google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 2013

2013年12月12日木曜日

新・日本紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」






 新・日本紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」 





http://blog-imgs-36.fc2.com/e/c/h/echatxfiles/genji_2_016.jpg
平安末期の関東地方の勢力図


http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/22/0000448622/27/imgc9fcffa5zikczj.jpeg
千葉神社






千葉氏と上総氏

千葉氏といえば、やはり平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう。

一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。 
平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 

その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に味方・協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。


平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。
期に乗じて、都(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。

そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。

そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。


それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。
こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。

日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。



平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。
旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない。 

この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。
併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。

一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。
千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 
だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 

この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。
しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 
その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。


一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 
だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい恐れさせたともいう。 
やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。

これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。
その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 
その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。



千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数がある。
彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。

しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。


次回も引続き「千葉」





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新・日本紀行(128)千葉 「千葉・房総地方」


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 新・日本紀行(128)千葉 「千葉・房総地方」 




http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/BosoPeninsulaChibaJpLandsat.jpg/665px-BosoPeninsulaChibaJpLandsat.jpg







「千葉」の由来と千葉氏、上総氏・・、

アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏がパノラマに見渡せる。


チョット詮索して「千葉」の地名の由来について・・、
これは諸説あって古代のアイヌ語とか、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか、定説は確かでないようである。

房総の内陸地形は1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。
地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。
開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない。

」や「」に形容される言葉に、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」という意味でもあろう。

房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 
この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。 
しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。 
又、平安時代中期に作られた総合辞書で地名などが記載してある有名な「和名抄」(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょうともいい、平安時代中期に作られた辞書)にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。

そして、この地域に既に在った「千葉」の名称によって、中世より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう。



次回も千葉氏と上総氏







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2013年12月10日火曜日

新日本紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」








新日本紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」





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木更津より海上部の「アクアライン」




「東京湾・アクアライン」・・、


袖ヶ浦蔵波台に、小生の実弟家族が住んでいる。
北国を遠路遥々(はるばる)巡ってきた、その様子を一言、二言話しをしてみよう、不在ならそのまま帰路をとろうと尋ねてみた。 
幸い奥さん(義妹)が在宅であったので事の様子を話し、ついでに四方山話(よもやまばなし)をしながら館山で求めた手土産を納めた。 
そして、心配りの渋茶と添え物を戴き、身も心も仄々(ほのぼの)として宅を辞した。

弟は学卒以来、土木建設の会社に一途に身を置き、千葉湾岸工業地域の造成開発、建設に勤しんでいる。 特に昨今開通した東京湾横断道路、愛称「東京湾アクアライン」の建設に携わり、その完成を見た時、一種安堵感と至福感を味わったと、しみじみ話していた。

これから、この東京湾アクアラインを渡ることになる。 



東京湾上に道路が開通した・・!、

1997年12月、東京湾に自動車専用道路が開通した。 
その名を愛称では「東京湾アクアライン」といい、正式名称は「東京湾横断道路」という。、
ここ木更津から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至っている自動車専用高速道路である。 木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」を接点として、海上ルート約5km と海底ルート約10km、つまりトンネルと橋梁を15kmで結ばれている。

世界で最も長い水底トンネルは本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、長さは53.8kmとアクアトンネルの5倍以上の長さがある。 
しかし、この青函トンネルは鉄道トンネルであり、自動車が通行できる最長の水底トンネルと限定すれば、アクアトンネルが最長となるという。

文字どおり最先端のテクノロジーを駆使した20世紀最後のビッグプロジェクトであり、世界の様々な分野から注目を集めたという。 
海上ルートを支える橋梁の上・下部は、あらかじめ陸上で製作した構造体を海上輸送し、クレーン船や台船を使って設置。
トンネル部は外径14.14m、重量3,200tにも及ぶ世界最大級のシールドマシンが掘り進んだ。
また、海中に設置した汚濁防止膜や杭打ち時の防音対策などは、環境保全にも細心の配慮を施した工事として、世界的にも大きな評価を得ているという。

総工費は約1兆4,000億円、この高額建設費のため通行料が非常に高く、当初普通車で4000円以上であたが、現在は3000円である。実際、想定していたほどの利用車が無いのが現状で、年間の欠損は数百億円とか、昨今の道路公団の民営化で果たしてアクアラインは・・??。



木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこは東京湾のど真ん中、周辺の景色を360度一望できる「海ほたる」があり、海上に浮かぶ巨大なパーキングエリアである。 

1階から3階までは駐車場で約480台収容でき、4~5階には食堂、レストランや東京や神奈川のお土産、房総の名産・海産物、東京湾アクアライングッズなどを取りそろえたショッピング施設がある。 情報コーナーには、アクアラインの概要や建設に使用した各種工作物、巨大シールドマシンの断片などが展示してある。

ここの産かどうかは定かでないが、特大な貝付きの生牡蠣(なまがき)を買い、手土産にして袖ヶ浦の実弟宅で食したのが思い起こされる。 
「海ほたる」の5階・展望ゾーンから見る千葉市街から大東京のビル群は、小雨の中にやや霞んで見えていた。

次回は、「葉」





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2013年10月23日水曜日

新・日本紀行(125)木更津 「五大力船」







 新・日本紀行(125)木更津 「五大力船」 



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昔の木更津風景



「木更津」・・、

さて、狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。
戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 
そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる

木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。
江戸湾を往来する木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)とも称していた。 


「五大力船」は、海上輸送が発達した江戸時代に主に活躍し、昭和初期まで用いられてきた廻船で、主に東京湾内のほぼ全ての輸送に用いられ、穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。

基本は海船造りの構造であるが、河川を航行できるように喫水が浅く船体の幅が狭くなっている。 そのため、海からそのまま河口に乗入れて市中の河岸に横付けすることができる。
海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使用できるよう舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられている。


更に木更津については思わぬ伝承があった。 
次回はそれらについてチョット詳しく述べることにする。


木更津甚句』 千葉県民謡

アア・・
木更津照るとも お江戸は曇れ
かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ
コリャ コーリャ 日にやける

船は千来る 万来るなかで
わしの待つ船 (お囃子、同じ) 
まだ見えぬ


と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。


次回、木更津の古事







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新・日本紀行(125)君津 「久留里城」







 新・日本紀行(125)君津 「久留里城」 



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久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。
この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。



「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。
人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。

工法は径5~15cmの鉄管が、深さ150~500mの穴が地中に向かって掘られる。
まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。


次回、木更津 「五大力船」 






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久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。
この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。



「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。
人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。

工法は径5~15cmの鉄管が、深さ150~500mの穴が地中に向かって掘られる。
まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。


次回、木更津 「五大力船」 






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新・日本紀行(125)君津 「久留里」






 新・日本紀行(125)君津 「久留里」 



〇〇


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歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、

地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。
そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 
その為でもあろう、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。

だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。
久留里の地名は戦国期から見られるという。



16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 

戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 
だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が行はれる。 このとき秀吉より里見家参戦指示がでる。 だが里美氏は内部事情が生じて参戦に遅参してしまう。
戦局は秀吉が勝利し、小田原北条は滅亡する。

しかし、充分な戦果を出せなかった里美家は、その罰として上総全域および下総南部の所領が召し上げられ、安房一国のみと減領されてしまう。 結果、没収した上総、下総の領地は、徳川家康に与えられてしまう。
従って里見氏は、逆に久留里を最前線とする徳川氏と対峙することになる。

更に、慶長19年(1614年)
大久保忠隣失脚事件に連座したとして、里見忠義は安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となってしまう。
里美家は房総より失脚し、久留里城は最前線としての役目も終わり一時は廃城になりかける。

江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建されている。
以後、久留里は黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。
現在は、城山公園として模擬の天主が立つ。



次回、君津 「久留里城」 







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2013年10月10日木曜日

新・日本紀行(124)富津 「潮干狩り」







 新・日本紀行(124)富津 「潮干狩り」 



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三浦半島へフエリーが航行している金谷港から「内房なぎさライン」を北上する。 
ここは既に「富津市」である。 もっとも鋸山あたりが町界らしいが。 
佐貫の信号で国道465へ左折すると間もなく富津岬の基部を通る。富津岬は富津公園を中心に、海のレジャー満載の地である。 
その中でも「アサリの潮干狩り」は有名である。 岬先端の南側が、遠浅のアサリ養殖地域で、シーズン中(3月~8月頃)は首都圏から大勢の漁客で賑わう。

富津岬は西へ長くのびていて、浦賀水道を経て真向かいの三浦半島の観音崎とは僅か数キロの地で海路の最狭部にあたる。
江戸期、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上、非常に重要な地点の一つとなった。 
そのため、富津市域(佐貫藩)の海岸線に防備のための砲台が築かれた。 
嘉永6年(1853)ペリー来航時は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の佐貫藩の人々のも大いに動揺したという。
明治期から太平洋戦争まで軍の砲台基地や陣地になっていて、現在もその跡が残っている。


国道465は富津岬の基部から国道16号線になる。
国道16は首都外廓幹線道路で埼玉、東京郊外から神奈川の横須賀まで達している首都圏の大動脈である。
JR内房線の大堀駅前を通過すると「君津市」である。 
海よりに広大な新日鉄の工場群を見ながら進むと、あっという間に「木更津市」に入ったようだ。

次回は、君津・「久留里






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新・日本紀行(124)内房 「鋸山(Ⅱ)」







 新・日本紀行(124)内房 「鋸山(Ⅱ)」 





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現在の「鋸山」は観光資源として利用されている。 
標高は329m、海岸近くのため山頂からの東京湾や対岸の三浦半島の景色、眺めは抜群である。
金谷の町からはロープウエイが、又、自動車道も頂上付近まで延びている。
歩くんであれば、約3.5時間、日本一の石参道を2639段登る事になる。 
頂上にはオーバーハングした岩の上に「地獄のぞき」という地獄の名勝もある。

又、鋸山には“乾坤一擲”の「乾坤山・日本寺」がある。
本尊は薬師三尊で、薬師如来の大仏(日本寺大仏)があることで知られる。
山頂部のほとんどの部分を境内にしていて、スケールの大きな見所いっぱいの寺であり、1300年前に行基菩薩(奈良時代の名僧)によって開かれた関東最古の勅願所で、由緒有る古刹でもある。(勅願寺は勅命・天皇によって国家鎮護・皇家安穏を祈願した社寺)

山の頂でお薬師さんが瞑想して鎮座しているのに、足元でカンカン、トントンと石切の音を響かせているのには、さぞかし落ち着かなかったことだろう・・?、しかし、それも民衆の為と思えば静かに黙認してもいたのであろう・・!。


因みに、この日本寺の石窟群は、バーミヤン遺跡を彷彿させる。 
あちらはアフガニスタンの古代都市バーミヤンの町を中心とする山中の渓谷地帯に6~7世紀、刻削された石窟の寺院である。石窟の数は1000以上にものぼり、仏教美術の優れた遺産としてユネスコ世界文化遺産にも選定されている。近年、タリバン政権によって一部破壊されたが、ユネスコにより修復と保存が実施されている。

日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏であり、他に百尺観音、大野甚五郎の系統、あるいは末裔により彫ったとされる石仏、世界第一の羅漢霊場・千五百羅漢など全山に石窟彫刻群が並ぶ。


次回は、富津





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新・日本紀行(124)内房 「鋸山」







 新・日本紀行(124)内房 「鋸山」 



”乾坤一擲”の日本寺が「鋸山」にあった・・、

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名物・鋸山「地獄のぞき」



日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏



富山町を過ぎると、国道127は山間地を走る。
海岸線まで迫っているJR内房線としばらく並行してしていたが、やがて町並みに入った。 
駅前で気が付くと駅名は安房勝山になっていた。たしかここは鋸南町のはずであったが・・?

道中、「菱川師宣」の案内板を見る。
菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は江戸時代の浮世絵師で、安房国・保田(鋸南町)出身である。
浮世絵を単なる挿絵ではなく、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めたという点で師宣の絵画史上における位置は重要で、しばしば「浮世絵の祖」とも称されている。 
特に、筆浮世絵の「見返り美人図」は有名であろう。
一方の側面として「春画」も数多く描いた話題の人でもあった。 
故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。

鋸南町」の町名は、一昔前(1959年)勝山町と保田町が合併して新たに出来たらしく、「鋸山」の南に位置しているので名づけたのだろう。
神奈川に住む小生は三浦半島の久里浜から金谷のフェリーを経て、この鋸山周辺へは何回か遊覧に来たもんでである。

鋸山はこの地から眺めても、文字どうり鋸の歯のようなギザギザの断崖絶壁が連なっている岩山である。
この鋸歯のギザギザは、かつて「房総石」といわれる凝灰岩(ぎょうかいがん:火山から噴出された火山灰が地上に堆積してできた岩石)の産地であり、その跡を留めているのである。
幕末から明治、大正、昭和にかけて主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、また靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているという。 
採石は昭和50年代を最後にとだえている。


引続き、 鋸山






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2013年9月22日日曜日

新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社・Ⅲ」







 新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社・Ⅲ」 




その安房神社は、房総地方の総鎮守であり、安房国一宮となっている。

「安房神社」は、阿波の国から阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に渡り上陸した際、そこを安房の郡(こうり)と名附けて天太玉命を祀る「社」を創建したとされている。
従って、創建年代については神代の昔まで遡り、年代不詳とされている。 だが、神社暦においては、創始は今から2660年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として即位した皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられてはいる。
何にしても、相当の古社であることは確かなようである。

朝廷・武門から篤い崇敬を受け、特に領主の里見氏は社領の寄進や社殿の修造を行い、そのときの寄進状も残っているという。 

祭神は、天太玉命を主神とする。 
安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神であり、相殿に「天日鷲命」など忌部五神が祀られている。
古代、安房の国(阿波の国でもある)の建国当時の神々が祀られているわけである。



安房神社は、国道410号が洲崎方面に分岐する相浜地区の山中、その名も館山市大神宮という町名をも戴いている。 
JR内房線では、館山駅から南へ約10kmの吾谷山の麓に安房神社が鎮座している。 
鬱蒼とした大樹に囲まれ、堂々とした拝殿と檜皮葺の本殿が立ち、森閑としている。

この地域は房総先端部に当たり、黒潮の潮流に乗った古代海人族が上陸した地点としては最適の位置であろう。 
関東進出の第一歩となった阿波忌部の記念すべき上陸地「安房・館山」と「阿波・徳島」とは、現在でも交流が続いているという。

引続き「館山」




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新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社・Ⅱ」







 新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社・Ⅱ」 





その起因とされる話は、四国・阿波に飛びます。

阿波の国には、日本の国が拓かれる当初からの「古社」である「忌部神社」(徳島市内、忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国の総鎮守の神社)と「大麻比古神社」((おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市・阿波国一宮)が鎮座している。
共に古代の忌部氏に縁り(ゆかり)の神社である。

神社古書には、「 当社は麻植神と称し、あるいは天日鷲神(あめのひわしのかみ:阿波忌部氏の祖)と号す 」と注記してある。 
忌部というのは「斎部」ともいわれ、大和朝廷で中臣(なかとみ:藤原氏)氏と並んで祭祀をつかさどった一族であり、平安初期には忌部を斎部とも改称している。
つまり、斎部(いみべ、いんべ)は神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。



平安初期の文献に「古語拾遺」(こごしゅうい)というのがある。 
官僚・斎部広成が807年に編纂したもので、忌部氏が伝承する記紀(古事記、日本書紀)神話と祭祀の問題点を示した文書である。 

内容は、天地開闢(てんちかいびゃく:記紀内容)から奈良期・天平年間(729年~749年)までが記されていて、古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏(忌部氏)に伝わる伝承も取り入れられているという。 

元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族であった。 
だが「大化の改新」以降、同様に祭祀を司っていたのは中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)であり、政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。
この書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであるともいわれるが。 
以降、斎部氏は伊勢神宮の奉幣使の役職を司ることになる。 
奉幣使(ほうへうし)とは、勅命、つまり天皇からの進物または礼物を山陵・神宮・神社に奉献する使者のこと。



忌部氏の祖は、天岩戸で活躍した天太玉命(アマノフトダマノミコト)であるとされる。 
今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われる一切の神祭用具を管理する神、というのが天太玉命(神)の本来の役割であるという。

記紀(古事記、日本書紀)では、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラス)を誘い出すため、天太玉神は洞窟の前で卜占(ぼくせん、占いのこと)をし、太玉串を作って捧げ持ち、祝詞(のりと)を奉じて、大神の出現を祈ったとされる。 
玉串とは、榊の枝に紙垂をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく「布」を使っていたらしい。

この天太玉命には五つ神が従っていたとされる。 
そのうちの一神が天日鷲命(アメノヒワシノミコト・天太玉命の弟ともされ、阿波国を開拓した神)であり、その子孫が阿波・忌部氏であるとされる。 
氏は「布」の元となる穀や木綿・麻布などを植えて作り、朝廷に貢上して祭事に供された。
阿波の国のことを「麻植郡」とも称していて、現今でも、徳島県の地域には「麻植郡」の名が残っている。 
その内の阿波忌部氏の一派は後に東国に渡り、麻や穀などを植え、当地に「安房社」を建てた。 
その地は、やがて安房郡となり、後にに安房国となったと伝えられる。

因みに、戦国の覇者・織田信長は、古代忌部氏の子孫であるともいう。 
祖先は福井県丹生郡越前町織田にあって劔神社の神官である関係から、越前忌部(斎部)氏の支流であり古代豪族の忌部氏で、後に平氏を称したとされている。


次回、安房国一宮・Ⅱ



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新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社」







 新・日本紀行(123)館山 「房総・安房神社」 



安房は阿波に通じ、古代の阿波一族が房総地方から武蔵を拓いたとされている・・、






安房神社、新装成った上の宮・拝殿と御本殿



先ず、その房総一ノ宮「安房神社」について。

房州」は、房総半島の海側の方から上総(かずさ)、下総(しもふさ)と呼ばれている。
古来、古代から中世の交通機関は船が中心だった。 
その房州は古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。

又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。
銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると先祖の墓参りに戻る人がいるという。



安房一宮の安房神社は、四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し創建したもので、四国の「阿波」と房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に下った際に命名されたとも言われている。

忌部氏は更に、当地に「」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている。 
更に、現在の西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔の東京地方は「武蔵」といったのは周知である。 
武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 

現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を総の下、つまり「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。

その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてるのである。  


次回。四国・阿波へ、



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新・日本紀行(122)白浜 「八犬伝物語・Ⅱ」









   
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 新・日本紀行(122)白浜 「八犬伝物語・Ⅱ」 





南総里見八犬伝」は、関東の戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にしている。 
里美氏が結城合戦に破れ、義実が当初の主人公となって安房へ落ち延びるところから始まるが、無論、歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたものである。

江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた大長編小説で、安房の国の城主・里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間の物語である。

不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れる。 やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し、苦難に出会いながらも因縁の糸で結ばれるという。


南総里見八犬伝』 滝沢馬琴作

「 舞台は今の千葉県の南端安房国(白浜町)である。 時代は、室町時代の中頃、安房国領主・里見義実の娘・伏姫は、かつて義実によって処刑された悪女・玉梓(たまづさ)の呪いによって、飼い犬の八房(やつふさ)と夫婦になり山(富山町)の中で暮らすことになる。ある日、伏姫は「八房の子が出来ている」と告げられ、「身に覚えがないのに犬畜生の子を孕む(はらむ)なんて」と思詰めて自害してしまう。 だが、形のある子が出来たのではなく「気」だけの子が出来ていたのだ。 その時、伏姫が持っていた数珠の「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の文字が浮き出て、八つの大玉が「気」とともに空高く飛び上がり、散り散りになり遠く飛び去っていった。 伏姫の婚約者であった金碗大輔(かなまり だいすけ)は、これら飛び去った八つの玉を探す旅に出る。 やがて関八州(関東)各地に、犬で始まる名を持ち、体に牡丹の痣(あざ)があり(犬の八房には八つの牡丹の痣があった)、文字の浮きでる玉を持つ若者が生まれる。 「気」だけで生まれた八人の子が「形」を成したのである。 
八犬士は、別々の場所に生まれながら宿縁に導かれて集まり、やがて里見家に仕えるようになる。 しかし、里見家は関東管領・扇谷定正等の諸将連合軍に攻められ、水陸両面で苦戦していたが、八犬士の活躍等により圧勝する。 その後、八犬士はそれぞれ城主となってゆくが・・、」

これが「里美八犬士」の長い物語の始まりである。


登場する『八犬士

犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし)    仁の玉を持つ
犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)  義の玉を持つ
犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)  礼の玉を持つ
犬阪 毛野 胤智(いぬざか けの たねとも)    智の玉を持つ
犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)  忠の玉を持つ
犬飼 現八 信道(いぬかい げんぱち のぶみち)  信の玉を持つ
犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか)    孝の玉を持つ
犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより)  悌の玉を持つ


安房・里美氏については、更に「館山」の項で述べます。


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新・日本紀行(122)白浜 「八犬伝物語」



   
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 新・日本紀行(122)白浜 「八犬伝物語」 



里美家の八犬伝物語と「白浜町」・・、





里見氏代々の菩提寺「杖珠院本堂」



白浜町役場の北方台地、東西に分かれて白浜城址と杖珠院(じょうじゅいん)がある。
南総・里見氏の初代からの居城であり、叉、「杖珠院」は里美義実、成義、義通、義豊等、代々の菩提寺である。
里見氏といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになった戦国武将として有名であり、初代里見義実はこの杖珠院の墓に眠ってる。

室町中期、白浜・野島崎に上陸した里美義実は、白浜に居城をかまえて戦乱の房総を平定した。 現在でも、当時の城跡が残っているのである。



室町中期の15世紀半ば、足利政権が揺らぎ始め、世は乱世で群雄割拠、下克上の様相を呈し始めていた。

関東地方では、永享の乱(1437年、関東地方で発生した戦乱、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する)続いて結城合戦(1440年に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い)が行われ、更に、享徳の乱(1455年)が続き、乱世の真っ只中であった。

「享徳の乱」では、鎌倉公方・足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、鎌倉公方(幕府より派遣されてる出先機関、関東公方ともいう)が古河御所に逃れて古河公方と名乗って、関東管領上杉氏(公方を補佐する役職名)との全面戦争を引き起こす。
これは関東における内乱で、関東地方における戦国時代の遠因ともなったとされる。

里美家は源氏・新田氏の流れをくむ名家で、南北朝統一後にその一部が鎌倉公方に仕え、上野国・常陸国などに所領を与えられている。 
しかし里見家基(鎌倉公方・足利持氏の側近)が結城合戦において鎌倉公方方に付いたため、幕府軍の攻撃を受け一端は滅亡した。 
だが、一子里見義実は脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興することになる。

これを期に里見義実は、館山城主・安西景連の援助を得て白浜城・稲村城に拠点を得る。
この際、「享徳の乱」に乗じて従来、強固な支配体制を築いていた守護上杉氏の勢力支配を駆逐、切離し、安房国に進出、平定してその勢力を指揮下においた。 

ここで、里見氏は初代の安房の国の統治者になったのである。

次回、更に八犬伝物語・Ⅱ




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2013年9月13日金曜日

新・日本紀行(122)南房総・千倉 「花の町・千倉」







 新・日本紀行(122)南房総・千倉 「花の町・千倉」 




国道128からいつの間にか、国道410になり「千倉」の町に来ていた。
白浜方面を海岸に沿って向かおうとしていたためか、実際は国道とは別の海岸沿いの旧道を走っているようだ。 
「房総フラワーライン」という立派な名前も付いていて旧道とはいえ、なかなかいい道である。

途中海沿いに「道の駅・潮風王国」というのがあり、周辺は千倉名物のお花畑が広がっている。
駅は、赤い大きな建物で、お馴染みの海産物やレストランが集まっているが、変り種は大きな建物の中央部に生け簀があり、やがて人間に食べられる運命であろうが、今は悠々と近海の魚群が泳ぎ回っている。
この手の施設の中では、個性があっておもしろい。 周辺もけっこう広い広場になっていて、海に面し、磯にも降りていけるようだ。

長い海岸線が続く太平洋に面し、極めて温暖な千倉地区は「花の街」としても知られ、首都圏から花畑の鑑賞に訪れる人も多いという。 
時節は秋口なので菊科の花が多いようであるが、他にも色鮮やかな色彩の花々が咲競っている。 花畑の起こったきっかけは、農家の稲の裏作として始まったらしいが、花畑を区画に分けて栽培し、露地花をオーナー制度としても紹介しているともいう。

民宿の多い千倉では「花の宿」として、花を使った料理なども提供し、各宿屋民宿は、至る所に花が添えられているという。
この花ずくしや花料理のもてなしが評価され、2006年度「花の観光地づくり大賞」を受賞しているという。






料理神様を祀る高家(たかべ)神社・本殿



そして、花料理を生んだ千倉の町に、日本で唯一の料理の祖神を祀る神社がある。 
千倉漁港の西、山域部に高家(たかべ)神社が鎮座している。

社は1200年以上の歴史を誇り、「日本書記」によれば、「第12代景行天皇が安房の浮島に行幸のおり、磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)が鰹と蛤を調理したところ天皇は大層喜ばれ、以後、磐鹿六雁命は膳大伴部に任ぜられ、宮中の料理番として迎え入れられた」と記されている。
高家神社の祖神は、この磐鹿六雁命で、日本で唯一料理の神様をまつる神社である。 

古くから味噌、醤油の神様としても全国にその名を知られ、調理師、調味加工業者の信仰を集めてきた。
又、結婚を控えた女性、新妻なども料理の上達を祈って数多く参拝するという。

三十段ほどの石段を昇り振り返ると、千倉の街並みの向こうに雄大な太平洋が広がっている。
平安時代から伝わると言われる「庖丁式」は、庖丁と箸を用い手をふれずに鯛・鯉・鰹等をさばく古式ゆかしい儀式で、時折TVなどでも放映され、お馴染みである。 

この、庖丁式は烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)をまとった料理人が古式に則った所作で、一切料理に手をふれることなく包丁と箸を使い鯉や真鯛、ガツオ等をさばく、いわば日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式である。
この日本唯一の料理の神様の地で、地元の「花・魚料理」の料理の名人が腕を競っている。


次回、「八犬伝物語」




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01. 15.

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