google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 11月 2016

2016年11月28日月曜日

平成日本紀行(154)志布志 「志布志千軒町」


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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 平成日本紀行(154)志布志 「志布志千軒町」  ,




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/41/Shibushi_Port_Wakahama_Area_01.JPG
現在の志布志港





旅の記録;「日本一周」へリンクします

志布志は、古来より南九州の海運、交易の中心であった・・

太平洋、志布志湾沿いの大崎町へ入って間もなく、大隅半島の東の入り口である志布志湾に面した国道220号線沿いにある「道の駅・くにの松原おおさき」へ来た。 

入り口に巨大なカブトムシの、つがいのモニュメントが出迎える。
大隅半島は「カブトムシ」の採取に適した自然豊かな地域だといい、大崎町は7月に「カブトムシ相撲大会」も開催されことで子供らに人気があるという。


裏手の志布志湾に面した海岸は「くにの松原」と言われる。 
数十万本ものクロマツの美しい松林が、海岸線沿いに帯を成して美観を造っている。 

日南海岸国定公園内に位置し、長さ約7kmにも及ぶその見事な景観は「日本の白砂青松100選」にも選ばれている。
この地は神代から日向(ひむか)の国、救仁(くに)の地として栄えたところで、ここから「くにの松原」の名称が付いたという。 

古代、ここ内之浦から大崎・志布志に至る大隅国中央部から日向国の南部にまたがる広大な地域を救仁院、救仁郷と称していたらしい。


志布志町の町並みに入ったが、思ったより小さな町並みに感じられる。 
志布志湾というと、九州南部地方では極めて利便性の良い港であり、古来より海運業が盛んだった港町にしては意外と地味に思われた。 
尤も、最近になって国の重要港湾・九州唯一の中核国際港湾として指定を受け、コンテナ関連施設の整備が進められているともいう。



かっての志布志は、藩政時代には密貿易で栄え、「志布志千軒町」と唄われたほどの港町であったという。
既に、平安時代末期には島津御庄と呼ばれた大荘園(貴族・豪族の私有地)の唯一の水門(港)でもあり、「志布志の津」として歴史書の中にその名が記されている。 
豪族達が戦略上の重要な地域として、また港の交易による利益をめぐって攻防の歴史をくり返したでもあった。

又、志布志は過去に“水の輸出”という珍しい地域でもあったという。
南九州地方は、特有の広大なシラス台地で、長年に渡り自然ろ過された清浄な水が豊潤に湧き出している地帯でもあり、湧水は古来より秀吉や加藤清正などともゆかりが深いという。
彼等により、戦国時代以降は海外にもこの清水が運ばれ、その水は味が変わらない名水であるとされて時の権力者達に喜ばれたという。  


江戸時代の志布志は薩摩・島津氏の外城としてが置かれ、「麓の港」として南西諸島(琉球、その他)や京阪地方との交易による廻船(江戸時代の定期船のこと)で賑わい更に、江戸時代末期になると密貿易の基地として「志布志千軒町」と呼ばれるほど賑わいを見せたという。 

同時期に大慈寺、宝満寺、山宮神社などの数多くの寺社仏閣が建立され、武家屋敷の庭園など多くの歴史的遺産も残されていた。 
しかし、これらの遺産も明治期の政策の一つとして寺社分離、廃仏毀釈(寺院をとりこわして神社を大事にする明治政府の天皇制をすすめるための政策)が行われ、特に薩摩地方では激しく、由緒ある寺院や施設が壊されている。


志布志町役場の一角に大慈寺(県指定所有)がある。 
室町期・1340年の創建といれる古刹で、京都の臨済宗妙心寺(拙宅の菩提寺と同じ)の末寺でもあり、江戸期の隆盛時には16の支院と100名以上の僧坊がいたという。 

当然ながら明治2年の廃仏毀釈により一時は廃寺となったが、明治12年に一部を再興し現在に至っている。 
克って、この寺に参道門に石造の立派な金剛立像の呵形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)が立っていたという。
寺院取り壊しの際、難を逃れるために地下に埋設して隠したとされ、寺の再興の際に再び掘り起こしたものという。
だが、据付したのは一体だけで、もう一体は廃寺となっていた同系の寺・海徳寺に据えたという。


因みに、「呵・あ」、「吽・うん」とは印度仏教・サンスクリット語の“初めと終わり”を意味する。
尤もで、日本語の五十音も全く同じである。 

阿・吽の呼吸」というが、口を開く「阿」と、口を閉じて発する「吽」から、そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」と言うようになった。 

又、「あー」と口を開けて吐ききる「」と、「」と口を閉じて鼻から空気を吸う「」が「呼吸」であり、これが正しい呼吸法ともいわれるが・・?。



現在の志布志港は、日本有数の農畜産地帯への飼料供給など、南九州地域における拠点港として発展しているという。
港湾と都市部を結ぶ南九州自動車道や都城・志布志間地域の整備計画が具体化しおり、今後さらに都市機能の整備や産業の振興を図って、世界に開かれた南の拠点づくりを目指している。


志布志町は2006年1月1日に有明町・松山町と対等合併して市制施行し「志布志市」となる。 
因みに市役所の支所には、鹿児島県志布志市志布志町志布志志布志市役所志布志支所というのがあるらしい・・?。 
簡単に読めますかな、冗談ではなく大真面目である・・!!。


国鉄・大隈線については前に記したが、志布志は西からの国鉄大隈線と東からの日南線の終点であった。 つまりは中継点でもある。 
そして、この先志布志湾沿いを志布志街道(R220)が日南線と並行して走っている。
そう、志布志を抜けると間もなく「宮崎県」である。


ところで小生はこの後、串間市の南端に位置する「都井岬」へ向かう予定であったが、知らぬ間に内陸を抜けて日向灘・日南海岸に面した南郷に到っていた。 
小生のうっかりミスと言ってもよいが、標識を見落としてしまい通過してそのまま南郷まで来てしまったのである。 
南郷沿岸の日向道路のT字路の標識へ来て始めて気が付いたのであり、今更もあって都井岬へは断念してしまったのである。


次回は、その都井岬について述べてみたい。

  
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2016年11月25日金曜日

平成日本紀行(153) 鹿屋 「特攻基地」





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平成日本紀行(153) 鹿屋 「特攻基地」




鹿屋航空記念館 海上自衛隊・哨戒機





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鹿屋基地から特攻出撃して戦死した人々の員数は凡そ千人弱とも言われる・・! 

1936年(昭和11年) 日本海軍・鹿屋海軍航空隊が結成されると同時に、飛行場も建設された。 
そして、第二次大戦における海戦においては、特に沖縄の戦闘は戦艦大和など戦史にも残るほど熾烈なものであった。 

この時期、日本の戦局は絶対不利の状態となっていて、ここに退勢挽回を図るため秘策を試みるに至った、即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して計画したと言われる特別攻撃、つまり「特攻」であった。

鹿屋基地において戦時中期頃までは、中国大陸に対する爆撃やマレー沖海戦、イギリス東洋艦隊の攻撃などで戦果があったとされといる。 

特に零戦(零式艦上戦闘機)は大戦中には大量に製造され、世界的な名機といわれて太平洋戦争初期には圧倒的な力を誇ったという。

世界を震撼させた零戦は、海軍鹿屋航空隊でも頻繁に出撃していったが、この鹿屋基地は、戦時末期にはアメリカ軍の沖縄侵攻により、特攻出撃の航空基地となってしまうのである。


太平洋戦争末期には鹿屋基地には第五航空艦隊司令部が置かれ、「神風特攻隊」の出撃基地となり、爆弾を抱えた零戦をはじめ戦闘機は、その運動性能を充分に生かすことなく、搭乗員とともに特攻作戦を展開しながら南の海に散っていった。 

特攻機が離陸するに当たり、知覧基地では「開聞岳」が最後の見送りの地となったが、鹿屋基地からは「桜島」が最後の想いの地になったものと思われる。
この基地から出撃、特攻戦死した人々の員数は908名とも言われる。


現在は、海上自衛隊の航空基地で、対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地でもあり、日本の南西海域の安全保障や奄美諸島から甑島列島に及ぶ広大な海域・離島の海難・急患輸送に欠かせない基地となっているという。 
その滑走路脇には今でも、戦中から使われていた零式艦上戦闘機の勇姿が展示されているという。



国道220号は大隈半島を、ほぼ直角に横断するように延びている。 
その中ほどに「串良町」がある。

この町域のだだっ広い丘陵台地には、緑の絨毯が広がっていて名産の葉タバコが育成されているようである。 
おはら節に『 花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島 』と歌われているように、この地方は古来より葉タバコの生産地であった。 
昨今は、原料葉たばこの輸入(中国、インド、ブラジル・・)や専売公社の民営化、消費の低迷などによる減反政策のため減少傾向にあるという。 

J・Tからの買取価格も低下しているのが現状のようで、政府も転作を奨励するように働きかけているようである。
葉タバコ生産の産県別にみると熊本、鹿児島、宮崎と九州南部地域が全国ベスト3に入り、凡そ30%を占めているという。 

尚、時代の勢いもあっていずこの地も禁煙運動が盛んであるが、強硬に反対しているのは実は、葉たばこ農家よりもタバコ販売業者達ともいわれる。


串良町の串の字を分解すると、「中中」と読み、「なかなかよい町」という意味にもとれ、町民はそのことを意識しているともいう・・?。 

串良町(くしらちょう)は、今も第一次産業に従事する住民が多く、葉タバコ産業は今後懸念されるが、農業を基幹産業とする町に変わりはなく、「なかなかよい町」であることは確かなようである。 

だが、串良町は周辺の鹿屋市、輝北町、吾平町と2006年1月に合併し、新たに鹿屋市となってしまうという。
従って、行政としての独立性のある「なかなかよい町」は、消え去ってしまうのである。


次回は、「志布志

  
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平成日本紀行(153)垂水 「桜島と高隈山系」





 平成日本紀行(153)垂水 「桜島と高隈山系」  ,




垂水市街から「桜島」の展望






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国道220から垂水に近づくと、いよいよ眼前に迫力ある「桜島」が迫る。
先般通った国道10号の「大崎の鼻」からは丁度反対側からの眺めになるが、垂水市内から桜島の展望が効く位置の所々で、その勇姿をカメラに収めて戻ることにする。 


垂水市の海岸道の柊原から古江辺りの国道220号は、道路面の拡張、改修されていつ実に広々として走り良い。
更に、付近住民の理解と協力があってか、素敵な町並みが出来上がっている。 
望むならば、この国道町並みをもう一工夫して、例えば洒落た街灯などを設置すると更に引き立ち、名所・櫻島や鹿児島にも近いので、街の名物として成り得ると思うが如何であろうか・・?。 


確か、昨秋訪れた北海道東部の音別町辺りだったと思うが、市街地を貫通する国道38号線には、町花である「エゾリンドウ」をモチーフにした街路灯が連続して設置されてある。
夜ともなると、真直ぐ続く街頭の明かりは宛ら(さながら)遠くから眺めると滑走路の様だともいわれ、ドライバーにはすこぶる評判が良く、更に、霧がかかると幻想的で、音別町の「ふるさと自慢」の一つにもなっている。


その、海岸の鹿屋市古江からは内陸方向の鹿屋の中心市街地へ向かう。 

気持ちのいい海岸道路であるが、目を内陸方向に転ずると海岸からいきなり急峻な山並みが競り上がっているのが判る。
この山地は高隈山系といって1000m以上の山塊が連なっていて高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地もある。

そして、日本におけるブナ林の南限であり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定された地域でもあるらしい。
高隈山系の最高峰は、チョット珍しい山名の大箆柄岳(おおのがらだけ:1237m)といい、頂上からの眺めは素晴らしく、桜島や開聞岳、大隅半島、霧島連山などの大パノラマが展開するという。

山地は東側に向かってなだらかな裾野を広げているが、因みに、西側は桜島と陸続きで繋がっている。
元より、桜島は島というようの、独立した火山の島であった。 ところが、大正3(1914年)1月、この日が桜島が島でなくなって、東側の大隈半島とつながった、運命の日でした。 何とほぼちょうど100年前の出来事なのですね。

この日、桜島が爆発的噴火を起こして、此れを「大正大噴火」と言います。 20世紀以降の日本において、国内で起きた最大の噴火でした。 噴煙は何と8千メートルに達し、そして大量の溶岩が流れ出し、東側の海へと進んでいきました。

此処で、大隈半島と桜島の間には、幅400メートル、70メートルもの深さの立派な海峡がありましたが、やがて溶岩は距離のある海峡の間を埋め、陸続きにしてしまったのでした。 この時、この大正大噴火では、桜島全体で死者、行方不明者を合わせて50人にのぼったとされています。



その裾野は鹿屋の町であり、そこには広大な丘陵台地が広がっていて、この台地を利用して昭和の昔に飛行場が建設されている。 
市域の西部に広がる航空基地は、今は海上自衛隊鹿屋航空基地となっているが、戦前戦中においても一大航空基地でもあった。


次回、 鹿屋 「特攻基地」

  
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2016年11月23日水曜日

平成日本紀行(152)吾平 「吾平山稜」


ブログ、H/P

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九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





 平成日本紀行(152)吾平 「吾平山稜」   、






吾平山上稜は全国でも珍しい岩屋の陵で、県下の神代三山陵の一つ。 大隅半島の中央を貫流する肝属川、その上流・姶良川の清冽な流れのほとり、山紫水明に包まれた景勝の地にある。




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「吾平」と「姶良」は同じ”あいら”と読むのだが、その関連性は・・?  、
 
 
佐多岬の断崖絶壁からの展望を満喫して戻ることにしよう。
R269の大根占までは先刻見慣れた風景である。 

大根占町(旧)の東隣の町に「吾平町」(あいらちょう)がある。 
ここで、先般「薩摩川内」の項でも若干記したが、「吾平山稜」(あいらさんりょう)について更に述べてみよう。

吾平町の中央部に、あの薩摩・鹿児島県の神代三山稜の一つで「吾平山稜」が鎮座している。山陵とは、一般に天皇・皇后の塚墓のことであり、吾平山稜の祖霊は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 そして御母君である玉依姫(タマヨリヒメ)のものとされている。

境内は清流と神聖な樹木が鬱蒼として清々しく、数百米にわたり玉砂利が敷き詰められていて、別世界のような静かな世界を形成している。
雰囲気が伊勢神宮の内宮に似ている処から「小伊勢」とも呼ばれているという。 


拝殿の前は沼池が配してあり、その向こうに本殿御陵が岩窟の中にあって、神代三山稜の中で随一岩屋の陵になっている。
その窟内に大小二つの塚があり、大きい塚が神武天皇の御父君、小さい塚が御母君の御稜とされている。 

この御陵山を鵜戸山(うどさん)といい、窟を 鵜戸窟と称している。 
鵜戸というと日南の鵜戸神宮と同じで、こちらの神宮は鵜草葺不合を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの六代の皇祖神を相神として奉っている。 
この神宮へは本日、この後訪れる予定である。


吾平山稜は大戦直前の昭和10年11月、昭和天皇が御親拝になり、昭和37年5月には皇太子(現、今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 
正月、初詣には近郷近在から、数万の参拝者がお参りされるという。



ところで、薩摩には「吾平」と「姶良」というの二つの「アイラ」という自治体が存在する。 

姶良は、鹿児島市の北、両半島(薩摩、大隈半島)の付け根に当る地域に姶良郡姶良町である。 
一方、こちら吾平と書くと、普通「ごへい」と読んでしまいそうだが、この二つの「アイラ」には何か関連性があるのだろうか・・?。 


この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川(あいらがわ)で吾平町中心を北流している。
そして吾平町は、以前は姶良郡姶良村という自治体名であったという。 


古代、この地方の大隅国では四つの郡があり、その中に姶羅郡(あいらごうり)というのがあったらしい。
一方、始羅(しら)郡と呼ばれていた地域があったそうで、これらの地名に使われている「姶」と「始」の文字は似ているので紛らわしく判別が付き難い。 
その為、近代以降単純化して「姶良郡」に統一されたとも言われている。 

吾平山稜の周辺地においても姶良村や姶良川等の地名、固有名が存在した。
そして、姶良村は1947年(昭和22年)町制施行の際「姶良」を「吾平」と改めているのである。

吾平という町名は、吾平山陵が由縁であることは確かだが、尚且つ、神武天皇の妃(きさき・妻)の御名が「吾平津姫」(アヒラツヒメ)と称し、故に吾平山稜、吾平町が誕生したともされている。 

吾平津姫は、字のごとく「アヒラツヒメ」と呼んでいたが、旧地名に因んで語呂も良く、吾平は次第に、或は町が誕生した時に「あいら」と読むようになったのかも知れない。


しかし、「吾平町」は周辺の鹿屋市、輝北町と2006年1月1日対等合併し、新市制による鹿屋市となっている。
又一つ、歴史ある町名が消えることになった。



相変わらず見通しの良い海岸道の一本道が続く、R269から一部県道を乗り継いで、R220を行くことになる。 

鹿屋市の高須、天神、古江、垂水市の新城、宮脇、柊原、浜平、垂水と大隈半島・錦江湾沿いの地名が連なるが、かってはこの地を鉄道が走っていたらしい。
日豊本線・国分駅から鹿屋を巡り、高須から大隈半島を横断する形で吾平町を通り、日南線・志布志迄行く国鉄・大隈線であった。 
結局は国鉄合理化の一環として1987年に廃止された路線であり、全通してからわずか15年目のことであったという。 

当時は、鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道であったが、鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く、移動するには致命的な欠点があったとされた。 
又、沿線は人口が少ないうえ、自動車の普及が盛んになり、国鉄経営再建のためにも廃止につながったようである。


次回は、「鹿屋

  
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2016年11月21日月曜日

平成日本紀行(151)佐多 「佐多岬」





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平成日本紀行(151)佐多 「佐多岬」





写真:本土最南端の佐多岬



向いの大輪島に建つ「佐多岬灯台」






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日本本土最南端の地・「佐多岬」は、有料観光地・・?


一時して、大根占の埠頭に着岸した。
雄川の河口でもある長閑な漁村風の港で、埠頭の周辺には小さな漁船が密集している。 

国道269号を南下すると、程なく道の駅・根占に到着し一服する。 
道の駅・根占」は、本土最南端に位置しているらしい。
やや傾斜地に位置していて、駅舎はその高台にあり、錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺められる。
実は、大根占町は2005年3月、田代町と合併して、新しく「錦江町(きんこうちょう)」が発足している。


R269を南下すると間もなく「日英戦争の砲台跡」というのがあった。 
“日英”とあるが、実際は“薩英”が正しい表現であろう、古い石垣からは大砲が錦江湾を睨んでいる、なかなか趣があって歴史を感ずる。


R269はこの先も殆どが海岸沿いの道で、錦江湾の静かなる海原と、その向こうに絶えず開聞岳の円錐形が見守っている。 
こちらは、「南大隅町」といって、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町で2005年3月、根占町と佐多町が合併して発足した新町である。 

根占という町名は大根占町と根占町と在って、何故か、其々が別の町と合併し、其々の新しい町名を名乗っているのが面白い。
何か、曰く因縁でもあるのだろうか・・?。


この海岸道路は、別名「佐多街道」といって諸島を除く本土最南端に位置する「佐多岬」へ通じている。
その、佐多岬へ向かっているのである、佐多の小さな町並みからは、大隈道という内陸を通るようになる、山間部の多少の上下屈曲を繰り返しながら大泊地区へ出た。

ここからは「佐多岬ロードパークウェイ」というチョット長ったらしい名称が付いている。
ところで、ロードとウェイはどちらも「」という意味であり、呼び名が重複しているのでは・・?、
その有料道路の入り口へ来た。  

通行券には「佐多岬有料道路」とあり、大泊から佐多岬までの約10キロのドライブウェイで、有料道路のわりにはかなり古そうな道で、カーブもかなり急であり、云わば、ワインディング・ロードともいえそうだ。 

だが、沿道には並木や花壇はよく整備され、ハイビスカスやブーゲンビリア、ビロウ、ヤシの木などの亜熱帯植物が生い茂り、さながら南国の植物園に来たという醍醐味が感じられる。 

一見、通行料の1000円は高そうに思えたが、この側道南国植物園で納得しよう。 






途中、「北緯31度」の掲示板があり、はて・・この意味はと思ったが、本土最南端の緯度というわけであろうか・・?。 

その下にカイロ、ニューデリー、ニュウオーリンズ、上海、カラチともかいてあり、主要都市の同緯度を示したのであろう。



ところで緯度とは、経度とともに、地球上の位置を示す座標の一つで、緯度は、地図上では上下方向、つまり、その地点における赤道を中心として北極の天頂、南極の天低までの方向と角度で表される。 

赤道が緯度0度となり、北を北緯(ほくい)、南を南緯(なんい)と言い、北極・南極が90度となる。
又、北緯に+(プラス)、南緯に-(マイナス)を付けて表す場合もある。 

緯度10度分の距離は、6370km(地球の半径)×3.14÷180×10の計算によって約1111km であり、当然、1度は111.1kmである。 1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する。 

又、1海里は、緯度1分(経度も同じで111.1km÷60)の地球表面上の距離を元に作られており、正確には1852メートルと定義されている。 


因みに、北海道最北端・稚内市は北緯45°25'N、東経141°40' E、本土最南端都市・鹿児島市は北緯31°36'N、東経130°33'Eであり、円形地球上の稚内市と鹿児島市の直線距離は計算によって1810kmとなる。 

序ながら経度は、同じ経度の点を結んだ線を経線と言い、子(北)と午(南)とを結ぶ線であることから「子午線」とも言う。 
そして、経度は地球上の時間(標準時)を定める基準にもなっている。


地球の自転・1回転が1日に当たるので、15度移動すると1時間進むことになる。
つまり、東経0度から東(又は西)に向かって国際時は決められていて、世界標準時は経度ゼロ(イギリスのグリニッチ)の子午線上の時刻で表され、グリニッチ標準時とも言われる。

日本は明石市が東経135度に位置しているので、日本時間は世界標準時より9時間進んでいることになる。 
言いかえれば、日本時間の午前9時が世界標準時の午前0時に当る。 

日本の標準時である日本標準時(JST・地方標準時)は、明石市を通る東経135度の時刻と決められている。 
つまり、イギリスが午前0時のとき、日本は全国が午前9時を示すことになる。 尚、経度180度の線が国際日付変更線となる。



終点の駐車場から歩いていくと隅の遊歩道の入り口にトンネルがあり、中の入り口に小さな小屋があって、ここで通行料として100円を支払うようになっている・・?。
チャッカリしているが、こちらもトンネル通行料は兎も角、園内の環境整備代と思えば良しとしよう。

トンネルを抜けると遊歩道になり、御崎神社という真赤な屋根の派手な社(やしろ)が鎮座していて、航海の守り神として崇められているとゆう。 

神社の右手の道を行く、岬突端の展望台までは起伏のあり、両側が切り立ったやせ尾根の稜線でスリルもあるが展望もすこぶる良い。 
途中、休憩所・レストハウスという建物の脇を通るが、閉鎖されていた。 

最後に、展望台の建物に着く、「日本本土最南端・佐多岬」と標識が立つ。 すぐ前には大小の島々が並び、一段と大きく屹立した大輪島に白亜の灯台が建っていた。

そして、やや遠くなったが相変わらず薩摩富士の姿が遠望でき、周辺海域は地球の丸さ・・?を実感できりのである。 

地球の丸さ云々は脇へおいて、やはり岬の先端というのは当然ながら絶景なる風景であり、何度見ても良いものは良い・・!。




因みに、日本本土・最北部は北海道稚内(宗谷岬)、最東端は同じく北海道根室市(納沙布岬)、最西端は長崎県佐世保市小佐々町(佐世保市小佐々町の神崎鼻先端部であり、神崎鼻公園と本土最西端のシンボル塔が建っている)で、其々、「四極交流盟約」というのがあるらしい。


次回は、「吾平」(あいら)

  
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2016年11月20日日曜日

平成日本紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」






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 平成日本紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」   、





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幕末の1863年、錦港湾で薩摩と英国の互角の海戦があった・・!  、


当時のイギリスは世界の海に覇権を樹立してゆく「大英帝国」と呼ばれ、特にアジアへの進出は顕著であった。 

インドを始め東南アジアの諸国諸島、そして、中国(清王朝)へと覇権を延ばし、これ以降、中国は欧米諸国の半植民地に転落していく。
そして、遂にイギリスは日本へも、その食指が向けられるのである。

又、イギリスが日本への進出を目指した他の理由として、当時イギリスは帝政ロシアと対立状態にあり、イギリスの帝国支配に脅威を与えるロシアの南下政策を牽制する目的もあった。


安政5年(1858年)、イギリスは主に対日通商が目的であったろうが、その真意、背後には中国同様の植民地支配の思惑もあり、その為に日本にやって来たのである。 

来日した外交公使のオールコックは、母国イギリスの軍事力、軍艦を背景に大言壮語、虚勢を張りながら、幕府代表を脅しにかかる。 
弱腰の幕府は遂にイギリスと「日英通商条約」を結び、翌年からイギリス公使は東禅寺(東京・品川)を常宿として使用し始めた。


この頃の日本は、ぺリーやハリスの来日で開国が進むが一方、攘夷論(外国を廃す)も沸き上がり多くの事件も発生している。 

オールコックの強引な外交に業を煮やした攘夷志士(主に水戸浪士)たちが、オールコックとその公使館を襲撃する(東禅寺事件)。 

中でも1862年、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主・島津久光一行の行列が生麦村(現、横浜市鶴見区)に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま行列を横切った。
これに怒った一部薩摩藩士が斬りかかり、イギリス商人・リチャードソン1人が死亡、他の2人が負傷した、所謂、「生麦事件」である。


この頃、薩摩藩では久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、斉彬の死後、頓挫していたその事業を積極的に復活・推進させたのが次期藩主となった久光であった。

この事件でイギリスは、さも当然の如く薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれをガンとして拒否する。 
新しく赴任してきたイギリス公使代理のジョン・ニールは、既に幕府から生麦事件の賠償金として10万ポンドを受け取っており更に、イギリス艦隊を引き連れて鹿児島湾(錦江湾)沖に到着、生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンド(現在の3億円程度)を要求している。

しかし、藩主・久光は「 生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと 」と薩摩藩はこれを断固拒否する。 

結果として「薩英戦争」が勃発するのである。


生麦事件後の薩摩藩はイギリスの要求には一切応じず、攘夷実行の準備を着々と進めていた。
実弾射撃演習などの訓練に励み,鹿児島湾内で模擬実戦をも行っている。

この頃、イギリス東洋艦隊七隻が出動して鹿児島・錦江湾に侵入してきた。 
久光は「 粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ 」の号令とともに、湾岸に配した大砲が一斉に激射を開始するに至る。
英国艦隊も応戦し、激しい砲戦が展開された。 

英国艦隊の艦砲射撃で鹿児島城下北部は焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けた。
しかし、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷するという大損害を出している。 
艦砲の射程はイギリス軍艦の方が上回るも、薩摩藩は先刻前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確に狙い撃ちができた。 

乱戦の中、イギリス艦隊は桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理しながら鹿児島湾を脱出していった。
無論、薩摩は英国の近代的な兵器に驚き、藩士はイギリスの砲弾を見て、生まれてこの方一度も見たことのない砲弾だったと驚かない者は誰もいなかったという。 
結果として、横浜で両者の和議が成立することになる。


戦乱の結果として、藩主・久光は諸外国の近代化された軍備に驚き、「 もはや無謀の攘夷は不可である 」と悟ることになる。

その後、薩摩藩は軍備近代化の必要性を痛感、生麦事件の賠償金の支払いと犯人捜査を約束し、又、イギリスも薩摩藩の実力を再評価して和解することになる。


これ以後,両者の関係は親密化し、イギリスは幕府支持から薩摩藩など西南雄藩支持へと傾き、薩摩主導の明治維新へと進んでいくことになる。 

更には、明治期の最大の大戦「日露戦争」でイギリスの補佐、協力を得て、日本は歴史的勝利を得るのである・・!。


次回は、「佐多岬

  
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2016年11月17日木曜日

平成日本紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」




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 平成日本紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」  ,








写真:指宿国民休暇村の「砂蒸し湯と露天風呂」(小生です)





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指宿国民休暇村は、魚見港から田良岬の一端に広がる一大リゾート地域にある。  、

 
館の前は広大な芝生が敷き詰めてあり、正面に魚見岳の姿がいい。 

通された部屋は正面が青く光る錦港湾で、左右に広がる砂浜は指宿市のサンビーチ海水浴場でもある。
今夜は大事なTV放送があるので、急ぐようにして入浴、食事を済ませた。


ところで、九州でも指折りの温泉地である指宿温泉「砂蒸し風呂」で有名なところである。 指宿・湯の浜海岸には「砂むし会館」という砂蒸し専門の名物の風呂が楽しめるところもある。

天然自然の砂風呂は、海岸の波打ち際の砂の上にあり、横たわると係の「砂かけさん」が砂をかけてくれるという。 
指宿の砂湯は既に300年以上の歴史があり、しかも、干潮時に砂を被ると効果が有るともいわれる。

こちら、休暇村の館にも“砂蒸し”はあったが、残念ながら天然自然のではなさそうである。 
ただ、砂蒸しは本日・特別サービスデイで、通常1000円のところ先着30名まで300円で入れるらしい、ラッキー・・!。 

渡された専用の浴衣を着て、係員に穴を掘ってもらった所に寝ると、頭だけ残して砂をかけてもらえる。 
最初は砂が重く感じ、しばらくすると身体全体が熱し、次第に痛痒くなってくるが、15分ほど我慢するとサウナのように汗が吹き出してくる。 
終わる頃は体の芯から暖まり、砂を洗い流す頃にはスッキリ・爽快さを感ずる。 

後は大浴場と露天風呂に浸かり、二度目の癒しを味わう。 
浴室は海岸沿いの松林に囲まれた雰囲気のいい場所に面していて、特に露天風呂がよかった。

風呂からでて食堂にて夕食を食す。単品料理のメニューを見て、鰹のタタキを特注、「う~ん、旨い!」ビールにピッタリである、大瓶2本飲んでしまった。
間を見計らって、大満足の食事を終え部屋に戻り、TVのチャンネルを捻るが間もなく就寝となった。



窓の白のカーテンが、朝日を浴びて輝いている、今日も天気は良さそうだ。
TVを点けると何処のチャンネルも昨夜のW杯の決定戦を映し出している。
あの、2得点のゴールシーンは何度見てもいいし、飽きない。 
無観客のせいか、その反動もあろう国内のサポーターが大変な騒ぎで、熱狂的ファンは半ば狂乱状態であった。 という場面をTVが盛んに映し出している。


さて、例によって朝風呂、朝食と済ませて気持ち良く宿を出て、指宿の埠頭まで車を滑らした。 
昨日のうちに、薩摩半島へ渡るフェリーの時刻を調べておいたのだ、指宿発8時の大根占行きである。


ハイビスカスロードと言われる快適道路を指宿市内へ向かい、案内板にしたがって車を進めると海岸よりチョコンと出っ張っている埠頭があり、そこがフェリー乗り場であった。

小屋風の小さな建物に南九船舶・指宿営業所とあり、指宿⇒大根占とあった。 
小型車~マイクロバスの車輌8~9台くらい航送可能のようで、大型車は不可であった。 
通称、ミニフェリー「なんきゅう」 と言い、航行時間は35分で、運賃は普通車で3300円とあった。 

小生のも含んで小型車3台、定刻よりやや早めの出航となった。 
指宿の街並、バックに聳える「開聞岳」の姿が徐々に遠くなる。
正面にはひっそりとした根占の町並みが遠望でき、遥か遠方に桜島も望めた。


この辺りは錦港湾の中でも大海に近い海域であるが、海面は穏やかであった。 
この穏やかな錦港湾で江戸末期、一大戦争が勃発し歴史に名を留めていることは、知る人ぞ知るであろう。 
幕末、風雲急を告げる大事件は「薩英戦争」と呼ばれた。


次回は、「薩英戦争

  
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2016年11月15日火曜日

平成日本紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」




九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




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  平成日本紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」   ,






写真:松原越しに見る池田湖と開聞岳







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「大阪の陣」の後、あの真田幸村が豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち延びた・・?  、

指宿を目指すため、先ず「指宿スカイライン」に乗って頴娃I・Cを目指した。
ところで「頴娃町」・・??、何て読むの・・?、
サッパリ分からない。 

一般に漢字は音読み、訓読みと両方あって普通の漢字なら大抵どちらかが読めるはずであるが、どちらにしても皆目見当が付かない。 
実は、頴娃の2文字で「エイ」と読む。 


地名とか人名の謂れを詮索してもしようが無いが、「頴娃」の2文字の意味はともかく、単字で「頴」は鋭い、秀れる、「娃」は姫、娘、美人、善女などの意味を持っているという。
このような意味合いで付けたかどうかは不明だが、いずれにしても日本的な名称ではなく、古代の渡来人あたりが付けた名であろうと想像は出来る・・?。


近年までは頴娃郡頴娃郷なるものが存在し、中世以降から戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏が領土を支配していたため、その名が付されている。 
現在の頴娃町は揖宿郡(いぶすきぐん)に属し喜入町、山川町そして開聞町などが合併により郡から離れたため揖宿郡唯一の町となっている。 


そして頴娃町は、あの「真田幸村」の伝説地であるとも言われる・・?。

慶長年間・大阪冬の陣があり、そして翌年の大阪夏の陣(冬そして夏の陣で江戸幕府が豊臣宗を滅ぼした戦い)において徳川・豊臣の最後の決戦が行われたが、当の頴娃村の地にも大阪の乱において、豊臣側支援のための軍資、兵員の出費を相当に課せられたという。

夏の陣も終わり、豊臣側の敗戦が決した後、薩摩には豊臣秀頼公を始め、眞田左衛門幸村、木村重成等の上下一千余人の大阪残党が続々と逃がれて来たという。 
真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂は、童歌にも唄われ流行ったという・・、


『 花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 
       退きものいたよ 鹿児(加護)島へ
 』

とある。


薩摩では真田を真栄田(真江田)と名乗り、伝説の古書に残っていて墓地まであるという。 

史実的には幸村は1615年5月、夏の陣において家康の本陣へ突撃し討ち死にしている。 
源義経や楠(木)正成もそうであるが、日本人好みの悲劇のヒーローであり、伝説を生んでいるのかもしれない・・?。



車も少なく、展望の良い快適な「指宿スカイライン」であり、時折、池田湖や開聞岳の円錐形の姿が見え隠れする。 

下りきって程なく湖畔に着いた、「レイクグリーンパーク」というサッパリした園地に着いた。 
芝生の先に満々とした湖面が広がる、その正面に円角錐の勇姿「開聞岳」が立つ。 絵になる風景である。 

池田湖は、周囲15キロメートル程の小さい湖であるが、九州では一番大きい湖で、深さも錦江湾と同じ230mもあるという。 

全体に明るく輝くような雰囲気であるが、湖の東側は切り立った岩山が湖面にまで落ち込んでいて、人を寄せつけない険しさもあり、神秘的な佇まいをも見せている。 

池田湖には謎の怪物ネッシーならぬ、イッシーが生息していると昔から言い伝えもあり又、池田湖の東側にある鰻温泉で知られる「鰻池」とは湖底洞窟で繋がっていて名物の巨大ウナギが生息しているいう噂もある。
 


薩摩半島の最南端の海辺から、いきなり立ち上がる「開聞岳」は標高924mの火山で、日本百名山の一つで別名「薩摩富士」とも言う。 
深田久弥氏が百名山を選んだ基準に「品格」、「歴史」、「個性」とあり、これに付加的条件として、1500m以上の高さが加わるという。 

開聞岳は高さこそ及ばないが、いきなり海上から屹立しているというユニークな山容であり、他の、どの山にもこの様な姿は見当たらない特異な山である。 その為に敢えて加えたのだろう。

開聞岳の北麓に枚聞神社(天照大神を祀るが、祭神には諸説がある)がある、「ヒラキキ」と読む。 

枚聞大神の神霊が宿る御神体山で、古代より信仰の山として崇められ、開聞岳は古くはヒラキキ岳と呼ばれた。 

枚聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に位置し、即ち海の門である。 
その雄姿は海の門、即ちカイモンであり、一時は海門岳とも言われたそうで、ヒラキキは開聞で音読みでカイモンとも読むので、自ずと両方の意味合いを取って「かいもん」が開聞と呼ばれるようになったという。

薩摩には大壮な三つの山が在る・・!、
  
『 開聞に 西郷南州 桜島 』  小生



夕刻も迫ってきている。
県道28号(開聞岩本線)で一旦海岸へ出て、案内に従って今夜の泊まり魚見岬の先端に位置する「指宿国民休暇村」へ急いだ。


次回は「指宿温泉

  
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2016年11月10日木曜日

平成日本紀行(147)知覧 「特攻の真実」


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九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





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 平成日本紀行(147)知覧 「特攻の真実」  ,


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知覧の特攻記念館


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/23/Nanohana%26Kaimondake.JPG
薩摩富士と呼ばれる「開門岳」と池田湖





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彼等は、古里の「開聞岳」を二度旋回して死地に向かったという・・!  、

第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)末期の日本で、戦況不利な状態下、陸海軍あげて大規模で特別な計画作戦として、「特攻作戦」が計画、実施された。 

その理由として、先ず、優秀な搭乗員の減少により、通常の航空攻撃は既に充分な戦果を得ることができなくなった。
そして初めて行われた特攻作戦はあくまで志願制ではあったが、幾ばくかの戦果を上げることができた。 

しかし、末期に至っては事実上強制的な特攻隊の編成が行われ、攻撃目的も精神論的なものが主眼となり、アメリカ軍の対応強化もあってその有効性が大幅に減じられたといわれる。


知覧では、昭和14年頃から陸軍飛行場としての調査がはじめられ、昭和16年、陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。 

少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていたが第10期生の頃から、この飛行場は、ほぼ三年間にわたって特攻基地としてその役割を果たすことになる。 

中でも、戦いの終盤、沖縄決戦において「特攻」という人類史上例のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となって突撃していった。
一機一艦の突撃を敢行した「特攻機」は全部で2500機といわれ、そのうち1900機が沖縄に押し寄せた米機動部隊に突入したとされるが、その中心が知覧飛行場であった。 

特攻は、知覧基地の他にも万世基地(知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世飛行場という特攻基地)や都城基地(宮崎県都城市)などから出撃し、1036人の隊員が戦死したのである。


知覧基地を飛び立ち、南へ向かう特攻隊員たちが見た風景は,薩摩半島南端の開聞岳,左手に池田湖,その向こうに大隅半島であったろう。

彼等の一番つらかった瞬間は、飛行機に乗り込むときに残った足が地面を離れる刹那、そして飛び立った後、振り返る度に見えていた開聞岳が見えなくなった瞬間、その2回だったといわれる。
そして彼等は「薩摩富士」と呼ばれる三角錐の際立つ秀麗な「開聞岳」を、二度旋回して死地に向かったという。



特攻という戦法の自殺的行為」に就いては、戦中の国民皆兵、軍人教育、そしてあの有名な皇国教育は、国のために命を捧げることを徹底して教えこまれていたから、元々、戦争へおもむく兵士は生きて帰れることなど考えていなかった。 

たまたま終戦、或いは不時に着任出来なかった特攻パイロットの中には帰郷が許された者もいたが、その時は軍から「特攻の任務については極秘にせよ」と厳命されたといい、当の本人も家族を悲しませたくないという思いもあり、大半の特攻パイロットは、家族には語らず死んでいったともいう。 

遺書にも親や残された者が悲しむことのないように、気遣った文面が多く目立つのはこのためであった。


1944年10月、第二次世界大戦中(太平洋戦争)にフィリピン・レイテ島沖で行われた、通称「レイテ沖海戦」が行われた。 
日本海軍とアメリカ海軍との、両国海軍が総力をあげて戦った史上最大の海戦としても有名である。

戦艦大和」、「戦艦武蔵」を主軸とした水上部隊が参加し、日本側の作戦名は「捷一号作戦」(しょういちごう:捷は勝の意味で勝利に通ずる)と呼称した。 
アメリカ軍によるフィリピン奪還作戦(米側ではマスケティーア作戦と呼ばれた)の阻止を目的として行われた。 
日本海軍はこの海戦を最後に、組織的抵抗を終えたとも言える。


又、この海戦で「神風特別攻撃隊」による攻撃が初めて行われた。
海軍として最初の組織的な「航空機特攻作戦」は、大西瀧治郎海軍中将により提唱されたという。

大西は生還を全く期さない戦法を自ら「特攻は外道の統率」であると認識していて、この作戦に応呼すべきは1回限りの奇襲策と考え、決断したはずであり、アメリカ空母を一時的に行動不能にするためには有効な戦法と判断し、それを命じている。 

しかし、1回限りの奇襲策が意外な程の戦果を挙げたことから、特攻作戦の継続、拡大することになる。


大西中将はかねて「特攻に狎(なれる)れてはいけない」が口癖であったといい、「特攻が日常化すると、命ずる方はそれを単に事務的に処理しがちで、命じられた方の心理や不安、心の葛藤や恐怖心、そして何よりも彼らの献身や犠牲の大事さを忘れがちになる」とも言っていたという。 


しかし、実態は、陸海軍とも初期戦果に目を奪われ、たちまち、「特攻に狎らされてしまった」のであった。 

その後、全軍特攻へと拡大し、狂気の自殺攻撃の兵器を生み出し、全軍特攻から全国民特攻へと暗黒の道を辿ることになり、行く手には日本民族そのものの玉砕による滅亡が危ぶまれる事態へとなっていった。

特攻隊生みの親」は大西海軍中将と言われるが・・、
一方、既に、海軍内では検討されてきた事案で、大西中将は発案者ではなく実行者であるとも言われる。 

いずれにしても彼は終戦の昭和20年8月16日未明、一切一身の責任を負い、介錯なしで割腹自決している。 

大西は「特攻隊の英霊に曰く(いわく)、善く戦ひたり深謝する」ではじまる、特攻隊員に感謝し、遺族に詫びた遺書を残している。

ある新聞記者が、特攻の生みの親とされる大西中将にインタビューを行った。 その中で『 わしはな、神風攻撃で戦局を覆せるとは思っていなかった。今も、そう思っている。それにもかかわらず、わしは、次から次へと、若い人たちを死にかり立てている 』、 『 わしはな、この日本が破れようとしている時に、若い人たちが喜こんで敵に体当りをして死んで行ったという歴史をつくりたかった。つくっておきたかったと言った方が正確だな(中略)そういう歴史がないと・・、後世の日本人はどんなに淋しいことだろう 』・・と。「現代史の証言」より・・!!。



当時の戦争責任者・・?の「内心の暴露・・?」を我々はどう解釈していいのやら・・??、
一人の過去の人間に対して、一方、二方・・多方と種々の見方ができる。 

歴史も同様で、歴史の一つの事象に対して一方、二方・・多方の見方ができ、戦争の責任問題にしても然りである。 

戦争を発祥し、命令し、命令されて戦地に赴く・・!、
特攻を発案し、命令し、命令されて特攻機で戦地に向かう。 

命令するものと、命令されるものの一線を何処に科すのかは常に曖昧である。 
歴史(過去の事象)というものは概念的な結果であって、多くの曖昧さが含むものであろう。 

命令するものも、命令されるものも、一線共通しているのは、結果を望んで使命感に溢れ、純粋に、実務を遂行したことであろう。 
つまり、戦争の責任を同国民として何処に科すのか、誰に科すのかという事は非常に曖昧のような気がするのである。 
曖昧さゆえに現世の人々は、結果に対して如何様にも考えられ、如何様にも発言できるのである。 

大事なことは「過去の経過、状況もさることながら、その結果であって、その結果を現在に生かし、未来にどう繋げていくか」という事であろう。 



現在、多くの「特攻隊員」が祀られている「靖国神社」は、その参拝について多々の物議を醸し出している。 
他所様(よそさま:外国、中国、韓国))が靖国のことで色々言っているが、それはある意味で仕方がないが(勝手であるが・・)、日本国民の知識人や責任階級者が、それに乗じてかどうか確かではないが、靖国神社に「参拝するな」とか、「分祀せよ」とか、宗教法人を取り払えとか、果ては別の慰霊所を造れと物議が湧き上がっている。 

この優秀な(・・?)日本人は「 歴史を、どう断罪しようとしているのか・・? 」、そこに見えるのは歴史の多様さ、曖昧さへの認識の疑問と思考的傲慢さが透けて見えて仕方がないのである。 



やや陰鬱な気分で記念館を出、直線の桜並木へ戻る。 
この「直線の桜並木」は当時、死出の旅立ちの、片道だけの滑走路だとされる・・!。 

今年は(2005年)戦後60年の節目を迎えて、知覧特攻平和会館への訪問者は、さすがにいつもの年より多いと言われる。


次回は、「頴娃・・?」

  
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2016年11月9日水曜日

平成日本紀行(147)知覧 「特攻平和会館」




九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




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 平成日本紀行(147)知覧 「特攻平和会館」    、





写真:整然とした「特攻平和記念館」



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/Chiran_high_school_girls_wave_kamikaze_pilot.jpg
特攻に向かう飛行機とそれを見送る女学生




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今の平和は、過去に知覧で起きたような犠牲の上から成っている・・! 、

知覧の街中を貫く主要道路の県道23号は、空中に電線が1本も張られてない開放感のある道である。
両側には程よく剪定された槙(まき)の木と花壇を設けた造りで飾ってあり、真に雰囲気が良い。 


暫く行くと今度は道の両側に石灯篭が等間隔に配されている。 
これは知覧町内から少し外れた薩南工高から平和公園までの凡そ2kmの区間に連なっていて、実はこの石灯籠は全国から寄せられた浄財で作られ、目標を壱千参拾六基、建立する計画であるという。 

1036個という数字は知覧基地を中心とする主に陸軍の特攻隊員の人々のことで、沖縄特攻で散華された若者達の御霊(みたま)の数であり、現在でも建て続けているらしい。


緑の園地が広大に広がるここのエリアは知覧平和公園と称し、この中心に「特攻平和会館」がある。 

桜並木の一直線が遥かに続き、奥の一角に数件の茶店が並ぶ。 公園の中心にこれだけ御土産屋が並ぶのも珍しい、実は「特攻記念館」という国内でも極めて稀な記念館なので見物に来る人々が耐えず、連日大型バスが連ねるという。


記念館周辺で先ず目に付くのが、当時使用されていたと思われる戦闘機のモデルが2機展示してある。 
家族連れの子供らが「わあ、飛行機だ カッコいい・・」などといいながらはしゃぎまわっている。 
両親も「おお、いいねえ、写真撮ろう・・」と言ってニコニコ顔である。 

若い両親には過去に日本で戦争があったこと、尚且つ、戦争末期、若者が特攻隊などの肉弾戦で戦ったことなど認識の外であろう。 

これらの親子の姿が平和というものであろう・・?、
でも、一体「平和」とは何であろうか・・? 

少なくとも戦争実感者の小生としては、安堵感の中に少々の歯痒さも感じられるのであるが・・!。


他にも隊員や平和観音堂・実母の銅像、鎮魂の歌碑や慰霊記念碑、特攻英霊芳名、そして、右手奥に三角兵舎などがある。
これらの建立者は何れも遺族や関係者であったり、戦没者の会であったり、戦友会だったりと様々のようである。 

三角兵舎は特攻隊の兵舎を復元したもので、敵の目を欺く為に杉木立の中に半地下壕を作り、地上には三角の屋根しか見えない作りになっているという。 
出撃の前夜、ここで鉢巻姿の若者たちが壮行会を催し、酒を汲み交わし、隊歌を歌ったり、最後の手紙や遺書を書いたりして最後の夜を過ごしたという別れの宿舎でもある。

園内、歌碑の中にこんなのがあった。

『 アリランの 歌声とほく 母の国に 
         念(おもい)いを残し 散りし花花
 』


当時、日本の属国であった朝鮮半島の出身の外国人も、知覧から日本という国の為に特攻隊員として出撃していったという。 
韓国の「反日」の一因は、このあたりにも起因するのかもしれないが・・!。


500円の入場料を払って記念館の中に入ってみた。 
丁度、入口部の広めのスペースに数十人の若き自衛隊員が床に腰を下ろして、館内の案内人の説明に聞き入っていた。 
やむなく特攻に発進していった英霊たちの事例を、写真や文例を見せながら訥々と語りかけ、聞入る隊員の真剣な眼差しが印象的であった。


展示品は主に、若くて逝った隊員たちの遺影写真や貴重な遺品や資料、そして肉筆の文面等である。
そこの一文を読むだけでも胸が熱くなるのを覚える。 

未だ、うら若き二十歳前後の諸君が、もう二度と戻らないであろう死出の旅立ちに当たって両親に感謝し、現在の状況下を素直な思いで述べ、祖国日本を後世に託す願いを“万感の想い出”を込めて切々と書き連ねているのである。 
この文面を渡されて実際に読む、肉親や恩師らの胸中はイカばかりか、これまた察するに余りあるのである。

ただ、時勢下とはいいながら、並みの若人が「爆弾を抱えて敵艦に体当たりする」これらの自殺行為自体、上司の命令であったとしても、本人達は些かの疑問を生じなかったのか・・?、
このことが文集の文面には一切無かったように思ったが・・?。 

これは、若者の余の純粋さゆえか、検閲によるものか、はたまた館内への非展示によるものか・・?、 察しはつかないが。 

ただ言えることは、この犠牲的精神は、次世代の人々へ託して“逝った“ことだけは確かであろう。

フロアーの一角には、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機「飛燕(ひえん)」や陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されていた。


引続き、「知覧特攻」について・・、

  
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2016年11月8日火曜日

平成日本紀行(147)知覧 「外城(そとじょう)と武家屋敷」




九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
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 平成日本紀行(147)知覧 「外城(そとじょう)と武家屋敷」   ,









写真:清楚な知覧武家屋敷





知覧型といわれる「二つ家式住居」







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知覧麓の薩摩郷士も知覧茶を栽培した・・?!

その226号線で指宿温泉方面を目指す。 暫く、鹿児島の喧騒の街中を行くが、やがて、錦江湾の海べりへ出てホッとする瞬間である。 
程なく「平川」という大きな交差点に至ると標識に指宿・知覧とあった。 

知覧とは、あの大戦中の「特攻の知覧」というのは記憶にあったし更に、地図を見ると「知覧麓武家屋敷」とあった。
先ずそちらに向かおう。 


丘陵地のジグザグの道を暫く行くと、指宿スカイラインと交差する。 
スカイラインは鹿児島市内より(九州道に直結)錦江湾を望みながらの、丘陵山地を薩摩半島南端の池田湖へ至る。 いわば観光道路であろう。


知覧I・Cを横目にながら手蓑峠を超え、知覧町内へ近ずくに従って目に鮮やかに茶畑が見渡す限りに広がる。 

我々東国の人間は「知覧茶」というのはめったに耳目にしないが、何でも鹿児島県のお茶の面積・生産量は、静岡県に次いで日本第2位を占めてるという。 
中でも全国茶品評会で連続日本一を受賞、皇室献上茶の栄光を得るなど品質についても折り紙つきだといわれる。 


知覧茶の起源については、平家の落人が北部山間地の手蓑地方においてお茶の栽培を始めたという古い言い伝えが残っている。 
本格的な栽培は明治の初年頃で、標高200m~500mの山麓に拓けた山間冷涼の地が適した生産地といわれる。 
昭和20年代頃までは林業と組合わせた茶業経営であったが、30年代になってからは生産も拡大され、緑茶の製法は技術的には京・宇治茶を伝習して生産拡大に努めたという。


知覧の町へ入った。
清楚で美風な町並みであることが先ず印象に残った。 

一直線の道路の両側に清流が流れる大きな側溝を配し、その清水に錦鯉が悠々と泳いでいる。そして、この広い表通りを一歩中へ入ると「薩摩の小京都」呼ばれる武家屋敷群が広がっているのである。 

先刻、出水の武家屋敷群を拝見したが、屋敷群造りの目的は同じである。
知覧・島津公の時代(18世紀中頃)に整備された武家屋敷群は、薩摩藩の本丸・鶴丸城を中央拠点として113ヶ所の外城(そとじょう)を設け、薩摩藩は武士を郷村に集住させた。

平静は農業に従事させながら武道を訓練し、一朝事ある時は、戦場に向かわせる武農両道の郷士制度を推進したという。 その郷士の居住する地区を「」と称し、知覧もその一つである。


苔むす石垣に、緑の生い茂る垣根が見事な造作美の屋敷群であるが、こちら知覧の特徴の一つに、戸別の垣根の内側にはこれまた美しい庭園が築かれていることであろう。 

庭園自体も実に繊細で美しく、小振りながら京都や鎌倉の庭園と比べても遜色がないように思われる。 
ただ京都や鎌倉の庭園のように“侘びとか寂び”とか、枯れた幽玄の世界ではなく、南九州という土地柄もあってか南方系の植物が青々と生い茂り、更に、高低、奥行きの立体感を表し、力強い生命の躍動の世界を表わしているともいう。 

これらの庭園を「知覧麓庭園」と称し、主なもものは国指定の名勝にもなっているという。 
知覧麓は、一種の庭園都市と言うべき貴重な街並みを、今日に伝承しているようである。


知覧屋敷群の一つに、建築手法としては珍しい「知覧型二つ家」というのがある。 
藁葺き屋根がL形(直角形)の平面構成を成しているのが特徴で、出入り口が「おとこ玄関」、「おんな玄関」というのが二箇所ある。 
これは琉球の民家と共通するものというが、二つの屋根の間に小棟があるのが知覧型二ツ屋とも言われるようである。(国指定文化財)


尚、これらの屋敷は一部見学用を除いて、現在でも子孫の方々が住居として利用されている。やはりというか、武家屋敷から裏手の一角は名産・知覧茶の畑が無際限に拡がっていた。 

平穏静寂なこの町並みに時折、平日にも関わらず大型バスの団体客がゾロゾロと来場し、中でも外国人グループ(中国、韓国人・・?)が大声で嬌声を発している様は、一寸頂けない・・!。


次回は、知覧の「特攻記念館

  
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01. 15.

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