか、「日本三景は、其々何処に在るか・・?」とすんなりと地名が出てくる人も案外と少ないのではなかろうか・・?。

幸いというか小生の場合、日本一周を旅するに及んで他の「松島」、「安芸の宮島」(厳島)、そして、ここ丹後の「天橋立」の地を訪れたことで、日本三景勝地を巡ってことになる。  

因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。


林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父はあの林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠・家康の三男に講書を行う)で、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)で、父とともに幕府に仕え、幕政に参画していた。 
三代将軍・徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係や幕府外交の機密にもあずかった。 又、日本史にも通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」(江戸幕府により編集された漢文体の歴史書)、「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における歴史的書物の編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた人物でもある。


次回は「舞鶴


01. 15.

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